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2013年9月29日 (日)

下総航空基地へ~佐倉の航空機騒音の原因の一つ

928日(土)は、地元の9条の会の有志で、海上自衛隊の下総航空基地開設54周年記念祭に出かけてみた。新京成の新鎌ヶ谷駅前から、基地行きシャトルバスが出ていて、10分ほどでゲイト通過、しばらく走っての下車。子連れの家族が多いし、若い男性も、年配の男性も多い。かまぼこ型の巨大な格納庫が3つ並んでいる。一つをくぐると航空機やヘリコプターが幾機も並んでいて、もうすぐ「祝賀飛行」が始まるということで、遠い滑走路を前に、何重にも人垣があり、肩車の子どもも何組か見える。

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まず習志野駐屯地の空てい部隊のヘリコプターからの降下のパフォーマンス、赤い発煙筒がたかれた草はらに次々と着地する。P-3C三機による低空での旋回が始まる。青空の銀翼を真下から見上げるのは初めてである。佐倉の自宅の上空で見るP-3C700m前後かそれよりも低いこともあるらしいが、この日見上げたのは、もちろんそれよりも低空である。地上の見物人からは思わず声があがる。第2格納庫前の放送席からは、簡単な説明が流されるが、振り向くとその左右には、制服の幹部たちと背広の来賓たちが並んでいるのに気が付いた。佐倉市長が来賓席に来ているかどうかは、オペラグラスでもないと分からない。「祝賀飛行」が終わると、「午餐会」へどうぞと、そこは空っぽになった。

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私たちも少し早目のお昼をということで、お好みの屋台の店に並んだ。腰を下ろした芝生の辺りには赤とんぼが飛んでいた。再び戻った格納庫では、太鼓の披露のさなかでもあり、隣の格納庫では、装備品の展示場になっていた。大震災時、浦安で活動した給水車や一度に200人分の炊飯ができるという炊飯車なども展示され、大きなお釜の周りには幼い子供たちが乗り降りしていた。落下傘や迷彩服の装着ができるコーナーでは若い男性たちが順番待ちをしていた。東日本大震災の折の救助活動が感謝されたというが、自衛隊の存在・目的を意図的にすりがえてしまっているのではないか。こんな風に、軍事化への道に取り込まれていってしまうのだろう

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祝賀飛行の折は近づけなかった航空機やヘリコプターが接近して見られるようになり、説明の隊員も配置されていた。軍事オタクというか飛行機オタクというのか、望遠レンズ装着のカメラを持った男性たちが右往左往していた。昔、『航空ファン』『航空情報』とかの雑誌があったのを思い出すが、いまどうなのかなあ。ヘリコプターでも、戦闘用と輸送用では、プロペラから姿形などこれほど異なるものかというのも知るのだった。ところで、この基地の滑走路は、帰宅後調べると、長さ2250m、幅30mだったそうだ。

最後に、資料館へということになったが、案内の隊員に尋ねると、休館かもしれないし、歩いたら15分もかかるという奥まったところにあるとのことだった。この基地の沿革など知りたかったのだが、残念ながら、次の機会に譲ることにした。シャトルバスも混まないうちにと、止まっているバスに着席してしばらくすると、なんと見る見るうちに長い行列になっていた。

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基地開設54周年というのが、今日のイベントだったのだが、ホームページをざっと見たところ、19606月に米軍から全面返還されて、自衛隊の基地になったのである。先のブログにも書いたが、もともと、この基地のあった場所は、1932年に藤ヶ谷ゴルフ場として開発されたが、太平洋戦争末期の1944年首都防衛のため陸軍が接収、陸軍飛行場として、朝鮮人の大量動員などによって19455月に完成している。敗戦後は米軍の基地となり、1960年に返還されたというわけである。総面積262ヘクタール、ちょっと見当がつかないが、わが家近接の井野東土地区画整理事業による開発面積が50ヘクタール弱、業者によれば1300戸建設の予定だというから、その何倍?

この基地が、1980年代になって、米軍の艦載機夜間発着訓練用の基地として候補地に挙がり、再び米軍基地となる動きがあったという。近隣8自治会の反対要望書が出されて、沙汰やみになっているが、いつまた、その話が再燃するか、地元住民の不安が募っているというのだ。この頃の自衛隊の広報活動は活発で、この日の基地のイベント開催と大掛かりなものから映画・ドラマのロケ地提供、テレビのドキュメンタリ―への売り込み、学校・自治体・企業からの職場体験や研修の受け入れ、必死の隊員募集などに見ることができる。

 来年度予算で陸上自衛隊のオスプレイ導入のための調査費がつけられるという。関東圏でも横田基地など米軍基地のみならず、自衛隊の習志野駐屯地などからの発着が案外早いのかもしれない不安がある。災害救助や災害支援のための人材養成、装備の拡充は、納得する国民も多いだろう。しかし、近隣の環境被害、汚職・不正経理やいじめなどが絶えない自衛隊、桁違いに財政を圧迫する軍拡はもうごめんだ。「集団的自衛権」などもってのほかである。アメリカにものが言えない、「立ち話」さえままならぬ「外交」の拙劣さ、配慮のない暴言いや本音が許されてしまう首相や政府を変えるためには何ができるか。9条の会の課題は大きい。

 

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2013年9月27日 (金)

ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ

  

 猛暑のこともあって、延び延びになっていた「戦争/美術」展へ行ってきた。9月に入って、拙著をお送りしたご縁で、大学で表象文化論を講じているKさんより招待券まで送っていただいた。その日は、曇り空でもあったので、車中の冷房がややきつく思われたが、戸塚で湘南ラインに乗り換えると、タンクトップに短パンという若い外国の女性グループや大きな荷物の外国人カップルが目立つ。大方が、鎌倉でどっと降りて行った。逗子駅下車、バスの1番乗り場の「海岸回り」葉山行と駅前交番で確認。前回は新逗子駅から乗ったのだった。途中、「日影茶屋」の前を通る。いまは高島屋の経営らしい。一度、神近市子を偲びながらランチでもと思うが、今日も無理かもしれない。約20分弱、三が丘下車。神奈川県立近代美術館・葉山館まで、家を出てから、ちょうど3時間の道中だった。

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展示のコンセプトは

 

 展示作品一覧のようなプリントがないので、尋ねてみると、カタログの巻末出展作品の一覧表のコピーならどうぞ、ということで頂戴した。どういう構成になっているのか、どうも1940年の直前辺りから、編年体の展示で、1950年代まであるらしい。時代背景や解説は極力排して、作品自体を見てもらうというコンセプトであると、新聞の美術時評で読んだことがある。それに今回は、1945815日で区切ることなく、一続きの画家たちの営為をたどろうとする試みであったという。神奈川県立近代美術館所蔵の作品が主力で、美術館葉山の公式ホームページには、つぎのようにあった。

  

「・・・総動員体制のもと自由が圧殺され戦争に突入し、敗戦をきっかけにしがらみから解放されるという極端な振れ幅の時代のなかで、優れた才能はどのような創造の営みを続けていたのか、あるいは、中断や挫折を余儀なくされたのか。しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた画家たち(の足跡を辿る)。・・・」 

 

 

 「しなやかに、したたかに、ときには強情に生き抜いた」とある部分に、私は、違和感を覚えていたのだが、どんな展示になっているのだろうか。うーん、美術の世界でも、こうした戦時下の画家の「見直し」が着々となされているのだな、という思いだった。

 

編年体で構成されている展示を、以下、便宜的に私流にまとめている。

 

前史~1930年代後半

 

 1940年までの序章の一枚目が、山口蓬春の「立夏」と名付けられた、紫黒色の花をいくつも付けた一本のタチアオイであった。松本竣介「建物」、靉光「満州風景」、内田巌「裸婦」、原精一「青年立像」に続く、上野誠の版画、朝井閑右衛門、山下菊二、村井正誠、麻生三郎らの1930年代後半の作品は、重厚な写実あり、都会的なモダニズムありで、その多様な作品からは戦争の影が見い出だせない展示になっていた。

 

原精一(19081986)のコーナーになって、戦時色は色濃くなる。軍隊内のさまざまなスケッチからは、時を選ばず、紙と鉛筆だけの、ときにはわずかな色遣いの水彩画の中の兵士たちの現実、画家のやさしさが伝わってくる。30点近くは、最初の応召で中国に出征した折の作品、年配の「戦友」を正面から描いたパステル画、膝元に拠る犬と戯れている兵士を描いた「横山隊の兵士」、「岳陽報道部」の走り書きがある、椅子を寄せて会議をする部員の背には緊張感も漂う「報道部」などが印象的だった。Kさんもお勧めの作品群であった。

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193841年、日本版画協会が刊行した「新日本八景」シリーズも興味深かった。谷中安規「大川端」恩地幸四郎「雲仙一景」などに交って、前川千帆「朝鮮金剛山」などの外地の名所も現れる。

 

1940年、1941

 

上野誠の版画の労働讃歌の主調は変わらない。日本画の丸木位里(19011995)の「不動」(1941)、彼と結婚した、洋画を学んだ赤松俊子(丸木俊19122000)の「アンガウル島に向かう」(1941)は、ゴーギャンを目指しての南洋諸島体験の成果でもある。紙に描かれた両作品は、日本画か洋画か判別はできない。同じ頃、靉光の人物画も紙の淡彩で、当時、ジャンルの枠組みを相対化するような動きであったことがわかる。この頃の丸木夫妻、内田巌(19001953)の「鷲」(1941)などの作品には、彼らの戦後の仕事や生き方、「原爆の図」作成への情熱や社会的活動への萌芽があったのかもしれない。

 

1942年、1943年、1944

 

 同様のことは、この時期の松本竣介(19121948)「工場」「立てる像」(1942)、もっぱら家族の人物像や静物を描き続けた麻生三郎(19132000)、井上長三郎(19051995)の決戦美術展から撤去された「漂流」(1943)にも言えるのではないか。松本,麻生、井上、靉光と鶴岡政男、今回登場はしない糸園和三郎、大野五郎、寺田政明のあわせて8名が「新人画会」を結成した1943年から統制が厳しい戦中に3回の展覧会を開き、自らの芸術を追求していた。数年前、板橋区立美術館の「新人画会展」で彼らの絵に出会ったときの新鮮さと抵抗の様々な形を思い出していた。その時のブログ記事を合わせてお読みいただければと思う。

 

20081228日「新人画会展―戦時下の画家たちが―絵があるから生きている」(板橋区立美術館)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-d70f.html

 

なお、今回の展示では主要画家に位置付けられている藤田嗣治(18861968)と山口蓬春(18931971)だが、藤田は、当時の軍部の要請で「作戦記録図」の作成に積極的にかかわり、戦後は、占領軍の「戦争画」収集にもかかわった。山口は、会場の葉山館の敷地の向かいの高台に住んでいて、いまは山口蓬春記念館となっている。葉山とは縁が深い日本画家である。山口は、当初、東京美術学校の西洋画科に学んだが、のち日本画に転向した経歴を持つ。1942年には、陸軍省から南方に派遣され、サイゴン、香港、広東に滞在、この会場には、香港の作が5点並んでいた。この日の会場には、唯一の「作戦記録画」と目される「香港島最後の総攻撃図」の下絵があった。本体は、東京国立近代美術館の「戦争画」(アメリカからの無期限貸与)153点の中の1点で、前期の展示であったらしい。他の香港風景は、いずれも、穏やかで明るく、海辺の国際都市の雰囲気がただよう風景画であった。藤田の出展作は「ブキテマの夜戦」(1944)と「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943)の2点であり(ちなみに、上記東京国立近代美術館の153点のなか、最も多いのが藤田で14点を数える)、山口の作風とは対照的であった。ブキテマはシンガポールの中心部から10キロほどの高地、1942年、英軍と闘った激戦地で、作品は、激戦の跡が克明に描かれている。散乱しているものは何なのか、目を凝らさないと分からない暗さである。他の1点は夜の荒海に漂流する小舟に10人近くがひしめいている米兵を描く。また、東京国立近代美術館の戦争画についてと藤田嗣治については、本ブログの以下において書いたことがある。

 

20081213日「上野の森美術館<レオナール・フジタ展>、欠落年表の不思議」

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 

2009921日「国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方」

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html 

 

 

1945年~

 

「戦争記録画」というのであれば、丸木位里・俊夫妻による「原爆の図」こそが「戦争記録画」と言えるだろう。「原爆の図」シリーズは、不覚にもこれまで見たことがなかった。埼玉県の女性教育会館までは足を運んでいながら、丸木美術館に行かずじまいであったから、今回、その一部を見ることができたのがありがたかった。四曲一双屏風となった「原爆の図・第二部 火」(1950)「原爆の図・第四部 虹」(1951)には圧倒される思いであった。「火」では、原爆の赤い炎が黒い塊になっている人間たちのなま身を焼きつくしてゆくさまを描き、「虹」では、惨い静寂の中の、右端に、倒れている馬と真裸の母子像の頭上の淡い虹を描く。浜田知明のエッチングの「初年兵哀歌」シリーズは自らの2度にわたる軍隊生活の回顧による作品のえぐられるような鋭さが印象に残った。

 

これまで見てきた画家たちの1940年代後半から50年代かけての作品の展示が、どういう意味を持つのかは、やや曖昧さが残る。「連鎖と変容」、一人の画家が持ち続けていたものを探る作業と変容を見極めるのには、編年体ゆえにやや散漫にも思え、捉えにくい。描いた年による「輪切り」での横断的な構成としては、選んだ画家が恣意的ではなかったか。それにあえて省略したと思われる「年表」の類も、会場に欲しかった。 

「しなやかに、したたかに、ときに強情に生き抜いた画家たち」と束ねてしまえるのか、やはり疑問を残しつつ、会場を後にした。 

これからも、戦争と美術を検証しようするならば、戦時下に描かれた作品の発掘と収集・保存・公開への努力が必要だろう。さらに、現に東京国立近代美術館に「もどって来た」戦争記録画の早期全面公開を、市民として強く求めて行きたいと思うが、たとえば、全国の美術館が一丸となって、公開を要請することはできないのだろうか。 

今回の会場の展示ケースには、大量の関連文献も展示されていた。画家たちの従軍記やエッセイ集、画集やカタログ、美術雑誌など貴重な資料が多かった。かなりのものが「青木文庫」となっていたので、地下室の図書室に寄って尋ねてみた。長い間、美術館の学芸員、館長などを務められたのち、現在は大学の教職に就かれた青木茂氏の寄贈資料だということがわかった。『書痴・戦時下の美術書を読む』』(平凡社 2006年)の著書があることも知った。未整理の資料やまだ青木氏のお手元にある資料は膨大らしいと聞いた。

↓図書室の入り口には、今回の関連テーマの書物が集められていた。

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↓遅い昼食を済まして、レストランを望む。庭園には赤とんぼが群れをしなして飛んでいた。台風20号が近づいて、少し波頭  が立つ一色海岸

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↓町内会の掲示板の津波避難経路らしい。

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↓「山口蓬春記念館は歩いて2分です」の看板に誘われて、「蓬春こみち」を

 上ってゆく。

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↓残念ながら、リニューアル中で休館でした。

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↓山口蓬春「夏の印象」(1950)とチケットでした。
 

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2013年9月24日 (火)

自治会・社協関係のブログやホームページをご紹介します

このブログでは、地域の問題として、自治会と社協の問題を何度か取り上げています。実はこの一連の記事へのアクセスがコンスタントに上位を占めています。各地の自治会関係の方、住民の方、あるいは自治体関係の方々からと推測され、コメントも多くいただいております。その中のお一人、本日9月24日にコメントをくださった盛田様が、「自治会/見張り番」というホームページを立ち上げられました。ぜひ一度お訪ねになってはいかがでしょう。あたらしい情報交換の場になればと願っています。

自治会/見張り番

http://www.geocities.jp/mon5bu/index.html

すでにお知らせしたかと思いますが、つぎのブログも参考になると思います。合わせてお知らせいたします。

■地域活動<自治会 社協>navajoさんのブログ、2012年4月立ち上げ、在住地の自治会の改革実践記録で、いまのところ、更新がないようです)http://tiikikatudou.blogspot.jp/

■社会福祉協議会の集金のやり方はおかしい?

(社協についてのブログやサイトの紹介)

http://matome.naver.jp/odai/2134171605088994001

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2013年9月20日 (金)

新しい参議院議員会館、「消費税増税 反対共同会見」へ

 「消費税増税反対」の記者会見があるというので、出かけた。久し振りの参議院議員会館は新しくなっていて、少し勝手が違っていた。20106月竣工(600億!)というから、3年ぶり以上ということになる。空港のように荷物検査をされ、紹介議員による会議室使用のための入館証はICカードとなっていた。議員の出入りにはほとんど出会わなかったが、柔道連盟の山下泰裕理事ら数人が入館するのに出会った。議員の個室は40平米から100平米に拡張されたという。何しろ廊下が広い、天井が高い。セブンイレブンも入っていて、晋ちゃんまんじゅう、タローカポネなる菓子も売っていた。

共同記者会見は「社会保障の充実なき消費税増税に反対する緊急アピール」と銘打たれ、その概要は以下の通りだった。私は2時過ぎに中途退席しているので、この報告は、あくまで配布資料とIWJの動画視聴の印象とによるものである。会見メンバーは異色の顔合わせと言えようか。植草さんは、参院予算委員会公聴会以来だし、斎藤さん、鶴田さんの話は初めて聞く。

 

日時  2013917日(火)1330分~

 会場  参議院議員会館 B109会議室(地下1階)

 出席者(五十音順)

    植草一秀(政治経済学者)

    斎藤貴男(ジャーナリスト)

    醍醐 聰(東京大学名誉教授)

    鶴田廣巳(関西大学教授/日本租税理論学会理事長

 

 

  アピール文は以下を参照してください。

   http://sdaigo.cocolog-nifty.com/shouhizeizouzei_hantai.pdf

 鶴田:アピールの趣旨説明がなされ、30分近くに及んだ。
①社会保障の充実なき消費税増税:1989年度消費税が導入された以降、年金開始年齢・保険料引き上げ、支給水準切り下げ、健康保険料引き上げ、介護保険創設・保険料引き上げなどにより後退、さらに社会保障制度改革国民会議の報告書によれば、給付の重点化と効率化により公助の抑制と自助を強調する。
②消費税導入以降10年余で、消費税増収123兆、所得税・法人税減収211兆、161兆となり、財政再建にも貢献しないばかりか「負担を将来につけまわし」た。さらに国土強靭化計画・オリンピック招致のため大型公共事業が目白押しとなる。
③消費税増税は、東日本大震災の被災者、零細業者、中低所得層への打撃は大きく、増税分を転嫁できず、損金問題に直面する事業者が増大する。低所得者への現金給付案への疑問も大きい。
④安倍内閣の経済成長戦略が、デフレ不況脱却につながるかは、世帯年収・可処分所得・消費支出低下の中では不透明なこと。また、労働移動支援型政策、限定正社員促進などが雇用の安定につながるか疑問。
⑤消費税増税の国民の信を問うてないことは、新聞各紙の世論調査結果でも明らかである。

 植草:消費税そのものを否定するわけではないが、と前置きをして、今回の増税についての反対理由を以下のように説明した。①消費税の増税の前にやることがある。②増税の理由とされる、持続可能な社会保障制度確立の道筋が示されていない。③日本財政が危機的状況にあるとの財務省の説明は虚偽である。④弱者切り捨て、バラマキ公共事業と利権拡大、逆進性の強い大衆課税依存という財政構造改革の手順に間違いがあり、消費税増税を先行するのは適正でない。⑤販売価格に転嫁できない零細業者、応能負担の後退など原稿消費税制度そのものに欠陥がある。

 斎藤:中小零細企業は、価格競争や元請けとの力関係から消費税増税分の値上げ、転嫁は現実的に困難となる問題点を指摘し、負担は弱者へ、弱者へと押し付ける税制であると強く批判した。

さらに、輸出事業者は、国内での仕入れのときには消費税を負担していながら、海外の消費者からは消費税を納めてもらえないので、仕入れの時に支払った消費税を国から「還付金」を受けている。2010年度分の推定でいえば、トヨタは2246億、ソニーが1116億円を筆頭に還付金を受けているという。机上での計算でいえば、当然の還付と言えるのだが、それは、トヨタやソニーが国内での下請け納入業者に消費税をきちんと納めている場合の話である。しかし、弱い立場の下請け納入業者が値切られ値切られしている実態を思うと、還付金を受ける根拠が曖昧となる点などを指摘した。

醍醐 :今回の消費税増税に関して、附則の景気斟酌条項が満たされているかどうかばかりに焦点が当てられ、本則(社会保障の充実のために消費税収を使う、逆進性対策を講じる、転嫁が円滑に行われるよう措置する)がことごとく満たされないまま増税が実施されようとしていることに警鐘を鳴らした。報道については、新聞各社が政府と財務省の綱引きといった政局報道に明け暮れ、国民の政治参加に必要な情報を知らせていない。「知識に課税すべきではない」という大義名分に新聞への軽減税率の適用を求めていながら、零細事業者の実質的に転嫁の困難さに触れようとしないことを厳しく批判した。

 消費税について回る「転嫁」の困難さと複雑さについて、私も少なからず、衝撃を受けた。斎藤さんが指摘する輸出事業者への「還付金」制度についても初めて認識したした次第である。

 連休明けのことで、広報期間も短く、会見場に現れた記者たちの数は決して多くはなかったが、熱心に最後まで聞き取ってくれたそうだ。ただ、どのメディアが、現実に報道してくれるのかは、非常に心もとない。大手メディアは、まるでもう、消費税増税を前提とする報道しかない中・・・。

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                ↑ 参議院議員会館と第2衆議院議員会館との間には、往路に見た街宣車

                    とは違う車で、別の幟が立っていた。車の横断幕をよく見ると

                 「国益を守れ!緊急国民行動 消費税反対!TPP反対!」とあり、

        幟には「頑張れ日本!全国行動委員会」(あとで、調べてみると会長は

        田母神俊雄) とあった。

 

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2013年9月15日 (日)

シンポジウム「このまま進めて大丈夫なの?TPP交渉」に参加しました

 15日未明からは、関東地方も台風の影響を受けるという。14日は朝から蒸し暑い一日だったが、午後から下記のようなシンポジウムに参加してきた。留守番の老犬が心配で、やや端折って会場を後にした。会場は、補助席を入れても350席、消防法上入室できなかった方々は別室での中継があり、400名を超えたという。配布資料が足りず、スタッフは、近くのコンビニのコピー機まで走ったそうだ。

 これまでも、各分野からのTPPへの疑問や反対の意見は、断片的に見たり聞いたりしていたが、この日は、短い時間ながら、TPP参加後の各界が深刻な状況になることが報告された。

 日本医師会の中川さんからは、日本の医療の「規制緩和」は、医療の質的低下と医療費の高額化をもたらす。「国民皆保険」を維持するという政府の言い分は「保険外併用療養制度」によって、保険診療対象を狭め、保険外診療の拡大と高額化を前提にしての維持に過ぎない。「規制改革会議」は2013726日、当面の最優先課題を「保険診療と保険外診療の併用療養制度」をあげている。保険外診療が増えれば全額自己負担だから、富裕層しか受診できない。保険の需要は拡大し、しかも外国の保険会社の参入がさらに緩和される。726日、アフラックのがん保険が日本郵政に導入され、郵政からは単品のがん保険を売り出せないことになるという事態にまで進んだ。「アフラックのがん保険」にはそういう意味があったのだ。冷静で分かりやすい説明に納得することが多かった。

「保険外診療の併用療養制度」のリスクを力説する中川さん(右)

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パネリストの冒頭発言に続いて、関税分野と非関税分野とに大きく分けて、パネネリスト同士の議論や会場からの質問に答えながら、進行した。以下は、その辺をまとめて、私の印象の限りでまとめたので、詳しくは、つぎの映像で全貌を見てほしい。

■ IWJによる動画中継:
【Ch6】13:30~「シンポジウム『このまま進めて大丈夫なの?TPP交渉』」
視聴URL:
http://ustre.am/uy8q
 
 ■全国農業協同組合が独自に手配した業者に動画中継
サイトURL:  
http://www.ustream.tv/channel/tppsymposium
(いずれも冒頭、CMがかぶりますが、CMが終わったら、カーソルをスタートまで戻すと、CMなしで視聴でき  ます。

 十勝の高橋さんからは、TPPによる十勝への影響試算において、小麦・ビート・ジャガイモ・酪農・肉用牛・豚において、5037億のマイナスとなり、4万人の雇用喪失となることが報告された。これは十勝ばかりでなく北海道全域の経済にも壊滅的な影響を与えることを示す試算だ。決してあきらめることなく子供たちのためにも、TPPから地域自体、経済、生活を守る決意と全国的な連帯を訴えた。

 農協中央会の小林さんからは、TPPはアジアの農業の多様性を維持できない、食料については、関税撤廃の前にやるべきことは種々あるはずである。日本は農産物の輸入国であるが、工業製品輸出拡大のしわ寄せを農業が背負うことになってはならない。重要品目といったところで、いわゆる「調整品」という名の関税逃れの輸入が横行することにもあるだろう、と。「調整品」の意味も初めて知った。

 大学教員の会の鈴木さんは、なかなか威勢のいい発言がとび出し、会場を湧かせる。政府発信のうそと密室交渉の現実を鋭く指摘し、10年先すら見据えることなく目先の利益だけに左右される推進派を糾弾する。

主婦連の山根さんは、消費者の立場から、食品の安全・安心対策の後退、自給率の急激な低下をもたらし、サービス・制度の規制緩和・撤廃は、医療や教育の質の低下をもたらし、TPP参加に断固 反対してきた経過が報告された。

弁護士のネットワークの杉島さんからは、TPPの目的は、多国籍企業の活動を最大限に保障するところから、物品・サービスへの規制緩和により、労働・消費者・環境を守るための経済活動への規制や伝統文化・地域経済の保護が、差別的として排除され、社会的立法がすべてTPPルールの制約を受ける。ISD条項によって訴えられ、日本の司法は機能しなくなる。日本国憲法の国際協調主義は、条約の上位性認めているから、法律・条例はTPPルールの範囲内にとどまり、立法権の侵害は明らかで、国民主権は多国籍企業主権にとってかわられる。実にショッキングな指摘でとなった。

いずれの発言からも、ISD条項と秘密裏交渉への危機感が訴えられていたと思う。多くを知らされなかった国民が開かねばならない扉は重いが、力を合わせたい。

コーディネーターはじめスタッフの皆さま、ほんとうにお疲れ様でした。 

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シンポジウムの概要

1. 名 称: シンポジウム「このまま進めて大丈夫なの?TPP交渉」

2. 日 時: 2013914日(土)1330分~1630

3. 場 所: 文京シビックホ-ル・小ホ-ル 東京都文京区春日11621

4. 主 催: TPP参加交渉からの即時脱退を求める大学教員の会

   TPPに反対する弁護士ネットワ-ク

   主婦連合会

5. <特別スピーチと質疑>

   中川俊男さん(日本医師会・副会長)「TPPと医療」

 <パネル討論>

  ・小林寛史さん(全国農業協同組合中央会・農政部長)

  ・山根香織さん(主婦連合会・会長) 

  ・杉島幸生さん(TPPに反対する弁護士ネットワ-ク)

  ・鈴木宣弘さん(TPP参加交渉からの即時脱退を求める大学教員の会、

東京大学大学院教授) 

 ・高橋正夫さん(TPP問題を考える十勝管内関係団体連絡会議代表、

十勝町村会長・本別町長)

 <特別報告>

    内田聖子さん(アジア太平洋資料センタ-PARC事務局長)

 

 <コ-ディネ-タ-> 

    醍醐聰さん(東京大学名誉教授)

6.賛同団体: 市民・消費者・婦人・医療関係団体、労働組合、

        生活協同組合、 農協関連団体など31団体

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①「私の食の安全も考えてね」

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②十勝からいらした高橋さん(中央)

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③十勝、今年3月の4300人集会

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④報道関係者は40人程来られたが

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(時事通信社ニュース速報2013年9月14日)
http://news.nicovideo.jp/watch/np649999

(「十勝毎日新聞」2013年9月15日、13時46分)
http://www.tokachi.co.jp/news/201309/20130915-0016625.php

(新聞「赤旗」2013年9月15日3面)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-15/2013091503_01_1.html

(「日本農業新聞」2013年9月18日)

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2013年9月 9日 (月)

これでいいのか、2020東京オリンピック

 とうとう、東京に決まってしまった。本当にこれでいいのだろうか。日本は、東京はどうなるのだろう。けさは5時過ぎに起きて、ラジオをかけると、どうも決戦投票の結果待ちのようだった。安倍政権暴走の歯止めのためにも、東京であってはならない、というのが正直な気持ちだった。

 昨夜の最終プレゼンの日本人のスピーチは、わざとらしい笑顔やジェスチャーが目立ち、内容が空疎で、見ていてキマリの悪いものだった。つなぎに、大型画面に流れる映像はいったい何?これも見え透いたイメージが先立つコマーシャルフィルムだった。むしろ、一番自然体だったのが、オリンピックとは直接関係のない内容の「挨拶」をした皇族であったろうか。これは宮内庁の相当な制御が働いていた結果かもしれない。

 最悪だったのは、福島原発事故の汚染水対策を問われての安倍首相の答弁だった。首相は、プレゼンの冒頭で「フクシマについて、お案じの向きには私から保証をいたします。状況は、統御されています。東京には、いかなる悪影響にしろ、これまで及ぼしたことはなく、今後とも、及ぼすことはありません。」(NHKのwebニュースによる)と述べたことに対して、ノルウェーの委員から「科学的根拠を」との質問に、私のメモによれば、「汚染水による影響は福島第一原発の港湾内の0.3平方キロメートル範囲内で完全にブロックされている、状況はすべて、コントロール下に置かれている」「健康問題は今までも現在も将来も、まったく問題ない、私が保証し、約束をする」「水も食料も安全だ、日本の基準は、世界でもっとも厳しい」などという主旨であった。しかし、これって、少なくとも日本人がいまニュースなどで知らされている事実にすべて反しているではないか。外国人相手だからって、ウソで固めていいわけがない。その上「みなさん、ニュースのヘッドラインだけを読まないで、中身を読んでほしい」などと気の利いた風なことも言っていた。さらに、福島で出会った少年とのエピソードを持ち出していたが、その趣旨は、質問とどう絡むのか意味不明だった。

 こうした安倍首相の回答を、日本のメディアはどう伝えるのか。今ネット上で流れている報道では、安倍首相のプレゼンが、勝因だとか、IOC委員に高い評価を得たとかするものが多く、回答の中身の検証には至っていない。新聞は、折しもきょう日曜の夕刊とあす月曜日の朝刊は休刊である。原発事故に限らず、マイナス情報への隠蔽にまっしぐら・・・、メディアはそれに甘んじるのか。

 

 

 すでに日付が変わってしまったのだが・・・。

 

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2013年9月 7日 (土)

オリンピック東京招致はいいことなのか

7時に始まったNHK総合テレビのニュースを、いま見ていた。オリンピック東京招致に関する報道が19分近く続いた。その次が、防衛大臣が沖縄知事を訪ねたニュースであった。ご丁寧にエンデイングまでが、IOC総会会場のブェノスアイレスのヒルトンホテルの外観であった。

本ブログでも何回か記事にしているが、オリンピック東京招致報道がおかしい。 きのう、そして今晩から明日の朝にかけて、開催都市が決まるまで、関係番組が目白押しなのはNHKだけではない。手を変え品を変え、東京招致に盛り上がる様子が伝えられている。開催に反対だった人たちはどこへ消えてしまったのだろう。かつてワイド番組のコメンテイターで反対のニュアンスで語っていた人たちの物言いも曖昧になってきた。東京招致に反対しようものなら、「国民に非ず」の勢いである。プレゼンテーション、ロビー活動と横文字に言いなおしてみても、要はスポーツの世界に政治を持ち込む場面に他ならない。震災復興支援へのお礼と言いながら、皇族を最終プレゼンに登場させるという、皇族の政治的利用に踏み切った政府である。

「スポーツの力で元気を与える」というセリフは、もう聞き飽きたし、その嘘っぽさも明らかになりつつある。スポーツをすることやスポーツ観戦をすることによって、人間の心がフレッシュされることは大いに結構である。しかし、そのことが、例えば福島県で仮設住宅での生活を余儀なくされている被災者、原発からの汚水漏れが続くなかでの漁業関係者にとって、支援になることは皆無に等しい。

94日、ブェノスアイレスでの記者会見で、東京オリンピック招致委員会の竹田理事長が「福島は東京から250キロ以上も離れている。東京は安全であり問題がない」と答え、記者たちの顰蹙を買ったらしい。福島県民が聞いたら、どう思うのだろう。96日の報道ステーションでブェノスアイレスの猪瀬都知事と中継でつないで、福島原発の汚染水問題にどう応えるのか尋ねていたが、「もっぱら<風評被害>に過ぎず、東京都が公開している情報をみてもらえば安心してもらえる」という、まるで見当はずれの説明をしていた。まもなく始まるプレゼンテーションで安倍首相が、どんな説明をするのか。

7年後の東京オリンピック招致より、いまやらねばならぬことが山積みの日本、オリンピックという虚業に踊らされてはならない。もし、招致が決まったとして、潤うのは誰なのか、イイ思いをするのは誰なのかをよく監視していきたい。(972035分)

 

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2013年9月 5日 (木)

「大塚金之助の留学詠」を寄稿しました

  経済学者でもあり、歌人でもあった大塚金之助が一橋大学や慶應義塾大学での教え子たちが集う「大塚会」という会がある。その方たちが編集発行する『大塚会会報』が40号を迎えた。私は、大塚金之助について書いたり、座談会に参加したりしたのがご縁で会員となっている。今号は小特集「ベルリンの歌人たち」であった。経済学の専門家も多い大塚会だが、金之助留学当時のベルリンに思いを馳せ、経済事情と研究生活の背景に少しばかり踏み入ってみた。2010年にはベルリンに4日ほど滞在したが、金之助の足跡をたどることまではできなかった。

 今回の小特集では、歌人の三井修さんが「朝日歌壇における海外詠」を書かれ、現在の朝日歌壇の海外詠にまで言及されている。ベルリンにお住いの、西田リーバウ望東子さんが、現在のベルリンでの歌会のことを、岸フォン・ハイデン雪子さんがベルリン大塚文庫について書かれている。

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大塚金之助の留学詠

 かつて、筆者は金之助の獄中での短歌に着目、論考を試みたことがある(「短歌に出会った男たち~大塚金之助」『風景』5719957月)。今回は、「留学詠」についての依頼である。金之助の短歌のスタートはベルリンからの「朝日歌壇」への投稿であったことはよく知られている。

 

・異国をさすらひ歩むひとりびとあきらめ心すでに過ぎをり(伯林にて)

(島木赤彦選「朝日歌壇」『東京朝日新聞』1921120日、遠見一郎)

 *以下、断りない場合は、遠見一郎名による。

・やうやくに星を仰ぎてなぐさむる心久しく沈黙に慣れぬ

(島木赤彦選「朝日歌壇」『東京朝日新聞』19211018日)

 

 選者島木赤彦が編集人であった『アララギ』に入会したのが19228月で、選歌は、島木赤彦のほか、土田千尋、岡麓、土田耕平、中村憲吉だったりするが、1923年後半からは掲載作品数も二けたと多くなり、9月からは「同人欄」に掲載され、選者名は記されなくなった。

 

・白樺の枝の堅芽のふくらみに手触れて見ればつめたかりけり(北独の早春)

(島木赤彦選『アララギ』19228月)

・地下電車のひとのいきれをきくだにも物ぐるほしき夏去りにけり(伯林初夏)

(土田千尋選『アララギ』192210月)

・夏の空くもりてさむきこのごろをひとりこもりつつ笑ふこともあり

(伯林にて)(島木赤彦選『アララギ』192211月)

・つつましくこころなぐさめ地下線にいつかまなこをとぢゐたるかも

(岡麓選『アララギ』19235月)

・ふけわたる夜のしづもりに目ざめゐてわが耳なりにこころをあつむ

(島木赤彦選『アララギ』19235月)

 

 作歌の動機と島木赤彦との出会いを、留学先の「ドイツで病気をしてから歌をつくりはじめた(1921年)。当時は『東京朝日新聞』をとつてゐたので、朝日歌壇に投書した。その選者が島木赤彦先生であつた」と「アララギの歌」の「はしがき」で記している(『大塚金之助著作集』第9巻)。冒頭の「朝日歌壇」の投稿作品における「あきらめ心すでに過ぎをり」「なぐさむる心久しく沈黙に慣れぬ」と嘆くのは、アメリカ、イギリスを経て、19201月、所期の目的でもあったベルリン大学での研究に専念すべくドイツ入りした後であり、心細さも究極に達したのではなかったか。『アララギ』掲載作品のいずれもが、孤独感に苛まれ、耐えている様子が「ひとりこもりつつ笑ふ」「まなこをとぢゐたる」「耳なりにこころをあつむ」などに凝縮されている。その上、仰いで間もない、遠く離れた歌の師は、失明寸前の病床にあった。

 

・ひたぶるの生きのこころをまもりつつまなこつぶるかとほき師の君

(恩師のこりたる一眼もつぶるるとききて)(『アララギ』192311月)

 

1920年代の日本からの海外留学生の生活は、どんなものであったろうか。文部省の『学制八十年史』によれば、大正期の大学は、その拡充計画が課題で、1919年(大正8年)から「高等教育機関拡張6か年計画」のもと1920年には在外研究員制度を創設した。明治末期から年間50人程度を推移していた「官費留学生」だったが、制度創設と共に飛躍的に増員され、100人を超え、1922年には200人を超えている。1940年中断にいたるまで、減少しながらも制度は維持されていた。金之助が日本を発ったのは、まさに19194月、5月からはニューヨークのコロンビア大学で、19201月からはロンドン大学で学び、19205月からは、ベルリン大学で学び始めた。ベルリンで暮らした1920年から1923年末までは、第一次世界大戦の敗戦国の市民の生活は、配給制のもと食糧難やストライキに見舞われた。そのピークが1923年というから、ハイパーインフレのさなかでの留学生生活の苦難はいかばかりであったか、想像に難くない。しかも、日本には、母、弟妹らの家族を残していた。帰国後に目の当たりにするその困窮ぶりにも思いは至っていたのではなかったか。

 

・室隅のくらきにおきて見のたへぬ眉根にふかき母の皺はも

(外国にありて母の写真をみる)

(『アララギ』19235月)

・老い母の生けるたよりありとおもひつつ夜ひとりゐて栗を焼くかも

(『アララギ』19243月)

・うす霧のあをくただよふ月の夜に阿片を飲みてわれはねむるも

(『アララギ』19243月)

 

 金之助は、ベルリンでの暮らしぶりや思想を具体的に、直接、短歌作品に盛り込むことは少なく、みずからの内に秘めて、心の在り様、ひとりごと、吸う息、吐く息などをも心にとどめ、草木の香、葉づれや雨の音、鳥の声を逃すまいと五感を研ぎ澄ましていたと思われる。

 

・ひややかにわか葉のかをりながらふはかなしきものかこころ澄むなり

(『アララギ』19239月)

・夏さりし青葉の暗にしろじろとはきぬる息のきゆるさびしさ

(この夏伯林甚だ寒し)(『アララギ』19239月)

・あをき香のこもらひにつつリンデンのわか葉はふかくなりにけるかも

(同上)(『アララギ』19239月)

・夏草の葉づゑのややにゆるるとき日のかぎろひは息にせまりつ

(『アララギ』192311月)

・秋かぜの木の葉をわたるかそけさよまなこつぶればわきてきこゆる

(『アララギ』192312月)

・暁のこころさわぐにただならず川音たかくさえわたるなり(東京震害飛報)

(『アララギ』19242月)

 

作歌の時期と『アララギ』発表までには、タイムラグが生じているが、金之助は、関東大震災のニュースに衝撃を受け、帰国を決意、19231223日には、すでにマルセイユを出航、日本に向かっていた。金之助の留学詠について、坪野哲久は、『アララギ』の「リアリズム」と島木赤彦の薫陶を前提に、つぎのように分析する(『著作集』第9巻の「解説」550551頁)。

 

 敗戦国ドイツに、切詰めた苦しい学究生活を重ねつつ、こころの拠りどころとして歌を作りながら、もう一つ充ち足りない空白があったであろう。それは戦後のドイツの社会と人間が、まるきり主題に上らなかった点においてである。〈民われの胸にはあれどゆるされぬまことをただに言ひし君かも〉とうたっているように、金之助を自由に歌わしめなかった非人間的な制約があったからである。胸のつかえを率直に吐き出し得ない苦しみが、彼の歌の裏側にひそめられていることをわれわれは感じとらねばならない。ドイツ滞留の歌を私は、「悲しみの歌」として受けとめている。

 

ベルリン滞在中の金之助の学究としての関心は、すでにマルクス主義を志向し、1922年頃から社会主義関係文献を収集、後の「大塚文庫」の核をなしたという。短歌に、自らの社会的な関心や傾倒してゆく思想をなぜ歌わなかったのか。坪野哲久のいう「非人間的な制約」とは、具体的には、何を指すのか、私にはまだ不明な部分が多い。島木赤彦、『アララギ』の人々との人間関係のしがらみ、「官費留学生」の身であったこと、自らの就職、日本にいる家族など、さまざまな要因が考えられる。その上、『アララギ』のリアリズムが大きな「枠」とはなっていたのと同時に、短歌に思想を盛り込むことのむずかしさにも直面していたようにも思う。

 さらに、金之助にとって抑制の大きな要因として、ようやく入門を果したベルリン大学のウェルナー・ゾンバルト教授のゼミナールであったが、教授との思想的な乖離をあげることができよう。金之助自身による「ゾンバート教授はファッショ化する」(『著作集』第7巻)あるいは、武田弘之『歌人大塚金之助ノート』の指摘にもあるように、留学中の短い期間にも教授の思想的な転換と金之助の「精神の遍歴」があったことがわかる(大塚会 2011年、27頁。初出『群青』4919731978年)。近年、池田浩太郎による、ゾンバルトに関する書誌学的な論稿を読んでいて、いっそう、その感を強くした(「ヴェルナー・ゾンバルト研究文献」『成城大学経済研究』16020052月など)。論者は「ゾンバルトのゼミナールでの大塚への思想的影響は、さして強くはなかったと推測されよう」(「ゾンバルトと日本」『成城大学経済研究』15320017月、16頁)と結論付けるが、ほぼ時期を同じくして、指導教授のマルクス主義的思想への理解者から文化理想主義的、国家社会主義的な立場への転換、一方の金之助のマルクス主義思想への傾倒という、まさに反対方向の転換は、孤独な一留学生の身には、精神的な負荷が大きかったに違いない。

・ベートーフェンのうきにたへたる面ざしにあかときさせり北よりの日は

(壁間のベートーフェン面像、彼は耳しひにて極貧、しかして世界最大の作曲家なりき、後略)(『アララギ』192311月)

・民われは胸にはあれどゆるされぬまことをただに言ひし君かも

1921年春はるばるとラインのほとりにベートーフェンの生地ボン市をおとづれた。カスタニア〈七葉の木〉が咲きさかつてゐた。)

(『アララギ』19247月) 

 

 いずれも、ベートーベンについての長い詞書を付す、帰国後の作品である。

さらに、小松雄一郎「大塚金之助先生とベートーヴェン」(『大塚会会報』2219955月)によって、その後「ベートホーフェン抄」(『生活者』1119273月)を発表していることを知った。ベートーベンの手紙208本の抄録を主題別に集成した記事で、短い「註」には、ベートーベンの手紙はどれからも「社会相」知ることができるとして「同時代者のゲーテよりも著しく社会生活の懊悩のために影響されているのを見逃してはならない。そしてこの社会に対する彼の思想は或る点に於て叛逆的であつたのは誰しも知るところである」とし、ベートーベンが、金之助の生涯を通じて「精神生活の一つの柱」となったことの背景を理解することができた。

 ほぼ同時期に、ウィーンに留学中だった斎藤茂吉との境遇や作品の違いにも興味深いものがあったが、別の機会に譲りたい。

(『大塚会会報』40号 20138月 所収)

 

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2013年9月 4日 (水)

久し振りにラジオ深夜便を聴く~明日へのことば「市川房枝が残したもの」①②

 93日・4日の早朝、朝4時台の放送ということを、第二夜にご出演の山口美代子さんから伺っていた。拙著『天皇の短歌は何を語るのか』を、収録の一つ、阿部静枝論考の資料でお世話になり、国立国会図書館時代の先輩でもあった山口さんにお送りしたところ、メールでお知らせいただいたのだった。

 今年は、市川房枝生誕120年ということで「明日へのことば」コーナーの企画で、二夜連続、各40分ほどであったろうか。熟年の間では、深夜便は結構人気だということだが、私は、地域のミニコミ誌『すてきなあなたへ』の「映画招待席」に毎号執筆いただいている友人の菅沼正子さんが数年前、映画音楽のコーナーに出演していたとき以来である。1か月に1回、たしか一年以上続いたのだが、その時は2時台で、聞き損ったり、途中で眠ってしまったりしたこともあったが、今回は二夜続けてのことなので頑張ることができた?

 第1回は、女性史研究者の伊藤康子さん、ディレクタ―の質問に答えるというよりは、講義風の話であった。市川房枝(18931981)の政治活動、戦前の婦人参政権獲得運動と戦後の参議院議員としての理想選挙運動を中心に、その現実的で、清潔感のある、しかも一貫した活動に焦点があてられていた。参議院は、政党による議論の場でないという信条から、無所属の立場に徹した。世界的に見て、選挙における投票率の低さ・女性議員の少なさを嘆き、政治の浄化をめざした。議員の定数是正・政治資金規制・連座制などの法制化に奔走し、「ストップ・ザ・汚職議員」をスローガンに、1980年第12回参議院議員選挙で全国区第12784998票で当選した。翌1981年に没し、30年以上経た今日でも、房枝の願いは達せられるどころか、ますますその主張の新しさと正しさが認識されている・・・、という主旨だった。

 第2回の山口さんの話は、担当ディレクターとの一問一答方式で、市川房枝記念会女性と政治センター2階の展示室での収録とのこと、さまざまな資料に囲まれての、資料に即しての話が親しみやすかった。山口さんの話しぶりも自然体で聞きやすかったように思う。房枝は、資料に関して、買い物の領収書・給料明細から集会のプログラム、チラシまでほとんどを残し、メモ魔と言われるほど、会議その他の記録を残しているという。戦前で約8万点、戦後はその3倍、合わせて30万点以上に達する資料群の整理あたっているという市川房枝研究会、皆さんボランティアで、山口さんもそのお一人で、戦後については道半ばらしい。四谷見附の房枝の自宅と婦人問題研究所は、19454月空襲で全焼したのだが、その前年に保管されていた資料はすべて東京郊外の川口村(現八王子市)に疎開していたという。房枝の資料に対する考え方を象徴的にあらわしていよう。政治活動のなかで、19304月、第1回全日本婦選大会の熱気に始まる婦選活動、女性の地位向上のためには公職に就く女性の割合を高めようとする活動、女性の人権を根底から覆す売春の防止法制定運動に尽力したことが取り上げられた。いずれも、全国の女性の地道な長い運動に支えられていたという話などが心に残った。山口さんは、国立国会図書館時代、市川房枝の「政治談話録音」の企画から携わり、綿密な打ち合わせを続け、1978年のインタビューワーの一人としての体験なども微笑ましいエピソードとともに語られた。

 なお、市川房枝の戦争協力による「公職追放」については、お二人の話でも触れられていたが、房枝自身の失意は相当深かったと思われる。私は、誰でも、あの時代の戦争協力、その戦争責任は、決して拭い去ることはできないはずだが、その後、そのひとがどう生きたのか、何を発言し、どう行動したのかにかかり、トータルに評価されるべきものという考えが変わることがない。房枝が、疎開までして、自らの膨大の資料を残そうとしたのも彼女の責任の取り方ではなかったかと思うのだった。

 昔読んだ『市川房枝自伝・戦前篇』(新宿書房 1974年)を取りだし、今年の参議院選挙戦のさなか、山口さんから贈っていただいた『写真集・市川房枝』(ドメス出版 2013年)の頁を繰っている。『写真集』の表紙の「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」の言葉は、この今も、熱くて重い。

 

 

 

 

 

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2013年9月 3日 (火)

自治会の防災訓練に参加して~公助はどこへ

会場の中学校が借用できるか否かで、急遽前倒しとなり、8月最後の土曜日に決まった防災訓練。この猛暑の中、何かと心配だったが、考えてみれば防災の日を明日に控えた絶好の日和だったかもしれない。私は、防災委員ながら、腰を痛めていたので力仕事はお任せで、受付と防災井戸・防災倉庫の市の防災課職員の説明のタイムキーパーを務めた。職員Uさんの話はつい熱が入って10分が15分、いやそれ以上に延びる。20人ほどの5グループが、他のコーナーを回って順繰りにやってくる。

防災井戸はできたが・・・ 

防災井戸については、私も東日本大震災の折、初めて知ることも多く、市役所ともやり取りしたので、おおよそのことは心得ていたし、この2年間で何回か、話も聞いている。佐倉市では、今年で、39か所の広域避難所のうち一つを残し、防災井戸が設置された。大震災当時は、11か所しか設置されていなかったし、震災直後すべてが稼働したわけではなかった。この日の会場の中学校の防災井戸も、直後は給水できなかった。その原因が、防災課と水道局とでは違っていて、器具の不具合とか、地下水脈の破断とかの言い逃れも聞いた。要するに、緊急時の対応に不備があったらしい。あのときは、市場から飲用水のペットボトルが消え、水道水の放射性物質混入の可能性から「乳幼児には水道水は避けて欲しい」旨の防災放送が流されていた。防災井戸の給水が始まると、この井戸にも遠くから母親や祖父母たちが水を汲みに来ていた。結局、昨年の3月までは、この防災井戸は開放されていた。定期の水質検査、常時の塩素消毒、捨て水、発電機などの対策で、防災井戸は、非常時の開栓により給水可能になったのは、大震災が残した一つの成果でもあった。8090mの地下からのくみ上げは手漕ぎでは無理で、印旛沼に近いこの辺の浅井戸の水は飲めたものではないと強調していた。防災井戸の水でも乳児用には、その硬度から危険だということも言っていた。佐倉市が水道水の一部に使っている井戸水は150m以上の深層水とのことだった。せめて、この水道水の水質を保ちたいものだが、八ン場ダムからの取水にメリットはあるのか、の思いにもつながる。 

防災倉庫の食料配布、避難所への避難はお断り・・・

 東日本大震災後、そしてとくに91日、防災の日前後のメディアは、防災対策の指南に忙しい。そこはまさに、自助・共助の大合唱である。自分で備蓄せよ、ご近所との絆が大事と、国や自治体は役割放棄に躍起となっているとしか、私には思えない。自助や共助の基盤づくりがないところに、自助と共助に丸投げをしているかに見える。

防災訓練の日の市職員も、これまでになく高姿勢で、「この地域では、床上浸水も土砂崩れの心配もない上、地震でも家が半壊以上でないと、避難所へ来てもらっても何もできませんよ。この防災倉庫の備蓄食料も分けることは、法律上できないことになっています、お帰り下さい」と言うしかないという。「一人住まいで不安だ、余震が怖い」という人には、避難所は減るものでないからどうぞ、くらいしか言えない。だから、食料や水は3日分というよりは自分で1週間分は用意しておいてください。インフラの中で下水の復旧がいちばん時間がかかるから、排泄の始末も自宅で解決してください、という。行政は頼りにするものではないと、行政が市民を脅し、危機感をあおり、不安に陥れようとしている構図である。防災の日に話す内容なのだろうか。東日本大震災の復興予算が残ってしまう理由がよくわかる。自助や共助は、強制されるものでなく、市民が体験から学び、学びながら覚悟していくものだろう。私たちが父母から聞き、歴史で学んだ「常会」や「警防団」の世界が見え隠れする。もっとも、「内閣情報局」新設などと言い出す安倍政権だから、こちらも真剣に構えねばならない。

職員は、防災倉庫の前で、こんなことも言う。大災害のあとのガソリン不足は、安全保障、国防の必要上、国が管理するからで、当然のことある。大災害の時こそ、いつ敵国が襲ってくるかもしれない、その時みなさん死ぬ覚悟がありますかと、ガソリン不足には普段から満タンにしておく心掛けを説くではないか。こんな風に役人は育てられていくのか。仮想敵国に憎悪を募らせようとする外交の拙劣さを役人や国民にさらしているからだろう。 

根性スイカの緊急報告

夏休み最後の週末、近くの少年野球のメンバーたちが、その帰りがけの自転車で、例のスイカの周りを囲んでいた。「誰が植えたのかな」「こんなに大きくなるんだ」「食べられるかな」「家の庭で捨てたごみから南瓜ならできたよ」などとかしましい。これらスイカの行方は、私も気になる。駐車場の草刈りの人が、わざわざ気を利かして、これだけを残しておいてくれた。写真添付で娘にメールすると、八社大神にでもお供えしたら・・・の返信を貰っていた。その手があるのだ。大きい方は、何とかこの少年たちに渡し、小さい方はお供えをしよう。私は彼らに、「小さい方は、みんなの交通安全を祈ってお供えするからね」と伝えておいた。

そして翌朝、のぞいてみると、その小さい方に小さな割れ目が・・・。収穫するなら「イマでしょ」と中学校を横切り、神社へと急いだ。八社大神の南西側の樹木は、すったもんだで、だいぶ伐採されてしまったのだが、それでも杜への階段を上ると涼風が心地よかった。スイカを供え、明日から、小学校も新学期、交通見守りも始まるので、子どもたちと見守る私たちボランティアの交通安全を祈願したというわけである。

ところが、92日の夕方、犬の散歩に出てみると、大きなスイカは、見事になくなっていた。誰の手に渡ったのか。ご近所のお子さんたちならばよいが・・・。でも、どこかで、ほっとしたのも正直な気持ちだった。

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