「大塚金之助の留学詠」を寄稿しました
経済学者でもあり、歌人でもあった大塚金之助が一橋大学や慶應義塾大学での教え子たちが集う「大塚会」という会がある。その方たちが編集発行する『大塚会会報』が40号を迎えた。私は、大塚金之助について書いたり、座談会に参加したりしたのがご縁で会員となっている。今号は小特集「ベルリンの歌人たち」であった。経済学の専門家も多い大塚会だが、金之助留学当時のベルリンに思いを馳せ、経済事情と研究生活の背景に少しばかり踏み入ってみた。2010年にはベルリンに4日ほど滞在したが、金之助の足跡をたどることまではできなかった。
今回の小特集では、歌人の三井修さんが「朝日歌壇における海外詠」を書かれ、現在の朝日歌壇の海外詠にまで言及されている。ベルリンにお住いの、西田リーバウ望東子さんが、現在のベルリンでの歌会のことを、岸フォン・ハイデン雪子さんがベルリン大塚文庫について書かれている。
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大塚金之助の留学詠
かつて、筆者は金之助の獄中での短歌に着目、論考を試みたことがある(「短歌に出会った男たち~大塚金之助」『風景』57号1995年7月)。今回は、「留学詠」についての依頼である。金之助の短歌のスタートはベルリンからの「朝日歌壇」への投稿であったことはよく知られている。
・異国をさすらひ歩むひとりびとあきらめ心すでに過ぎをり(伯林にて)
(島木赤彦選「朝日歌壇」『東京朝日新聞』1921年1月20日、遠見一郎)
*以下、断りない場合は、遠見一郎名による。
・やうやくに星を仰ぎてなぐさむる心久しく沈黙に慣れぬ
(島木赤彦選「朝日歌壇」『東京朝日新聞』1921年10月18日)
選者島木赤彦が編集人であった『アララギ』に入会したのが1922年8月で、選歌は、島木赤彦のほか、土田千尋、岡麓、土田耕平、中村憲吉だったりするが、1923年後半からは掲載作品数も二けたと多くなり、9月からは「同人欄」に掲載され、選者名は記されなくなった。
・白樺の枝の堅芽のふくらみに手触れて見ればつめたかりけり(北独の早春)
(島木赤彦選『アララギ』1922年8月)
・地下電車のひとのいきれをきくだにも物ぐるほしき夏去りにけり(伯林初夏)
(土田千尋選『アララギ』1922年10月)
・夏の空くもりてさむきこのごろをひとりこもりつつ笑ふこともあり
(伯林にて)(島木赤彦選『アララギ』1922年11月)
・つつましくこころなぐさめ地下線にいつかまなこをとぢゐたるかも
(岡麓選『アララギ』1923年5月)
・ふけわたる夜のしづもりに目ざめゐてわが耳なりにこころをあつむ
(島木赤彦選『アララギ』1923年5月)
作歌の動機と島木赤彦との出会いを、留学先の「ドイツで病気をしてから歌をつくりはじめた(1921年)。当時は『東京朝日新聞』をとつてゐたので、朝日歌壇に投書した。その選者が島木赤彦先生であつた」と「アララギの歌」の「はしがき」で記している(『大塚金之助著作集』第9巻)。冒頭の「朝日歌壇」の投稿作品における「あきらめ心すでに過ぎをり」「なぐさむる心久しく沈黙に慣れぬ」と嘆くのは、アメリカ、イギリスを経て、1920年1月、所期の目的でもあったベルリン大学での研究に専念すべくドイツ入りした後であり、心細さも究極に達したのではなかったか。『アララギ』掲載作品のいずれもが、孤独感に苛まれ、耐えている様子が「ひとりこもりつつ笑ふ」「まなこをとぢゐたる」「耳なりにこころをあつむ」などに凝縮されている。その上、仰いで間もない、遠く離れた歌の師は、失明寸前の病床にあった。
・ひたぶるの生きのこころをまもりつつまなこつぶるかとほき師の君
(恩師のこりたる一眼もつぶるるとききて)(『アララギ』1923年11月)
1920年代の日本からの海外留学生の生活は、どんなものであったろうか。文部省の『学制八十年史』によれば、大正期の大学は、その拡充計画が課題で、1919年(大正8年)から「高等教育機関拡張6か年計画」のもと1920年には在外研究員制度を創設した。明治末期から年間50人程度を推移していた「官費留学生」だったが、制度創設と共に飛躍的に増員され、100人を超え、1922年には200人を超えている。1940年中断にいたるまで、減少しながらも制度は維持されていた。金之助が日本を発ったのは、まさに1919年4月、5月からはニューヨークのコロンビア大学で、1920年1月からはロンドン大学で学び、1920年5月からは、ベルリン大学で学び始めた。ベルリンで暮らした1920年から1923年末までは、第一次世界大戦の敗戦国の市民の生活は、配給制のもと食糧難やストライキに見舞われた。そのピークが1923年というから、ハイパーインフレのさなかでの留学生生活の苦難はいかばかりであったか、想像に難くない。しかも、日本には、母、弟妹らの家族を残していた。帰国後に目の当たりにするその困窮ぶりにも思いは至っていたのではなかったか。
・室隅のくらきにおきて見のたへぬ眉根にふかき母の皺はも
(外国にありて母の写真をみる)
(『アララギ』1923年5月)
・老い母の生けるたよりありとおもひつつ夜ひとりゐて栗を焼くかも
(『アララギ』1924年3月)
・うす霧のあをくただよふ月の夜に阿片を飲みてわれはねむるも
(『アララギ』1924年3月)
金之助は、ベルリンでの暮らしぶりや思想を具体的に、直接、短歌作品に盛り込むことは少なく、みずからの内に秘めて、心の在り様、ひとりごと、吸う息、吐く息などをも心にとどめ、草木の香、葉づれや雨の音、鳥の声を逃すまいと五感を研ぎ澄ましていたと思われる。
・ひややかにわか葉のかをりながらふはかなしきものかこころ澄むなり
(『アララギ』1923年9月)
・夏さりし青葉の暗にしろじろとはきぬる息のきゆるさびしさ
(この夏伯林甚だ寒し)(『アララギ』1923年9月)
・あをき香のこもらひにつつリンデンのわか葉はふかくなりにけるかも
(同上)(『アララギ』1923年9月)
・夏草の葉づゑのややにゆるるとき日のかぎろひは息にせまりつ
(『アララギ』1923年11月)
・秋かぜの木の葉をわたるかそけさよまなこつぶればわきてきこゆる
(『アララギ』1923年12月)
・暁のこころさわぐにただならず川音たかくさえわたるなり(東京震害飛報)
(『アララギ』1924年2月)
作歌の時期と『アララギ』発表までには、タイムラグが生じているが、金之助は、関東大震災のニュースに衝撃を受け、帰国を決意、1923年12月23日には、すでにマルセイユを出航、日本に向かっていた。金之助の留学詠について、坪野哲久は、『アララギ』の「リアリズム」と島木赤彦の薫陶を前提に、つぎのように分析する(『著作集』第9巻の「解説」550~551頁)。
敗戦国ドイツに、切詰めた苦しい学究生活を重ねつつ、こころの拠りどころとして歌を作りながら、もう一つ充ち足りない空白があったであろう。それは戦後のドイツの社会と人間が、まるきり主題に上らなかった点においてである。〈民われの胸にはあれどゆるされぬまことをただに言ひし君かも〉とうたっているように、金之助を自由に歌わしめなかった非人間的な制約があったからである。胸のつかえを率直に吐き出し得ない苦しみが、彼の歌の裏側にひそめられていることをわれわれは感じとらねばならない。ドイツ滞留の歌を私は、「悲しみの歌」として受けとめている。
ベルリン滞在中の金之助の学究としての関心は、すでにマルクス主義を志向し、1922年頃から社会主義関係文献を収集、後の「大塚文庫」の核をなしたという。短歌に、自らの社会的な関心や傾倒してゆく思想をなぜ歌わなかったのか。坪野哲久のいう「非人間的な制約」とは、具体的には、何を指すのか、私にはまだ不明な部分が多い。島木赤彦、『アララギ』の人々との人間関係のしがらみ、「官費留学生」の身であったこと、自らの就職、日本にいる家族など、さまざまな要因が考えられる。その上、『アララギ』のリアリズムが大きな「枠」とはなっていたのと同時に、短歌に思想を盛り込むことのむずかしさにも直面していたようにも思う。
さらに、金之助にとって抑制の大きな要因として、ようやく入門を果したベルリン大学のウェルナー・ゾンバルト教授のゼミナールであったが、教授との思想的な乖離をあげることができよう。金之助自身による「ゾンバート教授はファッショ化する」(『著作集』第7巻)あるいは、武田弘之『歌人大塚金之助ノート』の指摘にもあるように、留学中の短い期間にも教授の思想的な転換と金之助の「精神の遍歴」があったことがわかる(大塚会 2011年、27頁。初出『群青』4~9号1973~1978年)。近年、池田浩太郎による、ゾンバルトに関する書誌学的な論稿を読んでいて、いっそう、その感を強くした(「ヴェルナー・ゾンバルト研究文献」『成城大学経済研究』160号2005年2月など)。論者は「ゾンバルトのゼミナールでの大塚への思想的影響は、さして強くはなかったと推測されよう」(「ゾンバルトと日本」『成城大学経済研究』153号2001年7月、16頁)と結論付けるが、ほぼ時期を同じくして、指導教授のマルクス主義的思想への理解者から文化理想主義的、国家社会主義的な立場への転換、一方の金之助のマルクス主義思想への傾倒という、まさに反対方向の転換は、孤独な一留学生の身には、精神的な負荷が大きかったに違いない。
・ベートーフェンのうきにたへたる面ざしにあかときさせり北よりの日は
(壁間のベートーフェン面像、彼は耳しひにて極貧、しかして世界最大の作曲家なりき、後略)(『アララギ』1923年11月)
・民われは胸にはあれどゆるされぬまことをただに言ひし君かも
(1921年春はるばるとラインのほとりにベートーフェンの生地ボン市をおとづれた。カスタニア〈七葉の木〉が咲きさかつてゐた。)
(『アララギ』1924年7月)
いずれも、ベートーベンについての長い詞書を付す、帰国後の作品である。
さらに、小松雄一郎「大塚金之助先生とベートーヴェン」(『大塚会会報』22号1995年5月)によって、その後「ベートホーフェン抄」(『生活者』11号1927年3月)を発表していることを知った。ベートーベンの手紙208本の抄録を主題別に集成した記事で、短い「註」には、ベートーベンの手紙はどれからも「社会相」知ることができるとして「同時代者のゲーテよりも著しく社会生活の懊悩のために影響されているのを見逃してはならない。そしてこの社会に対する彼の思想は或る点に於て叛逆的であつたのは誰しも知るところである」とし、ベートーベンが、金之助の生涯を通じて「精神生活の一つの柱」となったことの背景を理解することができた。
ほぼ同時期に、ウィーンに留学中だった斎藤茂吉との境遇や作品の違いにも興味深いものがあったが、別の機会に譲りたい。
(『大塚会会報』40号 2013年8月 所収)
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