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2014年2月28日 (金)

「すてきなあなたへ」68号をマイリストに掲載しました

「すてきなあなたへ」68号がようやく発行されました。マイリストをご覧ください。久し振りの発行です。皆さんのご協力で、何とかここまで。しばらくは続けていきたいと話し合っています。
以下のURLクリックしてください。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatae68.pdf

(目次)
佐倉市議会って、どんな?
―あなたが選んだ市議は何をしていますか

近頃の〈NHK〉っておかしくないですか?

菅沼正子の映画招待席40『ウォルト・ディズニーの約束」
~名作「メリーポピンズ」誕生秘話

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2014年2月18日 (火)

藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について

「嗣治から来た手紙~画家は、なぜ戦争を描いたのか」を見て

211日、テレビ朝日、1030分~1125分)

番組の意図

この番組は、民間放送教育協会の企画でRKB毎日放送が制作したもので、全国の民放33局から放映されたらしい。番組のHPによれば、つぎのように記されている。(http://www.minkyo.or.jp/01/2014/01/28_1.html

「戦時中、多くの画家たちが国家のために戦争記録画を描いた。中でも、画家・藤田嗣治は、玉砕相次ぐ敗色濃厚なときにあっても、〈戦争と芸術〉というテーマに立ち向かい、そのために、藤田は異国の地に去り、生涯日本に帰ることはなかった。敗戦後、戦争記録画は軍部のプロパガンダと貶められ、現在まで、一堂に公開されることもなく美術館の倉庫に保管されている。戦争画の実像が見えづらいのと同様に、戦後の日本で、藤田嗣治の実像も見えづらかった。(中略)藤田嗣治が友人に宛てた未公開の手紙には、戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじむ。藤田の心情を読み解き、〈画家は戦争や国家とどう向き合ったのか〉、〈敗戦を境に日本に何が起きたのか〉、その一端に迫る」

 

番組の構成

今回の番組は、19447月戦争末期、藤田が疎開していた神奈川県小淵村藤野(現相模原市)から、画家仲間の中村研一(18951967)にあてた手紙、19456月から815をはさんだ時期の6通(1989年、中村のアトリエの納戸にあるのを養女が発見した)を裏付ける様な形で、直接かかわりのあった人たちの証言で綴られる。手紙の内容は、読み上げられた限りでしかわからないが、気心知れた若い友人だったのだろうか、自在ながら説教のような、あるいは自分に対しての〈檄〉のようにも、聞こえるのだった。中村研一と言えば、藤田と共に、多くの戦争画を残し、国立近代美術館にアメリカから「無期限貸与」されている接収の戦争画153点(国立近代美術館収蔵)の内14点の藤田に次いで9点収蔵されている画家である。

・東京国立近代美術館所蔵(無期限貸与)戦争画美術展一覧

http://home.g01.itscom.net/cardiac/WarArtExhibition.pdf

・独立行政法人国立美術館所蔵作品検索「戦争記録画」

http://search.artmuseums.go.jp/keyword.php

番組では、パリにおける画業とその暮らしぶりにも言及し、それが日本では評価されないと知ると画風を変え、トレードマークの髪形も変え、19395月のノモンハン事件に取材した「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」((陸軍作戦記録画、19417月「第2回聖戦美術展」出品)の好評をきっかけに戦争画のスターとなる経緯を伝えていた。また、藤田を知る画家としてただ一人登場するのが当時美大生であった野見山暁治氏であった。すでにどこかで読んだことがあったエピソード、19435月の日本軍守備隊全滅の「アッツ島玉砕」(陸軍作戦記録画、19439月「国民総力決戦美術展」出品)前の賽銭箱とその横で敬礼する藤田の姿が語られていた。その絵は当初、軍部は戦意昂揚にはならないと展示に難色を示したが「悲惨でない戦争などありますか」と言う藤田のコメントで展示に踏み切り、「祈り」と「敵愾心」の対象になっていったという。19447月日本軍守備隊陥落がテーマの「サイパン島同胞臣節を全うす」(陸軍作戦記録画、1945年)も同系列の作品と言っていい。1945623日沖縄日本軍全滅を知った直後の藤田の中村への手紙には「日本の勝利は確実であります」「本土決戦の折こそ生まれて甲斐ある絵が描けます」という主旨のことが書かれていた。そしてさらに、815を経た824日には「悪夢を見ていたように呆然として気が抜けたよう」と記しながら、「3日間かけて、わが家から戦時色を一掃して焼き、ようやく落ち着いた」とも書き送っている。疎開先藤野の、当時、子どもながら焼くのを手伝った隣人が登場し、その模様を語っていた。また、当時、縦書きのサインを、横文字のローマ字に書きかえていたことを目撃した、藤田の手伝いをしていた女性の「どうしてそんなことを」との質問に「世界の人々に見せることになるから」と答えたそうだ。 

1945831日の手紙には「必死になって多少とも自信のある画をかいたので、二三枚だけは残ればいいと思います」と綴っている。その後のナレーションでは、録画はとっていないのだが、「戦争が敗北に終わると、それまで喝采で迎えていた世評は一変して、戦争画は恥だとされ、戦犯呼ばわりされたことに、藤田は日本に、日本人に失望したと記し、さらに1946年の手紙には「強く美術の国へいきたい希望は旺盛です」と日本脱出をほのめかす。敗戦から4年後19493月、日本を捨てたと締めくくる。

「戦争が烈しい間はいい絵が描けるが、戦争がすんだらもういい絵が描けない」「なぜ戦争を描いたのかといえば、絵描きはと何かと問われれば、〈職人〉だから」「実際、芸術以外になすことがないから」という、手紙の断片の言葉の数々も紹介された。

 

戦争に翻弄されただけだったか

私が気になったのは、登場する、疎開先で藤田に接した人々の証言、中村への手紙の内容、そして戦局、大本営発表に沿った数々の戦争画との微妙なギャップであった。私には、その振幅の間に見えるものは、「苦悩」でもなく、「逡巡」でもないように思われたからである。もし彼の画業の評価をするならば、友人への手紙に吐露している「心情」よりは、ともかく残された作品自体と画家としてどう行動したか、その振る舞いを評価すべきではないかと思ったのである。

藤田嗣治(18861968)の戦争画については、見解が分かれるところであり、これまで、私も、至らないながら何度か記事にしてきた。以下の記事も合わせてお読みいただければと思う。

ようやくの葉山、「戦争/美術19401950―モダニズムの連鎖と変容」へ2013927日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html

国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方2009921日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html

上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議20081213日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html

 

この番組は、1989年に発見された藤田から中村への手紙の全面公開を踏まえて制作されたものであり、その手紙の内容が主たるテーマで、それを裏付けるような歴史的な事実、作品や証言によって構成されている。その結果として、本記事冒頭の「番組紹介」にあるように、その手紙には「戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじみ、藤田の心情を読み解く」べき文言が見出せたのだろうか。番組を見たかぎりでは、「戦争に翻弄された」というよりは、「時局に便乗」してゆくさまが見て取れたのである。その後、一方的に敗戦後の時代や世評の変わり身の早さを嘆きつつ、「日本に、日本人に失望した」というのは、いささか身勝手な、と思うのだった。

というのは、番組が、敗戦後、藤田自身がGHQによる戦争画収集に積極的にかかわったこと、朝日新聞紙上における宮田重雄の戦争責任論に端を発した「節操」論争があった事実などには触れずに、一挙に「日本、日本人に失望して出国」したとするまとめ方はいささか性急すぎたのではないかと思う。

また、藤田は、新天地と思われたニューヨークに渡ったのだが、約束されたポストも不意になり、開催にこぎつけた個展もベン・シャーンと国吉康雄に拒まれたといい、やがてフランスに渡り、そこが終焉の地となるのだった。

なお、これは放送後に知ったことだが、藤田の疎開先の藤野に在住だった「白州の杜から」のブログのオーナー(樫徹氏)が、この番組の取材の顛末と見解を述べているのだった。残念ながら、そのインタビューはカットされ放映されなかったが、興味深い、貴重な証言に思えた。昨年の12月の「藤田画伯は、自信のある戦争画は焼かなかったのか!」(2013127日)から放映後の「藤田嗣治作『アッツ島玉砕』は、戦争の現実を伝えているか!」(2014211日) まで断続的に、関係記事は続いていたが、インタビューの主旨は、以下で読むことができた。

「実は、ロケに立ち会うだけでなく、テレビ出演も」『白州の杜から』(ブログ)

http://blogs.yahoo.co.jp/jackyfujino/archive/2013/12/14

 (補記)2014219

 記事発表後、櫻本富雄氏からご教示いただいたご自身の以下のブログ記事には、藤田嗣治のサイン書き直しのこともすでに指摘され、「アッツ島玉砕」自体の戦後の修正をも示唆されていた。

「戦争と写真③」『空席通信・余話』(2008319日)

http://www.sakuramo.to/kuuseki/126.html

 

(主な参考資料)

・種倉紀昭「松本竣介における表現の自由について」『岩手大学教育学部付属教育実践研究指導センター紀要』No.7 1997 

・増子保志「戦争と美術・GHQと153点の戦争記録画」「戦争と美術2・彩管報国と戦争記録画」

『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』No.7 2006 

・鳥飼行博研究室「藤田嗣治と戦争画:アッツ島玉砕とサイパン玉砕の神話」

http://www.geocities.jp/torikai007/war/bunkajin-picture.html

・近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 講談社(文庫)2006

・神坂次郎ほか 『画家たちの「戦争」』新潮社(とんぼの本)

  (以下、2015年9月5日補記)

 東京国立近代美術館で戦争記録画12点展示、そして藤田嗣治全点展示へ

2015.06.13() ブログ<日毎に敵と懶惰に戦う>

http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20150613/1434240090

 

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2014年2月16日 (日)

ふたたび、「愛国百人一首」、その受容について

 前記事の続きとしたい。 「愛国百人一首」は、日本文学報国会と毎日新聞社が協力して選定し194211月発表したものだが、実際、これがどのように国民に伝えられ、受け入れられていたかについては、櫻本富雄『日本文學報国会』に詳しい。図書・新聞・雑誌・ラジオなどのメディアを通してほか、朗読会やかるた遊び、展覧会などを通じてもなされていた。教育現場、労働現場、家庭や街頭に飛び出していった「和歌」を、受け手である児童・生徒を含めた国民はどう受けとめたのか。いわゆる解説書や評釈書は、国立国会図書館の目録によって書道用のテキストを含め30種近く確認できたし、日本の古本屋目録でさらに7種ほど確認でき、40種近くに及んでいることがわかる。

「愛国百人一首」の受容について、従来は、歌人や研究者による限定的な言及はあったが、もっと広く、「それに関わった人々の具体的な記憶・体験を集めて〈百首人〉(愛国百人一首)をめぐる当時のリアリティを辿り直すことだろう」と提案する文献を知った(松澤俊二「つくられる“愛国”とその受容―〈愛国百人一首〉をめぐって」『JunCture超域的日本文化研究』4号 2013311日)。

この著では、明治以降「愛国百人一首」選定以前に、「小倉百人一首」とは異なる、いわゆる異種「百人一首」が70種類以上刊行されている内の教育・教戒を旨とする10種(佐佐木信綱「修身百人一首」1893年、川田順「愛国百人一首」1941年、金子薫園「皇国百人一首」1942年など)を選び、「愛国百人一首」と比較照合している。選ばれた歌人とその作品の重なり具合を調べた結果一覧によれば、重複の多いのは以下のとおりである。ここから言えることは、かなり連続性が特徴づけられることと同時に、「愛国百人一首」には、10種にはない、あらたな歌人とあらたな歌を選定し、「愛国」と「日本精神」を強調していることである。しかし、その「日本精神」自体をめぐる諸種の見解から、その「揺れやすさ」が「ほころび」にもなりうることを示唆するものであった。

源実朝:山はさけ海はあはせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

                       (9種収録 )

楠木正行:かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる

                       (9種)

本居宣長:しきしまのやまと心をひととはば朝日ににほふ山さくら花

                       (7種)

高橋虫麻呂:千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男ぞ思ふ

                       (6種)

 

 地方の教師や佐藤春夫の「愛国百人一首」への疑義にとどまらず、学校や家庭や職場で、あるいは軍隊などで、「愛国百人一首」がどのように受け入れられていったのか、読まれていたのか、あるいは愛唱されていたのか、あるいはそれほどでもなかったのかをもっと知りたいと思うのだった。

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2014年2月9日朝 イチジクの枝にヒヨドリが降りてきた。

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2014年2月9日午後 腰が危ない私は、雪のお雛様を作ってみた。

 

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2014年2月 5日 (水)

戦争体験文庫企画展示「愛国百人一首を読む」展へ行ってみたい~少し遠い奈良県立図書情報館

 

 

Photo

 ネット検索をしていたら拙著の一冊がヒットしたサイトがあったので、アクセスをしてみると、上記の展示に行きあたった。1月から3月までの展示なので、お正月にゆかりのある「百人一首」にちなんだ企画だったのだろう。拙著との関係でいえば、この展示会の「展示資料リスト」の最後尾に『現代短歌と天皇制』(風媒社 2001年)が記されていたのだ。

http://www.library.pref.nara.jp/event/booklist/W_2013_36/book.html 

戦争体験文庫とは

 実は、今回、この奈良の県立図書館において200511月開設された「戦争体験文庫」の存在とそれを核にした企画展示が、2006年以降、今回で36回に及んでいることを知った。それぞれの小テーマをもっての展示会は毎回13か月の期間で、ブランクなく続いているようで、その一覧を見ていると、館長や職員たちスタッフたちの資料収集と保存の心意気と何よりも資料を通じて歴史を伝えようとする姿勢に感動さえ覚える。こうした地味な活動が営々となされていたことに敬意を表したく、出かけてみたい気持ちにもなり、とりあえず紹介したいと思った。

5万点以上の資料の中から、たとえば、「戦地と手紙」シリーズでは、「出征」「戦地からの手紙」「戦地への手紙」「帰還」の4回、「戦争と食べもの」シリーズでは「コメの配給と供出」「野菜」「調味料」「代用食」の4回、最近では「かるたで読む『戦陣訓』」「日赤奈良班看護婦の手記から」シリーズでは「原爆の惨禍を目のあたりにして」「病院船上にて」「灼熱の陽の光の下で」「815で終らなかった戦争」4回、「大和の隣組・戦争を支えた地域組織」「貯蓄報国」などという、キメのこまやかさで、戦争体験を伝えようとしている企画であった。当時の図書・雑誌資料に限らず、非文字資料や軍票やチラシなどもふんだんに展示した上、さらに背景及び周辺の軍関係資料、国や地方の行政資料、現在に至る歴史研究の成果なども併せて展示されているのが特徴と言えよう。「看護婦の手記」は、日赤奈良支部に寄せられた直筆の体験記を翻刻したものがテーマに合わせて数点づつが展示されている。銃後の衣食住は、現在の朝ドラ「ごちそうさん」などの時代考証に役立つものばかりだろう。

http://www.library.pref.nara.jp/sentai/kikaku.html

 私の戦争体験記録へのこだわりは、遡ること数十年前、私の国立国会図書館職員時代、外部からの依頼で、初めて作成したのが、「戦争体験記文献目録」(阪上順夫編著『戦争体験の教材化と授業』明治図書 19759月)であったからだ。現在にあっては、戦争体験記録自体の絶対量がケタ違いに多くなっているだろうし、その公開態様、電子版、私家版、自費出版など多様化、死蔵されている例も多くその発掘、検索ツールも多様化して、膨大なものになるだろう。追補版いやあらたな作成をする時間と体力がもはやないのは確かとなってしまったので、こうした奈良県立図書情報館、一自治体での事業を心強く思うのだった。なお、かつて紹介したこともあるが、NHKの「戦争証言アーカイブ」の努力も評価したい。いま、結論を急げば、究極的には、国立国会図書館などが中心になって、早急に進める計画が立てられないものだろうか(吉田裕「戦争体験記録を後世へ~国の責任で専用の図書館創設を」毎日新聞 2013815日)。

NHK戦争証言アーカイブ

http://www.nhk.or.jp/shogenarchives/

「愛国百人一首を読む」展

 今回の展示のテーマである「愛国百人一首」とは、何であったのか。展示の解説においては、日本文学報国会が「昭和1711月〈愛国百人一首〉として、上古から近世までの〈愛国歌〉百首を発表しました。これは、佐佐木信綱、釈迢空(折口信夫)、斎藤茂吉ら第一流の歌人からなる日本文学報国会短歌部会が、 歴史家や大政翼賛会、内閣情報局や新聞社などの協力を得て選定したもので、数多くのかるたや解説本が商品化されるなど、大きな反響を呼びました。 終戦までの3年弱と短い期間ながらも、異種百人一首としては異例の普及を遂げた愛国百人一首」であったと述べている。

 

また、今回の「資料展示リスト」は、つぎの4部立てになっていた。「愛国百人一首」は、が発表されたのは、194211月、新聞、雑誌、ラジオでの宣伝はもちろん解説書類の出版にはすさまじいものがあった。私が、これまで、比較的よく検索してきた『短歌研究』などの短歌雑誌、結社誌、婦人雑誌においても、「愛国百人一首」の解説記事が氾濫した。その一部が、以下の13のリストにも表れている。

 

1. 解説本(11冊)

2. 選者の歌論など(36冊)

3. 日本文学報国会の刊行物(7冊)

4. 文学史的位置づけ(4冊)

 

 解説本のうち、いま私の手元にあるのは、昨年末、櫻本富雄さんから頂いた『定本愛国百人一首解説』(日本文学報国会編纂 毎日新聞社 1943325日発行、4371日再版、70000部)であり、このリストにはない、つぎの2冊もあった。

 

・『愛国百人一首年表』(日本文学報国会編 協栄出版社 194311日、一万部

・『愛国百人一首』(窪田空穂著 開発社 1943721日、1万部1944318日、6千部)

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 用紙不足のこの時期、発行部数を見ても、当時のこの種の書物がいかに優遇されたかがわかる。これまで私の調査の限りでも、通常の歌書や評論集などでも多くて30005000部が通常であった。上記の解説書『定本愛国百人一首解説』で見てみると、 選者は、佐佐木信綱、窪田空穂、尾上柴舟、太田水穂、斎藤茂吉、釈迢空、土屋文明、松村英一、川田順、吉植庄亮、斎藤瀏の11人であった。

上記『定本愛国百人一首解説』の「凡例」によれば、日本文学報国会が、情報局、大政翼賛会の後援、毎日新聞社の協力により、選者11人とともに選定顧問として、文部省・陸軍省・海軍省・日本放送協会などの役職と徳富蘇峰・下村海南・辻善之助・平泉澄・久松潜一らが名を連ねる。なお、緒論は窪田、解説は土屋・尾上・吉植・川田・松村の5人が分担執筆している。緒論では、愛国百人一首の選定は、「現在われわれが抱いている愛国の至情が祖先の血肉と共に伝えられ来たものであることと、高貴な和歌の形式をもつて伝えられてゐることを一般に味解させる事業」である、と言う趣旨のことを述べている。さらに、「解説は、名のごとく解説に止どめ、その事の精細は期してゐるが、文芸としての和歌の方面へは、心して亘らせまいとして」いるとも記していることは着目したい。柿本人麻呂「大君の神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも」から橘曙覧「春にあけてまづみる書も天地のはじめの時と読み出づるかな」までの各首のに大意・作者略伝・制作事情・語釈・出典が示される。丁寧な解説書にはなっているが、短歌とあまり縁のない一般国民はどんなふうに受けとめていたのだろうか。各種のテキストや解説書などが今日のベストセラーなみに流布していたと思われるがその受容が知りたいと思った。

 

 「2.選者の歌論など」では、選者たちの、「愛国百人一首」発表前後の著作が、いわば時代の背景として展示され、本展の中でも一番の多い冊数となった。「3.日本文学報国会の刊行物」では、詩歌、詩や俳句の分野での出版物が紹介されている。「4.文学史的位置づけ」において、拙著は以下のように4冊の1冊としてリストに掲げられていたのだ。

                                                               
   

書名

   
   

責任表示

   
   

出版者

   
   

出版日付

   
 

911.16-コイケ

 
 

昭和短歌の再検討

 
 

小池光ほか著

 
 

砂子屋書房

 
 

2001.7

 
 

911.16-118

 
 

昭和短歌史

 
 

木俣修著

 
 

明治書院

 
 

1964.10

 
 

911.16-サエク

 
 

昭和短歌の精神史

 
 

三枝昂之編著

 
 

本阿弥書店

 
 

2005.7

 
 

911.16-ウチノ

 
 

現代短歌と天皇制

 
 

内野光子著

 
 

風媒社

 
 

2001.2

 

 

 

 

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2014年2月 1日 (土)

NHKの番組編集権とはなにか(2)1月30日「クローズアップ現代・東大紛争秘録」ラストの中断はなぜ

 「ニュース7」の流れでみていたが、また、何か、「幻のテープや記録が発見された」というパターンの番組だった。

いわゆる教養・ドキュメンタリー番組で、近現代史を扱うとき、発見された「記録」「証言」を辿って、当時の関係者や遺族の声を拾い、「苦渋の選択」であったというノスタルジックな結論と現代の私たちにも課題を投げかけているという、当たり障りのないメッセージで締めくくられるのが大方である。まさに、この現代の状況のなかに置きなおしたとき、何が問題なのか、差し迫って必要なことは何なのかの方向性を示すことは避けて、近現代史を扱うその姿勢に少々嫌気がさしている昨今である。「良心的な番組」と言われることも多いのだが・・・。

 いやこんな抽象的なことを言っていても、仕方がない。今回、NHKが入手したのは、「東大紛争」の収拾にあたった教授たち執行部の入試中止にいたった後の、反省を兼ねての座談会記録だという。その教授の一人の自宅の書庫にあったものである。実は、どの時点で開かれた座談会だったかの、誰が作成したのかも明らかにされていなかった。番組に沿って、各教授たちの発言を断片的に聞いていると、その焦点は、19691月の機動隊導入の経緯であり、入試中止の受け入れの是非であって、学生たちの当初の要求であった大学改革については、発言していたのかいなかったのか、番組では伝わってこなかった。結論的には、この収拾によって、以後、大学の自治は大きく変質し、後退していったことがわかる記録であった。ゲストは、松本健一であったが、この日の彼のコメントは、まっとうなものと思えた。資料に目を通した感想を問われて、つぎの2点を指摘した。資料や記録を残そうとしないのが権力者の常であるが、資料の検討や検証は今後の課題ながら、ともかくこういう形で、資料が出てきたことは貴重である。同時に、その内容に大学自治が守れなかったことと学生たちの問いかけたものへの考察は一切入っていないと述べていた。またコメントの最終盤で、「ちょうど東京オリンピックや大阪万博で、高度成長の真っただ中、世の中万々歳で進んでいくように見え、大学が、産業界の要請する人間を作るだけでいいのか、大学の役割が何なのかという疑問を投げかけた社会になったのは・・・」という主旨のことを述べていて、ゲストが「実は」と言いかけたところで、番組の音声も画像も突然打ち切られたのである。一瞬、緊急放送でもと思ったのだが、その後はなんと例の東日本大震災被災者への応援歌?「花は咲く」のメロディを流し続けたのである(画像は覚えていない)。「これって、何?!」松本さんは、何を言いかけて切られたのか、何を切られたのか、発言者への礼を欠くばかりか、視聴者もあっけにとられたのは私ばかりではなかったようだ。翌日、視聴者センターに電話をして確認すると、担当者からのお詫びと説明がありますと、電話口で読み始めた。すると、「実は」のあとは「われわれも」の5音であったと言うのである。

問「そのたった5音を切ったのはなぜか」

答「時間切れだった」

嘘のような本当の話、信じられますか。幾らストップウオッチで一秒が問われる世界ということであっても、まさに一秒あれば、切らずに済んだものを。しかも、後に重要な番組や緊急性の放送が控えているのでもなく、この硬直的な編成は、意図的なものさえ感じてしまう。

問「切ったことはミスだったのか、人為的なものだったのか」

答「時間が来たから」

問「お詫びと復元について、放送後、アナウンスはあったのか」

答「ない。深夜の再放送の時は、復元した」

 現場の担当者に確認や実情を聞きたいのだがと言ってみるが、「いたしません!」というのが相変わらずのセンターである。ほんとうに視聴者からの声が一方通行でいいのか。受信料払って、欠陥商品を買ったような気がしてくる。「お客様一人一人に応えられない」というのが視聴者対応の一貫した姿勢である。

 今日になって、NHKホームページで「クローズアップ現代」のサイトを見てみると、この番組が「丸ごとチェック」ということで、読み上げ原稿の再録がある。しかし、「実は、われわれも」の該当部分がない。これも不思議な話ではある。

 

追補(2014214日)

 

この「放送中断」については、ネット上でも、若干の指摘や抗議は見受けられたが、NHKの回答であった「時間切れ」以上の事実は分からなかった。マス・コミでは、この件について言及する記事は見当たらなかったが、きょう214日になって、東京新聞の【放送&芸能】コラム(「えきすとら~記者コラム」)に出会った。記事では、この番組のスクープ性と内容を好意的に紹介していた。「実は」で途切れたことに触れて、またも「番組改変」かと思いきや松本健一氏への取材を踏まえて、「単純な時間切れ」であったことを報じている。いずれにしても26分という番組の短さに触れ、松本氏の「言い尽くせなかったことは現代につながる問題を含め、いずれ明らかにします」との言葉とともに「東大など若者の氾濫は産業や体制に奉仕する学問を〈産官学共同〉として批判するなど、311大震災と原発事故を経た今、振り返るべき問題提起」があった番組だと評価していた。

まだ、素直に読めない私がいて、松本氏も、NHKとはもめずに、次につなげた感があった。大人の対応?というべきなのか。

 

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NHKの番組編集権とはなにか~31日衆院予算委員会の質疑中継と「ニュース7」

 NHK会長の品位とは
 
NHKの籾井新会長の125日の記者会見での発言は、報道機関のトップとして決して許されるものではなく、辞任に値しよう。個人の発言として取り消して済む問題ではない。安倍首相が仲の良い経営委員を送り込んで選任した会長人事だった。いまだに、「従軍慰安婦はどこにもあったでしょう、フランスはありませんでしたかァ?ドイツはありませんでしたかァ?」とそのへんの一杯飲み屋の酔っぱらいの風情だった。あの品位のなさはどこからくるのだろう。安倍首相が口にする「女性の力の活用」の本気度が知れる。

衆院予算委での質疑

この件に関して、131日の衆議院予算委員会では原口議員(民主党)が質問した。NHKの国会中継を見ていたのだが、議員は、放送法の第1条と4条を前提に、番組制作の最終責任は会長にあることを確認した上で、会長①「特定秘密保護法が通っちゃったんだからしょうがない・・・」発言、②国際放送における政府が右と言っているものを左とはいえない・・」発言に絞って、放送法4条第4項「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」に反するとの質問であった。NHK会長は、どの質問にも、参考人席の真後ろの事務方が脇の下に差し出す紙片を受け取ってからの答弁となった。しかも、慣れない席での記者会見で私的な意見を述べたことを陳謝したが、答弁は、放送法の条文を読み上げることを繰り返すばかりで、質問とはかみ合わない内容のないものだった。

Nhk_3
         「毎日新聞」(2014年2月1日)朝刊 

                  三本の手?背後から伸びる手は?

二つの疑問          

このやりとりで、私はつぎの2点に疑問があった。番組制作・編集権は、ほんとうに会長にあるのか。放送法のどこにもその記載はない。NHKの総括的な責任は会長にあることは確かだが、制作・編集は実質的には番組担当者だと思うし、番組にかかわる件は番組担当者に伝えるというのが、NHKの視聴者センターの姿勢でもある。もっとも会長に最終責任があるということが大昔からの「内規」にあるらしいとは、放送関係者から聞いたことがある。今回のNHK会長の暴言は番組編集の責任者である会長として「ケシカラン」というよりは、報道機関、公共放送のトップとしての資質の問題ではないだろうか。 選任した経営委員会にも大きな責任があるはずだ。

つぎに、質問者の原口議員は、委員会質問の事前に行われたNHKのレクで、「従軍慰安婦関連の記者会見のやりとりのみが私的な意見として取り消されたので、この問題には今日は触れない」と、質問の冒頭で明言したことである。ということは、記者会見における他の質疑における会長答弁は、公人としての発言だったことを認めたことになる。だとしたら、あの会見の暴言は、経営委員長の国会での答弁のような「今回のことを踏まえても、会長として適任だ」として「お咎めなし」で済まされる問題ではないはずであろう。この2重の意味での経営委員会の責任がある。にもかかわらず、安倍首相は、経営委員の選任についての質問に「経営委員会の決定に介入するつもりはない」と、意図的にすり替えた答弁をするのである。

その日の「ニュース7」 

そんな疑問が去らないまま、当日の「ニュース7」を見た。

「消費者物価指数上昇」「有効求人倍率、職種で違い」「ソチオリンピック、あと1週間」に続いての「国会質疑」であった。エネルギー政策、核密約問題、特定秘密の廃棄問題についての質問は、要約のアナウンスだけで、安倍首相の答弁のみを画像と肉声で放映するとう方式である。さらに、NHK会長の質疑に移るが、原口議員の質問は一か所だけ取り上げられ、あとは、会長の答弁が続くのだが、いくつかの質問の回答を適宜、つなげての編集であった。しどろもどろの繰り返し答弁が、整った形で答弁したように映るしかけである。さらに経営委員長には、会長の記者会見発言に経営委員会ではどういう議論がなされたのかの質問については、一切アナウンスがないまま、会長答弁に続けて、答弁の一部のみが放映されたのである。何に応えているのか、ニュースだけを見ている人はおそらくわからないだろう。伝わるのは、ただ最後に、軽々しい発言を遺憾に思い、注意したことがわかる程度で、この件は、一件落着という筋書きのニュースであった。そして、このニュースのつぎに流れたのが、「外国観光客にもわかりやすい、地名・施設標識」で、これまでのローマ字表記がわかりにくいので、たとえば「roppongi dori」の「dori」を「street」にするとか、「sensoji」の後ろに「tenple」を付記するとか、大きなパネルまでつくって、それは丁寧にいくつもいくつも紹介していた。前記「国会中継」のニュースより長いくらいの時間を割いてであった。しかも、このニュースは6時台の首都圏ニュースでも放送されたのを、私は見ていた。「ニュース7」の全国ニュースで、こんな扱いを受けるニュースではなかったのではないか。

この実に恣意的な編集がまかり通る恐ろしさを、改めて感じた。発言の切り取り方、画像の切り取り方、自由自在なのだから。放送法第4条には、「1.公安及び善良な風俗を害しないこと。2.政治的に公平であること。3.報道は事実をまげないですること」の3項もあるのだ。とくに報道番組の編集は、先の第4項も踏まえて、どのニュースを取り上げるか、どれほどの時間をかけるのか、繰り返し報道するのか、などさまざまなバランスが問われる仕事で、不断の努力が要求されるはずである。

NHK会長の記者会見発言のNHKの報道の絶対量が極端に少なかったのは歴然としていた。1月25日の会見当日の「ニュース7」では、放送法を順守するという所だけを伝えるのみで、他局が報じた従軍慰安婦発言領土問題についての発言は全く報じなかった。28日「ニュース7」になってようやく、衆院本会議の民主党海江田代表の質問で言及したことで会長の従軍慰安婦発言が伝えられただけだった。そして、31日の「ニュース7」での報道となったのである。

「なに様」のNHK?

少なくとも私が、ほぼ毎日見ている「ニュース7」は、とくに最近、このバランスは大きく崩れ、政権へのすり寄り、政権の広報が顕著になり、「安倍首相」を主語とするコメントと「経済の好循環?」の一端をどこからか拾ってきて流し続け、ソチオリンピックや6年後の東京オリンピック関連、サッカーや野球選手の移籍のニュースを長々伝え、災害や事件・事故があれば、大々的に報じ、政治ニュースを押しやる傾向が続いている。ニュースの軽重のバランスが取れていないことが続く。と感じるのは、私の偏見でもなさそうなのは、テレビ欄への番組に対する投稿でもよく見かけるようになった。

ニュースに限らず、他の番組、たとえば、大河ドラマさえ、「黒田官兵衛」のあとは、安倍首相の地元を舞台にしたいと、ドラマになりそうな話を探って、ようやく吉田松陰の妹をヒロインにすることになったという話さえ聞こえて来るではないか。

受信料で成り立っている公共放送「みなさまのNHK」への監視を怠ってはならない。

 

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