「平塚らいてうと市川房枝~女たちは解放をめざす」(NHKETV、1月27日)を見て
1月27日夜10時~11時半、「日本人は何を考えてきたのか」シリーズの第12回最終回である。これまで、このシリーズ中の4回分「昭和篇・戦争の時代に生きる」4篇のうち、女性は、第1篇で大本教の「出口なお」と、今回、表題の「らいてう」と「房枝」の二人である。女性の登場にようやくの思いがこみ上げるが、その「戦争責任」がクローズアップされるのだろうか。それも確かに、重要な視点であるが、彼女たちが戦後をどう生きたのか、他の男性たちの場合はどうであったのか、などがどのように語られるのか。
今回の番組では、その辺を見極めたい。ゲストは、田中優子と上野千鶴子の二氏。田中は、トレードマークの和服姿での案内役であった。かつて、上野が、講演会かシンポジウムに和服で登場、「女は、この着物のオビでガンジガラメにされてきたのだ」というパフォーマンスを見せたのを思い出す。最近では、滋賀県の嘉田知事が仕事始めにやはり和服で謝罪していた。和服は女の勝負服なのかな。それはともかく。
大正時代から昭和初期1928年普選法成立で、ともかく男性の参政権が認められ、女性による婦人参政権獲得運動も活発となり、1930年(昭和5年)浜口内閣時代に、「婦人公民権法案」が衆議院で可決を見るも、貴族議院で審議未了となった。が、無産婦人運動を中心にいっそう気運が増した1931年満州事変が起こり、戦争の時代へと入っていくまでの二人の活動ぶりが丹念に描かれていた。二人の活動の軌跡をたどる上で重要な、米田佐代子館長による「らいてうの家」における資料案内、山口みつ子理事による市川房枝記念会女性と政治センター(財)に残された房枝の詳細な資料の説明、房枝の新聞記者時代の執筆記事紹介などは、通常の利用者には体験できないことなので、貴重なものだったと思う。また、房枝の母親には暴君だった父親も教育熱心で、師範学校にも進学できたという甥市川雄一氏 の話、敗戦後公職追放中だった房枝のトランプ占いや若い彫刻家木村五郎との交情などに触れた養女市川ミサオ氏の話など興味深いものだった。
ただ、女性史研究者加納実紀代、伊藤康子らのコメントがこま切れで、むしろ平凡なものとなってしまった感がある。こうしたドキュメンタリーにはよくあるパターンであるが、95歳になる武田清子の信念と品格を感じさせる振る舞いには身をただす思いだった。
なお、敗戦以降のらいてうと房枝の「非戦」と「非核」との戦いをきちんと継承しなかった末に、3・11を迎えてしまったという忸怩たる思いを吐露するゲストの二人だったが、さらに気になる発言があった。らいてうと房枝が、戦争に、国策にからめ捕られて行く過程を、いくつかの文献、発言や行動によって実証していくのだが、田中優子氏の「私だって、執筆や発言が制限され、活動の場が奪われたとしたら、どうなるか、とり込まれてしまうかもしれない」という主旨の発言に上野氏も「いつ、からめ捕られるかもしれない」とうなずく場面があったのには、いささか拍子ぬけしたのだった。けっして勇ましい言葉を期待するわけではないが、そんな覚悟なのかなあ。そう、NHKに出演するくらいだから安心、安全な論者になっていたのかもしれない。
さらに、番組全体をみていて、ゲストやコメントする研究者たちがほぼ全員女性だったことに気付く。女性で固めて、女性を、女性史を語るというのが、私には、むしろ奇異にも、偏見にも思えたのだ。マス・メデイアの手中の女子会のような様相にも思えた。 らいてうや房枝を語るというならば、研究者だけでなく、政治家だって、市民活動家だっていただろうに。男性の歴史研究者だっているだろう。それに、些細なことながら、らいてうの学生時代における塩原事件を語るのに「妻子ある相手」としか伝えられず、「森田草平」の名は、ついに出なかった。これはどういう配慮からなのだろう・・・。
いろいろと考えさせられる番組ではあった。
| 固定リンク
コメント