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2013年7月29日 (月)

短歌総合誌の役割

(以下は『ポトナム』7月号「歌壇時評」です。) 

短歌総合誌の購読をいつ辞めようかと迷う。自分が所蔵してなくても、どこかの図書館へコピー依頼ができればよい。が、短歌雑誌関係の記事索引が整備されていないので、総合誌だけでも手元に置きたいという思いに駆られる。夥しい数の結社誌や同人誌はもちろん、何種かあるタブロイドの新聞については尚更で、検索の手段がないということは、掲載の作品・エッセイ・論文や記事は消耗品のようになってしまう。国立国会図書館、日本現代詩歌文学館、国文学研究資料館、日本近代文学館などがデータベース化していても不思議はないのだが、短歌雑誌に関しては、その採録対象がどこも半端なことで終っている。その間隙を補うような形で、年間の記事索引作成のような仕事は、一部、一時期、短歌総合誌が担ってきた。 

角川の『短歌年鑑』に、結社誌や同人誌も含めた文献目録が掲載されなくなったのはいつからだったか。私が所蔵している一番古い一九六六年版には「一九六五年度短歌年表」(阿部正路道編)があり、すでにその欄は設けられていた。三一〇頁のうち四六頁を割いている。平成八年度版(一九九五年一二月刊)には、「平成七年度短歌評論年表」(編集部)として続いていたが、その数年前から採録対象は『短歌』『短歌研究』『短歌現代』の三誌に限られていた。平成八年度版、平成九年度版(一九九六年一二月刊)の「編集後記」のいずれも、この「年表欄」の中止に触れることなく、静かに消えてしまっていた。その後、数年間のブランクがあって、現在のように、自誌『短歌』のみの一年分の目次を載せるようになった。短歌研究社の『短歌年鑑』では、二〇〇三年版(二〇〇二年一二月刊)から「全国結社同人誌主要論文一覧〈作家論・古典研究・現代短歌論〉」が登場する。他の「評論展望」「特集展望」欄などと合わせれば、短歌雑誌の年間索引として利用できるし、わずかな点数の抄録もある。が、対象雑誌の網羅性は望めないし、キーワードでの検索ができない。それでも、国立国会図書館「NDL-OPAC」、国文学研究資料館「国文学論文目録データベース」を補完する目録とはなるだろう。こうした地味な仕事は、誌面と人材の関係でなかなか続かないが、少なくとも、今の形でもいいからぜひ継続してほしい。 

このように文献探索が容易ではないからと言って、身近なところで〈見つけた〉資料や身辺の文献をことごとしく掲げ、先行研究や文献、出典等の紹介や提示がおろそかな論文やエッセイが横行していいというわけではない。都合の悪い先行研究は無視し、読者が検証できる手がかりを残そうとしない場合もある。『ポトナム』には、小泉苳三の書誌学的な蓄積や伝統もあり、国文学の研究者も多いなか、歌壇に模範を示していくべきだろう。 

なお、『短歌研究』は、二〇一三年の場合、三月に「現代代表女性歌人作品集」、五月に「現代の104人」というように、毎年、各々の節句に由来する特集が組まれる。今年の三月には一五一人と付記されていた。五月は、長い間「現代の88人」が定着していたが、近年は、寄稿の歌人の数が少しづつ増えている。男性が「現代の・・」であり、三月だけに「女性」と明記されるのはいかにも不自然ではないか。作品集への女性の寄稿者数が男性より多いものの、「歌壇」の実態や読者の数は、その比ではなく圧倒的に女性が多い。また、「現代代表女性歌人作品集」となったのは二〇一二年からで、それまでは「現代代表女流歌人作品集」だった。「女流」は、「男流」という対語がないことから差別的な意味合いがあるとして、影を潜めたと思っていたのだが、歌壇にはどっこい生きていたことになる。

(『ポトナム』2013年7月号所収) 

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首相が歌人を招かなくとも

(以下は、『ポトナム』6月号の「歌壇時評」です)

三・一一以降、私の中で、何が変わったかといえば、マス・メディアは真実を伝えてこなかった、ということを思い知ったことだ。怪しげな政治家やエコノミストは言うに及ばず、素人でも言えそうなコメントを口にする専門家、テレビでは、報道番組にすらお笑い芸人や女優が起用される世の中である。原発事故報道やTPP報道をみても、公正・中立性を標榜するマス・メディアのはずが、政府広報に甘んじているのはなぜだろう。

全国紙には、必ず「首相の動静」「首相の一日」といった官邸発表の小さな記事がある。前日の首相の朝から帰宅するまでの動静が時間を追って記される。閣僚、官僚、経済人たちと面談し、外国の賓客、ミス○○やアスリートたちの表敬訪問を受けたりする。しかし、その中で、私が不思議に思うのは、歴代の首相もそうであったに違いないのだが、安倍首相は、新聞社やテレビ局の社長や要人を招いて会食をしていることである。今年に入って三か月余の間に、読売・産経・朝日・毎日・日経・共同通信、フジテレビやテレビ朝日の社長たちとの会食を済ませているから、ほぼ一巡したことになる。これはまさに、今のマス・メディアの姿勢を象徴的にあらわしていよう。NHKの会長は、まだ登場してはいないが、予算と経営委員人事は国会の承認がいわば枷になっている。二〇〇一年、当時の自民党官房副長官安倍晋三の言動が、NHK番組編成で政府の介入にあたるか否かが裁判で争われたこともある。

歌人が首相の会食に招かれたとは、近年聞いたことがない。しかし、歌会始の選者や召人・陪聴者としては、必ず毎年招かれている。他にも文化勲章、芸術院賞、芸術選奨、紫綬褒章などが時々歌人にも授与される。もちろん専門家の選考委員や推薦委員を経て決められてゆくのだが、少し調べてゆくと、その委員に起用される歌人たちはごく限られた長老をふくむ特定の歌人たちで、入れ替わり立ち代わりして、その任務に勤しんでいることわかってくる。ときの権力による二・三の一本釣りさえ成功すれば、介入するまでもなく、歌人の出身結社、師弟関係、その情実や互酬関係がおのずから発揮されて、望むところに収まっていくというのが実態ではないか。これら官製の賞に、他の色々な短歌賞や新聞歌壇選者などが絡まって、微妙なバランスがとられているのが「歌壇」の現状かもしれない。

この「歌壇」の圏外にある者が何を言おうと意に介せず、無視すれば安泰なのである。なかに、短歌の実力者や論客がいても、長老へのご挨拶や仁義を切ることを忘れずに、物申す光景はいじましくもある。こんなこともある。去年の本誌五月号の歌壇時評で『朝日歌壇』の小学生短歌の入選について、従来からの新聞歌壇の役割に触れて問題はないのか、と指摘した。その後、私のブログにも掲載したところ、アクセス数がじわじわと増加し、アクセス解析によれば、一年経った今でも、「朝日歌壇」「小学生・短歌」「小学生・朝日歌壇」「松田梨子・わこ」などのキーワード検索によるアクセスがコンスタントに続いている。かなり関心が高いテーマだと思うのだが、選者や歌壇からの反論もない。プロの歌人はそんなことには目もくれないらしい。一方、他ジャンルの著名人から、たとえば、俳人長谷川櫂が先駆けて「震災歌集」を出したからといって、金井美恵子が歌壇批判をしたからといって、大仰に反応するのも歌壇である。外圧に弱いのは今の政府だけではない。(『ポトナム』2013年6月号)

 

 

 

 

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2013年7月21日 (日)

「公平な選挙報道」って~各党への時間配分の基準とは

 議席数で割り振るということは
  いつも不思議に思っていたことがある。NHKの国会討論会、党首討論会、そして、昨日、選挙前日のNHK「ニュース7」(午後7時~730分)「参院選特集9党首選挙戦に密着」(午後8時~915分)を見ていて、これっておかしくないかの思いが、また頭をもたげる。ちなみに、以下は、昨夜の党首密着番組における、私が部屋の壁時計によってはかった大雑把な時間配分である。番組では、前半と後半で同じ順序で二順した。分数は、あくまでも目安としたい(合計すると72分にしかならないし、放送終了後、番組担当者に問い合わせたところによると、1順目の安倍党首は955秒だったという)。だが、微妙な配分の違いはわかるだろう。下記のPDFをご覧ください。

各党首の映像放送時間(2013720日「参院選特集9党首選挙戦に密着」 http://dmituko.cocolog-nifty.com/kakutousyunohousoujikann.pdf

 上記番組の終了後、NHKコールセンターに電話した。オペレーターに「各党首についての放送時間が異なるのはなぜか。時間配分は何を基準にしているのか」と質問すると、「ちょっと待ってください、資料?を見てみます」としばらく待たされた。「番組担当の者に替わりますから、お待ちください」とのこと、珍しいことだ。コールセンターは、番組担当者につなぐことはしない、意見として必ず伝えますから、というスタンスなので、本来ならば当然のことながら、いささか驚いた。替わって、Iと名乗る担当者に同じ質問をする。

Q: どうして各党首についての放送時間が異なるのか。

A: NHKの判断だ。

Q: 何を基準に判断するのか。

A: 先ずは「衆参両院の議席数」、あわせて「国政参加の状況」などを基準に決める。

Q: 「国政参加状況」って、具体的にいうと・・・。

A: 大臣経験者の数、予算委員会への委員選出の数などだ。

Q: その基準でいくと、与党への放送時間配分が、あきらかに多くなるが、それで

    も公平と言えるか。

A: それが公平だと思っている。

 この時間配分の基準については、NHKが明言したのを初めて聞いた様な気がする。これまでの申入書などへの回答では、公職選挙法あるいはNHKのガイドラインに沿って中立・公正・公平に対処している、程度の抽象的な文言であることがほとんどであった。かなりストレートに回答したな、という思いがよぎる。このあと、私からは、二つの基準と言っても要は議席数配分に集約されるから、現有の議席数のみが二重にも何重にも、放送時間を縛ることになるのは、選挙報道として公平と言えるか疑問であると。それに加えて 、受信料によって成り立つ公共放送NHKが、各政党への放送時間の配分を独自の基準で決めているなら、その旨、判断の基準を番組内で堂々と放送すべきではないのか、と話した。「コールセンターにお問い合わせがあった場合に応えています」とのことだ。放送時間については、「与党や多数党に他党と等分の時間しか与えないことこそ不公平であるというご意見も頂いているので、不公平とは言えない」とも答えた。後者については、意見として伺っておく、との回答だった。

放送時間の配分もさることながら、選挙報道番組の中身も大いに問題なのである。各党の公約、選挙の争点、争点隠しなどを選挙民に提示するのが、選挙報道のカナメではないのか。 視聴者としては、党首がどんなジュースを飲んでいるか、昼食が讃岐うどんなのか、回転ずしなのか、サンドイッチなのかよりも知りたいことが沢山ある。投票日の直前にこそ、「党首密着」、個別の「党首に聴く」の類ではなく、一堂に会しての、党首の「討論」が必要なのではないか、と思う。ディベイトにさらされることで明らかになることも多いはずである。

選挙報道、メディアを質す

 選挙報道の公平性について、偏向報道については、昨年の12月の総選挙の折も、すでに、いくつかのジャーナリストや市民の団体が、報道機関に申し入れをしている。

NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ(20121127日)

「総選挙にあたって争点提示型の公平な放送を要望します」

NHK会長 松本正之、NHK放送総局長 石田研一あて)

・放送を語る会・日本ジャーナリスト会議(20121128日)

「有権者の判断に役立つ公正、公平で充実した選挙報道を求めます」

(NHK、民間放送局各社、新聞社各社 報道・編集責任者あて)

 

 

 また、昨年12月の選挙報道の実態調査を踏まえて、今回の参院選挙向けに出されて質問書、申入れ書もある。

・「選挙誘導やめてんか!」市民集会実行委員会(2013531日)*京都の市民団体

「<選挙誘導やめてんか!>市民集会へのご出席のお願いと宣教報道に関する質問」(全国紙各社、通信社、京都新聞、NHK、民放各社、KBS京都放送、関西テレビあて)

・放送を語る会・日本ジャーナリスト会議(201372日)

「参議院選挙に際し、公正、公平で充実した選挙報道を求めます」

(NHK、民間放送各社、報道・編集責任者あて)

 

 

 なお、今回の9党首の中には、「緑の党」党首は、新党大地、幸福実現党と共に入っていなかった。売名的な「泡沫」政党、候補者という言い方があるが、この判断はかなり難しい。緑の党は、つぎのような声明を出している。                                                

 ・緑の党グリーンズジャパン(2013714日)
「参院選比例区報道における<政党>の取り扱いについて」(報道各位)

 相変わらずのNHK「ニュース7」
 投票日前日、720日の「ニュース7」を見ていて、やはり驚いてしまった。オープニングの映像は、参院選と夏休みの子どもたちであった。ニュースの第1項目が参院選で、追込みの9党首の映像が流れた。9党首の順序は、8時から放送の9党首密着番組と同じだった。あとからの問い合わせで確認したところによれば、全体的に短い時間の中(5分)、数十秒単位で、各党首の放送時間が異なっていたのだ。そして、次が、夏休み最初の週末ということで、田んぼの中で泥だらけになって綱引きをしたり、北国から運んできた氷で遊んだりしている子供たちの映像が流された(230秒)。「タノシカッタ!」という子どもの顔のアップで終るワンパターンの映像である。それに続いたのが「オリガミの原理が科学的にさまざまな場面で活用されている実態」(4分)さらに、続いたのが「ブルース・リーの没後40周年追悼」(3分)であった。ブルース・リーに至っては、念入りな挌闘場面が続き、顔面から血を流すシーンまで夕食時に放映していたことになる。「オリガミ」と「ブルース・リー」は、いわゆる「ヒマネタ」で、この日に流さなければならない必然性がまったく見当たらない。

今回の参院選について、選挙前日にふさわしい各党の政策や争点をテーマにしないのであろう。意図的に、他の話題に振ったとしか考えられなかったのだ。公共放送のなすべきことをなさずに、無関心を助長し、挙句の果て多数党へのすり寄りを明確にした報道ではなかったか。

日常的にも、政治への関心を高め、政治活動の多様性を引き出し、少数政党の活動にも着目しながら、投票行動への参加を呼び掛けるのも公共放送の大事な仕事の一つと考えられる。にもかかわらず、NHKは、目前の与党・政府への大いなる加担を正当化しようとしているとしか思えない。ひいては、政府広報に甘んじている報道には、目を覆うものがある現状である。

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2013年7月15日 (月)

猛暑の夜だが、映画「白バラの祈り」を見る

 「白バラの祈り ソフィー・ショル、最後の日々」(ドイツ 2005年) 

 この映画については、私がかかわっている、地域のミニコミ誌『すてきなあなたへ』44号(2006120日)の「菅沼正子の映画招待席NO.16」ですでに紹介済みである。http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatano44.doc

 

しかし、その後なかなか見る機会がなかったが、今回、ひよんなことで、連れ合いの知人からDVDを借りることができたのである。詳しいことは上記の菅沼さんの映画評に譲るが、私が映画を観た感想を簡単に記しておきたい。 

1943年、ヒットラー政権に対して、非暴力で抵抗する組織、ミュンヘン大学の「白バラ」に、兄の医学生とともに参加していた女子学生ソフィー・ショルが、ビラまきで逮捕され、処刑されるまでの5日間を実話に基づいて描かれたドラマである。キリスト教の精神と倫理観に裏付けられた学生たちがやむに已まれず、学生や市民に抵抗を呼びかけるべくパンフレットを配る決意をする。街角やキャンパスにパンフレットを置いて回るというささやかな行動をもゲシュタポは許さず、執拗な取り調べが続き、5日後には、形式的な裁判によって即日死刑に処せられるという過酷な運命をたどるストーリーには息をのむ。ショル兄妹は、人目をはばかりながら、パンフを置いては走り去り、大学のホールの最上階からはパンフを下に向けてばらまくということにもなるのだが、まず、大学の用務員に捕えられてしまう。なぜ、そこまで危険な行動に出たのだろうか。 

尋問のやり取りは、1990年代、旧東ドイツから発見されたという資料に基づき、忠実に再現される。尋問官の誘導や恫喝にもめげず、敢然と答える女子学生、その中で明らかになってゆく生い立ち、愛と友情、信念・・・。もはや狂信者となった裁判官、沈黙の弁護人の中で、宣告される死刑。尋問官のわずかな配慮か、処刑直前に両親との面会、牧師との対話でかわされる、信頼と恐怖がない交ぜになった、感受性に満ちた女子学生のことばの数々であった。 

東西ドイツの時代にも、よく読まれたという女子学生の姉、I・ショルによる『白バラは散らず』(内垣啓一訳 未来社 1964年)は未見だが、C・ペトリによる『白バラ抵抗運動の記録』(関楠生訳 未来社 1971年)は、目を通すことができた。その資料編によれば、「白バラ」の学生たちが配布したパンフレットの末尾には、必ず「できる限り多くの複写を、広く配布を」の文字がある。学生たちに政治的な展望があったのかなど、抵抗運動の在り方の問題点を指摘するのは容易だが、市民と学生、そして反体制を掲げる組織、例えば野党との連帯が、いつの時代にあっても、どこの国でも、重要であることを考えさせられた。

 

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2013年7月13日 (土)

自衛隊機の夜間演習飛行、日没から夜8時までの2時間!

 ほそぼそとしたウォーキングながら、この猛暑で、昼から夜に切り替えた。これまでも夕食後、一休みした8時ごろから歩いていたことはあったのだが、その時は気づかなかったことがある。佐倉市上空の航空機騒音について、このブログでも何本かレポートしている(その主な記事は、末尾参照)。羽田着陸便、成田離陸便の件数・高度・航路、海上自衛隊の下総航空基地(柏市・鎌ヶ谷市)から発着するP-3Cの飛行演習の実態などについてはある程度調べていた。
 
詳しくは、下記のブログ記事を見て頂くとして、概況として、繰り返しになるが、羽田着陸の民間機、春から秋にかけての南風仕様時の高度は1200m、北から南へと向かう。多いときで3分に1機、少なくとも56分に1機は通過する。かつては夜11時からの発着はなかったが、LCCサイドからの要請で以降も可能になった。夜、窓を開けて寝る季節には、びっくりするような騒音になる。高度は比較的高く、東から西へと飛ぶ成田離陸便は、180機以上は通過すると、空港の担当者から聞いた。

一方、自衛隊機は、朝の9時台に下総基地を発ち、館山沖で訓練し、午後3時前後に、佐倉市上空を通過する。天候にもよるが、土日を除く週5日、23機が飛んでいる。高度は、500800mと聞いた。機体も大きく見えるし、家の真上を通過すると、やはり怖い。東京スカイツリーより低いこともあるのだ。 

そして今回、早めの夕食を済ませ、7時半前後にウォーキングに出ると、頭上を、前方への照明が2本の牙のように、航空機が高度を下げて来るではないか。しばらく大通りを歩き、中学校のグランドを突っ切ってくると、なんとさっきの飛行機が低空で何回も旋回しているのがわかった。これは民間機の航路ではない。そういえば、昨晩も、遠周りに旋回している風の機体を見かけ、ヘリコプターかしらと思っていたが、どうもおかしい。帰宅後、下総基地に電話するも、当直らしく要領を得ない。翌日電話をすると、連絡先を聞かれ、すぐに回答があった。下総基地のP-3C(哨戒機)の夜間の発着訓練飛行は、23年度・24年度の実績でいうと、年間150200日、日没前後から夜8時までの約2時間、週に34日、23機が飛行しているという。高度は、800m位ですかと聞くと、どういうわけか760mという数字が出てきて、高くても1200m位との話であった。今週は、月・火・水と3日続いたという。もう、何十年も続けているが事故はない、と確信に満ちた声だった。「佐倉市役所の総務課には、毎週1週間前には事前通告していますよ」とのこと。アー、知らなかった。のん気といえばのん気だったのだが、夜、民間機の騒音に紛れて、自衛隊機が飛んでいたのだった。 

そして、そもそも「下総航空基地」って、どんな?とあらためてネットで調べてみると、そのホームページには、ゆるキャラの着ぐるみ隊員が登場、720日の「サマーフェスタ in 下総/ オープン・スクール」のお知らせである。施設見学やスポーツ大会、各種体験コーナーや模擬店が開催されるらしい。基地での盆踊り、花火大会、航空ショーなどはよく聞くところであるが、近年の自衛隊のPR活動はすさまじい。子どもたちに小銃や機関銃の操作体験までさせて物議をかもし、市民団体が防衛相・自衛隊幹部らを銃刀法違反で刑事告発して、「銃は展示」だけにとどまらせたというニュースも思い出す。町おこしのイベントに自衛隊に戦車の出動を要請した大洗町のことも報道されていた(「NHKニュース」712日)。 

下総航空基地は、海上自衛隊に属し、教育航空集団司令部が置かれ、いくつかの部隊が在籍しているが、その中心が、第203教育航空隊で、 P-3C機のパイロット養成が目的である。そして、この基地自体の沿革を初めて知って驚くのだった。

・海上自衛隊・下総航空基地<沿革> 

http://www.mod.go.jp/msdf/simohusa/base_shimofusa/base_shimofusa.html#enkaku

 

  ・千葉の戦争遺跡 <鎌ヶ谷市の戦争遺跡2(藤ヶ谷陸軍飛行場関連)> 

http://blog.goo.ne.jp/mercury_mori/e/72877b6c11e107b3364fa82fe1f61a99

 

下総航空基地の前身の藤ヶ谷陸軍飛行場は、「1932年(昭和7年)、東洋一の規模を誇り、広大な敷地をもつ<藤ヶ谷ゴルフ場>(武蔵野カントリークラブ・藤ヶ谷コース)として開発された土地を、1944年(昭和19年)には、陸軍が首都圏防衛を目的として接収、同年秋頃から鎌ヶ谷と風早村(現:柏市)にまたがって飛行場の建設が開始された。工事には、大相撲の力士や付近の住民、中学、女学校などの生徒、約1200人の朝鮮人労務者が動員された。中学生たちは、学徒動員で1ヶ月泊り込みで飛行場建設に奉仕した」と、上記「千葉の戦争遺跡」には、記されていた。さらに、19454月に完成した藤ヶ谷陸軍飛行場は、敗戦直後には米軍に接収され、15年間以上も、米軍基地となっていて、全面返還されたのが19606月であった、と上記、基地のホームページの「沿革」には記されている。 

このブログ記事を書いているさなか、新聞の参院選情報の一つ「憲法の現場から」で9条を扱っている記事が目に留まった(『朝日新聞』2013712日、千葉版)。「?」その記事の写真に、なんと「下総基地の米軍機使用絶対反対」という背の高い看板が写っていたのだ。「米軍機」って、なんだろう。記事によれば、下総基地が、1980年代に米軍艦載機の夜間発着訓練の移転候補地に浮上し、周辺8自治体の移転反対の要望書を出したり、議決をしたりした。そこで、当時、鎌ヶ谷市役所の一画に建てられたのが、写真の看板だったのである。現在も、国は移転検討を止めてはいない。反対運動を支え、平和の大切さを訴えることができるのは憲法9条があったからと、鎌ヶ谷基地連絡協議会のひとりが語っていた、と記事は結ばれていた。 

成田や羽田の離着陸のコースが、千葉県に集中するのは、東京湾の西側の上空に民間機が飛べず、分散できないというのも、横田基地があるからというのは、周知の事実である。日本の空であって、日本の航空機が飛べない。たかが航空機騒音では済まされない、自衛隊の基地、米軍の基地の問題が、これほど身近に迫っているということを感じさせる一件であった。 

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<当ブログの主な関連記事> 

◇『すてきなあなたへ』66号「志津地区上空の航空機騒音、ようやく調査へ」(2012919日)http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe66.pdf

 

◇ 8月市議会傍聴、航空機騒音について(201296日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/09/8-75e2.html

 

◇佐倉市の航空機騒音、その後(2012819日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/08/post-bd02-1.html 

◇副市長辞任と航空機騒音2012615日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/06/6-bcdd.html

 

◇自衛隊機、500mの低空飛行~50年も続いている(2012411 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/04/50050-5a56.html

 

◇『すてきなあなたへ』64 号「この夏の航空機騒音、佐倉市の空はどうなる」20111121日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatahe64.pdf

 

◇佐倉市上空、飛行の可能性のすべて~やはり実態調査が必要なのでは

2011118日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/post-3f30.html

 

◇羽田空港の国際化から1年、佐倉上空の騒音は(20111114日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/11/1-9441.html 

◇中秋の名月を仰ぎ、機影を数える~航空機騒音の、その後

2011918日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/09/post-0479.html

 

◇この夏、航空機騒音、気になりませんか~佐倉市上空は、5分に1機の低空着陸 飛行!2011727日) 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/07/51-563f.html

 

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2013年7月 9日 (火)

エミール・クラウス展とゲントの思い出(2)

ゲント美術館のあれこれ

  2002年、ベルギー旅行のころはまだ、ブログも開いていなかったし、デジカメもなかった。手元には焼きつけた写真と簡単なメモが残るだけである。ただ、私が参加していた短歌の同人誌『風景』(103~104号 2003年3月・5月)には、旅行記らしきものを掲載してもらっている。それらを手掛かりに、ゲント美術館のあれこれを思い出している。

 駅の案内所で手に入れた[Museums in Ghent]の最終頁の地図は以下の通り。

Gedc3151

 ゲント駅(ゲント・セント・ピーテルス、地図の左下)には、ブリュッセル南駅から列車で30分一寸で着く。人口25万の毛織物産業で栄えたギルドの街でもあった。レイエ川の支流が街をめぐり、狭い石畳の街をトラムが走る。駅前の公園を抜けてすぐのところにゲント美術館(MSK)はあった(地図では一番下のパレットの印)。その向かいがゲント市立現代美術館(SMAK)で、時間がなくて結局入館することはなかった。
 ゲント美術館では、当時、マックス・エルンストのグラフィック展が開催されていた。エルンストは苦手と、簡単に済まそうとすると、係員が順路を示し、連れ戻さんばかりの熱心さであった。なるほど入館者は少ない。超現実の世界にしばらくひたったわけだが、以下の木の葉を樹木に見立てた作品が気に入り、絵葉書も購入、チケットと道すがら拾った木の葉を配した写真としてみた。

Gedc3149

  常設展では、案内書によく登場するH・ヴォス「十字架を背負ったキリスト」、J・アンソール「仮面を持った老婦人」は、注意してみた覚えはあるのだが、エミール・クラウスは知らず、通り過ぎてしまっていたのだろう。美術館案内書を今回読み直すと、ベルギーの象徴主義と印象主義の担い手としてクラウス、アンソール、クノップなどの名前が出ていた。今回のクラウス展に出品のゲント美術館所蔵は前記事の「そり遊びの子どもたち」と「晴れた日」くらいだろうか。

 旅行のアルバムのポケットからは、次のようなシオリも出てきたので、あらためて写真におさめた。右側のシオリの原画は、大きな右手は下に伸ばしている様子が描かれて、”Recling farmer”(Constant Perneke)と題されていた。

Gedc3153

 常設展の作品で、いま手元に残っている絵葉書は、つぎの2枚で、上段が連れ合いが選んだ「お絵かき上手」(ヤン・フランス・フェルファス 1877年)、下段が私が選んだ風景画で作者は、Lodewijk de Vadder(1605~1655)とあった。

Gedc3165

 

  ゲントではトラムには乗らずに、すべて歩いたためか、今思うと、町の中心部しか動いていなかったようだし、美術館も他には入館しなかったのが悔やまれる。聖バーフ大聖堂、聖ニコラス教会、聖ヤコブ教会などをめぐり、バーフ広場のレストランでは、鐘楼からのカリヨンの音色を楽しみながら食事をした。さらに川沿いに北へ向かうと、リーヴァ川との合流地点には堅固な石の城塞、フランドル伯爵城が突如現れる。地下には博物館もあり、登るとゲントが一望できるとのことだったが・・・。下の左側は、聖バーフ大聖堂の道、右側は、聖堂内の正面の祭壇である。

Gedc3166

 

 

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エミール・クラウス展とゲントの思い出(1)

 改装された東京駅を通過したことはあっても、じっくりは見ていない。東京ステーションギャラリーで、ベルギーの印象派の展覧会をやっているという記事とやさしい絵柄のポスターに是非にもと思っていた。東京に出たついでながら、寄ってみた。正式には「エミール・クラウスとベルギーの印象派」(2013年6月8日~7月15日)。クラウス(1849-1924)の名は初めて聞く。ゲントの美術アカデミーの校長先生で、日本からでは珍しく、ベルギーに留学した児島虎次郎と太田喜二郎の師でもあったという。その日本人画家の名も聞いたことはあるが、どんな絵を描いたのだろう、という程度のことだった。
 ゲントといえば、海外旅行の行き始めの頃、2002年の秋にブリュッセル4泊、パリ3泊というラフな計画で発った旅で、ブリュッセルから日帰りで 出かけたところでもあった。たった1日の滞在でなつかしいもないのだが、好印象の記憶がよみがえる街なのだ。

「ルミニムス」って?
 

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↑①「野の少女たち」((1892頃、ベルギー個人蔵)

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↑②「レイエ河畔に座る少女」(1892年頃、ベルギー個人蔵)

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↑③「そり遊びをする子どもたち」(1891年、ゲント美術館蔵)


 クラウス作品は、ゲント美術館からの出品はあまり多くはなく、下記の第2章にほとんど集められていた。
第1章 エミールクラウスのルミニムス
第2章 ベルギーの印象派:新印象派とルミニムス
第3章フランスの印象派:ベルギーの印象派の起源
第4章ベルギーの印象派、日本の受容

 今回の展示での順路は、第2章から始まり、第1章のクラウス作品へと導かれる。クラウスの出品作の大部分は、ベルギーの個人所蔵のものが多いから、これだけまとまって見られるのはまれなのかもしれない。
 ①は、展覧会のちらしの背景になっていた作品で、枯れ草の野道を靴を脱ぎ、裸足で三々五々、帰ってくる光景だろうか。逆光のなかの少女たちの表情はやや疲れを見せる風でもあり、充実感が感じられる風でもある。
 ②のレイエ川は、ゲントの街を流れる川で、クラウスの絵にはしばしば登場する。ゲントは、スヘルデ川とレイエ川が合流し、水の豊かな街でもあり、小さな観光船も行き来している。この絵のレイエ川はゲントの郊外、クラウスの住まいのあったラーテム村だろうか、チケットの絵にもなっている。
 ③は「ルミニムス(光輝主義)」と呼ばれるにふさわしいような作品で、今回の展覧会カタログの表紙を飾っていたが、私は数枚の絵葉書だけ買って、購入はしなかった。そんなわけでやや資料不足ではある。
  エミール・クラウス展の会場では、もちろん撮影は禁止。3階から2階に移る時の写真と窓からの写真が撮れた。回廊からの丸の内北口ホールを俯瞰したが、斜めになって失敗。帰りを急ぎ、結局、今回も駅舎見学は見送りとなった。(続く)

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2013年7月 6日 (土)

「花岡萬舟・戦争画の相貌Ⅱ」展へ

 会期末も近い「花岡萬舟・戦争画の相貌Ⅱ」展(520日~76日、早稲田大学会津八一記念博物館)に出かけた。というのも、私のブログの「戦争画の相貌・花岡萬舟連作展へ」という下記の記事へのアクセスがどういうわけか増えているナ、と思っていたところ、表記の展覧会が開催されていることを知った。

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↓正面奥に大隈重信像が見える
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http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/07/post-3f6e.html

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↓前回展覧会の案内はがき(「大別山突破」)

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南門を入ってすぐの2号館の旧図書館、会津八一記念博物館は、キャンパスの喧騒からは想像もつかない静かな一画である。詳しくは、上記、前回の展覧会の2009年7月の記事に譲るが、寄贈された花岡萬舟の戦争画は、前回の展示には間に合わなかった、傷みの修復が完了して、残りの作品が公開の運びとなり、パートⅡと題された。2回の展覧会の趣旨は、その主催者の「絵画作品が担ったプロパガンダの役割を戦争画の展示空間そのものを通して、如実に伝えていこうとする試みです」「過去にあったコトの隠蔽が歴史考察の土台を形成しうるはずがありません」(「花岡萬舟・戦争画の相貌Ⅱ」カタログ)という言葉に集約されている。これらの言葉は、竹橋の東京国立近代美術館が、アメリカから返還された150点以上の戦争画を、小出しに公開するのみで、言を弄してその全容を公開しようとしないこと(以下のブログ参照)への抗議でもあろうか、私立大学の博物館の自負でもあろうか、この企画に敬意を表したい。 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

2009921日)

 

萬舟の絵画の芸術的な価値については、専門家ではないので控えるが、なんとなく昔の子どもの絵本や戦記ものの挿絵を見るようで、平板で、タッチは軽いように思われる。萬舟は、前線の兵士たちとどこまで一緒に従軍したのか、資料や写真による制作だったのかは、他の戦争画と同様、ほとんど不明で、萬舟の場合は制作年も明らかではない。ただ、カタログの解説にもあるように、雑誌に発表されたり、展覧会に展示されたりの記録がある作品は、その作品の内容と摺合せ、制作年の見当がつけられるが、今回のカタログのデータには、推定の制作年も記されないままであり、解説で考証されるのみであった。公開作品は33点、前回公開済みの大作も2点が含まれていた。 

展示の中で、最も印象深かったのが「英霊永久ニ眠ル」と題された作品だった。激戦のあとの焼跡の夕ぐれ、建物の残骸が遠・近に配され、辛うじて焼け残った樹木の幹だけが立ち、その間に建ついくつかの白木の墓標、そこだけ夕陽につつまれるように膝まづき祈る人影。その人影に配された小さな日の丸は日本人兵士の犠牲を意味するのだろうが、空しさが際立つ荒涼とした風景である。 

さらに、勇壮な戦闘場面というわけでもない「重慶ノ水汲ミ」は、階段を天秤で水桶を運ぶ人々を描いた作品で立体的な構図が生きていると思った。が、会場の係の人と話す機会があって、この天秤の使い方がおかしい、手の位置がおかしいので多分、写真を見て描いたのだろうと指摘する入場者がいらしたということだった。また、今回の案内絵はがきの背景にもなっている「死のクリークに架る人橋」は、臨場感がある作品と思ったが、これも、『支那事変写真帖』(研文書院 19381月)に「涙せよ!蘇州河に於る工兵隊の活躍」とのキャプションがある似た構図の写真が、カタログに掲載されていた。タネ明かしされたような気分ではあった。数年前、竹橋の国立近代美術館に展示されていた、清水登之「工兵隊架橋作業」(1944年 戦時特別文展陸軍省特別出品) と題する作品を思い出す。人間の橋ではなく、首まで水につかって架橋作業をする兵士たちを描いていた力強い作品だったが、あれにも写真があったのだろうか。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

2009921日)

ともかく、ここで大事なのは、少なくとも、多くの戦争画が、多くの画家によって、こうした経過の中でプロパガンダとしての絵が描かれたという事実を直視することではないかと思う。

↓今回の案内絵葉書(「死のクリークに架る人橋」)

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 ↓花岡萬舟「英霊永久ニ眠ル」

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↓清水登之「工兵隊架橋作業」(1944年)

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前回のブログ記事には、いくつかのコメントが寄せられ、リンクをしてくださったブログもあった。返信もしないままではあったが、今回の記事をそれに代えることができればと思いつつ。会場の係の方には、ブログのこともしっかり?!宣伝をして、会場を後にした次第である。

↓展覧会会場を出て振り返れば大隈講堂、2号館前では大掛かりな建設工事が進んでいて、それを蔽うシートには、早稲田キャンパスの新旧の建物のスケッチと解説が書かれていた。

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