久し振りに、20世紀メディア研究所研究会(第82回)(1)占領初期GHQの対共産主義対策
・ 場所 : 早稲田大学 早稲田キャンパス 1号館2階
現代政治経済研究所会議室
・ 日時: 1月25日(土曜日)午後2時30分-午後5時
・ 発表者:テーマ
①賀茂 道子(名古屋大学環境学研究科社会環境学専攻博士後期課程):
占領初期GHQ民間情報教育局の対共産主義政策
――天皇制に関する事例を中心に
②紙屋 牧子(早稲田大学演劇博物館):
占領期からポスト占領期の日本映画における「女」と「キリスト教」
の表象
③笹川 隆太郎(尚美学園大学総合政策学部):
占領初期の新聞報道をめぐって――小報告二題
①②のレポートで、5時近くになってしまったので、③は、資料だけ頂戴し、退席しなければならなかったのが残念だった。①②は、とても興味深いテーマであったので、私なりの理解で、記事としておきたい。
①占領初期GHQ民間情報教育局の対共産主義政策―天皇制に関する事例を中心に(賀茂報告)
私は、「短歌」という窓から、天皇制について考えてきたつもりだが、1945年8月15日以降の占領下で、なぜ天皇制が残り得たのかが、なかなか理解できないでいる。そして、今日にいたるまで、この矛盾に満ちた制度が、さまざまな矛盾を生み出しているようにも思うのだが、この「天皇制」自体が政治の争点になることは、近年めっきり少くなった。自民党が進める憲法改正論の中であらためて提出された論点の一つになっても、護憲政党からは「天皇」の位置づけについての明確な言及が見当たらない。一方、占領期における「天皇制」についての先行研究では、日本の占領政策において、天皇制の温存が、その統治をスムーズにするために利用されたとする見解が定着しているように思う。
賀茂報告は、憲法上、「象徴天皇制」に至る経緯の中で、占領初期のGHQが「天皇制」めぐって「共産主義者」をどのように利用していたかに、焦点を当てたものであった。
これまで、加藤哲郎『象徴天皇制の起源』(平凡社2005年)において、CIAの前身OSS(戦略情報局)の文書のなかの陸軍省戦争心理課作成の「日本計画」という1942年6月3日付文書に、「天皇は、平和のシンボルとして利用すること」とした記述が見られることは読んだことがあるので、承知していた。すでに太平洋戦争開始直後以来、そうした計画が進められていた大きな流れの中で、占領初期、GHQ主導の天皇制論議において、共産主義者がどのように利用されたか、事例を踏まえての報告であった。
日本の天皇制をどうするか、については、アメリカ本国でのバーンズ、アチソンと続いた国務長官は、親中国派の強硬路線(天皇制廃止)をとり、GHQは早期に急進的な改革の実現が生じた。GHQの民間情報局CIEのダイク局長、スミス企画課長は、ラジオの効用を評価し、10月4日「自由制限の撤廃に関する覚書」に従って、天皇制論議においてもラジオを活用した。その代表的な番組は、11月21日の「座談会」であったと言う。さらに、出演者として、出獄したばかりの共産主義者、徳田球一を起用した(他に清瀬一郎、牧野良三、司会室伏高信)。また当時の映画館で上映された「日本ニュース」にも、清瀬一郎とともに徳田球一が登場する。さらに、1946年1月に発足した放送委員会の委員の顔ぶれを調べてみると、次のような人選だったことにも、共通する。座談会における徳田の発言の骨子は、天皇制廃止で、その天皇制というのは、封建的な家族制度と相容れるもので、廃止が必要とするものであった。
荒畑寒村、馬場恒吾、土方与志、浜田成徳、堀経夫、岩波茂雄、加藤静枝、川勝堅一、近藤康男、槇ゆう子、宮本百合子、大村英之助、島上善五郎、滝川幸辰、富永能雄、瓜生忠夫、渡辺寧
なぜ、CIEは、共産主義者を登用したのか。報告者の結論を、筆者が、つぎのようにまとめてみた。
・共産主義に対しての積極的な政策には、方向性を同じくする部分について、新しい時代の幕開けの象徴として利用することに宣伝工作の効果を見込んだ。
・方向性が異なる部分の天皇制に関しては議論の活性化という、「世論の隆起」を期待したと同時に、意向に反する「天皇の戦犯指名」という部分については、隠ぺいするという「検閲」を意図した。徳田に「天皇戦犯」について発言させなかったのも、国民の意思ではなくGHQが決定するという強いメッセージがあった。発言は、事前検閲によりチェックされていたので、シナリオ通りの発言だったという。
・占領改革においては、あくまで民意によってなされたことを望んでいた(アメリカのニューデイラーが多かった)。「世論調査」の先駆けになったのが「天皇制について」であった。
それでは、1946年に入って、共産主義者と決別したのはなぜか。報告者がまとめたものを、さらに筆者が、まとめてみるとつぎのようになるのでは。
・共産主義者の労働組合への影響力への懸念
・米ソ冷戦の兆しや中国での国共合作の失敗
・天皇制の骨格形成、新憲法草案の決定で、初期占領計画の完成
これらの理由から、報告者は、つぎのようにいう。「少数派の共産主義者を前面に押し出す必要性がなくなった。またマッカーサーが(天皇の)戦犯指名回避の決定をしているのにもかかわらず共産党は公然と戦犯指名を要求したことも関係しているかもしれない」と。
私は、先の拙著『天皇の短歌は何をかたるのか』で、占領初期の天皇の短歌発表の背景として、日本国憲法の制定過程と天皇制論議、東京裁判の行方をリンクした年表を作成したこともあった(18頁、「天皇退位問題と憲法・極東軍事裁判略年表(1945~1948)」)。その際、戦後の歴史のなかで、とくに昨今に比べて、あれほど天皇制論議が活発であったのはなぜかを考えていたが、この日の報告で、その一端を教えられたような気がした。(続く)
1945年 9月10日:GHQ、「ニュース頒布に関する覚書」政府に通告、編集基準を指令* 9月22日:GHQ、19日のプレスコードに続き、ラジオコード指令* 9月27日: 天皇とマッカーサーの第1回会見 10月2日:フェラーズのマッカーサーあて覚書(天皇を戦犯に指名しない) 10月4日:GHQ、政治的・民事的・宗教的自由に対する制限撤廃の覚書(天皇制に関する自由討議を含む)* 10月10日: 政治犯3000人釈放、徳田球一・志賀義雄出獄* 10月20日:「赤旗」復刊第1号、「人民に訴う」(徳田球一)で天皇制打倒を主張 10月22日:NHKラジオ「出獄者にきく」(11月2日まで6回続く) 11月21日:NHKラジオ「座談会」(第一回)「天皇制について」放送 (清瀬一郎、牧野良三、徳田球一、司会室伏高信 以降、天皇制について、大学での世論調査や新聞における識者による論議、投稿欄などでの論議が盛んになる。 11月30日:日本映画社「日本ニュース」の「天皇制を論ずる」(2分間) (清瀬一郎・徳田球一)公開 12月11日:GHQ、「日本放送協会の再組織に関する覚書」を逓信院に 提示* 12月17日:NHKラジオ「戦争裁判報告」開始 |
1946年 1月1日:天皇「人間宣言」 1月4日:GHQ政治顧問アチソンからトルーマンへの手紙(憲法上の天皇制についての足掛かりは固まりつつあり)。 GHQ、公職追放指令* 1月7日:国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)「日本の統治制度の改革」において「天皇制廃止かより民主的な改革のいずれかを推進すべし」と 1月12日:野坂参三帰国、25日、日比谷公園で帰国歓迎会。帰国を「日本ニュース」でも上映 1月19日:マッカーサー、極東国際軍事裁判条例承認* 1月22日:CIEらの推薦でNHK放送委員会発足 1月25日:マッカーサーからアイゼンハワーへの電報(天皇の戦犯回避) 2月3日:マッカーサー、日本国憲法の三原則(天皇は国家の首部⇒象徴天皇制)を民政局に指示 2月22日:閣議でGHQ憲法草案受け入れを決定* 2月26日:日本共産党、天皇の戦犯追及を確認(第5回大会)* 6月18日:極東軍事国際裁判首席検事キーナン、天皇を戦犯として裁判しないと言明* 7月8日:日本共産党、天皇制廃止の憲法草案を発表* |
報告者のレジュメと『日本放送史』(日本放送協会編刊 1965)、
武田清子『天皇観の相克』(岩波書店 2001年)などを参考に、作成、整理してみた。*は筆者の補記事項
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