藤田嗣治、ふたたび、その戦争画について
「嗣治から来た手紙~画家は、なぜ戦争を描いたのか」を見て
(2月11日、テレビ朝日、10時30分~11時25分)
番組の意図
この番組は、民間放送教育協会の企画でRKB毎日放送が制作したもので、全国の民放33局から放映されたらしい。番組のHPによれば、つぎのように記されている。(http://www.minkyo.or.jp/01/2014/01/28_1.html)
「戦時中、多くの画家たちが国家のために戦争記録画を描いた。中でも、画家・藤田嗣治は、玉砕相次ぐ敗色濃厚なときにあっても、〈戦争と芸術〉というテーマに立ち向かい、そのために、藤田は異国の地に去り、生涯日本に帰ることはなかった。敗戦後、戦争記録画は軍部のプロパガンダと貶められ、現在まで、一堂に公開されることもなく美術館の倉庫に保管されている。戦争画の実像が見えづらいのと同様に、戦後の日本で、藤田嗣治の実像も見えづらかった。(中略)藤田嗣治が友人に宛てた未公開の手紙には、戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじむ。藤田の心情を読み解き、〈画家は戦争や国家とどう向き合ったのか〉、〈敗戦を境に日本に何が起きたのか〉、その一端に迫る」
番組の構成
今回の番組は、1944年7月戦争末期、藤田が疎開していた神奈川県小淵村藤野(現相模原市)から、画家仲間の中村研一(1895~1967)にあてた手紙、1945年6月から8・15をはさんだ時期の6通(1989年、中村のアトリエの納戸にあるのを養女が発見した)を裏付ける様な形で、直接かかわりのあった人たちの証言で綴られる。手紙の内容は、読み上げられた限りでしかわからないが、気心知れた若い友人だったのだろうか、自在ながら説教のような、あるいは自分に対しての〈檄〉のようにも、聞こえるのだった。中村研一と言えば、藤田と共に、多くの戦争画を残し、国立近代美術館にアメリカから「無期限貸与」されている接収の戦争画153点(国立近代美術館収蔵)の内14点の藤田に次いで9点収蔵されている画家である。
・東京国立近代美術館所蔵(無期限貸与)戦争画美術展一覧
http://home.g01.itscom.net/cardiac/WarArtExhibition.pdf
・独立行政法人国立美術館所蔵作品検索「戦争記録画」
http://search.artmuseums.go.jp/keyword.php
番組では、パリにおける画業とその暮らしぶりにも言及し、それが日本では評価されないと知ると画風を変え、トレードマークの髪形も変え、1939年5月のノモンハン事件に取材した「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」((陸軍作戦記録画、1941年7月「第2回聖戦美術展」出品)の好評をきっかけに戦争画のスターとなる経緯を伝えていた。また、藤田を知る画家としてただ一人登場するのが当時美大生であった野見山暁治氏であった。すでにどこかで読んだことがあったエピソード、1943年5月の日本軍守備隊全滅の「アッツ島玉砕」(陸軍作戦記録画、1943年9月「国民総力決戦美術展」出品)前の賽銭箱とその横で敬礼する藤田の姿が語られていた。その絵は当初、軍部は戦意昂揚にはならないと展示に難色を示したが「悲惨でない戦争などありますか」と言う藤田のコメントで展示に踏み切り、「祈り」と「敵愾心」の対象になっていったという。1944年7月日本軍守備隊陥落がテーマの「サイパン島同胞臣節を全うす」(陸軍作戦記録画、1945年)も同系列の作品と言っていい。1945年6月23日沖縄日本軍全滅を知った直後の藤田の中村への手紙には「日本の勝利は確実であります」「本土決戦の折こそ生まれて甲斐ある絵が描けます」という主旨のことが書かれていた。そしてさらに、8・15を経た8月24日には「悪夢を見ていたように呆然として気が抜けたよう」と記しながら、「3日間かけて、わが家から戦時色を一掃して焼き、ようやく落ち着いた」とも書き送っている。疎開先藤野の、当時、子どもながら焼くのを手伝った隣人が登場し、その模様を語っていた。また、当時、縦書きのサインを、横文字のローマ字に書きかえていたことを目撃した、藤田の手伝いをしていた女性の「どうしてそんなことを」との質問に「世界の人々に見せることになるから」と答えたそうだ。
1945年8月31日の手紙には「必死になって多少とも自信のある画をかいたので、二三枚だけは残ればいいと思います」と綴っている。その後のナレーションでは、録画はとっていないのだが、「戦争が敗北に終わると、それまで喝采で迎えていた世評は一変して、戦争画は恥だとされ、戦犯呼ばわりされたことに、藤田は日本に、日本人に失望したと記し、さらに1946年の手紙には「強く美術の国へいきたい希望は旺盛です」と日本脱出をほのめかす。敗戦から4年後1949年3月、日本を捨てたと締めくくる。
「戦争が烈しい間はいい絵が描けるが、戦争がすんだらもういい絵が描けない」「なぜ戦争を描いたのかといえば、絵描きはと何かと問われれば、〈職人〉だから」「実際、芸術以外になすことがないから」という、手紙の断片の言葉の数々も紹介された。
戦争に翻弄されただけだったか
私が気になったのは、登場する、疎開先で藤田に接した人々の証言、中村への手紙の内容、そして戦局、大本営発表に沿った数々の戦争画との微妙なギャップであった。私には、その振幅の間に見えるものは、「苦悩」でもなく、「逡巡」でもないように思われたからである。もし彼の画業の評価をするならば、友人への手紙に吐露している「心情」よりは、ともかく残された作品自体と画家としてどう行動したか、その振る舞いを評価すべきではないかと思ったのである。
藤田嗣治(1886~1968)の戦争画については、見解が分かれるところであり、これまで、私も、至らないながら何度か記事にしてきた。以下の記事も合わせてお読みいただければと思う。
ようやくの葉山、「戦争/美術1940—1950―モダニズムの連鎖と変容」へ(2013年9月27日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/09/19401950-0aad.html
国立近代美術館へ~ゴーギャン展と戦争画の行方(2009年9月21日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2009/09/post-5b23.html
上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表>の不思議(2008年12月13日)
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2008/12/post-13fc.html
この番組は、1989年に発見された藤田から中村への手紙の全面公開を踏まえて制作されたものであり、その手紙の内容が主たるテーマで、それを裏付けるような歴史的な事実、作品や証言によって構成されている。その結果として、本記事冒頭の「番組紹介」にあるように、その手紙には「戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじみ、藤田の心情を読み解く」べき文言が見出せたのだろうか。番組を見たかぎりでは、「戦争に翻弄された」というよりは、「時局に便乗」してゆくさまが見て取れたのである。その後、一方的に敗戦後の時代や世評の変わり身の早さを嘆きつつ、「日本に、日本人に失望した」というのは、いささか身勝手な、と思うのだった。
というのは、番組が、敗戦後、藤田自身がGHQによる戦争画収集に積極的にかかわったこと、朝日新聞紙上における宮田重雄の戦争責任論に端を発した「節操」論争があった事実などには触れずに、一挙に「日本、日本人に失望して出国」したとするまとめ方はいささか性急すぎたのではないかと思う。
また、藤田は、新天地と思われたニューヨークに渡ったのだが、約束されたポストも不意になり、開催にこぎつけた個展もベン・シャーンと国吉康雄に拒まれたといい、やがてフランスに渡り、そこが終焉の地となるのだった。
なお、これは放送後に知ったことだが、藤田の疎開先の藤野に在住だった「白州の杜から」のブログのオーナー(樫徹氏)が、この番組の取材の顛末と見解を述べているのだった。残念ながら、そのインタビューはカットされ放映されなかったが、興味深い、貴重な証言に思えた。昨年の12月の「藤田画伯は、自信のある戦争画は焼かなかったのか!」(2013年12月7日)から放映後の「藤田嗣治作『アッツ島玉砕』は、戦争の現実を伝えているか!」(2014年2月11日) まで断続的に、関係記事は続いていたが、インタビューの主旨は、以下で読むことができた。
「実は、ロケに立ち会うだけでなく、テレビ出演も」『白州の杜から』(ブログ)
http://blogs.yahoo.co.jp/jackyfujino/archive/2013/12/14
(補記)2014年2月19日
記事発表後、櫻本富雄氏からご教示いただいたご自身の以下のブログ記事には、藤田嗣治のサイン書き直しのこともすでに指摘され、「アッツ島玉砕」自体の戦後の修正をも示唆されていた。
「戦争と写真③」『空席通信・余話』(2008年3月19日)
http://www.sakuramo.to/kuuseki/126.html
(主な参考資料)
・種倉紀昭「松本竣介における表現の自由について」『岩手大学教育学部付属教育実践研究指導センター紀要』No.7 1997年
・増子保志「戦争と美術・GHQと153点の戦争記録画」「戦争と美術2・彩管報国と戦争記録画」
『日本大学大学院総合社会情報研究科紀要』No.7 2006年
・鳥飼行博研究室「藤田嗣治と戦争画:アッツ島玉砕とサイパン玉砕の神話」
http://www.geocities.jp/torikai007/war/bunkajin-picture.html
・近藤史人『藤田嗣治「異邦人」の生涯』 講談社(文庫)2006年
・神坂次郎ほか 『画家たちの「戦争」』新潮社(とんぼの本)
(以下、2015年9月5日補記)
・ 東京国立近代美術館で戦争記録画12点展示、そして藤田嗣治全点展示へ 2015.06.13(土) ブログ<日毎に敵と懶惰に戦う> http://d.hatena.ne.jp/zaikabou/20150613/1434240090
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コメント
ネット「ちきゅう座」に現在、髭さんという方の藤田嗣治論が掲載されています。
私も藤田の戦争画「アッツ島陥落」などをみたことがあります。
それにしても、藤田の回顧展がいつもスキャンダル含みで開催されることの問題性を感じてきました。藤田指弾が繰り返される背後には、なにが潜んでいるのでしょうか。かつての戦争経験から学ぶという教訓にだけにあるのでしょうか。
「アッツ島陥落」が当初、軍部に戦意高揚に資することがないとの評価を受けたという点に、藤田の戦争画の両義性が示唆されているように思われます。戦争画の価値規定も、画家と見る者たちとの共同作業ではないでしょうか。その絵を見て、拝む老女がいたとか。
以上、ご参考までに記しました。
お元気で。
2018/09/12 内田弘(専修大学名誉教授)
投稿: 内田弘 | 2018年9月12日 (水) 19時44分
林様 コメントありがとうございました。府中での回顧展、どんな展示なのか、気になりながら打ちすぎました。佐倉市の川村美術館では、レオナール・フジタとモデルたち」を開催中、こちらは近いので出かけるつもりです。最初の妻との書簡も展示されている由、それに関する研究書も出版されたそうですが、未見です。戦時下の年表、戦争画の位置づけなど、どうなっているかも合わせて鑑賞したいです。
投稿: 内野 | 2016年11月14日 (月) 22時22分
藤田嗣治に関する記事を読ませていただきました。最近、府中市立美術館の回顧展でアッツ島玉砕を観て 、画家がどのような想いでこの絵を描いたのか気になっていました。引用されている藤野の方のブログを合わせ読み、理解できました。ありがとうございました。私たちは、先の戦争を総括する上でも、こういった戦争画にもキチンと向き合う必要があると感じました。
それにしても、アッツ桜が追加されたものだったとは!
投稿: 林和夫 | 2016年11月13日 (日) 22時45分