大荒れの土曜日だったが、午後から20世紀メデイア研究所の研究会(早稲田大学現代政治経済研究所会議室)に参加した。山本武利、土屋礼子両先生が中心の研究会で、毎月開催され、だれでも参加することができる。毎回魅力的なテーマでの発表が多いのだが、年に1・2度程度か、今回の発表ははずせないと思った。
①中嶋晋平(大阪市立大学大学院研究科都市文化研究センター研究員)
戦前期における海軍による広報・宣伝活動の萌芽―海軍記念日講話関係資料の分析を中心に
②安野一之(国際日本文化研究センター共同研究員
検閲官の横顔―内務省警保局図書課の人員について
①は、日露戦争後1906年に制定された海軍記念日―日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅した1905年5月27日(~28日)にちなんだ―が海軍の宣伝・広報においてどのように機能したかを、記念日の講話関係資料を中心に分析したものだ。期間は1920年までと限られていて、発表者は、その後の昭和期、とくに満州事変後の海軍の宣伝・広報戦略の萌芽として捉えていた。記念日制定後しばらくは、内向きの記念日に過ぎなかったが、1910年から海軍志願兵の減少を機に文部省が海軍省に記念日の講話依頼がなされ、各学校等に記念日講話の実施を通達していた。多いときでも、全国で50~60件だったが第1次大戦後はさらに減少したのは、記念日自体、講話内容が形骸化、マンネリ化したことが要因と考えられ、聴き手からの感想などによりその内容が軌道修正されて行ったことを評価している。日本海海戦経過などをメインとする内容から、とくに第1次大戦後は、聴き手の民衆の最新軍事事情や兵器などへの関心が高まりに対応した内容にシフトしていたことを強調していた。
若い発表者は、わりあい淡白な論調で、「海軍と民衆との相互作用による広報・宣伝システムの構築、軌道修正がワシントン海軍軍縮条約成立後、さらに進められていく」と結ぶ。
私は、むしろ、この後の満州事変後の1945年敗戦に至るまでの海軍の広報・宣伝戦略について聞きたかったので、変化の実態と今回の発表時期を萌芽と捉えた流れを知りたかった。そんな質問もしてみたが、今後の研究課題だということだった。また、他の参加者からも、聴き手の感想などは、「作文」のことが多く「本心」とは言えないのではないか/鎮守府は地域的に限られているので、その実施実態にも地域性の要素が大きいのではないか/講話対象は学校関係者が主だったが「民衆」と広げてしまっていいのか/講話者の育成がなされていたのか、などの質問が続いた。
②は、発表者からは、タイトルとサブタイトルを入れ替えてもいいような内容になるとのことわりがあった。「内務省委託本」とは、内務省が 所蔵していた検閲正本を旧東京市立図書館に委託したもので、戦後は千代田図書館、京橋図書館などの区立図書館に引き継がれている図書群だ。発表者は、千代田区立千代田図書館所蔵の内務省委託本2366冊を調査して、各図書の検閲の痕跡―検察官の押印、コメント、傍線、発行日改編などから「いつ・だれが・どのように」検閲を行ったかを検証した。さらにその結果、とくに検閲印と日付などと内務省職員録や図書課人員(属、嘱託、雇を含め)とを照合することによって、かなりの検閲実態が明らかになるが、それでも、図書課の係員の異動、属・嘱託・雇の異動、地方職員からの派遣・研修などを含めた実際の検閲担当者は、把握しにくいとのことであった。そうした作業から浮上した一人の検閲官の履歴に着目、「内山鋳之吉」(1901~?)特異な、興味深いプロフィルが紹介された。
内務省警保局図書課の体制と人員のいまだ断片的なデータ、あるいは元職員のOB会名簿などとの照合による調査で、拡充されていく図書検閲の推移が分かる。また、上記、内山の履歴は、なるほど興味をそそるものだった。
東京出身、五校を経て、東京帝大の英文科在学中はセツルメント活動に参加、1925年卒業後、河原崎長十郎、村山知義らと「心座」を結成、演出などを担当した。翌1926年内務省職員となりと図書課出版物検閲係勤務の傍ら、1930年頃まで演劇活動を続けている。その一方で、『朝日新聞』にたびたび出版法や出版事情についての寄稿を続けていた。1932年は図書課出版検閲係主任となり、1939年6月には企画院調査官に任ぜられ、内閣情報部情報官となった。その後、企画院の文書課、情報局情報官の勤務を経て、1943年には軍需相軍需官、文書課勤務となる。1944年7月に退官、その後は、以前からかかわりのあった湘南学園に勤務したという。
調査中に、こうした人物に出会うと、のめり込んでしまう発表者の気持ちがよくわかった。この人物の独自の評伝がないだけに、かかわりのあった人々の自伝や回顧録、あるいは演劇史など登場してくる断片的な情報を、照合することによって、その全体像が明らかになってゆき、これまでの「検閲官」というイメージとは違ったものが見えてくるのではないか、と結ぶ。
こうした作業は、特定の検閲官への個人的な関心や興味に留まらず、その群像や組織をさらに明確なものにしていくのではないか、と思った。参加者の一人の内務省の人員体制に詳しい研究者は、出版統制、図書検閲官僚の日本のファシズム史での位置づけの必要性を述べ、また、内務省の検閲官たちと戦後のGHQの検閲官たちとの異動に着目し、その手法の類似性を指摘された研究者もいらした。また、南原繁の内務省勤務時代に留学したことや労働法制にかかわった話は聞いたことがあったが、質問のやり取りの中で、図書課調査係にいたということなど、私ははじめて知った。
情報局第5部第3課(文芸担当)の課長井上司朗が、歌人としての逗子八郎との両刀使いで、太平洋戦争下の歌壇に「猛威」をふるっていたこと、その逗子が昭和初期には、新短歌運動の旗手、また山岳歌人であったと評されたことなどを思い起こすが、その評価は、著作の内実、戦後の生き方などによっておのずと定まっていくのだろうと思った。
なお、「戦前期の発禁本のゆくえ」と題して、2011年2月「神田雑学大学講座」で大滝則忠 さん(当時東京農業大学教授、現国立国会図書館館長)が講演をされている。
http://www.kanda-zatsugaku.com/110218/0218.html#menu
また、 「戦前期の出版検閲と法制度」と題して、2011年7月、上記講座で浅岡邦雄さん(中京大学准教授)が講演されている。
http://www.kanda-zatsugaku.com/110702/0702.html#menu
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