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2013年12月 7日 (土)

『天皇の短歌は何を語るのか―現代短歌と天皇制』の批評会の中で・・・

記事は前後するが、1130日、出版元と世話人の方々の企画で、次のような批評会が開催された。御茶の水書房と私の方から案内状を発送させていただいた。とくに出欠の返事をいただくことにはなっていないので、ほんとうに何人の方が参加してくださるか、とても心細かった。例会は、社会科学、歴史、哲学、思想関係の書籍が対象で、20人から30人なのだが、今回は「短歌」という、マイナーなテーマだし・・・、催しや集会が多い季節だし・・・、と不安要素がいっぱいだった。配布資料は、レジメと数枚の年表・表、書評集の、合計A36枚となった。『図書新聞』『読書人』に書評が載ったのは、元図書館員としてはうれしいことだった。それに、金井美恵子さんの新著も持参して、皆さんに回覧していただいた。(11月26日の当ブログ記事参照)

 

5回批評講座■                      

 

『天皇の短歌は何を語るのか―現代短歌と天皇制』

(御茶の水書房2013815日) 

20131130日(土)午後2~5

明治大学研究棟4階第3会議室

 

 司会進行は伊藤述史さん、コメンテイターは三上治さん、歌人からは阿木津英さんにお願いしていた。伊藤さんも三上さんも世話人の中心メンバーでもある。参加者数は、若干出入りがあったが、25部用意していた資料がなくなってしまったということだった。会場の手配や当日のお世話を高橋一行さん、沢村美恵子さん。本の装丁をしてくださった若生のり子さんもいらした。初めてお目にかかる図書新聞の水谷さん、書評の載っている新聞を用意してくださっていた。短歌の実作者は、私を含め6人だったと思う。5時過ぎまで、ほんとうに、ありがたいことだった。

  討論の中身については、機会があったらと思うが、概略を留めておけば、三上さんは、国家の権威は天皇に、政治は議会や官僚にという二重構造のなかで、昭和天皇は戦前を引き継ぎ、現在の天皇は象徴天皇制を基盤とする度合いが強いが、現在もその矛盾は続くとする。阿木津さんは、日本の天皇制が文化としての権威を取り戻したのが、むしろ戦後ではないか。天皇家は「和歌」の世界を継承して今日に至り、現代歌人は「歌会始」を頂点とする大衆的な巨大空間を再編成したとする。

  参加者からは、現在の憲法のなかでの矛盾、名だたる文化人たちの天皇制への傾斜などが指摘された。歌人のTさんからは、大学での師弟関係、結社での師弟関係において微妙な立場にありながらの発言をいただき、印象に残っている。

  JRお茶ノ水駅前の店での2次会、半数ほどの方が参加してくださり、にぎやかなことだった。日本近代文学専攻の渡辺澄子さん、女性運動史専攻の伊藤セツさん、昨年、母川上小夜子の評伝を出された、詩人の古谷鏡子さんらとゆっくりお話しすることができたひと時であった。

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当日にレジュメ圧縮版(第1章と2章に重点を置いた)

1章 天皇の短歌は何を語るのか―その政治的メッセージ性

 1)発表される短歌の社会的・政治的状況への呼応

・短歌を公開するチャンスは、①歌会始の1首 ②元旦に一族の写真と一緒に発表される前年の作品、天皇5首、皇后3首 ③歌集出版

天皇・皇族の短歌の政治的利用の例

①昭和天皇の短歌:太平洋戦争の開戦時と戦争終結時の作。

・峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり(1942年歌会始)

・爆弾にたふれゆく民の上をおもひいくさとめけりみはいかならむとも

        (『おほうなばら』1990)(『宮中見聞録』1968) 

②小泉首相の200224日の施政演説で昭和天皇の短歌引用

③平成に入って、いまの天皇・皇后の短歌

平和への思い、環境保護への思い、障がい者・災害の被災者など弱者に「寄りそう」思いを発露した作品を読み続け、政策の至らないところを、さまざまなパフォーマンスと相まって、一時的に、情緒的に鎮静・補完するという役割を果す

2)発表メデイア、時期についてなどの情報操作の例

①発表メディアの選択、発表時期・発表の順序、歌集収録の際の取捨選択、編集などによって、短歌の意味内容さえ変えかねない操作の痕跡((「『入江相政日記』」

②敗戦直後の4首「宣伝的にならぬ方法にて世情に漏らすことの許可を得て」という主旨で、1945年末に1946年元旦用の短歌として一部発表(木下道雄侍従次長の日誌)

「海の外に陸に小島にのこる民のうへ安かれとただいのるなり」194611日)

③昭和天皇の短歌を1948年文化の日にちなんで全国紙にいっせいに流したが、その扱いがマチマチで効果が今一つだった。今後は特定の新聞にリークする方法が望ましい。19501月号には、当時の総合誌『改造』に7首を発表(『入江相政日記』)

 

2章 勲章が欲しい歌人たち―歌人にとって「歌会始」とは      

 

1)歌会始選者・御用掛の仕事~何が魅力なのか

・歌会始選者、御用掛の皇族へ短歌指導

・公募短歌の選者:2万前後から入選作10首、佳作20首を選ぶ。

 長期の在任が慣例:木俣修、岡野弘彦、岡井隆など20年以上。病気か死亡で辞めることが多い。

2)歌会始選者は褒章・栄典制度の中でどんな位置を占めているか

芸術院会員歌人23人中12人が選者を経験、内12人、その内、5人が文化功労者、3人が文化勲章を受章              

 

 <ベテランのコース>(選者から文化勲章へ)

歌会始選者 ⇒ (芸術院賞受賞者5人、紫綬褒章受章者4人)⇒ 芸術院会員12

⇒ 文化功労者5人(歌人では、別に近藤芳美が文化功労者)⇒ 文化勲章3人:茂吉・信綱・文明            

<中堅のコース> 日本芸術院会員への道

芸術選奨(新人賞・大臣賞)⇒ 歌会始選者3 ⇒ 紫綬褒章 ⇒ 

3)これらの受賞者や受章者はどのように選ばれるのか

芸術選奨 文化庁管轄で、10部門別の選考審査委員は各7人。短歌(歌人)は毎年入るとは限らず。委員はかなり固定的で、若干入れ替わる。30年近く、岡野弘彦が長く、篠弘、佐佐木幸綱への歌人就任の直後に歌人の受賞が慣例、委員の裁量の要素が高い。不祥事以後、推薦委員を新設

紫綬褒章 選考は、立法・司法・行政の長と各省大臣、宮内庁長官などが内閣府賞勲局と協議の上、推薦、内閣総理大臣が候補者の審査を行い閣議で決定

日本芸術院会員  終身の120人以内という定員制。会員になるには、部会ごとの会員の選挙により「芸術上の功績顕著な芸術家」を選出・推薦し、総会の承認、文科大臣が任命

芸術院賞 選考基準・手順についての法令はなく、部会ごとの会員に対して、会員外から候補者の推薦を求め、「全会員で組織する選考委員会」で絞り、各部会の会員の過半数で内定する

文化功労者 文化審議会の文化功労者選考分科会が選ぶ。委員10人程度、一年任期、美術館館長・博物館館長・大学学長・教授などいわば宛て職と美術評論家・作家・ノーベル賞受賞者など。文化・学術各界の現状を知るわけもなく、候補者選出は、事務方の大臣官房人事課がまとめるが、選考基準や選考過程は非公開、恣意性が高い。

文化勲章: 文化審議会の文化功労者選考分科会が文化功労者の中から選ぶ 

*辞退の例 芸術院会員:大岡昇平、文化功労者:佐藤忠良、文化勲章:河合寛治郎(1955)、熊谷守一(1968)、大江健三郎(1994)、杉村春子((19951974年文化功労者は受けたが)

*叙勲の問題点:官高民低、年功序列、男女差別、価値観の多様化に応えず、負の評価が甘い、報道による拡散・助長・・・

4)国家的栄典・褒章の裾野としての各種短歌賞の受賞、選考委員、短歌大会講師

新聞歌壇の選者、新聞社・大学・デパート・自治体などのカルチャー教室の講師も含む

 

3章 メディア・教科書の中の短歌

メディアや教科書の中で作り上げられる「短歌」について

・太平洋戦争下の短歌の朗読について

・中学校の国語教科書のなかの短歌

栗木京子の次の一首が、5社すべての検定教科書に収録

「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」(『水惑星』1984年、初出1975年)

 

4章 『ポトナム』をさかのぼる

『ポトナム』の沿革:ポプラの朝鮮語で、日本語では「白楊」と書く。1922年(大正11年)、当時京城公立高等女学校の教員だった小泉苳三(近代短歌史・書誌研究、立命館大学に白楊荘文庫のコレクションあり。歌人でただ一人の公職追放となる)が、ソウルで創刊。昭和前期のポトナムを知る同人がすでに皆無。阿部静枝、小島清、醍醐志万子の検証を通じ、昭和の短歌史、ポトナム史の一断面を残す

 

 

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