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2012年9月16日 (日)

緑陰の読書とはいかなかったが②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力戦への「道」』(中野敏男)

 ②『詩歌と戦争~白秋と民衆、総力戦への「道」』(中野敏男 NHKブックス 2012 6月) 

この著者を知ったのは、NHK-ETV特集番組改ざん事件の判決が出る前後、関連の書物の著者やシンポジウムのパネリストとしてであった。なんでNHK ブックス?と単純に反応してしまった。著者も、「あとがき」では、この事件があったので、出版はとん挫しかかったけれども担当者の熱意でこぎつけたとある。「番組改竄事件そのものはいまだに解決されたわけではありませんが」と断りながら。また、オピニオン誌『前夜』(20042007年)にも連載されていた(私も天皇制の特集などの号を購入していたが、12号で突然終刊となってしまったようだ)。 

歌人としての北原白秋について、手元の歌人による作品鑑賞や評伝、文庫解説など幾冊かに、眼を通してみた。各時代の作品鑑賞の手立てとしての伝記的背景や各時代の社会状況と歌壇における白秋の位置づけへの言及はある。また、文芸にかかわる表現者たちがかかわらざるを得なかった、当時の政府や軍部、情報・教育統制機構、メディアの実態や意図を資料から解明する研究も進んできている。しかし、本書のように、短歌・詩のジャンルを超えた北原白秋作詞の童謡・民謡・国民歌謡、校歌や社歌など作品が、広く人々にどのように受け入れられていたかについての言及する論考は少ないのではないか、の思いで読み進めた。 

「序章」の記述によれば、著者の意図は、次のようであった。一つは、関東大震災から戦争に向かう時代の精神を童謡運動の中心にいた北原白秋の軌跡を通して考察することであり、一つは、この時代をともにした民衆の心情の回路、民衆側の生と詩歌曲に寄せる思いや願い、そこから生成してくる歌い踊る民衆の文化運動の広がりを検証し、戦時における民衆の詩歌翼賛に連続する道を確認することである、と(21頁)。もう少し平たく、カバーの折込みの「宣伝文句」には次のようにも書かれている。  

「拡大の一途をたどりつつ公民に奉仕を求める国家、みずから進んで協力する人々、その心情を先取りする詩人、三者は手を取りあうようにして戦時体制を築いてゆく。〈抒情〉から〈翼賛〉へと向かった心情の回路を明らかにし、戦前・戦時・戦後そして現在の一貫性をえぐりだす瞠目の書」            

 本書は、章を分けて、白秋の童謡の「郷愁」というモチーフを通してナショナリズムを、白秋の私生活の危機・小笠原体験の評価とその影響を、地方の新民謡運動とその背景としての植民地主義を、さらに国民歌謡による「詩歌翼賛」への道を考察する。最終章では、19458月敗戦以降も形を変えた自発的文化運動の中でとらえる「詩歌翼賛」、その根底にある民衆の植民地主義の継続を指摘する。
しかし、通読をしていながら、どこかで突っかかる違和感は、なんなのだろうと考える。私は歴史研究や哲学の専門家ではないが、本書において、しばしば遭遇する用語に拠るのではないか、と思い当たるのだった。「民衆」「国民」「ナショナリズム」「本質主義」「植民地主義」、「総力戦」などが自在に瀕用されていながら、明確さに欠けるのもその要因ではなかったか。
 著者は、白秋が「日本の童謡は日本の童謡、日本の子供は日本の子供である」(「童謡私論」1923年)として日本の風土、伝統を、童心を忘れた小学唱歌に抗し、また、「日本には日本の伝統がある。日本に日本の言葉がある」(「民謡私論」1922年)を引用し、楽天的な現状肯定的な明治20年代の民謡ブームが近代日本のナショナリズム形成に参与していたのに比べ、「山野の声」としての新たな民謡の創作によって「本質主義の性格を持ったナショナリズム」いわば「純粋なナショナリズム」へと転回した、と捉える。ここに、「日本の民衆レベルに連なるナショナリズム本質主義の登場を目撃しています」とまとめている(106111頁)。
 
さらに、白秋の提案する「国民歌謡」には、その機能から、皇室・日本頌歌、軍歌、市町の歌・社歌・会歌などの団歌、校歌、国民の生活感情にまつわる生活讃歌に区分され、作歌動機としても自己の感激、委嘱、応募などさまざまで、いずれも「民族精神」につながっていくという構想が見られる。とくに自分の居場所を自覚し、日々の職務や生活に励む姿を讃える生活讃歌は「国民の士気を昂揚する」ことに有効だとする(221223頁)。
 
加えて、19417月に刊行された朗読詩集『詩歌翼賛~日本精神の誌的昂揚のために』第1輯には、白秋の、「今だ今だ今こそ祝はう。紀元二千六百年、ああ遂にこの日が来たのだ」のフレーズがある、実に勇ましい甲高い調子の「紀元二千六百年頌」、佐藤春夫の「送別歌」とともに、島崎藤村「千曲川旅情の歌」、室生犀星「小景異情」などが並ぶ。直接には愛国や戦争を歌ってはいない抒情詩として人々の情感に深く訴え、「民衆の心情を精一杯動員して戦争翼賛に向かわせる」という、いわば「詩歌曲の総力戦」だった(247頁)、とする。
「あとがき」においては、「(日本の)民衆の継続する植民地主義への翼賛やそれと表裏をなす(アジアの)民衆による植民地主義への持続する抵抗から歴史を捉える観点」の欠落を生んできた従来の歴史認識を組み替えたことを強調し、つぎのように述べる。
「これまで現れた〈戦争責任論〉が、日本の近現代に生起した暴力や加害に対する責任という問題の所在を〈戦争〉の時期に限定し、行為主体の責任を問う場合でも国家や軍の指導者及びそれに追随した指導的知識人たちについてだけそれを語っていたことに、意識的に異議を唱えるものとなっています。(中略)このように民衆の責任を考えることは、国家や指導者たちの責任をあいまいにするわけではなく、むしろさまざまなレベルで問われるべき行為責任の問題をそれぞれ特定し、また他方では、行為責任者の交替などによって消滅するわけではない継続する責任の存在をも明確にするはずのことです。責任の清算という問題は、諸個人にとって単に抽象的な倫理の事柄であるだけでなく、現実の行動につながる具体的な実践課題になるだろうとわたしは思っています。」(313314頁)
 
この「あとがき」は、著者の全貌を、全著作を知ることもない一般読者には不親切ではないか。本書のように、「民衆」の責任を「民衆」の心情に分け入って分析しようとすることだけに終始すると、国家や指導者たちの責任がまったく浮上しないし、北原白秋による「詩歌翼賛」への評価も伝わってこない。「あとがき」にある「さまざまなレベルで問われるべき行為責任の問題をそれぞれ特定」することが、本書における「民衆の責任」であったことになるが、このように特定、特化することは、責任の相対化につながり、それこそ、国家・軍部・指導的知識人の責任の軽減する役割をはたし、彼らの救済につながる懸念を払しょくできないでいる。「民衆」「ナショナリズム」「総力戦」ということばのリフレインによって、いっそう曖昧にされることに違和感を覚えたのかもしれない。
 
1896年生まれの私の父は、母は早逝、中学生時代に父を失い中退した。当時は検定で取れた薬剤師の資格をもって、一人朝鮮に渡り、釜山や京城の薬局に勤務していたらしい。朝鮮で20歳を迎え、現地で入隊したらしい。兵役を終えた後は、上海、シンガポールと転々とし、1920年代初めにジョホールのゴム園の診療所の薬剤師となっていたらしい。30歳近くなって、ひとり気ままの暮らしを現地の人々に、当時の平均年齢を思ってか、「結婚しないうちに死んじゃうよ」と言われ、帰国して母と結婚した、ということらしい。一方、1903年生まれの母は、地元の高等女学校を出て、千葉市師範女子部で1年間の教育を受けて小学校教師になっている。父とはもちろん見合いで、そのいきさつはこのブログのどこかで書いたような気もする。長兄の生れる1926年の前年まで勤務していたというから、母のわずかな教師生活、3年間余は、まさに大正自由教育のさなかであったと、よく聞かされた。新しい音楽教育、絵画教育、体育などが導入され、しばしば研修会などに参加したとも語っていた。1940年代、父は、その年齢から兵役を免れ、町内の警防団に参加、長兄は19459月薬専の繰り上げ卒業で兵役に就く予定だったという。当時の肉親のことを思い起こしながら、本書の「民衆」の責任とはなんだったのかを考えるのだった。

2012年9月19日5時過ぎ、わが家の生け垣越しにGedc295_2

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