被災地の復旧・再建もままならぬ、2回目の3・11
2年前の3月11日は、抜けるような青い空のもと、私たちは、浅草公会堂での「東京大空襲資料展」に出かけ、帰りがけの新宿に向かう山手線の車中で、あの地震に見舞われた。当時の経緯は、直後の本ブログにも書き留めている。また、昨年6月に出版した私の第三歌集『一樹の声』(ながらみ書房)の「あとがき」には、ちょうど一年前の大震災・原発事故への思いが綴られているので、あらためてこの記事の末尾に一部を再録しておきたいと思う。
体調のこともあって、東京の集会にはなかなか参加できないのが実情で、3月9日の「さよなら原発大集会」(原発1000万署名市民の会主催)にも参加できなかった。9日は地域の自治会の月1の自主防災会の定例会には参加した。この防災会というのが、できて6年目になる。当初5年間は市からの助成金と宝くじ協会からの100万?相当の防災備品・グッズの贈呈を受けたりしていて、年1回の防災訓練を実施しているのは、私も知っていた。しかし、3・11に際してはほとんど機能しなかった。中学校の避難所に駆け込んだが誰もいなくて家に戻った人たちの話も聞いた。計画停電や防災井戸の広報について、もう少し積極的に動けば、自治会員の不安も薄らいだだろうに。そんな教訓を踏まえて、実のある防災会にならないだろうかと、友人と参加して2年が過ぎた。メンバーもかなり入れ替わって、自治会役員や班長が中心となり、それを私たちのようなボランティアが支援する形がようやく整った。被害の大きい被災地になったときの備えは、これからの課題である。
3月10日には、地元の9条の会で、次号のニュース記事について話し合った。一つは「自民党の憲法改正案について」。この改正案は、現行憲法と読み合わせていくと、民主主義を根本から覆すような危険をはらんでいることが分かった。もう一つは「原発事故から憲法を考える」。私たち佐倉市民も放射線量のホットスポットに居住しているが、福島の被災地の深刻さはこの地の比ではない。映像や活字、講演会などで、いろいろ学ぶだけでも、被災者が基本的人権を侵害されている違憲状態に置かれている事実を知ることができる。その障害を取り除くよう努力しなければと覚悟を新たにする。心当たりのある、この地に被災地から移住してきた人や被災地に縁者がいる人たちの話を聞いてみようということになった。また、私たちの会は、若い人たちにも、いまの憲法のことを知ってもらいたく、市内4高校の前で、手製のパンフ配布を行っている。すでに2順目に入っている。そのパンフの原稿が出来上がっていた。漫画などを存分に取り入れた、分かりやすいものだったのに感嘆、今日は欠席だが、さすがOさん。それでも、私など活字人間は、「もうちょっと余白が欲しい、すっきりさせたい」などとつい注文を出してしまったのだが。
きょう、政府主催の東日本大震災犠牲者の追悼式は、国立劇場で施行されたが、なぜ、東京での実施なのか。各地で、さまざまな形での追悼がなされれば、それで十分なのではないか。国が、あれほどの経費をかけて、厚い警備体制のもと、 整った式次第にのっとって、発せられる天皇や首相の「ことば」は、犠牲者の遺族の心に、どう響いたのだろうか。私などには、そのことばの「むなしさ」ばかりが募るのであった。政府関係者のパフォーマンスにしか過ぎなかったのではないか。
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『一樹の声』 あとがき
一年前の三月一一日は、浅草公会堂ギャラリーで開催中の「東京大空襲資料展」に夫と出かけていた。私は千葉県に疎開していたので、空襲を直接体験はしていない。池袋の生家は、一九四五年四月一四日未明の空襲で焼失している。それだけに、資料展の写真や資料は、空襲の残虐さ、戦争の愚かさを思い起こさせるものだった。会場の片隅では、体験者の話も聞くことができた。パネル一つ隔てた公会堂のロビーは、専門学校の卒業式を終えたばかりの若者たちでにぎわっていた。また、その日は、新宿のニコンサロンでの広瀬美紀さんの写真展「私はここにいるrequiem 東京大空襲」にも立ち寄るつもりだった。広瀬さんは空襲犠牲者の仮埋葬をテーマに撮りつづけている若いカメラマンだ。東京大空襲被害者による裁判活動を支援しながら仮埋葬に取り組む姿勢には胸を打たれるものがあった。若い世代に何か残せるものはないか、私も、もう少しの間、励んでみたいと思っている。
浅草を後にした私たちは、渋谷で山手線に乗り換え、新宿に向かっていた2時46分、地震に見舞われた。代々木駅までは線路上を、さらに新宿まで歩いたが、帰宅の交通手段は絶たれ、結局、池袋の私の実家までひたすら歩くことになった。
その後は、これまでにない展開で、さまざまな困難が立ちはだかっている。私の住む千葉県佐倉市は、福島第一原発から二〇〇キロメートルも離れているが、放射線量のホットスポットとなり、不安な毎日が続いている。東北の被災地の人々の被災と打撃を思うと、「がんばろう」などとはとても言えない。震災直後からいわれていた通り、政府や東電などの企業、研究者などが国民に事実を伝えていないことが次々と明らかになってきた。その一方で、「絆」「支え合う」「寄り添う」などのことばがもてはやされている。誰と誰の「絆」なのか、誰と誰が「支え合う」のか、誰が誰に「寄り添う」のか。国や自治体、政党は無策に近く、情報を隠蔽する。企業やマス・メディアは復興の兆しを強調し、市民にさらなる犠牲を強いる。一人の市民がどんなに抵抗しても、提案をしたとしても、大きな流れを変えることはできない。しかし、何もしなかったら何も変わらない。「おかしい」と思ったときに一人でも声を上げれば、同じ思いの人は必ずいるはずだ。声に出し、行動に移せば、きっと変わる、何かが動く、と私は信じている。
短歌にかかわる者に何ができるのか。「言葉の力」「ことばの無力」はどちらも真実なのだろうと思う。その言葉を発する者の振る舞いがそれを決定するのではないかと思っている。時の総理の国会答弁や会見を聞けば、ことばの空しさだけが通り過ぎ、「専門家」のコメントは、誰にでも言える大所高所の抽象論がことごとしく伝えられる。
自分自身が動かない以上、言葉が発信できない状態が続く。口先や筆先だけの動かない人間を信じられなくなった。そういう意味で、言葉の無力を感じるのが、大方の日常となってしまった。と同時に、自己完結でもいい、それがいつの日か、いや発信した次の瞬間から、同じ思いの他者と連なることができるかもしれない、と思う場面に遭遇することもあった。
本歌集は、私の三冊目の歌集となる。二〇〇四年『野の記憶』以降、二〇一一年末までの作品を収録した。参加して半世紀以上となる『ポトナム』には多くの誌面と機会を与えていただいた。収録の作品は『ポトナム』、二〇〇五年終刊の『風景』ほか、短歌雑誌などに発表したわずかな作品も含んでいる。千葉市のサークル「短歌ハーモニー」歌会に提出した作品は、すでに合同歌集として刊行されているが、「青葉の森へⅠ」「青葉の森へⅡ」として本歌集にも再録した。なお、一九九六年からほそぼそと続けている家族との海外旅行の際の作品は思い入れの強いものが多いが、迷った末、大部分を省略した。
(以下謝辞など略) 二〇一二年三月十八日
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