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2012年9月 5日 (水)

「荒谷直之介展~人へのまなざし」、佐倉市立美術館へ

  今回は個展なので、90点余りの作品を、ぜいたくな空間で鑑賞することができた。見かけた入館者は45人とまばらであった。今年3月、佐倉市立美術館で出会った荒谷の水彩画については、すでにブログ記事にもしているので、あわせてご覧いただければありがたい。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/03/index.html
 まず、今回のカタログの解説「昭和の水彩画家、荒谷直之介(19021994年)」を参考に、その生涯を私の恣意的な年表で簡単にたどってみよう。

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1914年(大正3年):1902年、富山市に生まれ、高等小学校を中退、12歳で画家を目指して上京、働きながら、一時は帰郷、病気静養を続けながら何人かの師に私淑、修業をし、16歳で再度上京。

1920年(大正9年):18歳で東京葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事、第7回日本水彩画会展で「夜の自画像」が入選する。以降、美術・出版関係の仕事の傍ら作品制作を続け、日本水彩画会展への出品を続ける。

1925年ごろ:水彩画に行き詰まりを感じ、から透明感のある水彩画から重厚感を求めて、一時油彩に転じる。結婚、1936年までに5男児に恵まれる。

1935年前後:不透明色を併用することによって、重厚感を与え、力強さが表現できるよう研究を重ね、水彩画に復帰する。

1939年:第3回一水会展に「版画家K氏の像」(翌年昭和洋画奨励賞を受賞)「少女立像」入選。春日部たすく、小堀進らと水彩連盟結成する。池袋に転居。

1940年:紀元二千六百年奉祝美術展に「少年立像」出品、第1回水彩連盟展に人物画5点出品。「婦女界」(194210月・11月・19431月)など表紙絵を手掛ける。

1945年:富山市に疎開、被災。一水会会員となる。翌年県内大門町に転居(~1948年)

1950年:第6回日展委嘱として出品。

1962年:4月より半年間、小堀進とのヨーロッパ旅行

1964年:有島生馬門下、東郷青児の再興による、海老原喜之助、児島善三郎らの「黒門会」に田崎広助らと参加、1976年まで、黒門会展に出品。

1967年:NHKテレビ「婦人百科」の「水彩画の描き方」に出演

1968年:佐倉市上志津にアトリエを移し、東大崎より転居する。この頃、日動画廊、三越などでの個展開催。

1985年:眼を患い、恒例だった水彩連盟展、日展、一水会展などへの出品を中断。

1986年:第45回記念水彩連盟展に「憩う裸婦」と旧作「三人の像」(1951年)出  品、1987年第49回一水会展に「母子静日」、日展に「チョッキの娘」を出品、以降、新作は、新春佐倉美術展への出品のみとなり、晩年は市内、茨城県、富山県などでの回顧展、美術展への出品が続く。1994年、佐倉市内で肺炎のため死去。

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人物画のいろいろ

 今回の展示は、編年体だったので、流れがよくわかった。もちろん制作年の不明なものもあるが、そこは総合的に考証してくれたものだろう。展示の副題にあるように、人物画が圧倒的に多く、どれも、描く人物への愛情がにじみでている、その穏やかさは格別である。自画像に始まり、師や友人・知人、そして家族、モデルの裸婦のポーズや表情にも優しさがあふれている。「水彩では、静物や風景は描きやすいけれど、人物は難しいんですよ」と、会場の出口でアンケートを並んで書いたご縁で、言葉を交わした年配男性の言葉だ。「とくに肌の色が難しい」と心得のある方らしい。東京からわざわざお出かけだったとのこと。

私が着目した人物画は、友人、師たちへのまなざしであった。先の3月のブログ記事でも触れた「版画家K氏の像」(1939年)であり、今回の展示ではじめて観る、敗戦後に描かれた「小堀進像」(1950)「三人の像」(1951)には、志を共にした、小堀、春日部たすくへの信頼感とその個性の存在感を十分描き切っているようだった。また、「柏亭先生像」(1952)後年の「有島先生像」(1970)には、荒谷の石井や有島への畏敬の念とそれに自然と応えているわだかまりのない表情が、細部にわたって、とても魅力的に描かれていた。家族やモデルたちへの眼とは、これらとは少し違うのかもしれない。「癒される」という言葉は好きではないので使わないが、何かほっとする感じである。

 

 

戦時下の作品をみる

 

前後するが、私が、第1室の入り口の脇にある年譜をしばし眺めていると、会場の女性係員が「順路はこちらからです」と注意してくださるのだが。その年譜を見ながら、20世紀を駆け抜けてきた太平洋戦時下の荒谷はどうであったのかも気になっていた。私が50年ほどかかわっている短歌結社誌『ポトナム』の1942年の表紙絵にも「新進」荒谷の女性像を見出したからである。また、今、私が検索のさなかである婦人雑誌『婦人界』の1942年~43年の表紙も飾っていることが分かったが、今回展示の絵とも違うので、何回か登場しているのだろうか。今回は、参考図版としてカタログ内の白黒の写真でしか見られないのだが、荒谷の描いた数点がある。「紀元二千六百年奉祝美術展」に出品した「少年立像」は、ご覧の通りで、息子さんの一人だろうか、剣道着を身に着けた、きりりとした少年の姿だった。また、当時の家庭や子どもたちの風景として着目した作品に「模型飛行機で遊ぶ二人の男の子」(1943)がある。それに、「職場の娘たち」(19436回新文展)「工場風景」 「福岡の工場」「綿内銅山」(いずれも1943年頃)は、どこで発表されたか定かでないものがあるが、時代の要請を受けたと思われる。だが、そこに働く人々の群像が遠景としてしか描かれていない。「福岡の工場」には、人影すら見えない。当時、荒谷がほかにどんな作品を残したか、いまの私にはわからないが、これらの作品を通じても、ほっとした感慨を覚えるのはなぜなのだろうか。同じ頃の作品に、大きな岩崖を背景にボートに相寄って天草をとる海女たちを描いた「天草をとる海女」(1943)という作品がある。ミュージアムショップにあった数少ない絵葉書の中から選んだ1枚だったのだが、不覚にも、この絵の裏が、先の「模型飛行機で遊ぶ二人の男の子」(1943)であったことを、家へ帰ってから知ったような有様だった。1943年、このような人の心に残る絵を惜しげもなく裏表に描いていたなんて・・・、用紙に不自由していたわけでもないだろうに、と妙に感動してしまった

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「模型飛行機で遊ぶ二人の男の子」佐倉市立美術館HPより

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「天草をとる海女」絵葉書きより

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戦時下の作品 カタログの参考図版より

生い立ちをさかのぼると

 カタログの「解説」によると、「自伝草稿」なるものが遺族のもとに残されている。それには、「学歴もなく変則的な独学でどうやら今日あるのは多くの先生方のお引き立てとよき友人、それに後援者の方々の御好意の賜もので常日頃感謝の念が頭からはなれた事がないが人の二倍、三倍の努力をしたことも事実である」というくだりがある。こうした心持が、上記人物画には反映されているからであろう。

 とくに、1914年、12歳でひとり上京して、入った職場については、「神田で鏡台の卸商をやって」いたところで、「そこに先輩として働いていた人で啄木の崇拝者で後に生活派の歌人として名を成した渡辺順三さんが居ていろいろ相談にものって呉れ又文学の話しなど聞かせて貰い大いに啓発された」として、順三から講義録をもらったり、夜学に通えるよう心配してもらったりして有難かった、と記す。

 ここからが私の悪い癖で、渡辺順三の自伝「烈風の中を」(東邦出版社 1973年)を開くが荒谷に触れた部分はない。しかし、当時の職場の様子がかなり詳しい。富山市出身の鏑木松春が苦労の末、1906年に開業した家具製造卸の鏑木商会で、同じ富山市出身の順三は、母親と上京、1907年、13歳の時から住み込みで働き出し、母親は、別のお屋敷で女中として働いていたという。順三自身は、1923年までの16年間勤めた後、独立して印刷所を共同開業したが、その年、関東大震災に遭う。この家具卸商は、もちろん鏡台ばかりでなく、家具を手広く扱い、三越などにも出入りするようになったといい、順三は、社長夫妻には何かとかわいがられたと、なつかしむことが多い。荒谷は、1916年には病気で一時帰郷するので、短い間の職場であったはずだが、順三との出会いは、いい思い出であったようだ。

 1972年に没した渡辺順三には、会ってはいない。歌壇の賞には全く縁のない私だが、渡辺順三賞というのを頂いた記憶がある。あれは、私がまだ名古屋の職場にいた頃ではなかったか、1987年だったと思う。1988年『短歌と天皇制』の上梓を後押してもらったような気がしている。 

 

佐倉市との縁ほか

 

 佐倉市に長く住んでいる人は、次の絵には見覚えがあるのではないか。1972年日展出品の「孫との像」で、しばらくの間、自治会の回覧板のファイルの表紙絵となっていた。また、印旛沼の風景も何点かあるのか、今回、佐倉市民ホール所蔵の「静日印旛沼」(1985)が展示されていた。また、志津コミュニティセンターには「あに、いもと」(1964年、日展審査員として出品)が展示されている。

 なお、年譜によれば、1980年、伊東正明、左右木愛弼、前田正夫と共に「水彩秀作20人展」(日動サロン)を開催とあるが、一水会の伊東正明先生は、中学校時代1年次の担任でもあり、図工の先生だったのだ。私は、なんと先生率いる美術部に入部していた時期もがあった。1950年代のことで、だいぶ前のブログにも書いたことがあるが、その直後、伊東先生の縁者の方からコメントをいただくというハプニングもあった。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2007/04/post_69b9.html

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「孫との像」カタログより(回覧板ファイルの表紙)

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「あに、いもと」カタログより(志津コミュニティーセンター)

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入場券半券とチラシの裏(「有島先生像」が上段中央)

 

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