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2013年9月27日 (金)

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ

  

 猛暑のこともあって、延び延びになっていた「戦争/美術」展へ行ってきた。9月に入って、拙著をお送りしたご縁で、大学で表象文化論を講じているKさんより招待券まで送っていただいた。その日は、曇り空でもあったので、車中の冷房がややきつく思われたが、戸塚で湘南ラインに乗り換えると、タンクトップに短パンという若い外国の女性グループや大きな荷物の外国人カップルが目立つ。大方が、鎌倉でどっと降りて行った。逗子駅下車、バスの1番乗り場の「海岸回り」葉山行と駅前交番で確認。前回は新逗子駅から乗ったのだった。途中、「日影茶屋」の前を通る。いまは高島屋の経営らしい。一度、神近市子を偲びながらランチでもと思うが、今日も無理かもしれない。約20分弱、三が丘下車。神奈川県立近代美術館・葉山館まで、家を出てから、ちょうど3時間の道中だった。

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展示のコンセプトは

 展示作品一覧のようなプリントがないので、尋ねてみると、カタログの巻末出展作品の一覧表のコピーならどうぞ、ということで頂戴した。どういう構成になっているのか、どうも1940年の直前辺りから、編年体の展示で、1950年代まであるらしい。時代背景や解説は極力排して、作品自体を見てもらうというコンセプトであると、新聞の美術時評で読んだことがある。それに今回は、1945815日で区切ることなく、一続きの画家たちの営為をたどろうとする試みであったという。神奈川県立近代美術館所蔵の作品が主力で、美術館葉山の公式ホームページには、つぎのようにあった。

「・・・総動員体制のもと自由が圧殺され戦争に突入し、敗戦をきっかけにしがらみから解放されるという極端な振れ幅の時代のなかで、優れた才能はどのような創造の営みを続けていたのか、あるいは、中断や挫折を余儀なくされたのか。しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた画家たち(の足跡を辿る)。・・・」


 「しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた」とある部分に、私は、違和感を覚えていたのだが、どんな展示になっているのだろうか。うーん、美術の世界でも、こうした戦時下の画家の「見直し」が着々となされているのだな、という思いだった。

 

編年体で構成されている展示を、以下、便宜的に私流にまとめている。

 

前史~1930年代後半

 1940年までの序章の一枚目が、山口蓬春の「立夏」と名付けられた、紫黒色の花をいくつも付けた一本のタチアオイであった。松本竣介「建物」、靉光「満州風景」、内田巌「裸婦」、原精一「青年立像」に続く、上野誠の版画、朝井閑右衛門、山下菊二、村井正誠、麻生三郎らの1930年代後半の作品は、重厚な写実あり、都会的なモダニズムありで、その多様な作品からは戦争の影が見い出だせない展示になっていた。

原精一(19081986)のコーナーになって、戦時色は色濃くなる。軍隊内のさまざまなスケッチからは、時を選ばず、紙と鉛筆だけの、ときにはわずかな色遣いの水彩画の中の兵士たちの現実、画家のやさしさが伝わってくる。30点近くは、最初の応召で中国に出征した折の作品、年配の「戦友」を正面から描いたパステル画、膝元に拠る犬と戯れている兵士を描いた「横山隊の兵士」、「岳陽報道部」の走り書きがある、椅子を寄せて会議をする部員の背には緊張感も漂う「報道部」などが印象的だった。Kさんもお勧めの作品群であった。

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193841年、日本版画協会が刊行した「新日本八景」シリーズも興味深かった。谷中安規「大川端」恩地幸四郎「雲仙一景」などに交って、前川千帆「朝鮮金剛山」などの外地の名所も現れる。

1940年、1941

上野誠の版画の労働讃歌の主調は変わらない。日本画の丸木位里(19011995)の「不動」(1941)、彼と結婚した、洋画を学んだ赤松俊子(丸木俊19122000)の「アンガウル島に向かう」(1941)は、ゴーギャンを目指しての南洋諸島体験の成果でもある。紙に描かれた両作品は、日本画か洋画か判別はできない。同じ頃、靉光の人物画も紙の淡彩で、当時、ジャンルの枠組みを相対化するような動きであったことがわかる。この頃の丸木夫妻、内田巌(19001953)の「鷲」(1941)などの作品には、彼らの戦後の仕事や生き方、「原爆の図」作成への情熱や社会的活動への萌芽があったのかもしれない。

 

1942年、1943年、1944

 同様のことは、この時期の松本竣介(19121948)「工場」「立てる像」(1942)、もっぱら家族の人物像や静物を描き続けた麻生三郎(19132000)、井上長三郎(19051995)の決戦美術展から撤去された「漂流」(1943)にも言えるのではないか。松本,麻生、井上、靉光と鶴岡政男、今回登場はしない糸園和三郎、大野五郎、寺田政明のあわせて8名が「新人画会」を結成した1943年から統制が厳しい戦中に3回の展覧会を開き、自らの芸術を追求していた。数年前、板橋区立美術館の「新人画会展」で彼らの絵に出会ったときの新鮮さと抵抗の様々な形を思い出していた。その時のブログ記事を合わせてお読みいただければと思う。


20081228日「新人画会展―戦時下の画家たちが―絵があるから生きている」(板橋区立美術館)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-d70f.html

 

なお、今回の展示では主要画家に位置付けられている藤田嗣治(18861968)と山口蓬春(18931971)だが、藤田は、当時の軍部の要請で「作戦記録図」の作成に積極的にかかわり、戦後は、占領軍の「戦争画」収集にもかかわった。山口は、会場の葉山館の敷地の向かいの高台に住んでいて、いまは山口蓬春記念館となっている。葉山とは縁が深い日本画家である。山口は、当初、東京美術学校の西洋画科に学んだが、のち日本画に転向した経歴を持つ。1942年には、陸軍省から南方に派遣され、サイゴン、香港、広東に滞在、この会場には、香港の作が5点並んでいた。この日の会場には、唯一の「作戦記録画」と目される「香港島最後の総攻撃図」の下絵があった。本体は、東京国立近代美術館の「戦争画」(アメリカからの無期限貸与)153点の中の1点で、前期の展示であったらしい。他の香港風景は、いずれも、穏やかで明るく、海辺の国際都市の雰囲気がただよう風景画であった。藤田の出展作は「ブキテマの夜戦」(1944)と「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)の2点であり(ちなみに、上記東京国立近代美術館の153点のなか、最も多いのが藤田で14点を数える)、山口の作風とは対照的であった。ブキテマはシンガポールの中心部から10キロほどの高地、1942年、英軍と闘った激戦地で、作品は、激戦の跡が克明に描かれている。散乱しているものは何なのか、目を凝らさないと分からない暗さである。他の1点は夜の荒海に漂流する小舟に10人近くがひしめいている米兵を描く。また、東京国立近代美術館の戦争画についてと藤田嗣治については、本ブログの以下において書いたことがある。

20081213日「上野の森美術館<レオナール・フジタ展>、欠落年表の不思議」

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

2009921日「国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方」

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html 


1945
年~

「戦争記録画」というのであれば、丸木位里・俊夫妻による「原爆の図」こそが「戦争記録画」と言えるだろう。「原爆の図」シリーズは、不覚にもこれまで見たことがなかった。埼玉県の女性教育会館までは足を運んでいながら、丸木美術館に行かずじまいであったから、今回、その一部を見ることができたのがありがたかった。四曲一双屏風となった「原爆の図・第二部 火」(1950)「原爆の図・第四部 虹」(1951)には圧倒される思いであった。「火」では、原爆の赤い炎が黒い塊になっている人間たちのなま身を焼きつくしてゆくさまを描き、「虹」では、惨い静寂の中の、右端に、倒れている馬と真裸の母子像の頭上の淡い虹を描く。浜田知明のエッチングの「初年兵哀歌」シリーズは自らの2度にわたる軍隊生活の回顧による作品のえぐられるような鋭さが印象に残った。

 これまで見てきた画家たちの1940年代後半から50年代かけての作品の展示が、どういう意味を持つのかは、やや曖昧さが残る。「連鎖と変容」、一人の画家が持ち続けていたものを探る作業と変容を見極めるのには、編年体ゆえにやや散漫にも思え、捉えにくい。描いた年による「輪切り」での横断的な構成としては、選んだ画家が恣意的ではなかったか。それにあえて省略したと思われる「年表」の類も、会場に欲しかった。 

「しなやかに、したたかに、ときに強情に生き抜いた画家たち」と束ねてしまえるのか、やはり疑問を残しつつ、会場を後にした。 

これからも、戦争と美術を検証しようするならば、戦時下に描かれた作品の発掘と収集・保存・公開への努力が必要だろう。さらに、現に東京国立近代美術館に「もどって来た」戦争記録画の早期全面公開を、市民として強く求めて行きたいと思うが、たとえば、全国の美術館が一丸となって、公開を要請することはできないのだろうか。 

今回の会場の展示ケースには、大量の関連文献も展示されていた。画家たちの従軍記やエッセイ集、画集やカタログ、美術雑誌など貴重な資料が多かった。かなりのものが「青木文庫」となっていたので、地下室の図書室に寄って尋ねてみた。長い間、美術館の学芸員、館長などを務められたのち、現在は大学の教職に就かれた青木茂氏の寄贈資料だということがわかった。『書痴・戦時下の美術書を読む』』(平凡社 2006年)の著書があることも知った。未整理の資料やまだ青木氏のお手元にある資料は膨大らしいと聞いた。

 

↓図書室の入り口には、今回の関連テーマの書物が集められていた。

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↓遅い昼食を済まして、レストランを望む。庭園には赤とんぼが群れをしなして飛んでいた。台風20号が近づいて、少し波頭  が立つ一色海岸

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↓町内会の掲示板の津波避難経路らしい。

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↓「山口蓬春記念館は歩いて2分です」の看板に誘われて、「蓬春こみち」を

 上ってゆく。

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↓残念ながら、リニューアル中で休館でした。

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↓山口蓬春「夏の印象」(1950)とチケットでした。

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