⑤昭和短歌の精神史(三枝昂之 角川ソフィア文庫 2012年3月)
この「緑陰シリーズ」?も⑤となったが、文庫化してまもない、表題の著作をはずすわけにはいかない。残暑が急転、体調を整えるのも一仕事。地域のミニコミ誌の配布が2誌重なって、私の担当は、450部と500部、暑いときはもっぱら夜だった。ウオーキングを兼ね、航空機騒音の上空通過機数の目視調査も兼ねというわけだ。昨9月24日の夕方6時台の30分間は、4000フィートの低空飛行便がなんと14機(すべて悪天候ルートの南から北へ)であった。1時間に換算すると28機、今までにない数である。どうしたわけか。
さて、表題の著は、2005年本阿弥書店刊行のハードカバーだったが、このたび文庫となって、あらためて読み直した。著者には、初版刊行時からさかのぼって、一〇数年前に『前川佐美雄』(五柳書院 1993年)がある。その帯にも「昭和短歌の精神史が見えてくる」とあり、「あとがき」でも著者はサブタイトルとしてひそかに「昭和短歌の精神史」を想定していたというから、思い入れのある書名なのだろうと思う。「精神史」と名乗る本で私が知るのは竹山道雄『昭和の精神史』(新潮社 1956年)、桶谷秀昭『昭和精神史』(文芸春秋1992年)くらいだが、「精神史」と名付けられると、私などは「切り口は何でもアリ」という印象を受けてしまう。
しかし、本書における動機というか切り口は明確である。「あとがき」の冒頭では「昭和短歌の歩みをあるがままに描きたい」といい、次のように続ける。
「歌人たちは昭和の暮らしをていねいに読み、時代を真摯に担った。歌人たちと歌のその真摯を、時代背景を重ねながら提示したいという願いが、その動機を支えている。」(514p)*a
また別の段落では、次のようにも述べる。
「振り返って思うに、歌人たちは困難な時代をよく担い、そして嘆き、日々の暮らしの襞を掬いあげて作品化した。まず昭和の初期にタイムスリップし、当時の新聞や文献を傍らに置きながら歌を読み継ぎ、私はそのことを痛感しつづけた。本書はそうした歌人と作品への共感の書でもある。」(517p)*b
さらに、末尾でも「本書は、あの時代を苦しくも誠実に担った人々への六十年後の鎮魂の書でもある」(518p)と記す。「時代を真摯に担った」「「時代をよく担い」「時代を苦しくも誠実に担った」というフレーズで括るその意味するところであるが、分かったようで分からない。戦争期、敗戦・占領期において、何が「真摯」で、何が「誠実」だったとは、何が尺度になるのか。たとえば、これを現代に置き換えてみるとき、歌人が「時代を真摯に担う」「時代を苦しくも誠実に担った」ということはどういう状況を指すのだろうか。どういう作品を残し、どういう言動の痕跡があれば「時代を担った」ことになるのだろうかを考えてみると、そう簡単なことではない、というより、そう言い切ることは不可能に近い。「あるがままに」といい、「短歌の戦争期と占領期を地続きの地平として」捉えるために「作品が示している心を当時の時代に戻りながら、ていねいに掬いあげ、重ねて」いく作業に徹したという。当時の時代背景を種々の資料から引用・検証し、作品自体や歌人の言動に分け入る手法がとられるが、せっかく、その手法をとりながら、作品や歌人への評価が、一刀両断的に「時代に真摯」であったか否かで結論づけられていることが多い。「真摯」「誠実」などの基準は、著者の心情や恣意が入り込む余地が大きく、著者の好き嫌いや先に結論ありきの意図的な要素さえ感じてしまう。それに、後述するように、短歌には公的な場と私的な場がある、という見解にも、一巻を通して疑問がついてまわった。
たとえば、北原白秋と土岐善麿、木俣修については、なぜかいつも手きびしく、それに引き替え、斎藤茂吉、佐佐木信綱らの「時代への真摯さ」が高く評価されている。たとえば、文部省からの国民歌作詞依頼への対応や歌詞の違い、茂吉は作詞に非常に難渋したことなどに言及した後、次のような個所がある。
「歌人たちは短歌作品だけではなく国民歌、国民歌謡の作詞を通しても日中戦争を支えた。その作詞は自発的な仕事ではなく、要請に応えたものであり、主題の決められた一種の題詠でもあった。(略)しかし、だからといって国民歌や国民歌謡が不本意ながら担った責務というわけではない。国民歌発表会に臨んでの善麿作品〈わが歌を人高らかにうたふなりいしくもわれは偽らざりき〉を思い出したい。この感激こそ善麿の本意であり、歌人たちの心だった。」(62p)*c
また、『紀元二千六百年奉祝歌集』(大日本歌人協会 1940年)をめぐる1件にも表れる。常任理事としてかかわった白秋と善麿、序文を書いたとされる善麿。白秋の弟子の木俣修による『昭和短歌史』(明治書院 1964年)、善麿の弟子冷水茂太による『大日本歌人協会』(短歌新聞社 1965年)にも及び、師や自らの不都合の隠ぺいを示唆する。上記『奉祝歌集』から幾人かの歌人の作品と軌跡の紹介の後、次のように続ける。
「短歌史的な整理はこういうときに二つに分かれる。同情する立場からは、生活感を大切にする歌人でさえも時局に巻き込まれたという位置づけである。批判する立場からは、彼らも時局に便乗した、という理解である。「便乗」は能動的、「巻き込まれた」は受動的ということになり、そこで歌人たちの戦争協力の度合いが測られた。『紀元二千六百年奉祝歌集』に参加した歌人たちの内面は同じではないが、全員参加ではないこうした作品集に見ておくべきは、一人一人の自発性である。庶民生活が貧しさを嘆く心と二千六百年を祝う心とは一人の内部で何ら矛盾するものではない。(83p)*d
また、『新風十人』の評価については、以下のように総括する。
「(坪野)哲久や(斎藤)史を含めて、この時期、時代圧力と歌人たちの詩精神がぎりぎりまでに緊張し拮抗して、格別の成果を生んだ。そしてそれは、これ以上時代圧力が強まれば表現が壊れてしまう、その限界点における詩的光芒でもあった。(略)その彼らも、大東亜戦争が始まると国の存亡をかけて戦いを支えることに力を注ぐようになった。(126p) *e
さらに、1941年12月8日の開戦時の信綱作品「元寇の後六百六十年大いなる国難来る国難は来る」(『読売新聞』1941年12月9日)に触れて、読者を引き込むその呪力において、この一首に「肩を並べる開戦歌はない」と絶賛する(195p)。しかも、「戦争が起ころうとしている」からという新聞記者の依頼による、「宣戦の詔書」がラジオで流れる前の「予定原稿」であったことが明かされる。松田常憲「開戦のニュース短くをはりたり大地きびしく霜おりにけり」(『凍天』高山書院1943年)との二首について次のように述べる。
「どちらにもひしひしと張り詰める緊張感がある。それは巨大な困難に直面 した
ときの危機意識であり、緊張である。松田は私的な場面の中でその緊張を詠い、
信綱 は公的な立場から詠った。二首は公私両方の場における開戦歌の
白眉である。 (216p)*f
これまでに、d)とe)の段落に見るように、著者は、1938年段階での国民歌・国民歌謡の作詞応諾、1940年『紀元二千六百年奉祝歌集』への参加には「自発性」があったことを前提に、結局、その積極性の程度を問うエピソードなどに着目している点で、能動的か受動的かという尺度と大きな差異がないことになってはいないか。
c)の「この感激こそ善麿の本意であり、歌人たちの心だった」、f)の「張り詰める緊張感」「開戦歌の白眉」の言は独善的で説得力に欠けよう。また、f)の末尾の短歌における「公私の場」も自明のように使い分けるが、短歌における「公私」の定義にも欠ける。斎藤茂吉が、敗戦後に、みずからの作品も含めて、類型的な戦争詠を「制服的歌」と名付け、国家的であって個人的ではないのだから善悪優劣を云々すべきではないとする(『アララギ』1947年5月)の言との違いや共通点にも触れてほしかったと思う。
なお、今回の「緑陰シリーズ?」の冒頭①の飯田龍太についての有泉論考に関連して言えば、同じく山梨県出身の本書の著者は、俳人飯田蛇笏の四男龍太が、次兄が病没、長兄がレイテ島で戦死、三兄が戦病死して、山梨の生家を継ぐことになり、蛇笏主宰の『雲母』を後に引き継ぐことにもなったのだが、「一所に根ざしながら宇宙を引き寄せる飯田龍太の俳句世界はこうして生まれた。レイテ戦がもしなかったら、龍太の生涯も俳句の現在も違ったものになった可能性がある。」(404p)と、評していた。安易な仮定から予想へと繋げる言説も気になるところだった。
本書の著者の短歌史、短歌評論における文献探索には敬意を表したい。ただ、日本近代史にあっては、便利に利用する参考資料的な文献はともかく、概説書の選択にやや偏りがあるのではないかとも思った。私自身は、この時期の短歌作品や歌人の言動については、つねに「ありのまま」の素材をなるべく多く提供するとともに、のぞむ読者にはそれらへのアクセスが可能なツールも提示するよう心掛けたいと思っている。
すでに10月に入り、あの残暑もようやく去った。読書感想文は大嫌いだったことが尾を引いているのか、他人の著作を紹介したり、批評するのは難しいし、苦しかったのだが、この辺で筆を置こう。
2012年9月19日、自宅前から西空の虹

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