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2013年3月31日 (日)

何を変えてゆくのか

『うた新聞』3月号の東日本大震災特集に寄稿したものです。

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「新聞歌壇」の時評は行儀が良すぎ、短歌総合誌が好んで載せる座談会も放談に近い。その顔触れの賑わしさにもかかわらず迫力や魅力に乏しい。インターネット上の新聞では、一般紙には載ることのない、鋭く、ユニークな記事や論説に出会うことがある。いま、私が注目している一つが「日刊ベリタ」に連載中の山崎芳彦記者の「核を詠う」(二〇一一年八月一四日~)である。 

第一回は、『竹山広全歌集』『昭和の記録・歌集八月十五日』を入手したことから書き起こされる。山崎記者は、三・一一をきっかけに、時には自作も披露しながら、「短歌は原爆や原発をどう歌ってきたか」にこだわり、精力的に書き続けている。二月現在、八八回、番外編もある。 

歌壇でも、佐藤祐禎『青白き光』(二〇〇四年)や東海正史『原発稼働の陰に』(二〇〇四年)、大口玲子『ひたかみ』(二〇〇五年)などが遡って、再評価されるようになった。山崎記者は、さらに、農業の傍ら若狭の原発建設現場で働いていた奥本守の『紫つゆくさ』(一九九一年)にたどり着き、「原発の支持億万人を越ゆるとも死の灰捨つる場所は世になし」「遠き日の被曝を逃れし広島の人と原子炉造ると励む」など多数の作品を紹介する。また、『昭和萬葉集』『朝日歌壇(年刊)』など各種アンソロジー、福島原発の被災地で編まれた『松ヶ浦』(相馬短歌会)『あんだんて』(南相馬短歌会)『つくし』(つくし短歌会)『きびたる』(きびたる短歌会、いずれも二〇一二年刊)などの合同歌集からも原爆詠と原発詠を渉猟する。歌集収集の困難を乗り越えながら、愚直なまでにのめり込む歌人がこれまでいただろうか。小高賢や吉川宏志らの評論にも言及、賛意を表しつつ、持論を展開する。地域に根差した歌人たちの地味で持続的な作品や営為の発掘、伝達に労を惜しまない。 

一方、歌壇は、俳人の長谷川櫂がいち早く『震災歌集』を出したからと言って、あるいは、小説家の金井美恵子が短歌を貶めたからと言って、大仰に対応する。歌壇ムラは、いまだに外圧に弱いらしい。 

また、いっとき、原発詠の当事者論議まで飛び出したが、佐藤通雅の「表現にとって肝要なのは、実体験の有無でなく、事態をまえにいかなる当事者となりうるかだ」、高木佳子の「その問題をいかに自分のこととして引きつけ、生の姿をもち、肉声として発しているか」の正論に落着するだろう(角川短歌年鑑平成25年版、一八四頁)。岡井隆は「原発はむしろ被害者、ではないか小さな声で弁護してみた」と詠んで少数派を自負してみせるが、その本質は、市民の感覚や意思を排して、権力志向が著しいことは彼の軌跡からも明らかである。小賢しい論を仕立てて擁護する歌人もいる。 

隠蔽や操作が日常化した情報の海に心地よく浮遊するのではなく、情報の分別・取捨能力を身につけ、渡り切る覚悟が重要ではないか。                          (『うた新聞』2013年3月号所収)

 

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『私の郷土史・日本近現代史拾遺』(有泉貞夫著)を読む

  かつての職場のOB会報に、11年間、同じ課の若輩として在籍いていたご縁と詩歌に関するエッセイも含まれているためか、編集部より上記図書紹介の依頼が舞い込んだ。日本近代史の専攻の適任者がいらっしゃることとて辞退したのだが、我がままな読み方を通した感想になってしまった。 

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本書は、有泉さんが、専門の日本近現代史研究と平成の20年間山梨県史編纂かかわってこられた中での研究余話的な論考を集めたものだ。「私の郷土史」「日本の近現代史」「県立博物館問題など」の3部からなるが、読み手は自分の関心からどこからでも読み始めることができる。 

私が、最初に読んだのが、第1部の「俳人飯田蛇笏龍太と戦争」であった。飯田龍太(19202007年)が、1937年の中学生時代に地元の帝国軍人後援会が募集した在満将兵激励・家族援護の標語として入選した「熱き銃後の真心あれば 満州吹雪もなんのその」「銃後固けりゃお国のために 心置きなく花と散る」にまつわる一篇である。龍太が、この入選の事実を終生触れなかったことを残された文献や言動で丹念に跡付けるものだった。「戦争が廊下の奥に立っていた」で有名な渡辺白泉の全句集に接した折の言動などからも「単純に忘れ去られたのではなく、龍太が自分の文業への影響を考え、隠し通したと推測する」に至った経過を解明する。「強霜の富士や力を裾までも」「大寒の一戸もかくれなき故郷」「かたつむり甲斐も信濃も雨の中」などから、龍太をスケールの大きい在郷の俳人と捉えていた私には、父蛇笏の生き方や作品の対比などとあわせて、興味深いものがあった。 

さらに、着目したのは「青嶋貞賢の時空」の青嶋貞賢(18201896年)で、これまで知ることのなかった幕末から明治にかけての国学者、歌人であった。市川大門、弓削神社神主で、著者の祖父の血縁でもあるという。中央歌壇とつながりを持たず、没後30年にして女弟子小田切浦子(渡辺青洲長女)が編み、その弟によって刊行された『篠乃落葉』(1927年)、曾孫夫妻によって刊行された『雪もヽ歌』(1989年)の2冊の歌集のみが残されている。全国的にも民権運動が行き詰まった明治10年代の半ば、デフレ下の民衆の苦境や徴兵令の免役条項撤廃などを「わら沓も薪もうれぬすへなさを 隣の翁が可たりては泣く」「柱とも杖とも頼むひとり子は 軍(いくさ)の事にめされては行(く)」と歌う。“隠士”の冠称がぴったりの生涯を送ったことがわかる一篇だった。 

2部の「太平洋戦争史観の変遷」は、これまで、断片的にしか読んでいない昭和史だったが、この一篇でかなり頭の整理ができそうに思った。伊藤博文や金丸信にかかる論考では、政治家としての評価や共感については、いまだ違和感が伴うのも事実であるが、一方、第1部、2部を通じて、中沢新一の紹介文、色川大吉への書簡、坂野潤一への書評、江口圭一への追悼文なども収録され、歴史や史実への姿勢が問われてゆく過程にあっても著者の眼差しは厳しくもやさしい。第3部は、君が代問題、A級戦犯分祀問題への発言、図書館・博物館の在り方への発言記録だが、私は、国立国会図書館在職中の「憲政資料室」の有泉さんしか存じ上げないながら、議論好きで、発言する研究者の面目躍如の姿を彷彿とさせるのだった。ますますのご健筆を祈りたい。  

(『国立国会図書館OB会報』5220133月、所収)

 

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*本書は、山梨ふるさと文庫 2012615日 1500円。著者は、1932年、山梨県生。国立国会図書館勤務を経て、1995年まで東京商船大学教授。2008年まで山梨県史編さん委員を務める。著書は『星亨』(朝日新聞社 1983年、第5回サントリー学芸賞受賞)ほか多数に及ぶ。 

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TPP交渉参加をこのまま見過ごしていられない~立ち上がった研究者たち

  自民党内でも、賛否両論があるなか、というより、昨年の総選挙の際の公約からいっても安倍政権のTPP参加表明が理解できないでいる。マス・メディアの関係報道を見ていても、政府加担の論調が大きな流れとなってしまった。要するに「例外項目が認められるのであれば、参加もいいではないか」「国益が守れないならば、抜け出せばいい」「日本の農業を守るといったところで、いまのままでいいわけがない」「農業は打撃かもしれないが安い輸入品が入れば助かる」という気軽な賛成論や「守りより攻めへの政策転換が必要だ」「自由貿易から日本だけが取り残されてしまう」「日本がリーダーシップをとって交渉を進める」など何の担保もない、中身のない言葉にすり替えてしまう賛成論が横行している。日米交渉ですら国民への情報公開がないまま、妙な「作文」を都合よく解釈したり、途中参加の日本がルール作りに関与できる余地がないこともわかってきたりした。身近では、食の安全、医療技術・医薬品の安定維持などへの不安が全く解消されない。各産業にどのような影響が出るのかの試算も必要であろう。もっと現実的な、しかも緻密な理論が必要なのではないか。こうした中で、大学の研究者たちが、みずからの専攻の立場から、「TPP交渉参加から即時脱退」の呼びかけがなされている。 

今一度、私たちも、その声に耳を傾けたいと思う。また、もし関心のある大学関係者の皆さんには、以下の要望書をご覧の上、ご署名、拡散をお願いしたいと思っている。

 

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全国の大学教員・名誉教授・元教員の皆様へ

 

 私たちは先日、日本政府が交渉に参加することを表明したTPPの危険な本質を多くの国民に伝えるとともに、この4月上旬に、安倍首相と日本政府に対し、直ちに交渉から脱退することを求める添付のような申し入れをすることにしました。 

 つきましては、全国の大学教員の皆さまに賛同を呼びかけ、賛同者名簿を添えて安倍首相と政府に申し入れをするとともに、記者会見でこの申し入れを広く国民にアピールしたいと考えています。

 

TPP参加交渉からの即時脱退を求める要望書」

http://dmituko.cocolog-nifty.com/youbousyo.pdf

 署名先 

この申し入れにご賛同いただける方は下記にご記入の上、48日(月)までに、以下へ送信下さるよう、お願いいたします.

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tpp2013@mbr.nifty.com 

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 お名前 

 所属と専攻(○○大学教授・△△学専攻) 

 メール・アドレス 

 メッセージ(100字以内でお願いします。) 

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注:①お名前・所属はそのまま公表させていただきます。  

  ②メッセージも原文のまま公表させていただく場合がありますので、ご了承ください。 

  ③このメールをお知り合いの大学教員・名誉教授・元教員に拡散していただけましたら幸いです。                 以上

 

 呼びかけ人(2013329日現在) 

 磯田 宏(九州大学准教授/農業政策論・アメリカ農業論) 

 伊藤 誠(東京大学名誉教授/理論経済学) 

 大西 広(慶応義塾大学教授/理論経済学) 

 岡田知弘(京都大学教授/地域経済学) 

 金子 勝(慶応義塾大学教授/財政学・地方財政論) 

 志水紀代子(追手門学院大学名誉教授/哲学) 

 鈴木宣弘(東京大学教授/農業国際) 

 醍醐 聰(東京大学名誉教授/財務会計論) 

 萩原伸次郎(横浜国立大学教授/アメリカ経済論) 

 日野秀逸(東北大学名誉教授/福祉経済論・医療政策論) 

 渡辺 治(一橋大学名誉教授/政治学・憲法学) 

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2013年3月27日 (水)

お詫びとお知らせ

本日、日付が変わったころから、午後3時半くらいまで、当ブログへのアクセスが出来ない状態が続いていました。ご迷惑をおかけしました。原因が定かではありませんが、復旧しましたので、お知らせいたします。

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横浜で、二つの展示会(2)「再生への道 地元紙が伝える東日本大震災」

 

 ホテルにも近かったので、日本新聞博物館で調べものと思って立ち寄ったところ、「地元紙が伝える東日本大震災」展が開催中であった(201339日~616日)。東北地元4紙、岩手日報、河北新報、福島民報、福島民友新聞の紙面や号外、報道写真などで、地震発生、福島原発事故発生以来の2年間の新聞報道を検証するものであった。

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 全般的な印象でいえば、私たち首都圏の住民が接してきた新聞報道とは、雲泥の差がある写真であり、記事内容であった。「温度差」などと言えるものではない、その凄惨さと過酷さが伝わって来る紙面であった。  

311日「岩手日報」が撮影した衝撃的な一枚の写真、防潮堤を乗り越えようとしている津波にトラックや乗用車が乗り上げている一瞬をとらえていた。どんな大きな活字の記事よりもインパクトが大きい。また、原発事故の第一報というより一面扱いでの最も早い記事は「福島民友」だったのだろうか。312日朝刊左下にある「原子力緊急事態宣言」として、政府が311日午後730分に発した旨の記事になっていた。私は、この宣言を、代々木近くで山手線を降ろされ、新宿を経て歩き通し、池袋の実家にたどり着いた直後のテレビで聞いたように思う。また、掲載されたか否かは定かではないが、地震当日の停電の編集局、資料が散乱した中で、ローソクを灯しながらの編集作業を写した一枚も印象的だった。「福島民報」の20117月に始まった、シリーズ「放射線との戦い」と10月に始まった「3.11大震災 福島と原発」の連載には、原発は福島に、そして日本に何をもたらしたかを問い続けている悲痛な叫びがつまっているようであった。 

また、一昨年12月の政府の福島原発事故収束宣言に対する地元4紙の社説や論説は、いずれも、大いなる疑問と不安を残す論調であったのは、当然のことだろう。1年後の311における4紙の社説は、風化への懸念と再生への道を探るものだった。さらに、201210月、たださえ復興が眼に見えない中「復興予算の流用」が明らかになり、被災地の人々の怒りを代弁した。 

地元4紙と全国紙との落差のようなものは十分伝わってくる。今回の展示は、スクラップブックのようなもので、報道の全貌を知ったわけでもない。しかし、この2年間の奮闘ぶりもよく理解できた。しかし、これは全国紙にも言えることだが、原発に関して、福島原発事故までの報道への検証がなされたのか、今回の展示では見えてこないのが、残念だった。

なお、帰宅後、調べたところ、地元4紙の発行部数は次の通りだった。

福島民友(1885年創刊)21万

福島新報(1892年)  25万

河北新報(1897年)  48万

岩手日報(1876年)  22万

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そして、翌日出かけた野毛山動物園 、桜も見ごろ。

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ライオン夫婦はお休み中、この後、

メスのライオンが突然吠え出した。 

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 数日前に、埼玉から横浜まで、数社の乗り入れで直通になったばかりの

中華街は、大変な混みようだった。評判という中華粥専門店には行列が

できていた。

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横浜で、二つの展覧会(1)「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」展

  結婚記念日も私の誕生日もせわしく過ぎてしまい、少しゆっくりしようと横浜までやってきた。私は、事前の調査も甘く?飛び込んだような横浜美術館、「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」の二人展が開催中であった(2013年1月26日~3月24日)。あすが最終日だった。キャパ(19131954)は、若くして戦場のベトナムで命を落とした<戦場カメラマン>くらいの知識しかない。
二人展の<パート1>が、女性戦場カメラマンの草分け、ゲルダ・タロー(19101937)の作品であり、なんと、キャパのパートナーであったが、スペイン内戦の取材中に非業の死を遂げた。27歳という若さであったという。知らなかった。いつになっても、ほんとうに知らないことが多すぎるの思い頻りである。
戦場に散った日本のカメラマンとして、私がわずかに思い浮べるのは、澤田教一(19361970)、一之瀬泰三(19471973)、橋田信介(19422004)・・・、そして山本美香(19672012)。浅薄ながら、タローに美香さんが重なってしまうのだ。

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タローとキャパ、カタログから 

タローは、ドイツのシュトゥツガルトに生まれ、1929年ライプツィヒに出て学び、1933年反ナチスの政治活動にかかわったとして一時期、保護観察下に置かれるが、パリに出る。1934年、後にロバート・キャパと名乗るハンガリー出身のカメラマンと出会い、翌年から二人の共同生活が始まる。タローは、キャパの助手やマーネジャーなどを務め写真を学ぶ。19362月にスペインに人民戦線政府が成立、7月にフランコ率いる反乱軍が蜂起してスペイン内戦が始まる。二人は、アラゴン、コルトバなど各地の戦線を転々として取材にあたり、パリ、マドリードを根拠地に前線の取材に入り、共々「ル・ガール」やフランス日刊紙「ス・ソワール」などへの作品発表が活発になる。19377月、国際作家会議の取材に入った後、725日ブルネテ戦線での戦乱に巻き込まれ、戦車に轢かれ、翌26日野戦病院で死去。マドリードでは多くの文化人の弔問を受け、27歳の誕生日81日には、パリでフランス共産党主催による葬儀が行われた。 

彼女の死後、1938年、キャパがタローにささげた二人の写真集「生み出される死」(Death in the making)があるが、撮影者の明記がない。タローには、当初使用したローライフレックスによる正方形の作品が多かったが、後、キャパの使用するライカ35㍉に変えたという。そのフォーマットが撮影者判断の決め手になった時期があるという。 

タローの作品には、共和国軍内でも役割が限定された女性兵士たち、子どもや戦災孤児、難民、兵士らのつかの間の休息などを捉えた作品が多い。しかし、バレンシアでの「遺体安置所」の現実へも決して眼をそらさない覚悟をも持ち合わせていた。

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タロー撮影、国際作家会議 1937年7月 カタログより

<パート2は、キャパである。キャパは1913年、ハンガリー、ブダペストに生まれる。1931年、左翼学生運動に加担したという理由で、ブダペストを追われることになり、ベルリンのドイツ政治高等専門学校で学ぶが、学費が途絶え、写真通信社デフォト暗室助手として働く。193211月、デフォトの経営者グットマンよりコペンハーゲンに派遣され、演説会のトロツキーを撮影した作品が、写真家としてのデビュー作となる。ヒトラーが掌握したブダペストからウィーンに逃れるが、1933年、向かったパリで、著名な写真家たちと親交を深める。1934年、ゲルダ・タローに出会い、翌1935年共同生活を始め、活動を共にする。19368月から、二人でスペイン内戦の取材に入り、バルセロナ、アラゴン戦線、マドリード、トレド、コルドバ戦線を取材、コルドバでの共和国軍兵士の一枚「崩れ落ちる兵士」(「ライフ」1937712日掲載)が、後、キャパの話題作となる。今回の展示は、つぎの各章に分かれる。 

1 フリードマンからキャパへ 1932~1937 

2 スペイン内戦 1936~1939 

3 日中戦争  第二次世界大戦 I 1938~1941 

4 第二次世界大戦 II 1941~1948

5 インドシナまで 1946~1954 

1章では、先の熱弁をふるうトロツキー、19366月パリ、ラファイエット百貨店のストライキ中の女子社員やガードマン、714日革命記念日のパリ市民たち、パリの人民戦線の集会など、報道カメラマンの鋭くも優しい市民への視線を感じる一連である。 

2章では、きびしいスペイン内戦の戦局の推移がわかるような展示というが、聞いたことのある地名ながら、スペインのどのあたりなのか見当もつかなかった。一度でも旅行すれば、ある程度の方向感覚がつかめるかもしれない、行かなければいけない国だね、呟いてみるが、いつ果たせるものか。この時期の作品で、最も衝撃だったのは、193712月、アラゴン戦線におけるテルエルでの作品だった。電話の架線工事をする兵士が撃たれ、木の上でそのまま絶命している画像である。反ファシズムを掲げ、国際的にも文化人の支援や義勇軍の応援を受けながらも人民戦線側はやがて後退を余儀なくされる。1938年フランコがブルゴスに内閣樹立後は、193810月、人民戦線の支援部隊、国際旅団はソ連が離脱して解散、その後、フランコ政府は、英・日独伊・米と列強各国の承認を得る。

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キャパ撮影、1937年12月 テルエル、アラゴン戦線 カタログより

 

3章でのキャパは、19381月、日中戦争の取材に向かい、漢口、徐州、西安、鄭州などめぐり、日本の侵略に抗する中国軍サイドからの取材で始まる。19387月、空爆を受けた漢口の市民たちの表情や姿には、日本軍の侵略の烈しさを物語る作品になっていた。当時の政府要人たちの会議や蒋介石、周恩来らが被写体となっている。日本の従軍画家たちが残した戦争画と同様のプロパガンダの一環であった。19389月にはバルセロナ、アラゴン戦線に戻り取材を進め、フランス、ベルギーでの取材に続き、193910月以降は、アメリカ、メキシコなどで「ライフ」の仕事が中心となる。 

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キャパ撮影 1938年7月 漢口空爆のあと


 第4章では、チュニジア、シチリア、アルジェリアなどでは連合国軍、アメリカ軍の従軍取材を続け、19446月にはノルマンディ上陸作戦にも加わり、その後のパリの解放や翌年4月のライプツィヒ解放にも立ち合う。 

2次世界大戦後は、アメリカに渡り、市民権を得、映画製作や自伝の執筆、活動をこなすが1948年には、イスラエル建国宣言に端を発したアラブとの戦乱の取材を続ける。 

この間、スペイン内戦時代以来、親交を深めたヘミングウェー、ピカソ、スタインベック、さらにはアウィン・ショー、イングリット・バークマンらとの交流や共同の仕事を進めている。 

5章では、みずからのエージェンシー「マグナム・フォト」の設立を実現した後、19544月、毎日新聞の招きで来日。日本での撮影旅行の成果も、今回展示されているが、概して、素人目にもどちらかと言えば平凡に思える作品が多い。というのも、わずかな滞在期間もさることながら、日本についての理解も知識も浅いままの取材だからだったのではないか。日本のメーデーの取材直後には、「ライフ」の仕事で、インドシナ取材のため、バンコクに飛び、ベトナム北部で取材中、525日、地雷を踏んでの最期であった。

 

 若くして亡くなったキャパの魅力的な生き方とその作品への視線は熱く、いくたびかの回顧展、ドキュメンタリ作成、評伝出版、劇化などが繰り返されてきていた。しかし、彼のカメラマンとしてのスタートの時期のパートナーでもあったゲルダ・タローの存在や作品はあまり知られてこなかったのではないか。私は、今回初めて知って、二人の作品が発信するメッセージとその生き方に感銘を受けたのだった。

今回の展示は、キャパの弟コーネル・キャパ夫妻がニューヨークのICP(International Center Photography)へ寄贈したコレクションによるものか、寄贈による作品が中心となっている。 

 

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2013年3月14日 (木)

津波被災地、巨大防潮堤の怪

  東日本大震災での津波の被害の大きさと深刻さは、津波が街や田畑を襲う映像、残された夥しい量の瓦礫、瓦礫が撤去された後の荒野・・・、私は現地に赴くことはできないでいるが、至らないながら想像はできた。どの地も復旧も再建も進まない現状。 大震災より2年を経たいま、いくつかの報道の中で、気になる一つ。
 スーパー防潮堤の話は、今回の津波には役に立たなかったではないかという大震災直後から聞いていたような気がしていた。復興予算の中での公共事業予算が増額される中で浮上し、具体化されてきた。政府の考えている「復興」の中身が見えてきた。地元の人たちの話、自治体、国の行政担当者の話を報道で知るだけでも、大きい仕事にもかかわらず、かなり「やっつけ」の、「予算ありき」という、将来に禍根を残す「防災事業」であることが分かった。 

 私が読んだのは、26日『毎日新聞(夕刊)』浦松丈二記者の記事であり、断片的に見た310TBSテレビ「サンデーモーニング」と翌311日テレ朝「報道ステーション」でのレポートだった。

 

毎日新聞では 

上記の毎日の記事には「防潮堤を勉強する会」の気仙沼市民、酒蔵会社社長の菅原氏が登場し、20119月に示された宮城県の復興計画で9.8mの高さが示された時は、当然住民への説明や合意形成の過程があると思っていたところ、かなりのスピードで一方的に進められているという。同じ被災地でも地域によって実情は異なるはず。「工場や産業エリアなら防潮堤が高くてもいいが、海辺の景観で商売をしている所は問題になる。ワカメや昆布などの資源のある地域では生態系への影響が懸念される。でも、防潮堤計画には背後地の利用計画がセットにされていて、復興を進めようとしたら計画をのまざるをえないのです」いわば、「私たち住民は復興の予算とスピードを人質に取られているようなもの」と語る。

 

報道ステーションでは 

 「報道ステーション」では、古館キャスターが夜の大谷(おおや)海岸からの中継とともに、上記、菅原氏の案内で気仙沼市内の取材映像が続く。ここでも「防潮堤がまちづくり計画とセットになっている」不合理を説く。地震による地盤沈下によって遠浅の海岸が消えたので、そのカサ上げにより砂浜を再生したい地元、防潮堤によるワカメ漁への影響が不安な漁業関係者、約一キロにわたり、底辺45mにも及ぶ台形型となるコンクリートの塊が海岸線に建造されることになる。その景観の激変は、想像するだけでも恐怖に近い。それによって守られるものは何なのか、と私は思った。 

こうした計画は、ここ大谷海岸のみならず、岩手県で全長83キロ(2810億)、宮城県211キロ(4257億)、福島県を合わせると、400キロにも及び、総工費8284億ということであった(一部聞き漏らしている)。こうした巨大防潮堤計画の高さの根拠は何かと言えば、201178日付「設計津波の水位の設定方法等について~復興計画策定の基礎となる海岸堤防の高さ決定基準~」という国土交通省・農林水産省の関係4課長名による各都道府県海岸管理担当部長あての通知文書だという。文書はあくまで各自治体への「助言」であって、主体は各自治体とする。過去の数十年から百年の単位での津波被害(レベル1、千年に一度と言われる?今回の東日本大震災はレベル2だそうだ)の記録、あるいはシミュレーションによるデータから算出せよ、との「助言」ということになる)。そして窓口一本化と称して、今年度は水産庁防災漁村課だそうで、私もそこに問い合わせ、報道にも登場した文書を入手した。(http://www.mlit.go.jp/report/press/river03_hh_000361.html

 

 自治体は、過去の津波の高さがそのまま堤防の高さを決める基準になるという計算で、とてつもない高さの防潮堤が策定されたということになる。その防潮堤が決まらないと、その後背地のまちづくりが決まらない。その予算は、5年間という期限のある災害復旧財源から出されるという。「報道ステーション」でも、なぜ、防潮堤の建造のみを急ぐのか、と村井宮城県知事に質問していたが、「災害復旧財源はあと34年で使わねばならないし、まちづくりを早く進め、県民の命を守る視点からも防潮堤の建設は急がねばならない」との主旨で語っていたが、まさに「予算ありき」が根底に見えるようだった。なぜ、それぞれの自治体、地域に見合った、弾力性のある防災対策を促進しようとしないのか。地盤のかさ上げ、避難路の整備・確保などの工夫があってもいいのではないかと、番組でも言っていた。要するに、コンクリートの積み上げは、関係業者は潤うし、予算消化は簡単だし、役人はそれで済む。しかし、それが住民の暮らしや気持ちにかなうものなのか、はなはだ疑問だから問題なのである。そして、その耐用年数が40年から60年ということである。

 

サンデーモーニングでは 

 気仙沼市の気仙沼港に車で移動しての中継であった。関口宏キャスターと岸井成格毎日新聞主筆の出演での被災地レポート。地盤沈下が起きたが、水揚げ量は59%に回復しているとのレポートがあった。カキ養殖業の畠山信さんが登場する。気仙沼地域の防潮堤計画案は、高さ5メートルから14.7メートルの高さ・全長約33キロメートルの防潮堤計画である。防潮堤より防潮林の発想が大事ではないか、岸井コメンテイターは語っていた。 

畠山さんについて、詳しい紹介はなかったが、あとで調べてみると、彼の父親の畠山重篤さんは、1980年代から「豊かな海は、豊かな森から生まれる」をモットーに植樹活動を始め、20095月には、NPO法人「森は海の恋人」に発展させている活動家で、信さんは副理事長ということであった。 

 

あらためて 

さらに、あらためて、ネットで検索してみると、つぎのような記事やサイトにも出会う。考える材料を与えてくれるはずである。

 

〇NPO法人森は海の恋人 

http://www.mori-umi.org/base.html

 

〇防潮堤を勉強する会 

http://seawall.info/ 

 <分かった事と参考になる考え方> 

http://seawall.info/pdf/12-121003-sankou.pdf#search='%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E9%98%B2%E6%BD%AE%E5%A0%A4%E3%81%AE%E8%80%90%E7%94%A8%E5%B9%B4%E6%95%B0

 

〇防潮堤なくても死者1人 宮古市・鍬ケ崎地区 

(産経ニュース2011414 07:56  

 「岩手県宮古市・鍬ケ崎地区で40世帯、約110人が暮らす角力浜町内会は、基幹産業の漁業への懸念から防潮堤を造らなかった。代わりに実践的な避難訓練を繰り返し、犠牲者を1人にとどめた。」(以下略 ) 

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110414/dst11041407590026-n1.htm

〇一定の効果はあった釜石の湾口防波堤 

(日本経済新聞電子版20113311325 

「釜石湾の湾口防波堤は、1200億円以上の総事業費と約30年の歳月を費やして093月に完成した。全国で初めて耐震設計を採用。最大水深63mはギネス記録に認定された。」 

「釜石沖約20kmでの津波高さは6.6m。湾口防波堤がなかったら、沿岸で約13mの高さの津波が襲来すると推定される。湾口防波堤がある実際は、沿岸の浸水高さは実測で79mだった。つまり、湾口防波堤によって最大6mほど津波の高さを抑えることができたと言える。(資料:港湾空港技術研究所・国土交通省国土技術政策総合研究所) 

浸水高さが13mならば、一般的な2階建ての木造住宅を完全にのみ込む高さにな 

る。7mならば2階の上部までの高さだ。 

湾口防波堤が津波被害の軽減にある程度の効果を発揮したのは間違いなさそうだ。しかし、30年、1200億円もの年月と費用をかけ、ほかの都市よりは津波の浸水を抑えられたとはいえ被害は甚大だ。ハードによる津波対策の限界を示したとみることもできる。」
 http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK3100F_R30C11A3000000/

 

〇宮古on Web「宮古伝言板」後のコーケやんブログ 

http://blog.goo.ne.jp/traum2011

  

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2013年3月12日 (火)

被災地の復旧・再建もままならぬ、2回目の3・11

  2年前の311日は、抜けるような青い空のもと、私たちは、浅草公会堂での「東京大空襲資料展」に出かけ、帰りがけの新宿に向かう山手線の車中で、あの地震に見舞われた。当時の経緯は、直後の本ブログにも書き留めている。また、昨年6月に出版した私の第三歌集『一樹の声』(ながらみ書房)の「あとがき」には、ちょうど一年前の大震災・原発事故への思いが綴られているので、あらためてこの記事の末尾に一部を再録しておきたいと思う。

体調のこともあって、東京の集会にはなかなか参加できないのが実情で、39日の「さよなら原発大集会」(原発1000万署名市民の会主催)にも参加できなかった。9日は地域の自治会の月1の自主防災会の定例会には参加した。この防災会というのが、できて6年目になる。当初5年間は市からの助成金と宝くじ協会からの100万?相当の防災備品・グッズの贈呈を受けたりしていて、年1回の防災訓練を実施しているのは、私も知っていた。しかし、311に際してはほとんど機能しなかった。中学校の避難所に駆け込んだが誰もいなくて家に戻った人たちの話も聞いた。計画停電や防災井戸の広報について、もう少し積極的に動けば、自治会員の不安も薄らいだだろうに。そんな教訓を踏まえて、実のある防災会にならないだろうかと、友人と参加して2年が過ぎた。メンバーもかなり入れ替わって、自治会役員や班長が中心となり、それを私たちのようなボランティアが支援する形がようやく整った。被害の大きい被災地になったときの備えは、これからの課題である。

 

310日には、地元の9条の会で、次号のニュース記事について話し合った。一つは「自民党の憲法改正案について」。この改正案は、現行憲法と読み合わせていくと、民主主義を根本から覆すような危険をはらんでいることが分かった。もう一つは「原発事故から憲法を考える」。私たち佐倉市民も放射線量のホットスポットに居住しているが、福島の被災地の深刻さはこの地の比ではない。映像や活字、講演会などで、いろいろ学ぶだけでも、被災者が基本的人権を侵害されている違憲状態に置かれている事実を知ることができる。その障害を取り除くよう努力しなければと覚悟を新たにする。心当たりのある、この地に被災地から移住してきた人や被災地に縁者がいる人たちの話を聞いてみようということになった。また、私たちの会は、若い人たちにも、いまの憲法のことを知ってもらいたく、市内4高校の前で、手製のパンフ配布を行っている。すでに2順目に入っている。そのパンフの原稿が出来上がっていた。漫画などを存分に取り入れた、分かりやすいものだったのに感嘆、今日は欠席だが、さすがOさん。それでも、私など活字人間は、「もうちょっと余白が欲しい、すっきりさせたい」などとつい注文を出してしまったのだが。

 

きょう、政府主催の東日本大震災犠牲者の追悼式は、国立劇場で施行されたが、なぜ、東京での実施なのか。各地で、さまざまな形での追悼がなされれば、それで十分なのではないか。国が、あれほどの経費をかけて、厚い警備体制のもと、 整った式次第にのっとって、発せられる天皇や首相の「ことば」は、犠牲者の遺族の心に、どう響いたのだろうか。私などには、そのことばの「むなしさ」ばかりが募るのであった。政府関係者のパフォーマンスにしか過ぎなかったのではないか。

 

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『一樹の声』 あとがき 

 一年前の三月一一日は、浅草公会堂ギャラリーで開催中の「東京大空襲資料展」に夫と出かけていた。私は千葉県に疎開していたので、空襲を直接体験はしていない。池袋の生家は、一九四五年四月一四日未明の空襲で焼失している。それだけに、資料展の写真や資料は、空襲の残虐さ、戦争の愚かさを思い起こさせるものだった。会場の片隅では、体験者の話も聞くことができた。パネル一つ隔てた公会堂のロビーは、専門学校の卒業式を終えたばかりの若者たちでにぎわっていた。また、その日は、新宿のニコンサロンでの広瀬美紀さんの写真展「私はここにいるrequiem 東京大空襲」にも立ち寄るつもりだった。広瀬さんは空襲犠牲者の仮埋葬をテーマに撮りつづけている若いカメラマンだ。東京大空襲被害者による裁判活動を支援しながら仮埋葬に取り組む姿勢には胸を打たれるものがあった。若い世代に何か残せるものはないか、私も、もう少しの間、励んでみたいと思っている。 

浅草を後にした私たちは、渋谷で山手線に乗り換え、新宿に向かっていた246分、地震に見舞われた。代々木駅までは線路上を、さらに新宿まで歩いたが、帰宅の交通手段は絶たれ、結局、池袋の私の実家までひたすら歩くことになった。 

 その後は、これまでにない展開で、さまざまな困難が立ちはだかっている。私の住む千葉県佐倉市は、福島第一原発から二〇〇キロメートルも離れているが、放射線量のホットスポットとなり、不安な毎日が続いている。東北の被災地の人々の被災と打撃を思うと、「がんばろう」などとはとても言えない。震災直後からいわれていた通り、政府や東電などの企業、研究者などが国民に事実を伝えていないことが次々と明らかになってきた。その一方で、「絆」「支え合う」「寄り添う」などのことばがもてはやされている。誰と誰の「絆」なのか、誰と誰が「支え合う」のか、誰が誰に「寄り添う」のか。国や自治体、政党は無策に近く、情報を隠蔽する。企業やマス・メディアは復興の兆しを強調し、市民にさらなる犠牲を強いる。一人の市民がどんなに抵抗しても、提案をしたとしても、大きな流れを変えることはできない。しかし、何もしなかったら何も変わらない。「おかしい」と思ったときに一人でも声を上げれば、同じ思いの人は必ずいるはずだ。声に出し、行動に移せば、きっと変わる、何かが動く、と私は信じている。 

 短歌にかかわる者に何ができるのか。「言葉の力」「ことばの無力」はどちらも真実なのだろうと思う。その言葉を発する者の振る舞いがそれを決定するのではないかと思っている。時の総理の国会答弁や会見を聞けば、ことばの空しさだけが通り過ぎ、「専門家」のコメントは、誰にでも言える大所高所の抽象論がことごとしく伝えられる。 

 自分自身が動かない以上、言葉が発信できない状態が続く。口先や筆先だけの動かない人間を信じられなくなった。そういう意味で、言葉の無力を感じるのが、大方の日常となってしまった。と同時に、自己完結でもいい、それがいつの日か、いや発信した次の瞬間から、同じ思いの他者と連なることができるかもしれない、と思う場面に遭遇することもあった。 

 本歌集は、私の三冊目の歌集となる。二〇〇四年『野の記憶』以降、二〇一一年末までの作品を収録した。参加して半世紀以上となる『ポトナム』には多くの誌面と機会を与えていただいた。収録の作品は『ポトナム』、二〇〇五年終刊の『風景』ほか、短歌雑誌などに発表したわずかな作品も含んでいる。千葉市のサークル「短歌ハーモニー」歌会に提出した作品は、すでに合同歌集として刊行されているが、「青葉の森へⅠ」「青葉の森へⅡ」として本歌集にも再録した。なお、一九九六年からほそぼそと続けている家族との海外旅行の際の作品は思い入れの強いものが多いが、迷った末、大部分を省略した。

(以下謝辞など略) 二〇一二年三月十八日

 

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2013年3月11日 (月)

短歌関係のエッセイを2点書きました。

もし、お手元にありましたら、お読みいただければ幸いです。

1.醍醐志万子―自己凝視による感情の浄化
            『短歌往来』 2013年3月号 pp.94~98所収
  「シリーズ歌人回想録104」として、「年譜」(清水和美)「50首抄」(遠藤秀子)とともに掲載されました。
  醍醐志万子の一周忌には遺歌集『照葉の森』(短歌新聞社 2009年9月)が刊行されましたが、  あらためて、このような機会が与えられましたことに感謝します。

2.何を変えてゆくのか~震災から二年―生活をうたう~
            『うた新聞』2013年3月 p.7
  歌壇の現状を憂慮するとともに、ネット上の新聞「日刊ベリタ」に連載中の山崎芳彦氏  の「核を詠う」を紹介させていただきました。

 

 

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