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2013年5月30日 (木)

長崎の原爆投下の責任について~「神の懲罰」と「神の摂理」を考える

  520日、韓国の『中央日報』のコラム欄(金璡論説委員執筆)において、「広島長崎への原爆投下は、生体実験犠牲者の復讐であり、神の懲罰」と書かれたことについて、日本政府は厳重に抗議し、韓国政府は弁明に努めているのが現状である。 

 「神の懲罰」で、思い起こすのは、近くは東日本大震災の直後、当時の石原都知事の「津波は天罰」との暴言・撤回・謝罪(2011314日の記者会見、翌日撤回・謝罪)の一連の経緯であった。

  さらに、私のブログでも、かつて触れたことのある、みずからも被爆しながら被爆者の救護に奔走したカトリック教徒の医師永井隆が「長崎の原爆投下は神の摂理である」と主張するところの「神の摂理」であった。


http://dmituko.cocolog-nifty.com/ippakunotabiyokohamae.pdf

2007428日)

・燔祭の炎のなかにうたいつつ白百合少女燃えにけるかも(永井隆)


  永井隆(
19081951)は、原爆投下時、すでに放射線研究による過度の被曝が原因で白血病の宣告を受けていたが、『長崎の鐘』(19468月執筆)『この子を残して』をはじめ、死の直前までに多くの著作を残した。『長崎の鐘』(日比谷出版社 19491月)はベストセラーになり、歌謡曲にもなり(サトウ・ハチロー作詞、古関裕而作曲、藤山一郎歌、19496月発売)、映画にもなり(松竹、大庭秀雄監督、新藤兼人・橋田壽賀子ほか脚本、若原雅夫・月丘夢路・津島恵子・滝沢修ほか、19509月封切)、ジャーナリズムにもてはやされた。歌詞はもっぱら鎮魂を、映画は永井隆の生涯を前面に出すもので、原爆については対峙しない内容である。図書『長崎の鐘』は、GHQの検閲下、半分近くの頁を連合軍総司令部諜報課提供の日本軍のマニラにおけるキリスト教徒虐殺の記録「マニラの悲劇」を付録とすることを条件に出版されたことは知られるところである。永井が、その著書で繰り返すのは、19451123日「天主公教浦上信徒代表」として読み上げた「原子爆弾死者合同葬弔辞」にもあるように、浦上への原爆投下による死者は、神の祭壇に供えられる犠牲であり、生き残った被爆者は、浦上を愛するがゆえに苦しみを与えてくださったことに心から感謝しなければならない、というものであり、それを「神の摂理」であったと説いた。先の短歌の背景には、賛美歌を歌いつつ、次々に息絶えていった浦上の女学生を「神の祭壇にけがれ亡き子羊をささげ燃やして神の御意を安らげた燔祭さながらであった」「原子爆弾は決して天罰ではなく、何か深いもくろみを持つ御摂理のあらわれにちがいないと思った」などの文言があった(『この子を残して』)。 

  これらの考え方を「浦上燔祭説」と名付けて、異を唱えたのは、当時、長崎総合科学大学の高橋真司教授だった(『長崎にあって哲学する:核時代の死と生』北樹出版1994年)。爆心地浦上が長崎の旧市街地の諏訪神社の信者の神道的あるいは仏教的な因果応報的な考え方を払拭するために「むしろ神の摂理であり恵みでもある」との説に至ったとする。さらに、「神の摂理」によって、日本の戦争責任と原爆投下に対する日本とアメリカの責任を免責し、ひいては被爆者の人間としての声を圧殺する役割を果したとするものであった。長崎純心大学片岡千鶴子学長や本島等元長崎市長らが「神の摂理」を、浦上のカトリック信者のコミュニティの文脈の中での理解すべきとか、キリシタンへの迫害の歴史の中でとらえるべきだとする反論もあったが、私には、説得力に欠けていた。 

 現に、被爆以降の長い間、多くのカトリック信者、被爆者は、「神の摂理」による呪縛から逃れられず、被害賠償問題や反核運動にも大きな影を落としていたという。私が、後に放送ライブラリーで見た長崎放送の「神と原爆 浦上カトリック被爆者の55年」(2000年放映)でも、信者が語った呪縛からの解放とさらにその後に起きたいくつかの出来事によっても、裏付けられるのではないか。広島に原爆ドームが残され、長崎に浦上天主堂の被爆残骸が残されなかった経緯、長崎大学と広島大学がアメリカのABCC(アメリカ原爆傷害調査委員会)からの寄付と引き換えに原爆医療のデータと情報の提供を約した経緯などから明らかにするものだった。 

 日本みずからの戦争責任、原爆投下の責任が問われることなく、すべて曖昧なまま今日に至っているのではないか。韓国に抗議することも大事だが、長崎の被爆による死者、生き残った者の怒りや苦しみを「神の摂理」で鎮静化することを願い、それを可としてやり過ごそうとした者たち、それに連なる人々は、今どう応えるのだろうか。 

 日本としてのアメリカに対して謝罪や賠償請求権は、講和条約で放棄したのに重ねて、こともあろうに、焦土作戦や原爆投下についての立案者とされるカーチス・ルメイに、196412月、航空自衛隊の創設に貢献したとして勲一等旭日大綬章を授けたのは、佐藤栄作内閣だった。その佐藤栄作が非核三原則への功績としてノーベル平和賞を受賞したのが197212月。非核三原則の裏でのアメリカとの沖縄への核持ち込みの密約の明らかな証拠が出てきたのが2009年。勲章や賞の選択基準が曖昧なまま、いまだに権威や名誉が独り歩きする褒章制度にも思いが至る。

 

・原爆をわれに落しし兵の死が載りをれば読む小さき十六行 

(竹山広『空の空』砂子屋書房 2007年) 

・己が名を叫びつつ山に果てゆきし女子挺身隊員よ しやうがないことか 

(竹山広『眠つてよいか』ながらみ書房 2008年)

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次のブログ記事もご参照ください。

http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_e386.html

 

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2013年5月30日 ドクダミと松葉ボタン

 

 

 

 

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2013年5月24日 (金)

ブログ開設、8年目に(2)解明いまだ、シベリア抑留

~最近のおたよりから~

島根県「静窟詩社」と中島雷太郎・ミヨ子歌集『径づれ』のこと 

 戦時下の歌人の記事に、「私は<静窟詩社>の中島雷太郎の息子です」というおたよりをいただいた。<静窟詩社>は、私が初めて知る、地方の文芸活動の一つだった。以下は、おたよりに付された中島雷太郎さん、中島ミヨ子さんがそれぞれ執筆された「自分史」による。

 

雷太郎(19122000、島根県静間村生)は、銀行(本店は松江市の八束銀行)勤めの傍ら、村内青年団の仲間でガリ版雑誌を発行したりしたが、1935年(昭和5年)12月、「静窟(しずがいわや)詩社」を結成して文芸誌『静窟』を創刊(19375月『山陰詩脈』と改名)した。満州事変前夜、無産派文芸台頭の時代でもあったが、警察からは、同人の思想調査や印刷物への手入れがあったりして、その介入により、『山陰詩脈詩歌集』(1933年)、中島雷太郎単著の詩集『磯松』(1935年)などを残し、『山陰詩脈』も廃刊、静窟詩社は、5年の活動に終止符を打った。仲間の紹介で、1936年、ミヨ子(19142013)と結婚した。1940年、地元出身の実業家、奉天の田原組に招ばれ、渡満した。 

敗戦までの夫妻の足跡は、ミヨ子の自分史につぎのような略年表であらわされているが、その一行、一行は重い。

 

 昭和一二年一〇月長女出生一一月死亡。 

 昭和一三年一二月次女出生。 

 昭和一五年九月次女を連れ渡満する。 

 昭和一六年一一月三女出生。 

 昭和一七年一二月姑死亡。 

 昭和一八年五月三女死亡。 

 昭和一八年一二月長男出生。 

 昭和二〇年七月夫召集にて入営。 

 昭和二〇年八月敗戦。 

 昭和二〇年九月夫抑留。 

 昭和二〇年一二月四女出生。

 

 雷太郎は、『満州日日新聞』の投稿欄に短歌を寄せていた時期もあったというが、敗戦後は、イルクーツクのマリタ収容所に始まるシベリア抑留生活は、194512月から194812月までに及んだ。その過酷な体験を、細部に至るまで、時の感情を交えながらも冷静なタッチで記録されている部分が、自分史の中での圧巻であり、読者には衝撃となる。 

時代は下って、1990年、雷太郎78歳、夫妻の金婚式を記念して、友人・知人・親類に配られたという夫妻の合同歌集『径づれ』(私家版)があるという。これは国立国会図書館には所蔵されていないようだ。このたびメールをくださった子息の中島さんが戦前を中心に再編集された『径づれ』のなかから、一部を紹介してみたい。

 

中島雷太郎 

(終戦直前直後) 

○やがてまた逢へる気のして妻子らへ手を振りつつも涙は出でず(奉天駅) 

○輜重兵のわれらに馬なく車なく蛸壺掘るを日課となせる 

○営庭に蛸壺掘るを日課とし、敵機は今日も見えず暮れゆく(海城輜重隊) 

○箱型の爆弾抱き敵戦車めがけ飛び込む任務なりとふ 

 (シベリア抑留) 

○重大放送を営庭に並び聞きおれど古きラジオの音声みだる 

○曳けど押せど橇は動かずアムールの氷上に捕虜のわれら声無し 

○冴えざえとつきに照らされ収容所の望楼に歩哨の動くが見ゆる 

○零下五十度寒さ肌刺す庭に立ち虱の検査に上衣脱がさる 

○日本の元旦のならひ偲びつつ一切れのパン噛みしむる今朝 

○在満の子らの年令を数へつつ元旦の今朝も作業に出でたつ 

○餓じさとノルマに力尽き果てて戦友あまたシベリアに死す 

○凍土を砕きて屍を埋めたりき冬回るたびに戦友の偲ばゆ 

○シベリアゆ白鳥今年も飛来せり埋もれしままに戦友は帰らず。 

○シベリアに消ゆべき生命守りきて平成元年喜寿を迎ふる 

○港湾の工事場のブル音止みて終戦記念日のサイレン響く 

○引き揚げに子ら幾人を喪いぬ遺影幼きまま五〇年

 

中島ミヨ子 

(終戦直前直後) 

○二重窓を越して黄砂の降れる日は幾度も畳拭きし奉天 

○ライラック杏柳と一刻に萌えて花咲く満州の春 

○手引く子も背の子も吾もベール被り目鼻覆いて市場に通ふ 

○冷蔵庫に残されしごと敗戦の冬のアパートに母子四人は 

○断水にベランダの雪掘りとりて炊けど飯にはならぬ日ありき 

○銃釼もつソ連兵来て靴のまま畳に突立つ母子の部屋に 

○夫の行方不明と聞けど三人の子に支えられて度胸を据えつ 

○子連れ吾に太く握りし飯を賜ぶ引き揚げ船の飯炊きの老 

○夫拉致され後に生まれし幼児は父にまみゆる日の遂になく 

○児を胸にくくりて重きリュック背に引き揚げしこと忘れ難しも 

○既に亡き吾が児の五人がいまあらばと孤児のニュースに涙新たなり 

○老祖母を訪ねて幼き遺児二人引き揚げしとふ友の悲話聴く 

○機銃掃射に高梁畑で母を失ふ孤児の語るは敗戦の悪夢 

○残留孤児人ごとならず吾児二人同時に喪ひしわが逃避行に 

○引き揚げし病院の窓に隈なかりし名月が今も愁に沈ます 

○体温計一ぱいに上がる高熱も医薬なければ只病児抱く 

○飢えに堪え病に堪えて命の灯暫し灯しぬ四才と二才 

○命の灯消えゆく見つつかの日より不可抗力という事を知る 

○十年経て尚癒えやらぬ創跡は一人耐えつつ生くべきものぞ

 

 今回のことがきっかけで、これまで、私が「シベリア抑留」についてあまりにも知らなかったことに愕然とする。これまでといえば、香月泰男(19111974)の「シベリア・シリーズ」、高杉一郎(19082008)の『極光のかげに』などを知るくらいだった。近年公刊された沢山の体験記があることも知った。私が参加している『ポトナム』短歌会の古くからの同人であった板垣喜久子さん(板垣征四郎夫人)次男板垣正さんもシベリアに抑留されていて、帰国後の去就、その後の政治活動なども後から知ったことだった。

 

 「シベリア抑留」の実態は、いまだに不明な点が多く、日本人抑留者の数、死亡者数などですら諸説があったが、日本政府は、約575000人の抑留者の中、死亡が確認された方々が55000人との推定を発表し続けていた。1991年には、ロシアから41000人の死亡者名簿が提出され、2009年にはロシア国立軍事公文書館で旧ソ連に抑留された日本人の記録カードが最大で76万人分発見されたというニュースも流れた(『東京新聞』2009724日)。なぜこれほどの多くの人々が抑留されることになったのか。 

 ここでは詳しく述べないが、敗戦直後の関東軍で何が起きていたか。ソ連で何が起きていたか。シベリア抑留に際して登場する朝枝繁春参謀の内地への報告書などから、敗戦直後、捕虜の扱いを超えた「抑留」という名のソ連による労働力確保策と日本の自国民放棄にも似た放置策が相まっての結果だということもわかってきた。さらに、現在に至るまで、日本政府や官僚たちは実態調査を怠り、抑留者の法的、経済的救済を求めた裁判も原告敗訴の最高裁判決で司法的な決着(19994月、20041月)がつけられた形だった。民主党政権下、「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」は、いろいろな課題や不備を持ちながらも、自民党と公明党の欠席のもと、ともかく可決されたのは2010616日だった。これまでの年月は何であったのだろう。そして、「国土と国民を守る」「国益を守る」と胸を張る安倍政権のいう「国土」「国民」「国益」って、何なのだろう。いざとなったら、「国民」を切捨てることを何とも思わない「国」を、歴史はもの語っているのではないか。

 

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島ミヨ子さんは、5月8日に99歳でお亡くなりになりました由、中島康信さんが私へのブログにおたよりくださった直後のことでした。ご冥福を祈ります。

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2013年 5月 30日追記:

折しも新聞でつぎのような記事を見つけた。

国際シンポ「シベリア抑留の実態解明へ―求められる国際交流と官民協力」

(毎日新聞2013年5月29日夕刊)

なお、シンポの案内チラシは、下記に掲載されている。

http://www.seikei.ac.jp/university//caps/japanese/06event_information/sympo-first.pdf#search='%E3%82%B7%E3%83%99%E3%83%AA%E3%82%A2%E6%8A%91%E7%95%99%E3%81%AE%E5%AE%9F%E6%85%8B%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%B8+%E6%88%90%E8%B9%8A%E5%A4%A7%E5%AD%A6'

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2013年5月30日 鉢から植え替えて数年、ことしも開き始めたアマリリス


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2013年5月22日 (水)

ブログ開設、8年目に(1)~こんなこともあります~

 ブログを開設していると、思いがけず、見知らぬ読者の方からコメントやおたよりをいただくことがある。中学校時代の恩師の思い出の記事には、「それは私のオジです」と甥御さんからメールをいただき、池袋のキンカ堂閉店の記事には、ご両親がキンカ堂に勤めていらしたという女性から「なつかしかった」とおたよりをいただく。私の方からも、公開を可とする方には、ブログ上で返信をしたり、メールアドレスがあれば私信としてお返ししたりしている。多くは一過性であって、私にとっても、一瞬の緊張感はあるが、さわやかな思い出となる。

 

もう一つのパターンとしては、一つの特定のテーマに関心のある読者の方々、あるいは同じようなテーマで、ブログに記事を書いている「同志」が、お互いに連帯感をもって、活発な意見交換がなされる場合である。その一部が、お互いのブログ上のコメント欄で展開される。私の例でいえば、持続的なものは、「社会福祉協議会」の在り方、「自治会と各種の寄付」の在り方に疑義を持つ方々との交流である。もちろん顔の見えない、ネット上の関係なので、おのずからのルールや節度を心得なければならないだろう。最近「社協」について、市役所の担当課に申入れに行ったところ、課長が、私のブログのコピーにマーカーをしている資料を机上に置いているのにはびっくりさせられた。

 

また、2008年、麻生内閣誕生直前の自民党総裁選のNHKの「ニュース7」について「視聴者ふれあいセンター」に意見を述べたときの、NHKの余りにも非常識な、とはいっても、NHKの体質をよくあらわしていた担当者の対応をレポートしたところ、その反響の大きさに驚いたものである。アクセスが11万件を超えたこともあり、ネットの「おそろしさ」を実感した。NHKの担当部局が謝罪に来たり、それが新聞記事にもなったりという後日談までついてきた。あちこちのブログでリンクしてくださったこともあって、いまだにほそぼそながらアクセスは続いている。

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2013年5月30日 雑草に囲まれたアジサイ


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2013年5月12日 (日)

ことしの憲法記念日は~原発事故から憲法を考える

   ことしのゴールデンウィークは、体調もあって、少しおとなしくしていた。地元の9条の会「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」の「ニュース23号」は4月下旬発行、連休中には配り終えたいね、と話していたが、私の分担はまだ残っている。しかし、この連休中、安倍政権は、96条改憲、原発輸出、TPP参加交渉などを、大きく進めている。いずれの問題においても、「日本ほど改憲のハードルが高い国はない、時代に即応した憲法が必要だ」「過酷な原発事故を体験した日本への原発技術への評価は高い」「グローバル化の趨勢の中で、日本だけが取り残される」というキャンペーンを張る政府や経済界だが、果たして、ほんとうだろうか。いずれの政策でも潤うものは誰なのかを考えれば、「国益」などでないことは確かなのではないか。安倍首相は、経済人を引き連れての、今回の外遊でトルコへの原発輸出まで取り付けてきてしまった。
 
 私たちの「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」では、当地にに引っ越されてきたAさんが福島県伊達市の出身とお聞きしたので、メンバー4人で、お話を伺うことになった。 以下が、私がまとめたレポートなので、「ニュース23号」に掲載したものを、転載させていただくことにした。末尾で、懸念していた「原発輸出」が、こんな形で、こんなにも早く進行したのには、驚くと共に「死の商人」を思い起こす恐ろしさに身震いするのだった。  

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伊達市出身のAさんをお訪ねして~原発事故から憲法を考える 

 

   3月下旬、宮ノ台にお住まいで、伊達市ご出身のAさんのお話を4人でお聞きしました。  

  一昨年の311当時、伊達市には、Aさんのご両親、お姉様夫婦、お弟様夫婦と子供2人が住んでいました。福島第一原発の事故を知って、Aさんは、当時住んでいた船橋に、お子さんもいる親族をともかく呼び寄せよう考えたそうです。が、ガソリンもなくて行けるような状態ではないと断られたそうです。ご自身も、まだ仕事をされていたので、すぐに駆けつけるわけにもいかなかったそうです。  

 伊達市は、福島第1原発から50~60キロ離れていますが、飯館村と川俣町の北西に位置します。放射線量は高く、2011630日には、1年間の積算線量が20ミリシーベルトを超えると推定される市内南部の一部が「特定避難勧奨地点」となりました(原子力災害現地対策本部)。要するに、放射線量が「生活圏全体に広がっているわけではないので、1年で20ミリシーベルトに達する恐れは小さく、この地点に継続して居住しても差し支えないので」(原子力被災者生活支援チーム)避難してもしなくてもいい、ということでした。Aさんの実家の周辺の側溝は10マイクロシーベルトを超えることもあり、半年後の除染後でも0.4マイクロシーベルトより下がることはなかったそうです。  

 町では、原発事故直後、ふだん使っていた湧き水で赤ちゃんのミルクを作っていたお母さんたちが大勢いたけれど、今では、水道は風呂や洗い物に使うだけでだけで、赤ちゃんのために水は買っているとのこと。地元の野菜は、測定されて基準内のもののみ売られているけれど、スーパーでは、福島より西の産地のものを買っている人が多いそうです。また、釣り上げた魚から、指輪や人間の髪の毛が出てきたという話も聞いているそうです。  

弟さんの話によれば、町の除染作業がなされているさなか、共同浴場へいくと、刺青の人たちが大勢来ていたそうです。また、将来息子さんたちが結婚する頃、県外の人との結婚は無理だろうとまで、心配されているとのことでした。さらに、東電からの見舞金として大人8万円、子ども・妊婦40万円が出たものの(原子力損害賠償紛争審査会「自主避難等に係る損害について」2011126日)、除染後もいまだ家の中で0.3マイクロシーベルトという放射線量の中での不安な生活が続いているそうです。  

伊達市における「特定避難勧奨地点」は、昨年1224日に「1年間の積算線量が20ミリシーベルト以下になることが確実であることを確認できたため」解除されました。しかし、除染しても、除染しても、放射線量の数値は事故前の数値に戻ることはなく、Aさんは、昨年帰省した時、収穫したトマトが例年になく巨大だったことを思うと、不安は募るばかりだと語っていました。  

 被災地に住んでいる人たちの不安や恐怖、避難生活を余儀なくされている人たちの悲痛にも近い不安を逆なでするように、政府は、被災者の仕事や住いの確保すらできないまま、公共事業ばかりを先行させ、原発の再稼働や輸出までを言い出しました。 実の伴わない経済政策は物価上昇だけを助長し、日米同盟強化のためのTPP参加、軍拡を進める政府は、みずからが守るべき憲法をつぎつぎと破り、被災地の方々の基本的人権、生命・自由及び幸福追求権、居住・移転職業選択の自由、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利は、脅かされたままです。福島原発から200キロ離れている佐倉ですが、ホットスポットの不安も去りません。被災地の方々の恐怖は、想像を絶するものがあります。(文責内野光子) 
「憲法9条をまもりたい会ニュース」23号(20134月)所収

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*なお、「憲法9条をまもりたい会ニュース」は、下記の会のブログからバックナンバーを読むことが出来ます。ぜひお立ち寄りください。 

http://sakurasizu9jo.cocolog-nifty.com/blog/

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2013年5月2日 ことしも大輪の花をつけたテッセン

 

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