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2012年10月28日 (日)

山万さん、4リットルの水、無料配布というけれど

  佐倉市志津地区の地元開発業者山万は、今年、ユーカリが丘線(新交通システム)が開業30年になるというので賑わしい宣伝が始まった。また、井野南土地区画整理組合による開発地区の「未来の見える街」住宅販売にも必至である。
 昨年の東日本大震災の直後、山万は、見舞いと称して、ユーカリが丘、宮ノ台地区の8000戸近くに自治会を通じて1.5キロのお米を配らせた。多くの住民は、その意味が分からず「?」であった。あの地震で、当地がお米に困ったわけではない、それよりも被災地の人々に届けた方が役に立つのではないか、というのが大方の気持ちであったろう。にもかかわらず、山万は、社長の厚意だからぜひ受け取ってほしいと、自治会役員や班長会議に、その配布を自治会に押し付けたと言っていいだろう。多くの自治会は、会員分のお米を自治会館で小分けにし、班長さんが各戸に配って歩いた。中には、「え?タダでもらえるの?」のノリで喜ぶ住民もあったかもしれない。しかし、多くの住民には、疑問が残った。その後、今度は飲料会社との協賛で2リットルの飲料水ペットボトルを各戸2本配布したいというのである。さすがに自治会が断ったら、社員が手分けして車から台車へ移し、各戸に配っているようだった。わが家では丁寧に断り、開発業者としてのもっと大事なことをしてほしいとお願いした。先のユーカリが丘線は長い間復旧しなかったし、さらなる安全性確保、そして新しい戸建て住宅地区の一部で液状化があり、駅前マンションでは壁のひび割れ、床の傾き、窓の歪みなどへの修理、防災対策についての山万の対応がひどいということを、知人たちから聞いていたので、なおさらだった。
以下の当ブログ記事参照
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/03/post-baf6.html
 ところがである。また、今年も4リットルのペットボトル飲料の各戸配布を自治会に依頼してきたらしい。少しくどくない?どういうセンスをしているのだろう。自治会の役員の方も、毅然として断ればいいものを、「せっかくの厚意だから」「もったいない気もするので、イベントでの配布はできないだろうか」と、煮え切らない。自治会が、開発会社と飲料会社の宣伝の片棒を担いでいいものか。ただほど高いものはない。自治会はやはりもっと自立性を自覚してほしい。私も、自主防災会委員の一人としての、力説したのだが、ムラの壁はここでも厚い。 

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2012年10月24日 (水)

久しぶりの新宿で3・11を振り返る、職場のOB会へ

 新宿駅で降りるのは久しぶり、というより今日の目的地南口の小田急サザンタワーへの道は、去年の311当日、代々木駅方面から逆に歩いてきた道で、それ以来ということになる。あの日は、乗り合わせていた山手線を降ろされ代々木駅まで線路上を歩き、代々木駅からは道路いっぱいに広がった人々の流れのままに運ばれ、ようやく新宿駅南口が見えてきた場所である。線路側の平屋のカフェや雑貨の店の中は、一部ガラスが割れ、棚が傾き、イスや商品が散乱しているところもあった。反対側の高層ビルの直下はどんなだったか記憶にない。南口には、もう人々の塊りで埋め尽くされ、その塊りが留まっているのか、鈍く動いているのか定かでない状態の中を、夫と私はひたすら歩いて、公衆電話を探し、明治通りに出ようとしていたところでもあった。
 今日は、8年ぶりという、国立国会図書館時代のある部課のOB有志の会である。前回とは少しメンバーが変わって男女同数の計8人。私が11年間所属していた課だが、在職中指導を仰いだ先輩やその後もご縁のあった方々、私の退職後その課に入った方々と、かかわりはいろいろだが、声を掛けていただき、参加した。皆さんは、定年まで全うした方々ばかりで、一番の長老はもうすぐ86歳になるSさん、一番若いお二人が1944年生まれだという。男性陣は、第二のお勤めの大学も定年で辞められている三人。若い二人の一人、Oさんも退職後は私大で図書館学を教えていたが、この4月に、なんと図書館長として古巣に迎えられたのである。これまで、衆議院・参議院の事務総長の天下りや外部の大学人が就いていた職に、初めて図書館職員はえぬきの館長ということで、新聞でも話題になった。 これまでは図書館職員は副館長までにはなるが、それがトップだった。元職員にとっても画期的な出来事であった。Oさんは、大学の同じ学科のちょうどすれ違いの後輩でもあったので、一度、激励の言葉でも掛けたかったので、今日はよい機会だとも思った。一通りの近況報告では、介護や自らの健康法の話が多かったが、各々の性格も見える暮らしぶりが披露された。
 
Sさんは、加えて、いい機会なので、現役館長に提案があると、メモを取り出した。私の在籍中には組合の執行委員長をもされた人だ。①近頃の国立国会図書館の新聞記事が、非常に少ない、専任の職員をもって広報に力を入れよ ②図書館退職者の能力を活用せよ、OB会は就職あっせんなどにも積極的に乗り出してほしい、というものであった。なるほどとは思うが、新聞離れも著しい若い人には、ネット上の広報なども重要で、ホームページなどの充実もその一つではないかと思う。②については、退職者全体を束ねているOB会の前会長も現会長も居合わせていて、お二人からは、「OB会の加入率もあまり良くないし、業務の上でOBに介入されたくないという思いが、現役には強い。それに悪しき例が多かったのではないか」との感想も出た。館長からは、退職者の能力を活用できないかの検討は今後も進めていきたいとの言。私は、一利用者として、資料のデジタル化が進んだのはありがたいが、今年1月には検索システムが大きく変わって、戸惑っている。多様な情報の中に書誌的事項が隠れてしまっていることを何度か経験したことをいえば、「利用者には、ともかく慣れていただくことも大切で・・・」との答えに「当局的な答弁にも慣れてきたね」とのヤジも飛びだした。また、いま著作権の問題でとん挫しているという、テレビ番組の網羅的な保存についても要望して置いた。NHKだけに関しても、愛宕の放送博物館、川口のアーカイブでも、網羅的ではない。横浜の放送博物館では民放の番組も閲覧できるが、番組全体からしたらほんのわずかであること。国レベルでの網羅的な収集とアーカイブのシステムの構築に期待したいと。
 何の話からか、新聞の品定めに入った。朝日が良心的という「神話」が流布していた時代もあったが、最近の朝日の堕落ぶりはひどい、それでも読売よりは、いや、読売やサンケイだって読めるところはある、毎日の取材が一番良心的だった、日経の文化欄がいいね、近頃東京新聞が頑張っている・・・。

話は尽きないのだが、会食の席は3時までとのこと。店員さんに集合写真を撮ってもらってお開きになった。風邪気味だった私は、乗換の少ないルートで帰路についたのだったが、翌日の夜中に発熱、咳に見舞われ、ただ今、謹慎中である。

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↑新宿南口、小田急サザンタワーへ。3・11は写真を撮る余裕がなかった

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↑最初の御馳走 

 

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2012年10月14日 (日)

久しぶりの池袋で喫茶店を探す

 昨年は、大震災で中止になった池袋第五小学校のクラス会、先週の土曜日は久しぶりの池袋だった。午前中、地域の会議があったもので、昼食会になるというクラス会には参加できないが、近くの喫茶店で開く2次会には間に合いそうだ。2次会には何人ほど残るだろうか。先生も残ってくださるだろうか。喫茶店フラミンゴは、確か駅の西口を出てすぐの同級のOくんのビルにあったはずだが、いくら看板を見上げても、それらしい看板が見当たらない。喫茶店はOくん自身の経営だとのこと。少しあわてて、近くの商店のひとに尋ねると、「うーん、そこにあったんだけどね、なくなってね、もう一つのフラミンゴが、西口前の公園に面したビルにあるよ」とのこと。2店もあったけ、知らなかった。例のウェストパークまで行って見回しても、ない!事前に幹事よりもらっていたメールに、店の電話番号があったのでかけてみる。「とにかく西口の正面に戻ってください。西口を出てすぐ左手にみずほ銀行の隣に三井住友があります。そのビルの地下です」と聞きながら歩いていると、すぐに見つかった。駅の前、数メートル?!ではないか。入口は狭いが看板があった。地下2階というが、意外と広くて明るい、なつかしい様な雰囲気の店だった。クラス会のご一行はまだらしいので、しばらく待っていたが、ウェイターに聞いてみると「社長から頼まれて、ここにお席は用意してあります」とのこと。その端っこでしばらく店内を眺めていると、ほとんどが、中高年の女性たちのグループで、かなり混んでいる。軽い食事もとれるらしい。おしゃれという感じではないけれど、落ち着いておしゃべりできる雰囲気の、まさに“昭和の”喫茶店の趣だったのである。 
 
しばらくすると、先生を先頭に10人ほどが入っていらした。一通りの挨拶が済んで、もろもろの話に突入、数年ぶりとなった隣席のR子さんとは家族の話に。私の母は、50代半ばで病死したが、彼女のお母さんは40代で7人のお子さんを残して病死されたということを初めて知った。ついこの間までお姑さんの面倒を見ていらしたのは聞いていただけに驚くのだった。明治生まれの 昭和の母たちの生涯は、さまざまで、長生き自体がかなり難しかったのにちがいない、の思いにしんみりしてしまう。 
 
社長のOくんの家は、この池袋駅西口近くの地主さんで、いくつかのビルや土地のオーナーであり、そのビル内では、喫茶店のほか飲食店なども経営、陶芸教室まで運営されている。喫茶店の賑わいに景気を尋ねると、いい時はこんなものではなかったし、階段に空席待ちの行列ができ、11000人ということもあったそうだ。池袋は営業時間が長くないと商売にならず、従業員のやり繰りが大変だという。おまけに、この辺の店は中国人オーナーや経営者が多く、彼らに対しては役人も警察も実に消極的で、よほどのことがないと動かないという。話は、中国の反日デモや日中の労働法制にも及んだ。
 
この店も一度全席を禁煙にしたら、客足が落ちて、分煙にしたという。そういえば、店の入り口の看板には、「喫煙席あります」との張り紙もあった。高いガラスの仕切りがあって全体の3分の1くらいの席がおさまっていた。なお、昔あったフラミンゴは、「サン・フラミンゴ」が正式であって、数年前に閉店したのを聞いたことを思い出した。いまは「銀座ルノアール」になっていることが分かった。池袋の東西にあった「談話室滝沢」が撤退したのは、それよりも数年前2005年だったのではないか。喫茶店経営も難しい時代になって久しいということらしい。
 
幹事の一人のIくんが「佐倉のお宅のそばにマックスバリューがあるでしょう」というのでびっくり。数年前、住宅地開発中の一画に24時間営業のスーパーができるというので、それに接するわが町内からは、営業時間短縮の要請があって、自治会の担当として、何度か幕張のイオン本社まで足を運んだことがある(結局、24時間でオープンしながら、開業後半年を待たず営業時間は短縮された)。そのスーパーのなんの話しかと思えば、「マックスバリューのチラシ」の仕事をしているとのことだった。長いこと広告の仕事をされていたIくん、いまは退いているはずだが、そんな仕事にかかわっているらしい。中国で作成されたチラシを日本でチェックしているのだという。あのチラシは、折り込みのタイミングと価格が勝負らしいことは聞いたことがあるが、その作成が海外だというのもちょっと不思議な気がし、ここでも中国の話になった。「池袋に中華街を」をという話も聞いたことがあるが、外国人力士が多くなった相撲界を見るようなさびしさがあった。 幹事の皆さんにはいつも頭が下がる。色々な話が聞けて楽しかった。ありがとう。   
 
会場から10分もかからない実家に義姉を訪ね、亡兄に供えるつもりで、寄った花屋が休憩中。朝からの会議のこともあって、何やらすっかり疲れてしまったので、デパ地下でわずかな買い物をして帰途につくのだった。

 

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2012年10月 2日 (火)

緑陰の読書とはいかなかったが⑤昭和短歌の精神史(三枝昂之) 

 ⑤昭和短歌の精神史(三枝昂之 角川ソフィア文庫 20123月)

この「緑陰シリーズ」?も⑤となったが、文庫化してまもない、表題の著作をはずすわけにはいかない。残暑が急転、体調を整えるのも一仕事。地域のミニコミ誌の配布が2誌重なって、私の担当は、450部と500部、暑いときはもっぱら夜だった。ウオーキングを兼ね、航空機騒音の上空通過機数の目視調査も兼ねというわけだ。昨924日の夕方6時台の30分間は、4000フィートの低空飛行便がなんと14機(すべて悪天候ルートの南から北へ)であった。1時間に換算すると28機、今までにない数である。どうしたわけか。

さて、表題の著は、2005年本阿弥書店刊行のハードカバーだったが、このたび文庫となって、あらためて読み直した。著者には、初版刊行時からさかのぼって、一〇数年前に『前川佐美雄』(五柳書院 1993年)がある。その帯にも「昭和短歌の精神史が見えてくる」とあり、「あとがき」でも著者はサブタイトルとしてひそかに「昭和短歌の精神史」を想定していたというから、思い入れのある書名なのだろうと思う。「精神史」と名乗る本で私が知るのは竹山道雄『昭和の精神史』(新潮社 1956年)、桶谷秀昭『昭和精神史』(文芸春秋1992年)くらいだが、「精神史」と名付けられると、私などは「切り口は何でもアリ」という印象を受けてしまう。
 
しかし、本書における動機というか切り口は明確である。「あとがき」の冒頭では「昭和短歌の歩みをあるがままに描きたい」といい、次のように続ける。

「歌人たちは昭和の暮らしをていねいに読み、時代を真摯に担った。歌人たちと歌のその真摯を、時代背景を重ねながら提示したいという願いが、その動機を支えている。」(514p)*a

また別の段落では、次のようにも述べる。

  「振り返って思うに、歌人たちは困難な時代をよく担い、そして嘆き、日々の暮らしの襞を掬いあげて作品化した。まず昭和の初期にタイムスリップし、当時の新聞や文献を傍らに置きながら歌を読み継ぎ、私はそのことを痛感しつづけた。本書はそうした歌人と作品への共感の書でもある。」(517p)*b

さらに、末尾でも「本書は、あの時代を苦しくも誠実に担った人々への六十年後の鎮魂の書でもある」(518p)と記す。「時代を真摯に担った」「「時代をよく担い」「時代を苦しくも誠実に担った」というフレーズで括るその意味するところであるが、分かったようで分からない。戦争期、敗戦・占領期において、何が「真摯」で、何が「誠実」だったとは、何が尺度になるのか。たとえば、これを現代に置き換えてみるとき、歌人が「時代を真摯に担う」「時代を苦しくも誠実に担った」ということはどういう状況を指すのだろうか。どういう作品を残し、どういう言動の痕跡があれば「時代を担った」ことになるのだろうかを考えてみると、そう簡単なことではない、というより、そう言い切ることは不可能に近い。「あるがままに」といい、「短歌の戦争期と占領期を地続きの地平として」捉えるために「作品が示している心を当時の時代に戻りながら、ていねいに掬いあげ、重ねて」いく作業に徹したという。当時の時代背景を種々の資料から引用・検証し、作品自体や歌人の言動に分け入る手法がとられるが、せっかく、その手法をとりながら、作品や歌人への評価が、一刀両断的に「時代に真摯」であったか否かで結論づけられていることが多い。「真摯」「誠実」などの基準は、著者の心情や恣意が入り込む余地が大きく、著者の好き嫌いや先に結論ありきの意図的な要素さえ感じてしまう。それに、後述するように、短歌には公的な場と私的な場がある、という見解にも、一巻を通して疑問がついてまわった。

たとえば、北原白秋と土岐善麿、木俣修については、なぜかいつも手きびしく、それに引き替え、斎藤茂吉、佐佐木信綱らの「時代への真摯さ」が高く評価されている。たとえば、文部省からの国民歌作詞依頼への対応や歌詞の違い、茂吉は作詞に非常に難渋したことなどに言及した後、次のような個所がある。

 「歌人たちは短歌作品だけではなく国民歌、国民歌謡の作詞を通しても日中戦争を支えた。その作詞は自発的な仕事ではなく、要請に応えたものであり、主題の決められた一種の題詠でもあった。(略)しかし、だからといって国民歌や国民歌謡が不本意ながら担った責務というわけではない。国民歌発表会に臨んでの善麿作品〈わが歌を人高らかにうたふなりいしくもわれは偽らざりき〉を思い出したい。この感激こそ善麿の本意であり、歌人たちの心だった。」(62p)*c

また、『紀元二千六百年奉祝歌集』(大日本歌人協会 1940年)をめぐる1件にも表れる。常任理事としてかかわった白秋と善麿、序文を書いたとされる善麿。白秋の弟子の木俣修による『昭和短歌史』(明治書院 1964年)、善麿の弟子冷水茂太による『大日本歌人協会』(短歌新聞社 1965年)にも及び、師や自らの不都合の隠ぺいを示唆する。上記『奉祝歌集』から幾人かの歌人の作品と軌跡の紹介の後、次のように続ける。

「短歌史的な整理はこういうときに二つに分かれる。同情する立場からは、生活感を大切にする歌人でさえも時局に巻き込まれたという位置づけである。批判する立場からは、彼らも時局に便乗した、という理解である。「便乗」は能動的、「巻き込まれた」は受動的ということになり、そこで歌人たちの戦争協力の度合いが測られた。『紀元二千六百年奉祝歌集』に参加した歌人たちの内面は同じではないが、全員参加ではないこうした作品集に見ておくべきは、一人一人の自発性である。庶民生活が貧しさを嘆く心と二千六百年を祝う心とは一人の内部で何ら矛盾するものではない。(83p)*d

また、『新風十人』の評価については、以下のように総括する。

 「(坪野)哲久や(斎藤)史を含めて、この時期、時代圧力と歌人たちの詩精神がぎりぎりまでに緊張し拮抗して、格別の成果を生んだ。そしてそれは、これ以上時代圧力が強まれば表現が壊れてしまう、その限界点における詩的光芒でもあった。(略)その彼らも、大東亜戦争が始まると国の存亡をかけて戦いを支えることに力を注ぐようになった。(126p) *e    

さらに、1941128日の開戦時の信綱作品「元寇の後六百六十年大いなる国難来る国難は来る」(『読売新聞』1941129日)に触れて、読者を引き込むその呪力において、この一首に「肩を並べる開戦歌はない」と絶賛する(195p)。しかも、「戦争が起ころうとしている」からという新聞記者の依頼による、「宣戦の詔書」がラジオで流れる前の「予定原稿」であったことが明かされる。松田常憲「開戦のニュース短くをはりたり大地きびしく霜おりにけり」(『凍天』高山書院1943年)との二首について次のように述べる。 

  「どちらにもひしひしと張り詰める緊張感がある。それは巨大な困難に直面 した

 ときの危機意識であり、緊張である。松田は私的な場面の中でその緊張を詠い、

 信綱 は公的な立場から詠った。二首は公私両方の場における開戦歌の

 白眉である。                                   (216p)*f     

これまでに、d)とe)の段落に見るように、著者は、1938年段階での国民歌・国民歌謡の作詞応諾、1940年『紀元二千六百年奉祝歌集』への参加には「自発性」があったことを前提に、結局、その積極性の程度を問うエピソードなどに着目している点で、能動的か受動的かという尺度と大きな差異がないことになってはいないか。

c)の「この感激こそ善麿の本意であり、歌人たちの心だった」、f)の「張り詰める緊張感」「開戦歌の白眉」の言は独善的で説得力に欠けよう。また、f)の末尾の短歌における「公私の場」も自明のように使い分けるが、短歌における「公私」の定義にも欠ける。斎藤茂吉が、敗戦後に、みずからの作品も含めて、類型的な戦争詠を「制服的歌」と名付け、国家的であって個人的ではないのだから善悪優劣を云々すべきではないとする(『アララギ』19475月)の言との違いや共通点にも触れてほしかったと思う。

なお、今回の「緑陰シリーズ?」の冒頭①の飯田龍太についての有泉論考に関連して言えば、同じく山梨県出身の本書の著者は、俳人飯田蛇笏の四男龍太が、次兄が病没、長兄がレイテ島で戦死、三兄が戦病死して、山梨の生家を継ぐことになり、蛇笏主宰の『雲母』を後に引き継ぐことにもなったのだが、「一所に根ざしながら宇宙を引き寄せる飯田龍太の俳句世界はこうして生まれた。レイテ戦がもしなかったら、龍太の生涯も俳句の現在も違ったものになった可能性がある。」(404p)と、評していた。安易な仮定から予想へと繋げる言説も気になるところだった。  

本書の著者の短歌史、短歌評論における文献探索には敬意を表したい。ただ、日本近代史にあっては、便利に利用する参考資料的な文献はともかく、概説書の選択にやや偏りがあるのではないかとも思った。私自身は、この時期の短歌作品や歌人の言動については、つねに「ありのまま」の素材をなるべく多く提供するとともに、のぞむ読者にはそれらへのアクセスが可能なツールも提示するよう心掛けたいと思っている。

 

すでに10月に入り、あの残暑もようやく去った。読書感想文は大嫌いだったことが尾を引いているのか、他人の著作を紹介したり、批評するのは難しいし、苦しかったのだが、この辺で筆を置こう。

2012年9月19日、自宅前から西空の虹

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