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2013年8月28日 (水)

残暑お見舞い申し上げます~根性スイカと犬の快癒に励まされて  

立秋を過ぎてからの猛暑がきつかったが、我が家では故障者続出してしまった。

 まず17歳の飼い犬が、エサも水もまったく受けつけなくなって、丸4日、動物病院に往診をお願いした。紙おむつをあてがったりしたが、マットの上で大小の用をたしたりするので、夜は添い寝が続いた。夜啼きをするわけではなかったが、ときどき悲しそうに一声張り上げる。3日ほど点滴をやってもらい、あとはご自分でもできますよ、といわれ、連れ合いが担当した。500㏄の点滴剤を2回に分けて3日ほど続けた。やはり熱中症だったらしく、点滴後は、スポイトからだとわずかに水を飲むようになり、太い注入器に、ペースト状のえさをさらにお湯で薄めていれて、口にあてがうと、ぺろぺろと舌を出して食べ始めた。ただ息苦しさは相変わらずで、はあはあと絶え間なかったが、口元が震え出したのは、見ていて辛かった。が、この頃から、ペースト状のえさと普段のえさのご飯や白身魚、ささみ、牛肉、卵、 カボチャなどをいつもより小さくちぎって混ぜ合わせると、器から自力で食べるようになった。いつもはよく食べる野菜は苦手だったらしい。足が弱り、長い間立っていられず、ぺちゃんこに座リ込んで平らげることもあった。一段落して、連れ合いが使用済みの点滴の空き袋や針、注入器を動物病院に返却にいくと、主治医は「お年なのに、よく頑張りましたね」とその立ち直りの速さに驚いていらしたそうだ。いまでは、食欲の秋を先取りしているかのように、用意していると台所まで催促に来る。

 この犬の介護の途中で、私は、腰痛に見舞われ、整形外科へ駆け込んだ。レントゲンでは確かに背中がカーブを描き、椎間板の一番下の部分がつぶれているのがわかったが、痛さの原因は、支える筋肉の疲れ?でしょう、ということで、バンドを正しい位置で着用する指導、筋肉弛緩剤と鎮痛剤の処方がなされた。かつてのぎっくり腰のようなことにはならずに済んだのは幸いだった。一難去って一難。 続く猛暑に、犬は口もきけないし、暑がり屋だからしっかり冷房してください、との獣医師の言葉もあって、昼は犬と一緒の居間は、24~25度くらいに設定していた。タダさえ冷房に弱い私はよく26~27度に設定し直しての、攻防戦であった。8月下旬になっても続く猛暑、ある日、左耳周辺がひりひり痛い、そしてその夜、ズキンズキンと痛みが続いて、眠れないほどだった。あわてて翌日、近くの医院にいくと、先生は、発赤が出ればヘルペスだし、難聴や顔面のこわばり・歪みの症状が出たらすぐ大学病院に行ってください、取り返しがつかなくなることがある、と脅かされた。血のめぐりをよくするビタミン剤と神経の傷を修復するという薬の処方が出た。幸い、鎮痛剤は2回飲んだだけで、以後、痛みも違和感もなくなって今に至っている。私は、冷房の当たり過ぎが原因の神経痛ではなかったかと思っている。

 連れ合いが唐津での講演のため一泊で出かけ、ホテルのレストランから、窓辺の海岸線や唐津焼の器などの写真がメール添付で届いたりした。うらやましいなあ、と思っていた矢先、帰宅するなり、ぐったりの様子、38度台の発熱にあわてる。不規則な生活が続いていたから疲れが出たのか、熱中症なのか、市販の風邪薬を飲んで、眠りつづけた。口にするのはお茶と果物だけだったが、翌朝には37度台、午後には平熱に戻って、ほっとする。  

 一方、決断するという安倍首相は外遊の中、消費税についての集中点検会合での60人のヒヤリング、その人選がおかしい。適宜「反対派も混ぜておきました」というアリバイ工作、慎重姿勢の演出が見え透いている。国民の声を届けるには。
 ブルネイでのTPP交渉、アメリカ主導が顕著になり秘密裏に進む。大挙してヴェノスアイレスへ出かけたオリンピック東京招致の面々、利用されているアスリートたち、オリンピックより先にやることがあるのではないか。福島原発での放射性物質汚染水の流出が続く。国が乗り出すということは? シリアに対して「いかなる化学兵器も許されず・・・・」と言いながら、「いかなる核兵器も許されず・・・」とあったから調印しなかった日本の外交・・・。

 体力を温存しなければの思い頻りだった。そんな中で、ますます元気なのは、家の前に実っていた根性スイカだ。このブログでも何度か登場願ったが、ますます大きくなってきた。

<元気になった飼い犬とのツーショット>

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↑ どれどれ、こんなに大きくなって!

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↑ ここでは決して用は足していません

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↑この猛暑には勝てず、つい寄りかかって・・・

 

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2013年8月16日 (金)

8・15が過ぎてゆく~二つの特集番組をみました

ことしは忙しいからと帰省する者がいない。食欲をすっかりとり戻した老犬といつもと同じ時間が流れる。自分が欲しくなって、おはぎを作り、仏壇に供えた。千葉市立美術館での高村光太郎展をぜひと思っていたが、あまりの猛暑に外出を控えた。

NHKスペシャル『従軍作家たちの戦争』(814日午後10001055

814日のNHKスペシャルは『従軍作家たちの戦争』であった。芥川賞作家、火野葦平(19061960)が陸軍報道部のプロパガンダにいかに取り込まれていったか、そして、当時も敗戦後も、死後発見された従軍手帳や父への手紙、周辺の人々、内外の研究者らの証言により、本人はいかに苦悩していたかが語られていた。

火野は、敗戦後、戦時下の活動により公職追放になったが、執筆活動は続き、その華々しさと小説家に似合わない、精悍で任侠の雰囲気を漂わせた写真などが子供心に印象に残っている。19601月の病死は、12年後、遺族により自死であったことが公表され、いささか衝撃を受けたことが思い出される。戦争責任の取り方の一つの形であったのかもしれない、と思ったものだ。

番組では、火野が過酷な前線の現実と自らの作品とのギャップに苦悩した姿を浮き彫りにする。南京攻略戦において石川達三の『生きている兵隊』などによる<真実の漏えい>という、軍部の広報・宣伝の失敗を払拭すべく、ナチスのPK部隊を真似た<従軍作家>を立案した陸軍報道部の馬淵逸雄についても語られる。「メディア戦略」を担ったキーパーソンとして紹介されるのだが、番組としての評価が曖昧で、遺族も登場させている。戦時下のNHKにはどんなジレンマがあったのか。今のNHKが、現在の政府のメディア戦略にどう対応しているのかにもかかわる問題でもある。過去の他人事のような流れが気になった。同時に、従軍作家として活躍し、多くの若者たちを戦場に駆り立てた、火野以外の作家たちの戦後にも焦点をあてて欲しかった。さらに、浅田次郎が番組の冒頭と締めくくりに登場し、戦争が始まり、真っ先に侵害されるのが表現の自由であると結論づけるのは、その通りなのだが、火野の苦悩や良心という個人的な事情が、あたかも、他の従軍作家たちの免罪符にもなっているような印象を免れなかった。

火野は、最晩年の『革命前後』で、死後、日本芸術院賞を受賞したという。もし、生きていたら、授賞を受け入れたか、辞退したか。『革命前後』は、私の夏休みの課題図書になりそうだ。

ミヤネ屋の「終戦の日スペシャル」(日本テレビ、815日午後155~)

 知覧からの全編生中継ということであった。特攻隊の基地「知覧」については、出かけたことのある連れ合いからもよく聞かされていたので一緒に見たかったが、緊急の仕事ということで、前半だけだが一人で見た。途中からは、電話があったりで、見たり見なかったり。録画はなんと肝心の後半が時間切れであった。宮根キャスターに同行するコメンテイターは百田尚樹、ベストセラー『永遠の0』の作者だという。

番組では、知覧の滑走路跡、特攻平和会館、戦闘指揮所跡、三角小屋跡地、移築三角小屋、富屋旅館などをめぐりながら、何人かの特攻隊員のエピソードというにはあまりにも過酷な出撃に至る経緯が語られる。また、生き残りとされる人々の証言も挿入される。そこで強調されるのは、特攻隊員はほとんどが命令によるもので、本心は誰もが死にたくはなかったにちがいない思いを証する資料や証言、それぞれの隊員たちにはかけがえのない家族がいて、その家族には心配を掛けまいともする思いに溢れる遺書や手紙が紹介される。そこには、祖国を守るとか、敵を撃墜するとかの言葉はもはや薄らいでいたといってもいいようだ。生還を想定しない特攻作戦は、かなり早い時期から練られていたともいう。

陸軍による航空特攻作戦は、250キログラムの爆弾を装着した戦闘機で敵の艦船に体当たりをして沈めるという無謀な計画だが、機体や操縦の不備で帰還する者もあったという。19453月から719日まで続けられ、犠牲になった隊員1036名のうち、439名が知覧から発進している。九州には鹿児島の鹿屋はじめ、宮崎、熊本、福岡をあわせて12の基地があった。

番組は、2時間近くに及んだ。隊員の、家族の悲劇は語られ、家族の絆は強調されるが、特攻作戦の拠って来る所、こうした戦争が始められ、やめられなかったのはなぜか、一切、遡ろうとしないのであった。

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2013年8月11日 (日)

『天皇の短歌は何を語るのか』(御茶の水書房)刊行のご案内

猛暑お見舞い申し上げます。

このたび、『天皇の短歌は何を語るのか』が上梓の運びとなりました。『短歌と天皇制』(1988年)『現代短歌と天皇制』(2001年)につづくテーマですが、店頭で手に取ってご覧いただければうれしいです。じっくり読もうと、もし思われましたら、ご購入いただければありがたいですが、なにせ 高額なものですので、近くの図書館にリクエストしていただければ幸いです。

本書には、今回初めて、索引を付しました。人名索引だけですが、面倒な作業となりました。ミスなどないか心配です。

また、短歌総合誌などに寄せたエッセイなど幾つかを、コラムとして収録しました。相変わらずながら、多くの図表や年表を作成いたしましたので、本文の補足になれば何よりと思っています。

このような表紙のカバーとなりました。若生のり子さん、ありがとうございました。菊をテーマに、重くならず、「青い花火」のような涼しさも感じられますが。

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<御茶の水書房HP>よりNEW
『天皇の短歌は何を語るのか
―現代短歌と天皇制』

         著者:内野光子
    2013年8月刊行
       定価:3990円(本体3800円+税)
    ISBN:978-4-275-01044-5

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『天皇の短歌は何を語るのか―現代短歌と天皇制』 目次

Ⅰ.天皇の短歌は何を語るのか―その政治的メッセージ性

1.昭和天皇の短歌は何が変わったのか

.象徴天皇の短歌―皇統譜と護憲とのはざまで

3.天皇の短歌、福祉・環境・災害へのまなざし

4.天皇の短歌、平和への願いは届くのか 

Ⅱ.勲章が欲しい歌人たち―歌人にとって「歌会始」とは
1.勲章が欲しい歌人たち
2.芸術選奨はどのように選ばれたか
3.戦後64年、歌会始の現実
4.「歌会始」への無関心を標榜する歌人たち
.「歌会始」をめぐる安心、安全な歌人たち
6.東日本大震災後の歌会始
7.「社会詠」論議の行方                                                                     

Ⅲ.メディア・教科書の中の短歌
1.短歌の「朗読」、音声表現をめぐって 
2.竹山広短歌の核心とマス・メディアとの距離  
3.教科書の中の「万葉集」「短歌」  
.主題の発見―国家・政治・メディア
5.中学校国語教科書の中の現代歌人―しきりに回る「観覧車」

Ⅳ.『ポトナム』をさかのぼる
1.小島清、戦前・戦後を「節をまげざる」歌人
.『ポトナム』時代の坪野哲久 
.内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか―女性歌人起用の背景―  
4.醍醐志万子―戦中・戦後を一つくくりに
.『昭和萬葉集』に見る『ポトナム』の歌~第五巻・第六巻
  
(一九四〇~一九四五年)を中心に

コラム7件
図表・年表13件 

あとがき
人名索引

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家の前の駐車場側溝の根性スイカ、二つ目はかなり大きくなりそうです。三つ目がすでに向うがわに実り始めました。一つ目は、大きくならない前に、満身創痍、朽ちてしまいました。

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2013年8月 1日 (木)

避難所の非常時登庁訓練に参加しました

 自治会の自主防災会に参加して3年目、311直後、参加を誘ってくれた友人は、辞めてしまったのだが、続けている。

 災害時の避難所になっている近くの中学校で、近隣の市職員が避難所に登庁する訓練が毎年実施されているが、震災の年は中止、昨年は所用があって参加できなかった。

 今日は、市職員7人、中学校職員20人近くと、防災会からは私を含めて2人、民生委員1人が参加した。学校の夏休みを利用して、8月下旬まで佐倉市内39か所の避難所で順次実施されている。

 今日のメインは、①市職員との顔合わせ ②防災倉庫点検とくに、発電機使用と簡易トイレ組立訓練 ③防災井戸説明 ④プールの水の浄水機操作訓練であった。

 ①では、ご近所の顔見知りの人は7人中二人ほどであった。町内に、市職員はまだ住まっているようなのだが、他の避難所への登庁要員なのだろうか。いざとなったら、各々の家庭もあるし、職場もあるし、実際に避難所の運営に関してはどうなるのだろう。学校関係者は、生徒が在校している時間帯であるか否かにもよるだろう。避難者の自治ということも大事なことになってくるのではないか。

 ②防災倉庫の中身として、備蓄食料の少ないことは、行政のたびたびの説明で聞かされているがアルファ米1350食、クラッカー132本セットが490パックという程度、私たちの自治会だけでも660世帯、住民は2000人くらいだろうか。避難住民は全体の10数パーセントと見込んでいるらしいのだが、この避難所は、私たちの自治会の住民だけの避難所ではない。当自治会の防災会でも、昨年から、備蓄食料を5年計画で買い始めているが、それでも量的な不安は大きい。行政は、もっぱら自助を叫ぶが。

発電機は、避難所に一基、8時間しかもたない。備えるガソリンの劣化の問題もある。簡易トイレは、段ボールの多目的ブースを組み立て、簡易便器を設置することになる。全部で20基、ブースだけだと、更衣室や授乳室にもなるというわけだ。このブースには、ドアまで付くが、組み立てには、いくら手際よくしても初めてだと78分はかかるのではないか。屋外では、ビニールシートで覆うというが雨天の場合は、強度に問題がありそうだ。

 ③市内39か所の避難所の防災井戸設置は、あと一か所残すのみになったという。井戸水をいつでも飲めるような状況にするには、捨て水も大事だという。蛇口からほとばしる水は、水道水よりはもちろん冷たくおいしかった。この中学校の防災井戸が一昨年の311直後しばらく作動しなかったのは、どうも操作ミスだったらしい。その後、水道水のセシウム含有の心配もあって、しばらくの間、ずいぶん遠くの住民も、この防災井戸に水を汲みに来ていたのを知っている。防災倉庫に水の備蓄はないので、防災井戸の管理は、重要課題である。

 ④災害時の水の提供に関しては、もう一つ、プールの水を浄水することによって確保することができる。その浄水器の使用方法を市職員が見せてくれた。この中学校では、プールの地域開放も、水泳部もないので、夏の休暇に入って一週間は経ち、夕立も何度かあったので、水はかなり緑色になっている。ほんとうに飲める水になるのか、今回も不安である。プールの水は活性炭を通し、塩素滅菌剤ピューラックスの希釈液を落とし、塩素濃度とPH値を確認の上、塩素の場合は点滴の量で、アルカリ性が強かったら二酸化炭素剤で調整すれば、適正な飲料水が出来上がる。浄水された水をコップに注ぎ、一同で乾杯となった。ぬるいのは致し方なかったが、冷やせばおいしい?水かもしれない。活性炭は、100トン分の浄水が可能なカートリッジになっているそうだ。

 プールの消毒と言えば、実家の父は薬屋を開いていたので、当時、昭和20年代の終わりころからか、近くの中学校の学校薬剤師にもなっていた。毎夏、プールの消毒をすると云っては、試薬と塩素剤の一式をもって、自転車で中学校に通っていた。父は、中学生との交流を楽しみにしていたようだ。他にどんな仕事をしていたのか、今となっては知り得ないのだが、プールの消毒だけは年中行事であったようで、よく覚えている。いまも学校薬剤師という制度はあるらしいのだが。薬物対策など別の課題があるのではないか。

 水について、佐倉市では、業者一宮運輸・千葉ガスとの協定によりアクアクララの提供、市内に工場のある東京名酪とも協定を結んでいるそうだ。また近頃話題になっているアレルギー除去食品については、力を入れているという石井食品との協定もあるそうだが。

 災害時、避難生活がうまく機能するには、行政・学校職員はじめ住民の、日常の想像力と訓練と、かかわる者の知恵がかかっている。

  カメラを忘れたので、残念ながら画像はない。

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  生協の配達の方が教えてくれた。ど根性スイカが実っていますよ、と。なるほど我が家の前の駐車場の石垣の端のわずかな土から伸びて側溝の上に、傷だらけのスイカがあった。私の拳より少し大きい。

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