「国策紙芝居」というのがあった!見渡せば「国策メディア」ばかり・・・にならないために
“なつかしい”六角橋商店街
早くより、お知らせいただいていた「戦時下大衆メディアとしての紙芝居―国策紙芝居とはなにか」公開研究会(2013年12月4日、神奈川大学非文字資料センター・図書館共催)で、櫻本富雄さんが話される。会場は、横浜の白楽にある神奈川大学。白楽駅下車13分とあるから、少し早目に着いて歩き出した。“なんとなつかしい”六角橋商店街ではないか。池袋の商店街に育った私には、どこかホッとする空間である。路地に入ると、休憩所やトイレがあって、細い仲見世が続く。その中のひとつに入り込んだら、大学への道がわからなくなって、中華まんじゅう屋さんに尋ねる。角々で人に尋ねながら着いた図書館のホールは満席に近い。後で聞けば、入りきれない方々がいらしたとか。
デジカメを忘れ、携帯で撮ってみたものの・・・
初めてお目にかかる櫻本富雄さん~そのライフワークへの熱情
開会の直前、ようやく櫻本富雄さんとお目にかかれた。永らくメールのやりとりやご本を頂戴したりしていた櫻本さんとようやくお話しすることができた。ちょっと前に風邪をひかれたと伺っていたが、お元気そうで、何よりだった。先日の拙著の批評会のレジメと書評のコピーを手渡しすることができた。櫻本さんの講演は、冒頭はどんな話の展開になるのかと思ったが、執念のライフワークに至る、壮絶な内容であった。
櫻本さん(1933~)については、このブログの以下の記事をあわせて読んでいただければと思う。
・2012年11月7日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/11/post-1f5b.html
ご自身も詩人でありながら、1970年代から詩人たちの戦時下の著作や発言に着目、その戦争責任、表現責任を厳しく追及し始める(『詩人と戦争』、『詩人と責任』1978年)。以降、戦時下の文化人たちの表現責任と戦後、決して責任を取ろうとしなかった彼らを、みずから収集した著作物、資料から綿密な検証をし続けている。紙芝居、ラジオ、映画、さまざまなジャンルの文学作品、漫画、歌謡などに及び、その著作は20数冊を数える(『文化人たちの大東亜戦争』1993年、『日本文学報国会』1995年、『戦争とマンガ』2000年、『歌と戦争』2005年など)。
この日は、その中の紙芝居についての研究会であって、櫻本さんの演題は「国策紙芝居とはなにか」であった。長野県小諸市出身、小学校での担任教師とクラスからの無視や虐めを受けて、その屈辱は優秀な航空兵になって見返してやろうという皇国少年だったという。ところが、櫻本少年が見た戦後の教師たちはじめ、翼賛文化人たちは、みごとに民主主義を唱え、戦時下の著作物や発言を隠蔽して口を拭ったのを目の当たりにする。その悔しさと怒りが、これまでの仕事を支えてきたという。昔、見た紙芝居は、戦後保存されているところがなく、古書店にあることもまれで、むしろ古道具屋さんの片隅に、新聞・雑誌類と一緒に積まれていることが多く、地方にも出かけ、500点くらいは集める。しかし、戦時下のいわゆる「国策紙芝居」の全貌がいまだにつかめていないという。このたび、櫻本さんが集めた紙芝居の一部が、古書店を通じて、神奈川大学非文字資料研究センターに購入され、整理されての、研究会である。収蔵の241点は、神奈川大学図書館OPACでの検索が可能になったが、絵と台本のみのデータで、どのくらいの部数が印刷され、そのテキストがどこで、だれによって、どう読まれたか、どう演じられていたかとなるとほとんど記録に残されていないという。
櫻本さんの話には、資料に裏付けられているという「責任を取らない」「戦前・戦後、あべこべのことをいう」「戦前の本当のことを隠す」文化人の名前がポンポン飛び出す。金子光晴、佐木秋夫、藤田嗣治、古関裕而、本郷新、住井すゑ、吉屋信子、北村西望、加太こうじ・・・。おや?という人物も次から次へと飛び出すではないか。
「国策紙芝居」とは
「国策紙芝居」は、多くは手書きの、いわゆる「街頭紙芝居」に対して、「印刷紙芝居」に属するもの。街頭紙芝居は、1930年頃には貸元制度により浸透・定着、一日の客100万人といわれ、1940年ごろまでは人気を博していた。1938年、警視庁による検閲が始まり、日本教育紙芝居協会が発足、軍事保護院、勧業銀行などのスポンサーつきの紙芝居が作られ始めた「国策紙芝居」、1940年、日本教育紙芝居協会の紙芝居出版部門として朝日新聞が出資、「日本教育画劇」が設立され、常会等での実演が盛んになり、地方へ、そして外地での紙芝居の実演が活発になる。
神奈川大学が受け入れた紙芝居の目録を見ると、そのほとんどが「日本教育画劇」出版のもので、キーワード別にみると、勤倹貯蓄、皇軍物語、銃後物語、東西偉人伝、戦局ニュースなどのほか、小説、童話、漫画などもある。
「チョコレートと兵隊」「神兵と母」・・・
櫻本さんの講演の前の第1部では、「紙芝居」4本の実演があったのだ。
①『敵だ!倒すぞ米英を』(大政翼賛会宣伝部作 近藤日出造画 大政翼賛会宣伝部刊 1942年12月)実演:神奈川大学放送研究会(斎藤さん)
②『チョコレートと兵隊』(国分一太郎脚本 小谷野半二絵画 日本教育画劇刊1941年7月)
実演:神奈川大学放送研究会(草刈さん)
③『空の軍神加藤少将』(鈴木景山脚本 小谷野半二絵画 日本教育紙芝居協会制作 1943年11月)
実演:なつかし亭 岸本茂樹さん
④『神兵と母』(宮下正美原作 馬々川鷹四脚色 山川惣治画 大日本画劇刊 1944年9月)
実演:なつかし亭 岸本茂樹さん
①は、「戦局ニュース」に分類される作品で、時局解説風で、台本にはつぎのような場面がある。
「ドーン!日本はサツと起ち上がった。起ち上がりざまにABCDを殴りつけた。真珠湾に、マレー沖に。シンガポールやビルマに、ヒリツピンやジャワに、ソロモン海戦に、つづけざまにドーン!ドーン!と米英共を殴つてやつた。大東亜民族の擁護のために、皇国日本を守るために。連勝、連勝」
最後は「敵だ!倒すぞ米英を。一億の手で、団結で」で終る12枚の作品。絵を描いた近藤は、戦後、似顔絵による政治風刺漫画はマス・メディアで人気だったことを覚えている人も多いであろう。
②は、すでに映画(1938年11月、佐藤武監督、鈴木紀子脚本、藤原鎌足、沢村貞子、小高まさる、高峰秀子出演)にもなっていた実話に基づく作で、日本教育紙芝居協会刊行の1939年版もあり、ラストが国分の台本とは異なるものが、九段の昭和館に所蔵されているそうだ。ストーリーは、明治製菓が売り出した、包装紙の点数を集めるとチョコレートがもらえるという懸賞で始まる。戦場の父親が、慰問袋に見つけたそのチョコレートの包装紙を必死に集めて、家の妻子に送ってくる。幼い兄妹が製菓会社に手紙を出して、待ちに待ったそのチョコレートが届いた日に、父親の戦死の公報が届いたという悲話である。国分一太郎(1911~1985)は、綴り方教育で著名な理論家でもあり、実践家でもあった。
③は、加藤建夫隼戦闘隊長(1903~1942)について、私の世代は、名前程度しか知らないのではないか。部下思いで、操縦技術に長け、家族思いだった加藤の活躍は「空の軍神」として、西条八十、勝承夫、田中林平の作詞で歌謡になり、藤山一郎、藤原義江、灰田勝彦によって歌われたという。1944年には陸軍省の全面的な協力を得て、山本嘉次郎監督、藤田進主演の映画にもなり、大ヒットした。紙芝居は22枚による長編、演者の岸本さんは、横浜を中心に紙芝居の継承に務めている人で、台本にもない、すべて声による擬音の挿入などは見事なものだった。
④の挿絵は、なんと山川惣治。「少年ケニヤ」の作者で、晩年を佐倉市で過ごし、私も小さな展覧会で姿を見かけたことがある。近年、佐倉市立美術館で大掛かりな展覧会も開催された。この紙芝居は、手の障害を母と共に克服した少年が、あこがれの落下傘部隊で活躍、「天皇陛下万歳」「お母さん」と叫んで戦死する話で、「おお、讃へよ母の手、皇国の手―その勲功は皇国と共に不滅である」のセリフで結ばれる16枚の作品。出版元の「大日本画劇」は、1937年、街頭紙芝居の制作会社16社が統合し発足している。
これもぼやけていて。左から安田、櫻本、富沢、中島さんです。
公開座談会「戦意高揚紙芝居コレクションの位置づけを巡って」
櫻本さんの講演のあとは、神奈川大学の中島三千男教授の進行、安田常雄教授、富沢達三講師の3人が加わっての座談会になった。安田教授は、広義の紙芝居の特徴は、演者・観客の直接性―手渡し文化であること、作者の内的必然性―作家性、まだ解明できていない演じられた場所などの実態に着目したいとした。富沢講師は、1967年生まれ、家族らの戦争体験や自らの反戦メディア体験から話し始める。「戦争紙芝居」の特徴として、大量生産による観客の多様性、絵物語風のデッサンがしっかりしたもの、20枚前後で完結するストーリーの密度とメッセージ性、露骨な戦意高揚よりも銃後における家族愛・同僚愛とくに母親を描いた作品の訴求力に注目したい、との発言だった。
短いながら、会場からはセンターへの期待や今後の課題が投げかけられた。
参考:
神奈川新聞2013年11月30日の関連記事
http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1311300001/
私にとっての紙芝居
私の小学校時代1950年前後にイモアメをしゃぶりながら見た紙芝居は「街頭紙芝居」に分類される。紙芝居史上、二度目の黄金期でもあったと知る。小学校時代に紙芝居を作ったらしく、薄い画用紙?にクレヨンで描いた、すすけたような「かぐや姫」の何枚かが古い段ボール箱から出てきた。長女が1970年代後半、保育園や図書館で見ていた紙芝居は、印刷紙芝居で教育的な目的をもって作成されていたのだろう。また、長女が名古屋の学童保育所に通っていた頃、畳一枚ほどの「じごくのそうべい」という手作りの大型紙芝居を父母の前で演じた子どもたちの満足げな顔を思い出す。よちよち歩きの子どももスマホを操るような、現代の子どもたちの紙芝居って、どうなんだろう。
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