自治会の防災訓練に参加して~公助はどこへ
会場の中学校が借用できるか否かで、急遽前倒しとなり、8月最後の土曜日に決まった防災訓練。この猛暑の中、何かと心配だったが、考えてみれば防災の日を明日に控えた絶好の日和だったかもしれない。私は、防災委員ながら、腰を痛めていたので力仕事はお任せで、受付と防災井戸・防災倉庫の市の防災課職員の説明のタイムキーパーを務めた。職員Uさんの話はつい熱が入って10分が15分、いやそれ以上に延びる。20人ほどの5グループが、他のコーナーを回って順繰りにやってくる。
防災井戸はできたが・・・
防災井戸については、私も東日本大震災の折、初めて知ることも多く、市役所ともやり取りしたので、おおよそのことは心得ていたし、この2年間で何回か、話も聞いている。佐倉市では、今年で、39か所の広域避難所のうち一つを残し、防災井戸が設置された。大震災当時は、11か所しか設置されていなかったし、震災直後すべてが稼働したわけではなかった。この日の会場の中学校の防災井戸も、直後は給水できなかった。その原因が、防災課と水道局とでは違っていて、器具の不具合とか、地下水脈の破断とかの言い逃れも聞いた。要するに、緊急時の対応に不備があったらしい。あのときは、市場から飲用水のペットボトルが消え、水道水の放射性物質混入の可能性から「乳幼児には水道水は避けて欲しい」旨の防災放送が流されていた。防災井戸の給水が始まると、この井戸にも遠くから母親や祖父母たちが水を汲みに来ていた。結局、昨年の3月までは、この防災井戸は開放されていた。定期の水質検査、常時の塩素消毒、捨て水、発電機などの対策で、防災井戸は、非常時の開栓により給水可能になったのは、大震災が残した一つの成果でもあった。80~90mの地下からのくみ上げは手漕ぎでは無理で、印旛沼に近いこの辺の浅井戸の水は飲めたものではないと強調していた。防災井戸の水でも乳児用には、その硬度から危険だということも言っていた。佐倉市が水道水の一部に使っている井戸水は150m以上の深層水とのことだった。せめて、この水道水の水質を保ちたいものだが、八ン場ダムからの取水にメリットはあるのか、の思いにもつながる。
防災倉庫の食料配布、避難所への避難はお断り・・・
東日本大震災後、そしてとくに9月1日、防災の日前後のメディアは、防災対策の指南に忙しい。そこはまさに、自助・共助の大合唱である。自分で備蓄せよ、ご近所との絆が大事と、国や自治体は役割放棄に躍起となっているとしか、私には思えない。自助や共助の基盤づくりがないところに、自助と共助に丸投げをしているかに見える。
防災訓練の日の市職員も、これまでになく高姿勢で、「この地域では、床上浸水も土砂崩れの心配もない上、地震でも家が半壊以上でないと、避難所へ来てもらっても何もできませんよ。この防災倉庫の備蓄食料も分けることは、法律上できないことになっています、お帰り下さい」と言うしかないという。「一人住まいで不安だ、余震が怖い」という人には、避難所は減るものでないからどうぞ、くらいしか言えない。だから、食料や水は3日分というよりは自分で1週間分は用意しておいてください。インフラの中で下水の復旧がいちばん時間がかかるから、排泄の始末も自宅で解決してください、という。行政は頼りにするものではないと、行政が市民を脅し、危機感をあおり、不安に陥れようとしている構図である。防災の日に話す内容なのだろうか。東日本大震災の復興予算が残ってしまう理由がよくわかる。自助や共助は、強制されるものでなく、市民が体験から学び、学びながら覚悟していくものだろう。私たちが父母から聞き、歴史で学んだ「常会」や「警防団」の世界が見え隠れする。もっとも、「内閣情報局」新設などと言い出す安倍政権だから、こちらも真剣に構えねばならない。
職員は、防災倉庫の前で、こんなことも言う。大災害のあとのガソリン不足は、安全保障、国防の必要上、国が管理するからで、当然のことある。大災害の時こそ、いつ敵国が襲ってくるかもしれない、その時みなさん死ぬ覚悟がありますかと、ガソリン不足には普段から満タンにしておく心掛けを説くではないか。こんな風に役人は育てられていくのか。仮想敵国に憎悪を募らせようとする外交の拙劣さを役人や国民にさらしているからだろう。
根性スイカの緊急報告
夏休み最後の週末、近くの少年野球のメンバーたちが、その帰りがけの自転車で、例のスイカの周りを囲んでいた。「誰が植えたのかな」「こんなに大きくなるんだ」「食べられるかな」「家の庭で捨てたごみから南瓜ならできたよ」などとかしましい。これらスイカの行方は、私も気になる。駐車場の草刈りの人が、わざわざ気を利かして、これだけを残しておいてくれた。写真添付で娘にメールすると、八社大神にでもお供えしたら・・・の返信を貰っていた。その手があるのだ。大きい方は、何とかこの少年たちに渡し、小さい方はお供えをしよう。私は彼らに、「小さい方は、みんなの交通安全を祈ってお供えするからね」と伝えておいた。
そして翌朝、のぞいてみると、その小さい方に小さな割れ目が・・・。収穫するなら「イマでしょ」と中学校を横切り、神社へと急いだ。八社大神の南西側の樹木は、すったもんだで、だいぶ伐採されてしまったのだが、それでも杜への階段を上ると涼風が心地よかった。スイカを供え、明日から、小学校も新学期、交通見守りも始まるので、子どもたちと見守る私たちボランティアの交通安全を祈願したというわけである。
ところが、9月2日の夕方、犬の散歩に出てみると、大きなスイカは、見事になくなっていた。誰の手に渡ったのか。ご近所のお子さんたちならばよいが・・・。でも、どこかで、ほっとしたのも正直な気持ちだった。
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