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2012年12月26日 (水)

社会福祉協議会は、そんなに”特別な”社会福祉法人なのか~佐倉市平成25年度予算説明会に参加して

 全体会

 佐倉市職員の給与は高い!?
 
1216日の予定が1週間延びて開催された、佐倉市の25年度予算案説明会に参加した。今年で3回目の由、私は昨年に続いて2回目となった。例年のように、全体会で予算全般の説明がなされ、後半は分野別に、Ⅰ福祉・健康・教育・文化、Ⅱ総務・防災・環境など、Ⅲ産業・都市基盤の3ブースに分かれる。各ブース、1113の事業が取り上げられる。800以上ある市の事業のうちの30件余、445億規模の歳出予算額のうち今回の説明対象事業は、約10分の1の40億強に過ぎないが、人件費は、1000人規模の73億にのぼる。全体会の質疑は、やはり「職員人権費」に集中した。委託事業を増やす一方人件費も増えているのはなぜか、指定管理者制度によって人件費削減はできたのか。また、国家公務員の給与を100としたラスパイレス指数は、佐倉市は常に上位で、23年度では、102.41677市町村中31位、隣町の八千代市と並ぶ。22年度は103.118位だったのだから、市民の疑問は果てしなく、高すぎると言われても仕方ないだろう(ちなみにトップが葉山町、松戸市が104.53位である)。要は、職員一人一人の働きぶりが問われるのだ。担当課長は、わが市は若年層の職員に手厚くしているから、時間外手当が多いから・・・などと弁明しても、なかなか理解してもらえないだろう。
 
私は、補助金制度による外部団体への人件費補助の問題について質問と意見を述べた。その要旨は、以下の通り。

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 補助金の在り方について、とくに人件費について
 
現在、継続・新規も含めて110近い事業が補助の対象になっている。そのうち人件費補助は3件。25年度も、社会福祉法人社会福祉協議会が8570万(補助金総額9063万)、公益法人商工会議所に1705万(同3350万)、財団法人観光協会560万(913万)を計上している。この人件費補助はほんとうに妥当か否か。3つの団体に共通しているのは、人件費が補助金の中で占める割合が高いこと、他の類似団体との不公平性と情報の透明性に欠けるところである2010730日の監査委員による監査結果、昨年20111215日の補助金検討委員会から出されている「意見書」にも同様な指摘がなされている。そもそも平成8年から見直しが叫ばれ、15年から白紙からの見直し作業に入り、24年度から3年の有期でさらに見直すという風に理解している。検討委員会は、基本的には公益・公共性、公平性、効果性、適格性の観点から点検した結果、3者いずれにも意見がつき、結果としては条件付きで継続となっているが、まったくあらたまっていないどころか「意見書」に、逆行する団体もある。問題点は多いのにもかかわらず、25年度の予算に活かされていない。また上記「意見書」では、観光協会にしても、商工会議所にしても事業者の加入率が低いことも課題として挙げている。私は、さらに、3者とも、市の独自事業、他の類似の委託事業との重複が著しく、その独自性と関連性も曖昧なまま、漫然と補助金が出されていることである。たとえば、市が観光イベントの目玉にしているチューリップまつり、時代まつり、花火大会などへの予算と観光案内所の指定管理の委託料との関係である。
 
なお、補助金のうち幾らが人件費なのかは、社協の場合は別建てなのでわかるが、他の二つは概要書では分からず、予算書、決算書でも不明、ホームページ上、補助金一覧 ⇒ 補助事業金計画書 の検索で初めてわかったが、人件費補助自体の金額がわかるよう、補助金一覧の備考でも、予算書・決算書のカッコ書きでもとにかく明記するのが、透明性確保の第一歩だろう。

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第Ⅰブース

 社協は、そんなに“特別な”社会福祉法人なのか
 
 2部は、まず第Ⅰブースに参加した。私は、今回の重点説明事業の一つ「地域福祉推進団体助成事業」について質問した。事業名は紛らわしいが、中身は「社会福祉協議会助成事業」なのである。全体会でも質問した通り、人件費8570万円と事業費496万円の補助金を要求している。事業費の使い道は、さらに地域福祉ネットワーク(地区社協支援)、介護人材育成、要援護者支援、法人運営、ボランテイアセンター運営、福祉相談、市委託(敬老、成人後見人支援センター事業)の7事業に分けられる。この事業とて、ほとんどが講師、コーデイネーター、相談員の謝礼などに消えていくので、広い意味での人権費だろう。これに加えて、8570万という多額の純然たる人件費が要求されている。この中身が、先の7つの事業にあたる正規職員11人分の人件費とのことだ。 

 私の質問と要望は以下の通り。 

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社会福祉協議会への人件費補助について 

 人件費補助の異例 

補助金一覧の中でもけた違いに補助金額が多く、数少ない人件費補助団体の中でもダントツである。この不当性については、すでに、監査委員による監査報告(2010730日)、補助金検討委員会意見(20111215日)によっても明らかなように、人件費使途の内容の透明性、人件費補助は受けていない社協以外の多種多様な類似他団体との公平性、とくに、給与レベルの厚遇について指摘され、見直し改善が指摘されているにもかかわらず、25年度予算要求についても改める努力どころか、増額を要求している。市はどのように指導しているのか。面倒な福祉事業を丸投げしている弱みから強くは指導出来ないのか。

*補助金一覧は、以下で見られる。 

http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/hojokin/H24/itiran.htm

 

②違法性が高い社協の会費徴収を黙認しているのはなぜか 

会費、募金はまったくのボランテイアであるはずが、班長さんが領収書を持って500円を徴収したり、会費を自治会に上乗せしたりしている自治会も多い。これは明らかに、20084月の最高裁決定が、上乗せは憲法の思想信条の自由に違反とした判例にも反する。自治会町内会長(福祉委員)の集まる会議で、任意であることを強調しているというが、徴収方法の実態を把握しているか。私の自治会役員体験によれば、「お宅の自治会の徴収額が少ない」「還元分がお宅の自治会のために少なくなっている。他の住民が迷惑している」「会員にならないと社協のサービスが受けられなくなる」などの地区社協の幹部が暴言を吐いている実態を承知しているか。全市的に実態調査をしたうえで、任意性を徹底する指導をしてください。会員拡大が伸び悩んでいるのは、自治会への加入率の低下、社協からサービスを受けている実感がない、募金だけではなく、福祉ボランテイアの多様化などが原因として考えられるのだから、自治会を通しての募金は中止の方向で検討してください。

 

③補助を受けながら他方で24000万円以上の福祉基金、約14000万の有価証券などの資産を留保しているのはなぜか。 

営利団体ではない社会福祉団体としての説得力に欠ける。説明会当日の課長答弁では、基金の取り崩しを予定しているとのことだが、大震災対応にも崩さなかったし、遅きに失した。今後はそれをどのように使い、補助金やサービスにどう反映させるかについてどういう指導をするつもりか。

* たとえば、平成23年度決算は、「社協さくら」169号(20127月)2頁で見られる。 

http://www.sakurashakyo.or.jp/jigyo/koho/shakyosakura169PDF.pdf  

④社協職員が市職員に準ずる高待遇をうけているのはなぜか

12月号「社協さくら」で、初めて職員の人事・給与の情報が公開された。給与・諸手当とも市職員と同等で、退職金も同様である。嘱託職員も正規よりはやや低いものの、かなりの厚遇である。補助を受ける一方で、市職員レベルの給与・諸手当で厚遇される正規職員・嘱託職員たちの実態であった。少なくとも、その採用や任用替えの情報を公開し、透明性を図るため、どのような指導をするのか。今回も改善はなされていない。

*今回の給与・人事の一部公開記事は、以下の「社協さくら」171号(201212月)の3頁で見られる。 

http://www.sakurashakyo.or.jp/jigyo/koho/171.pdf 

 

⑤人件費補助の根拠としての、社協は特別で「地域に密着した地域福祉事業」を「全市的に」展開しているというが、何が特別なのか。 

 社会福祉法において、その存在は認めているが、人件費補助の根拠とはなり得ない。社協の「地域福祉推進計画」策定の当事者として「民」の反映を標榜するが、実態は、両方の策定委員会委員を兼務させたりして、単なる行政のサポートか、応援団に過ぎず、「民」を反映する実態にほど遠い。地域福祉の実際の担い手は市社協ではなく地区社協であり、自治会はじめ他の社会福祉法人、NPO法人、団体・個人ボランテイアであって、活動の大部分がボランテイアか低い報酬に甘んじている。そこに厚遇されている社協の職員の姿が見えない。敬老事業や高齢者の生活サポート、居場所づくりなど活動について、市社協は、とくに敬老事業=敬老会開催に重点を置き、地区社協に費用を配分しているが、地区社協の支出の4050%を占め、たった1日のために使い果たされているのが現状である。その敬老会も、集まるのは参加対象者の3分の1程度、年々減少、敬老の精神は形骸化している。会食・記念品をメインとする事業が果たして高齢者に受け入れられる地域福祉の一環なのかどうか、疑わしい。どうか市社協、地区社協は、真剣に考えてほしい。市も実態を踏まえ、どう指導するのか、大枚をはたいている割には成果が望めず、無駄遣いに近い。それでも現状を維持するのか。市社協は、予算の配分機能だけを担っているにすぎない側面が大きく、人件費の補助など行わずスリム化するべきだろう。

 

⑥種々の相談業務におけるプライバシーや継続性は守れるのか。 

補助金対象の福祉相談事業、また、あらたな市からの委託事業「成年後見支援センター事業」における相談業務の実際の担当者に正規職員をあてるわけではなく、賃料や謝礼による相談員や司法書士などがあたるらしいのだが、相談する市民からすれば、プライバシーへの配慮や継続性が保たれるのか、市民は不安であるし、相談しにくい。こういう業務こそ市職員が前面に立って処理するのが本来の行政ではないのか。福祉相談業務も年間何件の実績があるのか、成年後見制度の実績も示してほしい。 

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時間がなくて、質問⑥は省略したが、書面による意見募集もしているので、そちらの方へは上記を送信した。いずれ2月下旬ごろには、HP上などで「市の考え方」が示されるはずである。 

 当日の担当課長による回答は「社協は、他の社会福祉法人とちがって、地域に密着した地域福祉事業を全市的に展開しているから、“特別”だ」と繰り返すばかりで、どれほど密着した福祉事業に関与しているのかの説明がない。会費徴収の任意性については「強制ではないので、慎重に募金活動をするよう、毎年、地域の自治会代表や福祉委員に徹底させている」というが、自治会費上乗せや役員・班長による徴集が横行し、任意性が保たれてないことを、市は見て見ぬふりをして黙認していることには変わりないのではないか。

 

人件費補助額と補助対象職員数の推移などを以下の表にした。 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/syakyohojokin.pdf  

民生費から社協へ補助金の推移(予算書・決算書、社会福祉課聞き取りにより作成) 

佐倉市社会福祉協議会の人件費の推移  (「社協さくら」所収の各年決算より作成)                         

 なお、昨年も、私は、社協について意見を述べている。意見に対する市の考え方は、以下の<8>の欄に記載されている。http://www.city.sakura.lg.jp/sakura/ikenkobo/200sanka/020result/20120220_teisyutuiken.pdf

 なお、2013年2月下旬、この予算説明下記の記録がHP上で公開された。とくに質疑応答記録では、質問は要旨しか記録されておらず、上記のように、読み上げた数字や具体例がほとんど省略されていて、回答は相変わらず抽象的で、 この記録集だけを読んだ人には、分かりづらい。 (3月8日補記)

http://www.city.sakura.lg.jp/0000007780.html

 

 

 

 

 

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2012年12月11日 (火)

ある研究会での報告~阿部静枝歌集『秋草』から『霜の道』へ、その空白

 なぜ阿部静枝なのか 

 この夏に、新・フェミニズム批評の会編集『<311フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房)に、私は「311はニュースを変えたか~NHK総合テレビ<ニュース7>を中心に」を寄稿した。その後、新フェミの会の合評会や出版社主催「わが著書を語る」での読者との交流会にも参加した。毎月の研究会には欠席ばかり続いたが、昭和戦前期のテーマでの報告を勧められた。決してポピュラーな歌人ではないが短歌結社『ポトナム』の選者で、私の短歌の師でもあった「阿部静枝」(18991974年)について、報告することにした。これまで断片的に書いたものをまとめるため、あらためて著作年表などの改訂をしているところだった。ついでながら、戦前期、戦後期の阿部静枝について、さらに調べることにした。まだ時間があると思っていたら、もう割り当ての12月が来てしまった。ちなみに、この研究会では20064月に「戦時下の阿部静枝~内閣上情報局資料を中心に」をレポートしている。  今回のレジメを以下に張り付ける。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/abesizue.pdf

  配布資料は、ここでは省略するが、かなり膨大になってしまって、聴き手には、分かりづらいと意見をいただき、また時間の関係もあって、1918年から1945年までの雑誌等への初出作品から時系列で抄出した200首ほどの短歌を実際にほとんど引用しなかった報告の不備も指摘された。
 私が、この報告で強調したかったのは、つぎの一点であった。雑誌等に一度発表した著作について、その後、不都合な内容の作品、省みて一貫性のない著作や発言を隠ぺいすることは、文芸史上、文学史上、よく取りざたされる常套手段だが、歴史を歪める社会的な弊害が大きいばかりでなく、著作者本人の心をも歪め、その後の著作者自身の生き方を過去の負い目によって逆に縛られ、真の解放の障害になりはしないか、ということだった。もっとも、開き直って強権的になるのは、どこかの政治家や著名歌人たちにも多いので、説明するまでもないだろう。 

伝説の歌集『秋草』の背景 

・ほそぼそと草のそよげりわれに背き月みるひとのなにをさびしめる
 (水甕・1922年11月)
・いつしかに拍手に心ひきたちて語れるひとをまともにみつむる
 (水甕・1924年8月)                      『秋草』より

 大正から昭和の代替わりの頃、若き知的な女性の相聞歌集として評判の高かった第一歌集『秋草』(1926年)、現在も「伝説の歌集」の一冊にも取り上げられる『秋草』だが、その背景を追ってみると意外な事実が浮上する。最晩年に刊行された『阿部静枝歌集』(短歌研究社文庫 19743月)に付された「自筆年譜」によれば、東京女子高等師範学校を卒業後勤務していた仙台の高等女学校を、1923年の「四月、退職。上京、阿部温知と同棲、後結婚す」とあり、1938年には「二月、夫、死亡。(中略)家族は、一子の長男と末妹なり」と記される。『秋草』には、結婚以降の作品から始まり、女高師時代の『水甕』、仙台の高女教員時代の『玄土』への出詠作品は、2作品の例外をのぞいてすべて収録されなかったので、以下のような作品もない。『玄土』に発表した2首目の「師」は、東北帝大教授の物理学者で、アララギの石原純と思われ、静枝は、石原純との出会いで「短歌に開眼す」と自らも語っている。「師のなやみ」とは、石原純と原阿佐緒との恋愛騒動であろう。

・せまり来る淋しきおもひうちおさへ教壇に持つむちのぬくもり
(玄土・1920年10月)
・なやみふかき師を思ひつつわれもまたただ世の寂しさを堪へ踏まんとす     (玄土・1921年9月)

 静枝の没後も、この出産の件はタブーの如く「ポトナム」内で公に語られることもなかったが、その後の評伝執筆者の樋口や荻原は、若干の違いはあるものの、1922年に「退職・出産・上京・結婚」の事実関係から自筆年譜の間違いを指摘し、婚外子の出生を明らかにする。現代にあっては、未婚の母を貫く俵万智の例もある如く、自立した決断の結果として、社会的に糾弾されることもなくなったが、当時の世間の目は厳しいものであったに違いない。だが、『秋草』には、弁護士であり、無産政党活動から東京府議会の議員にもなる夫を助ける若き妻の哀歓が歌い上げられた作品が多い。一方、養家に預けられた子との短い逢瀬を彷彿とさせる作品が散見されるものの、それ以上踏み込む作品や言及する散文が見当たらない。

・うつしよにいのちにさやる汝をもちてなほながき日を堪へて生くべけれ
橄欖・1925念8月)・
・生ひさきの汝が苦の責を負ふべくて命を明日にわが生くるかも
 (ポトナム・1926年3月)                    『秋草』より

また、夫を支援する形で入った無産運動であったが、社会大衆党結党傘下の社会大衆婦人同盟の役員としての活動は顕著で、婦人参政権獲得、女性労働者保護、母子扶助法制定などに奔走、集会時に検挙されたこともあるほど活発だった。1937年に日中戦争が始まり、戦局拡大に伴い言論・出版弾圧は厳しく、無産政党の政治活動の場は狭まり、無産女性運動も終息せざるを得なくなったなかで、19382月静枝は、夫の急死に見舞われる。直後に、一子を引き取り、生計は静枝の双肩かかることになった。前後して、静枝の短歌も変貌し、全国紙・婦人雑誌などへの執筆は劇的に拡大し、女性への啓蒙的なエッセイや座談会・対談での発言は、大きく国策推進へと傾いていくのである。それらの著作は、数冊の単行本となり、用紙不足の時代にもかかわらず、その著書は、300050007000部という発行部数が認められるほどであった。 

この間の短歌作品や短歌評論も夥しい点数に及ぶが、19291930年あたりから、静枝の短歌は、破調・口語に傾き、まさに19377月、日中戦争開始直後あたりから、再び定型・文語へと復帰するのである。当時、自らの表現手法についての表明はいまだ見当たらない。ただ、上記、最晩年の選集『阿部静枝歌集』の解説で「『これがあの時のお前の歌』と引例されているのを見、こんなガサツな歌で通したのかと身が縮む。自由律の一期間もあった」と記す。

・金!金!それを持つてゐるものは自然と私の敵になつてゆく

(ポトナム・1930年8月)

・をみなわれは夫に挙ぐべき一票を待たぬはかなさ男を羨む
 (現代新選女流詩歌集1930年)

・必然を実感するだけ、小地主わがやの没落を驚かず

(ポトナム・1932年5月)  

 

2歌集『霜の道』のフィクション性とは 

ところが、敗戦後の1950年、「女人短歌叢書」として刊行された第2歌集『霜の道』も、歌壇で話題になった歌集だった。「或る女」「未亡人」「傾斜層」の3篇で構成される、この歌集の「あとがき」に静枝は次のように記している。 

 「(前略)今日までの多くの場合、短歌の取材は身辺事であり、自分自身の生活気分であった。霜の道は私の私生活そのままの叙述ではない。このやうなのは、散文に委ねるべきで、短歌としては横道であり、失敗であるかどうか、それは短歌自身の宿命のためか、作者の不才と未熟のためか、問題になれば私の大きなしあはせである」

 

 この歌集のフィクション性をめぐって議論がなされた。とくに「或る女」にあっては、戦前の雑誌などに発表することのなかった作品、自作ではない形でエッセイ集に発表していた作品などをふくめ、発表年月を越えて再構成をし、生活のため里親に子を預けて働く女のいわば「歌物語」として編集したのだった。敗戦前の、いわゆる戦意高揚などの大政翼賛的な作品は多く捨てられ、次のような作品は収録されていない。夫が死去するまでは、里子に出していた婚外子との交情などを歌った作品は「フィクション」のもとに収録され、戦時下の翼賛的な作品は焼失したとし、「フィクション」と称して収録しないという、意図的な選歌、編集作業がなされたことになる。

・わが在る世星霜二千六百年を迎へて白き菊咲澄める
(姉妹・1940年10月)

・夜思ひ朝窓に書く戦時婦道国のゆくてにわれもおくれず

(歌集新日本頌・1942年11月)

・死傷せる人をおもへば倒れし樹起しつつ哭く勝たねばならず

(短歌研究 1944年11月)

『秋草』『霜の道』の2つの歌集の選歌・編集の過程は、今となっては知り得ないが、その結果としての歌集を読みこみ、考証することによって、より確かな真実が見えてくるのでないかと思う。 

まだ、著作の収集・確認も道半ばであるが、戦後の著作や静枝の生涯にも触れてみたい。

 

 

1945年までの気になり惹かれる歌の幾つか・・・。『霜の道』に収録されているのは「家あれば・・・」のみだった。

・鳥の声の中に覚めた故里の家こんなに鳥の棲む庭樹だつたらうか

(短歌研究・1933年11月)

・群衆の歓呼に圧されゐる出征兵我が夫ならば吾は堪へざらん

(ポトナム・1936年9月)

・家あればそこにかならず何の木か花咲ける越後国原の春

(ポトナム・1937年7月)

・夜ふけ着きし他国の港日本語の案内ききつつ胸熱くなる

(日本短歌・1941年12月)
 

・蒙古騎兵隊行き擦れば馬の息づきとたてがみの風荒く我が頬に

(日本短歌1943年12月)
 

 

 

 

 

なお、この日の研究会で、もう一つの発表「野溝七生子」については、別稿としたい。

 

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