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2012年12月11日 (火)

ある研究会での報告~阿部静枝歌集『秋草』から『霜の道』へ、その空白

 なぜ阿部静枝なのか 

 この夏に、新・フェミニズム批評の会編集『<311フクシマ>以後のフェミニズム』(御茶の水書房)に、私は「311はニュースを変えたか~NHK総合テレビ<ニュース7>を中心に」を寄稿した。その後、新フェミの会の合評会や出版社主催「わが著書を語る」での読者との交流会にも参加した。毎月の研究会には欠席ばかり続いたが、昭和戦前期のテーマでの報告を勧められた。決してポピュラーな歌人ではないが短歌結社『ポトナム』の選者で、私の短歌の師でもあった「阿部静枝」(18991974年)について、報告することにした。これまで断片的に書いたものをまとめるため、あらためて著作年表などの改訂をしているところだった。ついでながら、戦前期、戦後期の阿部静枝について、さらに調べることにした。まだ時間があると思っていたら、もう割り当ての12月が来てしまった。ちなみに、この研究会では20064月に「戦時下の阿部静枝~内閣上情報局資料を中心に」をレポートしている。  今回のレジメを以下に張り付ける。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/abesizue.pdf

  配布資料は、ここでは省略するが、かなり膨大になってしまって、聴き手には、分かりづらいと意見をいただき、また時間の関係もあって、1918年から1945年までの雑誌等への初出作品から時系列で抄出した200首ほどの短歌を実際にほとんど引用しなかった報告の不備も指摘された。
 私が、この報告で強調したかったのは、つぎの一点であった。雑誌等に一度発表した著作について、その後、不都合な内容の作品、省みて一貫性のない著作や発言を隠ぺいすることは、文芸史上、文学史上、よく取りざたされる常套手段だが、歴史を歪める社会的な弊害が大きいばかりでなく、著作者本人の心をも歪め、その後の著作者自身の生き方を過去の負い目によって逆に縛られ、真の解放の障害になりはしないか、ということだった。もっとも、開き直って強権的になるのは、どこかの政治家や著名歌人たちにも多いので、説明するまでもないだろう。 

伝説の歌集『秋草』の背景 

・ほそぼそと草のそよげりわれに背き月みるひとのなにをさびしめる
 (水甕・1922年11月)
・いつしかに拍手に心ひきたちて語れるひとをまともにみつむる
 (水甕・1924年8月)                      『秋草』より

 大正から昭和の代替わりの頃、若き知的な女性の相聞歌集として評判の高かった第一歌集『秋草』(1926年)、現在も「伝説の歌集」の一冊にも取り上げられる『秋草』だが、その背景を追ってみると意外な事実が浮上する。最晩年に刊行された『阿部静枝歌集』(短歌研究社文庫 19743月)に付された「自筆年譜」によれば、東京女子高等師範学校を卒業後勤務していた仙台の高等女学校を、1923年の「四月、退職。上京、阿部温知と同棲、後結婚す」とあり、1938年には「二月、夫、死亡。(中略)家族は、一子の長男と末妹なり」と記される。『秋草』には、結婚以降の作品から始まり、女高師時代の『水甕』、仙台の高女教員時代の『玄土』への出詠作品は、2作品の例外をのぞいてすべて収録されなかったので、以下のような作品もない。『玄土』に発表した2首目の「師」は、東北帝大教授の物理学者で、アララギの石原純と思われ、静枝は、石原純との出会いで「短歌に開眼す」と自らも語っている。「師のなやみ」とは、石原純と原阿佐緒との恋愛騒動であろう。

・せまり来る淋しきおもひうちおさへ教壇に持つむちのぬくもり
(玄土・1920年10月)
・なやみふかき師を思ひつつわれもまたただ世の寂しさを堪へ踏まんとす     (玄土・1921年9月)

 静枝の没後も、この出産の件はタブーの如く「ポトナム」内で公に語られることもなかったが、その後の評伝執筆者の樋口や荻原は、若干の違いはあるものの、1922年に「退職・出産・上京・結婚」の事実関係から自筆年譜の間違いを指摘し、婚外子の出生を明らかにする。現代にあっては、未婚の母を貫く俵万智の例もある如く、自立した決断の結果として、社会的に糾弾されることもなくなったが、当時の世間の目は厳しいものであったに違いない。だが、『秋草』には、弁護士であり、無産政党活動から東京府議会の議員にもなる夫を助ける若き妻の哀歓が歌い上げられた作品が多い。一方、養家に預けられた子との短い逢瀬を彷彿とさせる作品が散見されるものの、それ以上踏み込む作品や言及する散文が見当たらない。

・うつしよにいのちにさやる汝をもちてなほながき日を堪へて生くべけれ
橄欖・1925念8月)・
・生ひさきの汝が苦の責を負ふべくて命を明日にわが生くるかも
 (ポトナム・1926年3月)                    『秋草』より

また、夫を支援する形で入った無産運動であったが、社会大衆党結党傘下の社会大衆婦人同盟の役員としての活動は顕著で、婦人参政権獲得、女性労働者保護、母子扶助法制定などに奔走、集会時に検挙されたこともあるほど活発だった。1937年に日中戦争が始まり、戦局拡大に伴い言論・出版弾圧は厳しく、無産政党の政治活動の場は狭まり、無産女性運動も終息せざるを得なくなったなかで、19382月静枝は、夫の急死に見舞われる。直後に、一子を引き取り、生計は静枝の双肩かかることになった。前後して、静枝の短歌も変貌し、全国紙・婦人雑誌などへの執筆は劇的に拡大し、女性への啓蒙的なエッセイや座談会・対談での発言は、大きく国策推進へと傾いていくのである。それらの著作は、数冊の単行本となり、用紙不足の時代にもかかわらず、その著書は、300050007000部という発行部数が認められるほどであった。 

この間の短歌作品や短歌評論も夥しい点数に及ぶが、19291930年あたりから、静枝の短歌は、破調・口語に傾き、まさに19377月、日中戦争開始直後あたりから、再び定型・文語へと復帰するのである。当時、自らの表現手法についての表明はいまだ見当たらない。ただ、上記、最晩年の選集『阿部静枝歌集』の解説で「『これがあの時のお前の歌』と引例されているのを見、こんなガサツな歌で通したのかと身が縮む。自由律の一期間もあった」と記す。

・金!金!それを持つてゐるものは自然と私の敵になつてゆく

(ポトナム・1930年8月)

・をみなわれは夫に挙ぐべき一票を待たぬはかなさ男を羨む
 (現代新選女流詩歌集1930年)

・必然を実感するだけ、小地主わがやの没落を驚かず

(ポトナム・1932年5月)  

 

2歌集『霜の道』のフィクション性とは 

ところが、敗戦後の1950年、「女人短歌叢書」として刊行された第2歌集『霜の道』も、歌壇で話題になった歌集だった。「或る女」「未亡人」「傾斜層」の3篇で構成される、この歌集の「あとがき」に静枝は次のように記している。 

 「(前略)今日までの多くの場合、短歌の取材は身辺事であり、自分自身の生活気分であった。霜の道は私の私生活そのままの叙述ではない。このやうなのは、散文に委ねるべきで、短歌としては横道であり、失敗であるかどうか、それは短歌自身の宿命のためか、作者の不才と未熟のためか、問題になれば私の大きなしあはせである」

 

 この歌集のフィクション性をめぐって議論がなされた。とくに「或る女」にあっては、戦前の雑誌などに発表することのなかった作品、自作ではない形でエッセイ集に発表していた作品などをふくめ、発表年月を越えて再構成をし、生活のため里親に子を預けて働く女のいわば「歌物語」として編集したのだった。敗戦前の、いわゆる戦意高揚などの大政翼賛的な作品は多く捨てられ、次のような作品は収録されていない。夫が死去するまでは、里子に出していた婚外子との交情などを歌った作品は「フィクション」のもとに収録され、戦時下の翼賛的な作品は焼失したとし、「フィクション」と称して収録しないという、意図的な選歌、編集作業がなされたことになる。

・わが在る世星霜二千六百年を迎へて白き菊咲澄める
(姉妹・1940年10月)

・夜思ひ朝窓に書く戦時婦道国のゆくてにわれもおくれず

(歌集新日本頌・1942年11月)

・死傷せる人をおもへば倒れし樹起しつつ哭く勝たねばならず

(短歌研究 1944年11月)

『秋草』『霜の道』の2つの歌集の選歌・編集の過程は、今となっては知り得ないが、その結果としての歌集を読みこみ、考証することによって、より確かな真実が見えてくるのでないかと思う。 

まだ、著作の収集・確認も道半ばであるが、戦後の著作や静枝の生涯にも触れてみたい。

 

 

1945年までの気になり惹かれる歌の幾つか・・・。『霜の道』に収録されているのは「家あれば・・・」のみだった。

・鳥の声の中に覚めた故里の家こんなに鳥の棲む庭樹だつたらうか

(短歌研究・1933年11月)

・群衆の歓呼に圧されゐる出征兵我が夫ならば吾は堪へざらん

(ポトナム・1936年9月)

・家あればそこにかならず何の木か花咲ける越後国原の春

(ポトナム・1937年7月)

・夜ふけ着きし他国の港日本語の案内ききつつ胸熱くなる

(日本短歌・1941年12月)
 

・蒙古騎兵隊行き擦れば馬の息づきとたてがみの風荒く我が頬に

(日本短歌1943年12月)
 

 

 

 

 

なお、この日の研究会で、もう一つの発表「野溝七生子」については、別稿としたい。

 

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