ふたたび、「愛国百人一首」、その受容について
前記事の続きとしたい。 「愛国百人一首」は、日本文学報国会と毎日新聞社が協力して選定し1942年11月発表したものだが、実際、これがどのように国民に伝えられ、受け入れられていたかについては、櫻本富雄『日本文學報国会』に詳しい。図書・新聞・雑誌・ラジオなどのメディアを通してほか、朗読会やかるた遊び、展覧会などを通じてもなされていた。教育現場、労働現場、家庭や街頭に飛び出していった「和歌」を、受け手である児童・生徒を含めた国民はどう受けとめたのか。いわゆる解説書や評釈書は、国立国会図書館の目録によって書道用のテキストを含め30種近く確認できたし、日本の古本屋目録でさらに7種ほど確認でき、40種近くに及んでいることがわかる。
「愛国百人一首」の受容について、従来は、歌人や研究者による限定的な言及はあったが、もっと広く、「それに関わった人々の具体的な記憶・体験を集めて〈百首人〉(愛国百人一首)をめぐる当時のリアリティを辿り直すことだろう」と提案する文献を知った(松澤俊二「つくられる“愛国”とその受容―〈愛国百人一首〉をめぐって」『JunCture超域的日本文化研究』4号 2013年3月11日)。
この著では、明治以降「愛国百人一首」選定以前に、「小倉百人一首」とは異なる、いわゆる異種「百人一首」が70種類以上刊行されている内の教育・教戒を旨とする10種(佐佐木信綱「修身百人一首」1893年、川田順「愛国百人一首」1941年、金子薫園「皇国百人一首」1942年など)を選び、「愛国百人一首」と比較照合している。選ばれた歌人とその作品の重なり具合を調べた結果一覧によれば、重複の多いのは以下のとおりである。ここから言えることは、かなり連続性が特徴づけられることと同時に、「愛国百人一首」には、10種にはない、あらたな歌人とあらたな歌を選定し、「愛国」と「日本精神」を強調していることである。しかし、その「日本精神」自体をめぐる諸種の見解から、その「揺れやすさ」が「ほころび」にもなりうることを示唆するものであった。
源実朝:山はさけ海はあはせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
(9種収録 )
楠木正行:かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる
(9種)
本居宣長:しきしまのやまと心をひととはば朝日ににほふ山さくら花
(7種)
高橋虫麻呂:千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男ぞ思ふ
(6種)
地方の教師や佐藤春夫の「愛国百人一首」への疑義にとどまらず、学校や家庭や職場で、あるいは軍隊などで、「愛国百人一首」がどのように受け入れられていったのか、読まれていたのか、あるいは愛唱されていたのか、あるいはそれほどでもなかったのかをもっと知りたいと思うのだった。
2014年2月9日朝 イチジクの枝にヒヨドリが降りてきた。
2014年2月9日午後 腰が危ない私は、雪のお雛様を作ってみた。
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