久し振りにラジオ深夜便を聴く~明日へのことば「市川房枝が残したもの」①②
9月3日・4日の早朝、朝4時台の放送ということを、第二夜にご出演の山口美代子さんから伺っていた。拙著『天皇の短歌は何を語るのか』を、収録の一つ、阿部静枝論考の資料でお世話になり、国立国会図書館時代の先輩でもあった山口さんにお送りしたところ、メールでお知らせいただいたのだった。
今年は、市川房枝生誕120年ということで「明日へのことば」コーナーの企画で、二夜連続、各40分ほどであったろうか。熟年の間では、深夜便は結構人気だということだが、私は、地域のミニコミ誌『すてきなあなたへ』の「映画招待席」に毎号執筆いただいている友人の菅沼正子さんが数年前、映画音楽のコーナーに出演していたとき以来である。1か月に1回、たしか一年以上続いたのだが、その時は2時台で、聞き損ったり、途中で眠ってしまったりしたこともあったが、今回は二夜続けてのことなので頑張ることができた?
第1回は、女性史研究者の伊藤康子さん、ディレクタ―の質問に答えるというよりは、講義風の話であった。市川房枝(1893~1981年)の政治活動、戦前の婦人参政権獲得運動と戦後の参議院議員としての理想選挙運動を中心に、その現実的で、清潔感のある、しかも一貫した活動に焦点があてられていた。参議院は、政党による議論の場でないという信条から、無所属の立場に徹した。世界的に見て、選挙における投票率の低さ・女性議員の少なさを嘆き、政治の浄化をめざした。議員の定数是正・政治資金規制・連座制などの法制化に奔走し、「ストップ・ザ・汚職議員」をスローガンに、1980年第12回参議院議員選挙で全国区第1位278万4998票で当選した。翌1981年に没し、30年以上経た今日でも、房枝の願いは達せられるどころか、ますますその主張の新しさと正しさが認識されている・・・、という主旨だった。
第2回の山口さんの話は、担当ディレクターとの一問一答方式で、市川房枝記念会女性と政治センター2階の展示室での収録とのこと、さまざまな資料に囲まれての、資料に即しての話が親しみやすかった。山口さんの話しぶりも自然体で聞きやすかったように思う。房枝は、資料に関して、買い物の領収書・給料明細から集会のプログラム、チラシまでほとんどを残し、メモ魔と言われるほど、会議その他の記録を残しているという。戦前で約8万点、戦後はその3倍、合わせて30万点以上に達する資料群の整理あたっているという市川房枝研究会、皆さんボランティアで、山口さんもそのお一人で、戦後については道半ばらしい。四谷見附の房枝の自宅と婦人問題研究所は、1945年4月空襲で全焼したのだが、その前年に保管されていた資料はすべて東京郊外の川口村(現八王子市)に疎開していたという。房枝の資料に対する考え方を象徴的にあらわしていよう。政治活動のなかで、1930年4月、第1回全日本婦選大会の熱気に始まる婦選活動、女性の地位向上のためには公職に就く女性の割合を高めようとする活動、女性の人権を根底から覆す売春の防止法制定運動に尽力したことが取り上げられた。いずれも、全国の女性の地道な長い運動に支えられていたという話などが心に残った。山口さんは、国立国会図書館時代、市川房枝の「政治談話録音」の企画から携わり、綿密な打ち合わせを続け、1978年のインタビューワーの一人としての体験なども微笑ましいエピソードとともに語られた。
なお、市川房枝の戦争協力による「公職追放」については、お二人の話でも触れられていたが、房枝自身の失意は相当深かったと思われる。私は、誰でも、あの時代の戦争協力、その戦争責任は、決して拭い去ることはできないはずだが、その後、そのひとがどう生きたのか、何を発言し、どう行動したのかにかかり、トータルに評価されるべきものという考えが変わることがない。房枝が、疎開までして、自らの膨大の資料を残そうとしたのも彼女の責任の取り方ではなかったかと思うのだった。
昔読んだ『市川房枝自伝・戦前篇』(新宿書房 1974年)を取りだし、今年の参議院選挙戦のさなか、山口さんから贈っていただいた『写真集・市川房枝』(ドメス出版 2013年)の頁を繰っている。『写真集』の表紙の「平和なくして平等なく 平等なくして平和なし」の言葉は、この今も、熱くて重い。
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