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2013年6月22日 (土)

久しぶりに駅頭でのビラまきでした

  今日は、地元の幾つかの9条の会の連携で、日弁連作成のチラシ「憲法96条改正に異議あり!!~憲法って簡単に変えちゃってもいいの?」を、ユーカリが丘駅頭で、皆さんにお渡ししました。土曜の午後ということで、心配ではありました。あさの通勤時間帯は、人通りは多いけれど、受け取ってくれる人が少ない、との嘆きを聞いていましたので、この時間帯になりました。19人の参加者で、350枚は、1時間もしないうちに配り終えました。私は、南口担当で、このチラシとまだ手元に残っていた私たちの「さくら・志津憲法9条をまもりたい会ニュース」23号もあわせて渡すことにしました。受け取ってくれる人は、声をかけた人の三分の一以下ですが、20枚弱でしたでしょうか。一組みのご夫婦と女性お二人とは、少しだけ話をすることができました。
 ご夫婦の奥さまの方が「憲法96条そのものがどういう条文なのか、テレビなどよく見ていない人は分かりにくいのでは。このチラシにも書いてないですよね」としきりに心配していました。あらためて眺めてみると、96条の5つのポイント①憲法は国の権力者からが私たちの人権を守る ②国の権力者は憲法を簡単には変えられない ③今、96条を変えて憲法を変えやすくする動きがある ④憲法が変えられて人権が守れなくなる ⑤しかも国民投票の手続きにも問題は沢山ある、ということがケンちゃんという男の子とノリちゃんという女の子との対話をしているイラストで語られている。受け取ってくれる人はほとんど高齢者である。マンガにすれば分かりやすいのか、の疑問は去らない。いかにも”啓蒙的”なスタンスでの呼びかけで、これでいいのかな、とも思いつつ、手渡したのだったが。
 
お一人は、「ニュース」にも視線を落として、「そうなのよね。9条は守りたいですよね。頑張ってください」とのことばに「毎月、コミセンでの定例会では勉強会や情報交換、ときにはこうしたビラを撒いたり、講演会を開いたり、イベントもあるんです・・・」と答えれば、「どんな方の講演会でした?」と・・・。話が弾みました。
 もうひと方は、「あの人は、何でも約束するけど、どこまでやるのかしらね」と安倍批判が始まり、「憲法はまもりたいのに、困ってしまう」と去って行かれました。週末のためか大きな旅行カバンを引きずる人やカップルには、飛行機の中で読んでみませんかと差し出すが、受け取ってはもらえなかった。
 久しぶりにお会いしたメンバーのお一人は「今度の選挙では、わざと焦点をぼかしているので、このままでは自民が勝ってしまう。9条の会が全国の護憲団体に呼び掛けて、大胆なことをしないと。たとえば、東日本は共産党、西日本では社民党という風に少数野党が選挙協力をしないとまずいのではないか」と思い詰めていらした。私も思う、なぜ少数野党が連携して、協力して、共闘できないのだろうかと。憲法9条改正、反原発再稼働・輸出、反消費税増税、反TPP参加・・・。厳密な党是を守っても議席が取れなかったら、元も子もなく与党が喜ぶだけではないかと。もちろん、死票が多い小選挙区制の見直しや一票の格差是正も何としても進めながら。地域で、方向性を求めている市民の一人として力を結集するにはどうしたらいいのだろうかと。

 

今日配布した日弁連作成のリーフレットです。↓ 

http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/publication/booklet/data/constitution_201306.pdf

 

 

 

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2013年6月 4日 (火)

歌人の自立とは

 三・一一以降、私の中で、何が変わったかといえば、マス・メディアは真実を伝えてこなかった、ということを思い知ったことだ。怪しげな政治家やエコノミストは言うに及ばず、素人でも言えそうなコメントを口にする専門家、テレビでは、報道番組にすらお笑い芸人や女優が起用される世の中である。原発事故報道やTPP報道をみても、公正・中立性を標榜するマス・メディアのはずが、政府広報に甘んじているのはなぜだろう。
 全国紙には、必ず「首相の動静」「首相の一日」といった官邸発表の小さな記事がある。前日の首相の朝から帰宅するまでの動静が時間を追って記される。閣僚、官僚、経済人たちと面談し、外国の賓客、ミス○○やアスリートたちの表敬訪問を受けたりする。しかし、その中で、私が不思議に思うのは、歴代の首相もそうであったに違いないのだが、安倍首相は、新聞社やテレビ局の社長や要人を招いて会食をしていることである。今年に入って三か月余の間に、読売・産経・朝日・毎日・日経・共同通信、フジテレビやテレビ朝日の社長たちとの会食を済ませているから、ほぼ一巡したに近い。これはまさに、今のマス・メディアの姿勢を象徴的にあらわしていよう。NHKの会長は、まだ登場してはいないが、予算と経営委員人事が国会の承認がいわば枷になっている。二〇〇一年、当時の自民党官房副長官安倍晋三の言動が、NHK番組編成で政府の介入にあたるか否かが裁判で争われたこともある。
 歌人が首相の会食に招かれたとは、近年聞いたことがない。しかし、歌会始の選者や陪聴者としては、必ず毎年招かれている。他にも文化勲章、芸術院賞、芸術選奨、紫綬褒章などが時々歌人にも授与される。もちろん専門家の選考委員や推薦委員を経て決められてゆくのだが、少し調べてゆくと、その委員に起用される歌人たちはごく限られた長老をふくむ特定の歌人たちで、入替わり立代わりして、その任務に勤しんでいることわかってくる。ときの権力による二・三の一本釣りさえ成功すれば、介入するまでもなく、歌人の出身結社、師弟関係、その情実や互酬関係がおのずから発揮されて、望むところに収まっていくというのが実態ではないか。これら官製の賞に、他の色々な短歌賞や新聞歌壇選者などの利害が絡まって、微妙なバランスがとられているのが「歌壇」の現状かもしれない。
 
この「歌壇」の圏外にある者が何を言おうと意に介せず、無視すれば安泰なのである。なかに、短歌の実力者や論客がいても、長老へのご挨拶や仁義を切ることを忘れずに、物申す光景はいじましくもある。去年の本誌五月号の歌壇時評で私は、  「朝日歌壇」の小学生短歌の入選について、従来からの新聞歌壇の役割に触れて問題はないのか、と指摘した。その後、私のブログに同文を記事として掲載したところ、アクセス数がじわじわと増加しているし、「朝日歌壇」のジュニアの入選は続いている。私のブログのアクセス解析によれば、一年経った今でも、「朝日歌壇」「小学生・短歌」「小学生・朝日歌壇」「松田梨子・わこ」などのキーワード検索によるアクセスがコンスタントに続いている。かなり関心が高いテーマだと思うが、選者サイドや歌壇からの反論がない。プロの歌人はそんなことには目もくれない。一方、他ジャンルの著名人から、たとえば、俳人長谷川櫂が先駆けて「震災歌集」を出したからといって、金井美恵子が歌壇批判をしたからといって、大仰に反応するのも歌壇である。外圧に弱いのは今の政府だけではない。

(「歌壇時評」『ポトナム』2013年6月号所収)

 

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『出版人の萬葉集』の思い出~「図書館」という場所

 先の記事(6月 3日)に登場した『出版人の萬葉集』に、私は「図書館員」ということで声をかけられ参加した。16首ほど収録されているなかで、「図書館」という項目の冒頭に収録されている一首「亡きひとは図書係とて図書室の椅子に背広を掛けたるままに」の思い出である。古書店を営んでいたこともある、評論家の出久根達郎氏が、エッセイ集『粋で野暮天』(オリジン出版 1998年)では、つぎのように紹介してくださっていた。もちろん面識はない。 

 「歌の方が散文よりも、ある面で多くを語っているということができる。たとえば、つぎの一首。 

・亡きひとは図書係とて図書室の椅子に背広を掛けたるままに(内野光子) 

私はこの歌から短編小説風の物語を思い浮かべた。背広は霜降りがいい。汚れが目立たないから、と故人が好んでいた柄である。椅子に掛けてあったそれは、新調したばかりのものである。そして、―いや、よそう。」

 

 何となく面映ゆさを感じる鑑賞であった。実は、この図書係の方は、私が当時勤めていた短大図書館の隣にあった姉妹校の女子高の若い先生であった。女子高に就職して23年だったのだろうか、精神的な負担が大きく教壇に立てなくなって、図書室専任になったと聞いていた。それから、何か月目だったのだろうか、自殺だったという訃報が届き、用事で出かけた、その図書室の端に置かれていた机と椅子、その椅子に、まだ彼の背広がかかっていたのである。

 

 私が勤めていたころ、一般的に大学や学校の中で、職場でやや問題があると、「図書館に回される」ということがひそかに語られていたのである。なんとその数年後、私たちの職場にも、降りかかってきた。市立図書館を定年前に退職した職員を迎えることになった。この男性を責めるわけにはいかないのだが、どういうわけか、学校法人の幹部は、精神にやや問題のあることを承知の上で、図書館への配属を決めたらしい。1か月もたたないうちに、一緒には仕事ができないことがわかって、事務長や館長、労働組合にも相談するが埒が明かず、解決にはだいぶ時間がかかったのであった。 

 「図書館」への偏見は、今でもときどき垣間見ることがある。現在にあっては、公共図書館にTUTAYAが参入する時代になったが、安上がりの図書館でありさえすればいいのか、情報社会における図書館の役割を行政や教育現場で、ほんとうに理解しているのだろうか、とときどき疑問に思うことがある。 

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2013年6月 3日 (月)

ジャーナリストだった歌人たち~石黒清介氏を悼む

(以下は『ポトナム』5月号の「歌壇時評」です)
 
一月二七日、石黒清介氏が亡くなられた。一九一六年、新潟県出身、九六歳。一九五三年に短歌新聞社を興し、『短歌新聞』を創刊、一九七七年には『短歌現代』を創刊し、多くの歌人を見出し、多くの短歌ジャーナリストを育てた。新聞や雑誌には、伝統的短歌と地方歌人への目配りがあって、幅広い読者から信頼されていた。一昨年、自らの手で社を閉じた。戦後の短歌史、戦後歌壇を語る上では欠かすことのできない短歌ジャーナリストであった。短歌の出発は、一九二八年頃、小千谷市出身で教師を長らく勤めた遠山夕雲の手ほどきによるという。こうした略歴は、すでに知られるところだが、一九三四年に『ポトナム』に入会、当初は、石黒桐葉の名で、その後は石黒清作の本名、石黒清介の名で短歌を発表していたことはあまり知られていない。一九四三年に応召、一九四六年に復員している。一九四一年の後半以降、『ポトナム』誌上に石黒氏の短歌は見当たらない。しかし、戦争・戦場体験にもとづく作品は、敗戦直後の『樹根』(新藁短歌会 一九四七年)以降の二十数冊に及ぶ歌集にしばしば登場する。 

・借りて来し蓄音機ならしつつ元日のひるを炬燵にひとりこもり

 新潟・石黒桐葉(『ポトナム』一九三五年二月)

 

 同じ号には、石黒と同年、二十歳の森岡貞香の「吐息白く消えたる先に輝ける北極星のおごそかなれや」のような作品が頴田島一二郎選歌欄に並び、頴田島評には「石黒:よく見るべきところを見てゐて可」とあり、「森岡:吐息白く野心的にて佳」とあって興味深い。

 

・撃てどうてど人は死なざる空砲を汗あへて我等撃ち続けをる 

(栃尾郷青年学校聯合演習)

新潟・石黒桐葉(『ポトナム』一九三五年九月)

 

この頃の頴田島評によれば「父の命により歌作を中絶するといふ悩」みもあったらしい(『ポトナム』一九三五年一一月)。

 

・夕冷ゆる秋山深く木樵われ鳥の巣くふ樹を挽りにつつ

 石黒清作(『ポトナム』一九三六年一月) 

・ここらあたり本屋と思ひてくぐりぬける雪のトンネルひやりと身に沁む

 石黒清作(『ポトナム』一九三六年三月) 

・岩床の起伏を走る寒の水ひびきをあげて平らかならず

 石黒清作(『ポトナム』一九三九年八月) 

・平穏に日々ありたきを曇などあかくもゆるに血を湧かしつつ  

栃尾・石黒清介(『ポトナム』一九四〇年一一月) 

・新刊書の裁断面を美しきものの一つに我はかぞふる

 栃尾・石黒清介(『ポトナム』一九四一年三月)

 

 「木樵」と称しつつ、文学への志が秘められている一連である。『ポトナム』には、当時すでに編集者だった同人、石黒氏のようにのちに出版人となった同人も多い(以下敬称略)。福田栄一、松下英麿(ともに中央公論社)、只野幸雄(短歌公論社)、小峰広恵(小峰書店)らは、『出版人の萬葉集』(エディタースクール出版部 一九九六年)*にも登場するが、他に、小泉苳三(白楊社)を筆頭に、新津亨(時事新報社勤務、パンナム書房)、尾崎孝子(歌壇新報社)、小島清(古書店、初音書房)、不破博(経林書房)、薩摩光三(短歌山脈社、岡谷市民新聞社)、片山貞美(角川書店)らがいる。ユニークな業績を残した出版人であった。石黒には、先のアンソロジー『出版人の萬葉集』に次の一首がある。

 

・不公平の公平をこそ期すべしと編集者の我に教へたまひき

(土岐善麿先生死去) 

           (『ポトナム』20135月号所収)

 

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