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2013年3月27日 (水)

横浜で、二つの展覧会(1)「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」展

  結婚記念日も私の誕生日もせわしく過ぎてしまい、少しゆっくりしようと横浜までやってきた。私は、事前の調査も甘く?飛び込んだような横浜美術館、「ロバート・キャパ/ゲルダ・タロー」の二人展が開催中であった(2013年1月26日~3月24日)。あすが最終日だった。キャパ(19131954)は、若くして戦場のベトナムで命を落とした<戦場カメラマン>くらいの知識しかない。
二人展の<パート1>が、女性戦場カメラマンの草分け、ゲルダ・タロー(19101937)の作品であり、なんと、キャパのパートナーであったが、スペイン内戦の取材中に非業の死を遂げた。27歳という若さであったという。知らなかった。いつになっても、ほんとうに知らないことが多すぎるの思い頻りである。
戦場に散った日本のカメラマンとして、私がわずかに思い浮べるのは、澤田教一(19361970)、一之瀬泰三(19471973)、橋田信介(19422004)・・・、そして山本美香(19672012)。浅薄ながら、タローに美香さんが重なってしまうのだ。

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タローとキャパ、カタログから 

タローは、ドイツのシュトゥツガルトに生まれ、1929年ライプツィヒに出て学び、1933年反ナチスの政治活動にかかわったとして一時期、保護観察下に置かれるが、パリに出る。1934年、後にロバート・キャパと名乗るハンガリー出身のカメラマンと出会い、翌年から二人の共同生活が始まる。タローは、キャパの助手やマーネジャーなどを務め写真を学ぶ。19362月にスペインに人民戦線政府が成立、7月にフランコ率いる反乱軍が蜂起してスペイン内戦が始まる。二人は、アラゴン、コルトバなど各地の戦線を転々として取材にあたり、パリ、マドリードを根拠地に前線の取材に入り、共々「ル・ガール」やフランス日刊紙「ス・ソワール」などへの作品発表が活発になる。19377月、国際作家会議の取材に入った後、725日ブルネテ戦線での戦乱に巻き込まれ、戦車に轢かれ、翌26日野戦病院で死去。マドリードでは多くの文化人の弔問を受け、27歳の誕生日81日には、パリでフランス共産党主催による葬儀が行われた。 

彼女の死後、1938年、キャパがタローにささげた二人の写真集「生み出される死」(Death in the making)があるが、撮影者の明記がない。タローには、当初使用したローライフレックスによる正方形の作品が多かったが、後、キャパの使用するライカ35㍉に変えたという。そのフォーマットが撮影者判断の決め手になった時期があるという。 

タローの作品には、共和国軍内でも役割が限定された女性兵士たち、子どもや戦災孤児、難民、兵士らのつかの間の休息などを捉えた作品が多い。しかし、バレンシアでの「遺体安置所」の現実へも決して眼をそらさない覚悟をも持ち合わせていた。

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タロー撮影、国際作家会議 1937年7月 カタログより

<パート2は、キャパである。キャパは1913年、ハンガリー、ブダペストに生まれる。1931年、左翼学生運動に加担したという理由で、ブダペストを追われることになり、ベルリンのドイツ政治高等専門学校で学ぶが、学費が途絶え、写真通信社デフォト暗室助手として働く。193211月、デフォトの経営者グットマンよりコペンハーゲンに派遣され、演説会のトロツキーを撮影した作品が、写真家としてのデビュー作となる。ヒトラーが掌握したブダペストからウィーンに逃れるが、1933年、向かったパリで、著名な写真家たちと親交を深める。1934年、ゲルダ・タローに出会い、翌1935年共同生活を始め、活動を共にする。19368月から、二人でスペイン内戦の取材に入り、バルセロナ、アラゴン戦線、マドリード、トレド、コルドバ戦線を取材、コルドバでの共和国軍兵士の一枚「崩れ落ちる兵士」(「ライフ」1937712日掲載)が、後、キャパの話題作となる。今回の展示は、つぎの各章に分かれる。 

1 フリードマンからキャパへ 1932~1937 

2 スペイン内戦 1936~1939 

3 日中戦争  第二次世界大戦 I 1938~1941 

4 第二次世界大戦 II 1941~1948

5 インドシナまで 1946~1954 

1章では、先の熱弁をふるうトロツキー、19366月パリ、ラファイエット百貨店のストライキ中の女子社員やガードマン、714日革命記念日のパリ市民たち、パリの人民戦線の集会など、報道カメラマンの鋭くも優しい市民への視線を感じる一連である。 

2章では、きびしいスペイン内戦の戦局の推移がわかるような展示というが、聞いたことのある地名ながら、スペインのどのあたりなのか見当もつかなかった。一度でも旅行すれば、ある程度の方向感覚がつかめるかもしれない、行かなければいけない国だね、呟いてみるが、いつ果たせるものか。この時期の作品で、最も衝撃だったのは、193712月、アラゴン戦線におけるテルエルでの作品だった。電話の架線工事をする兵士が撃たれ、木の上でそのまま絶命している画像である。反ファシズムを掲げ、国際的にも文化人の支援や義勇軍の応援を受けながらも人民戦線側はやがて後退を余儀なくされる。1938年フランコがブルゴスに内閣樹立後は、193810月、人民戦線の支援部隊、国際旅団はソ連が離脱して解散、その後、フランコ政府は、英・日独伊・米と列強各国の承認を得る。

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キャパ撮影、1937年12月 テルエル、アラゴン戦線 カタログより

 

3章でのキャパは、19381月、日中戦争の取材に向かい、漢口、徐州、西安、鄭州などめぐり、日本の侵略に抗する中国軍サイドからの取材で始まる。19387月、空爆を受けた漢口の市民たちの表情や姿には、日本軍の侵略の烈しさを物語る作品になっていた。当時の政府要人たちの会議や蒋介石、周恩来らが被写体となっている。日本の従軍画家たちが残した戦争画と同様のプロパガンダの一環であった。19389月にはバルセロナ、アラゴン戦線に戻り取材を進め、フランス、ベルギーでの取材に続き、193910月以降は、アメリカ、メキシコなどで「ライフ」の仕事が中心となる。 

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キャパ撮影 1938年7月 漢口空爆のあと


 第4章では、チュニジア、シチリア、アルジェリアなどでは連合国軍、アメリカ軍の従軍取材を続け、19446月にはノルマンディ上陸作戦にも加わり、その後のパリの解放や翌年4月のライプツィヒ解放にも立ち合う。 

2次世界大戦後は、アメリカに渡り、市民権を得、映画製作や自伝の執筆、活動をこなすが1948年には、イスラエル建国宣言に端を発したアラブとの戦乱の取材を続ける。 

この間、スペイン内戦時代以来、親交を深めたヘミングウェー、ピカソ、スタインベック、さらにはアウィン・ショー、イングリット・バークマンらとの交流や共同の仕事を進めている。 

5章では、みずからのエージェンシー「マグナム・フォト」の設立を実現した後、19544月、毎日新聞の招きで来日。日本での撮影旅行の成果も、今回展示されているが、概して、素人目にもどちらかと言えば平凡に思える作品が多い。というのも、わずかな滞在期間もさることながら、日本についての理解も知識も浅いままの取材だからだったのではないか。日本のメーデーの取材直後には、「ライフ」の仕事で、インドシナ取材のため、バンコクに飛び、ベトナム北部で取材中、525日、地雷を踏んでの最期であった。

 

 若くして亡くなったキャパの魅力的な生き方とその作品への視線は熱く、いくたびかの回顧展、ドキュメンタリ作成、評伝出版、劇化などが繰り返されてきていた。しかし、彼のカメラマンとしてのスタートの時期のパートナーでもあったゲルダ・タローの存在や作品はあまり知られてこなかったのではないか。私は、今回初めて知って、二人の作品が発信するメッセージとその生き方に感銘を受けたのだった。

今回の展示は、キャパの弟コーネル・キャパ夫妻がニューヨークのICP(International Center Photography)へ寄贈したコレクションによるものか、寄贈による作品が中心となっている。 

 

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