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2014年5月31日 (土)

佐倉市上空の自衛隊機航空機騒音、その後

 

   521日、厚木基地第4次騒音訴訟―周辺住民7000名が国に米軍機と自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めや損害賠償を求めた―で横浜地裁判決が出た。国に「自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止め」を命ずる画期的な判決だった。だが、526日に、国側は「自衛隊機飛行は国民の命を守るために必要」として東京高裁に控訴している。総額70億円余の支払いを命じた損害賠償の判決についても控訴の予定という。第1次訴訟は、1976年、住民92名の一切の航空機騒音による損害賠償と夜間・早朝の飛行差し止めを求める提訴に始まった。以降、一部の損賠賠償は認める判決は確定していたが、今回、行政訴訟によって自衛隊機の夜間・早朝の飛行差し止めを命じた判決は初めてであった。ただし米軍機については、その飛行差し止め請求を退けた。しかも当日の防衛大臣は、厚木の米軍基地機能の一部を岩国基地に移転するとも述べていた。

 当ブログの425日の記事「340mの恐怖~習志野第一空挺団の軍機飛ぶ佐倉市上空」でも書いたように、佐倉市の上空も他人ごとではない。厚木基地の騒音被害は佐倉市の比ではないかもしれない。

 425日の記事)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/04/340m-6c9c.html

 

しかし、少なくとも厚木基地周辺の住民に思いをいたし、自衛隊機・米軍機の早朝・夜間の飛行差し止めを支援しなければと思うのだ。私たち佐倉市民も、佐倉市上空の実態を正確に知り、その被害の軽減に努めるよう要請しなければならないと思う。

 昨年には、下総航空基地の哨戒機P3Cの飛行状況についてレポートはしたが、今回は、習志野第1空挺団の航空機、ヘリコプターの訓練飛行について調べている。さきの記事には、やや不正確のところがあったが、ともかく、現在までに分かったこと、私の理解の限りであることをお断りしながらのレポートである。

 514日、11時過ぎ、あまりの大きさの航空機爆音、それにその頻度、2分間隔くらいなのだ。そのたび、席を立って庭から空を見上げた。低い!340mとは思えないが、500mくらいだろうか。南から北へと通過、八千代方面に旋回しているように見えた。もう一度、習志野第1空挺団にも電話で聞き、HPで確かめた結果である。

HPには、直近2カ月分の訓練等の予定が図示されたカレンダーが「航空機等を使用した訓練等のお知らせ」として掲載されている。ちなみに6月分は以下のとおりである。

「航空機等を使用した訓練等のお知らせ」

http://dmituko.cocolog-nifty.com/6gatukunrenhyo.pdf

 週日は、必ず何らかの訓練があり、飛行及び降下訓練は、ヘリコプターの大型・中型を含め前半の6日間飛び、夜間も含めると11回の訓練がなされることがわかる。航空機による降下訓練は、後半8日間、夜間を含めると11回の訓練がなされる。

習志野第1空挺団の訓練状況は、先の「お知らせ」と電話での回答をまとめるとつぎのようになる。ちなみに、厚木基地では、米軍機22~6時、自衛隊機21~7時までの飛行を自粛する紳士協定が守られていない。

 

習志野第一空挺団の航空機などの訓練の状況(2014年5月30日作成)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/narasinodaiitikuteidankunren.pdf

  航空機の場合は、新幹線の速さで飛ぶ機体から人や物を降下させる訓練であり、ヘリの場合は、毎時130キロの機体からの降下訓練ということになる。災害や事故の時のための救助訓練ならば、受忍の範囲も自ずから生まれるだろう。

 佐倉市の上空は、今回の習志野第一空挺団の航空機とヘリコプターの500m以下の飛行・降下訓練、下総航空基地の哨戒機P3Cの昼夜の500800m以下の飛行・離発着訓練、天候に左右されながら12002400mとかなり低空の羽田空港着陸の民間機が飛行する区域であることがわかる。さらに、高い上空には成田空港の着陸便が西から東に飛んでいる。この何重にも及ぶ航空機騒音に市は真剣に取り組んできたのか。201110月からの羽田空港の再拡張に伴う民間機による航空機騒音については、佐倉市も住民からの苦情や要請で、周辺自治体で構成する協議会メンバーとして国交省への申し入れなどを行い始めた。しかし、あくまでも「国」の問題であって、一自治体の問題ではないという認識から積極的な働きかけをしていない。自衛隊機については、その訓練情報すらも市民に伝えていないのが現状である。

 佐倉市は、民間機対策については、少なくとも千葉市などの積極的な対応を、自衛隊機については八千代市の広報姿勢などを見習ってほしい。 

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2014年5月28日 (水)

側溝清掃の朝~空き家にハクビシン、捕獲のニュース

先の日曜は側溝清掃の日だった。 311以降、佐倉市の町内一斉の側溝清掃は2年間中止となり、昨年から再開した。側溝の土砂は放射線量が高く、集めても保管するところがないので、除染をせずに放置するというのが、佐倉市の言い分だった。放射線量が特別高いところは再測定後、個別に対応するということだった。

我が家の家周りの側溝も一時は1マイクロシーベルトを超えていた。この2年は測定していない。家周りのグレーチングの土砂は、今年はほとんど堆積しておらず、見送って、もっぱら路傍の草取りに終始した。集積場所にゴミ袋を運ぶ近所のご主人が通りかかり、ついでだからとわが家の分も運んでくださるという。「いまね、カルガモの赤ちゃんが見つかってね、3匹はどうも猫にやられたらしい。3匹を、いま、○さんが公園の池に運ぶところ」との話。親は?どこで生まれたのだろう?近くの公園の池、溜池までには直線で400m近くはある住宅街なのだ。うまく育ってくれるのだろうか。「ハクビシンも▽さんの庭で、市役所に捕獲されたんですよ」とのニュースも。珍獣ではないけれど、街で見かける生き物ではない。▽さんのお宅は、2区画の立派な家で、庭木が鬱蒼としているのだが、この15年ほど空き家のままなのだ。隣の八千代市に住んでいるというが、手入れは行き届かず、枯れ枝や虫の被害がご近所を悩ませているのは聞いていた。が、ハクビシンとは。「なんか、<野生の王国>状態ですね」といえば、「ソウソウ、八木治郎ね」と返ってきた。ひとしきり、八木アナウンサーの話になって、井戸端会議は続く・・・。

ああ、八木治郎、久しぶりに聞く名前だった。NHKでは地味で誠実そうだったけれど、フリーになって、かなりムリをしていないかな、と思っていたときに急逝された。次兄が就職活動をしている1950年代後半、八木アナウンサーが、母の実家のある佐原の出身と聞いて、母は知り合いを辿り、紹介してもらい、NHK受験の次兄は一度だけお会いしたようなことを言っていた。そんなこともあって、フリーになっても気になるアナウンサーであったのだ。調べてみると、1949NHK入局、1965年にフリーとなって、1983年に57才で亡くなっている。次兄は、中学校の英語教師を定年まで務め、62才で急逝した。

私たちの住宅地は30年前に開発され、その後も区画整理などによる開発で、周辺の緑地や雑木林はほとんどなくなってしまった。雑木林のそばに住んでいた町内の友人は、「昔は、タヌキもキジも出没してたんだけどね」という土地柄だったのだが。

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今年のヤマボウシ

 

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山崎方代を読む二題

 315日の記事に書きましたように、山崎方代について書く機会が2度ほどありました。ここに、合わせて再録します。

<1>『方代を読む』(阿木津英著 現代短歌社 201211月)書評

・寂しくてひとり笑えば茶ぶ台の上の茶碗が笑い出したり

(『短歌』1967年10月)

・手のひらに豆腐を乗せていそいそといつもの角をまがりて帰る

(『毎日新聞』1968年9月15日)

「方代」は「ほうだい」と読む。山崎方代(一九一四~一九八五年)は、山梨県右左口村(うばくちむら・現、中道町)出身の男性歌人である。小学校卒業後、農業に従事しながら作歌を始め、地元の文芸誌や新聞などに山崎一輪の名で投稿、一九三六年頃より『あしかび』『一路』などに出詠する。一九四一年応召、チモール島で右眼失明の戦傷を負い、一九四六年帰還し、翌年『一路』に復帰する。一九四八年には岡部桂一郎らと『工人』を創刊、一時は姉の嫁ぎ先に寄居するが、職と居を転々とし、歌集『方代』(一九五五年)出版後、同人誌『泥』(一九五六年創刊)、『寒暑』(一九七一年創刊)に拠り、この間、短歌総合誌や新聞への寄稿も多くなり、評価を高めていった。一九七二年、鎌倉の支援者の提供による四畳半の庵に落ち着く。その後の歌集に短歌新聞社刊『左右口』(一九七四年)、『こおろぎ』(一九八〇年)がある。方代は、最後の歌集『迦葉(かしょう)』(一九八五年一一月 不識書房)の完成を待たず、一九八五年八月一九日に肺癌で没した。その境涯と口語を多用するなどの愛誦性が、多くの読者を魅了するのかもしれない。

・鍋蓋を軒に吊るして待っている御用の方は鳴らしてほしい

(『文芸春秋』1982年3月)

・ふるさとの右左口村は骨壺の底に揺られてわが帰る村

(『かまくら春秋』1982年3月)

本書は、「Ⅰ方代短歌の謎を解く―『迦葉』散策」、「Ⅱ方代が方代になるまで」の二部構成である。Ⅰにおいては、『迦葉』からの選出作品の一首一首の解釈のみならず、背景と共にキーワードから系譜をたどっているので、方代ワールドを満喫することができる。

・そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかり 

(初出『うた』1981年10月)

著者阿木津は「乱雑に散らかった卓袱台のうえに急須が一つ。その急須と向かい合う、ひとりぐらしの老いそめた男の姿。『そなた』は所在ないさびしさから生まれる幻影であるということを、読む者は瞬時に了解する」とし、方代の擬人法の特色を「実在と幻影とが交錯するあわいが歌に実現した」と見る。

・奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている

(『短歌新聞』1981年10月)

・手作りの豆腐を前に何にもかもみんな忘れてかしこまりおる

(『かまくら春秋』1982年1月)

著者は、上記一首目を掲げ、短い間に「手作りの豆腐を前に近づいて来る戦争の音をきいている」(『かまくら春秋』一九八一年一一月)「手作りの豆腐を前にもやもやと日なが一日を消してゐにけり((『うた』一九八二年一月)を経て、二首目に落着した過程をたどる。方代にとって「戦争―もっと言うなら戦争と庶民―は方代の歌の底深く厚く流れている大きな主題であった」のだが、ここでは、キーワードが「戦争」から離れて「手作り豆腐」に移っていく過程が示されているのが興味深い。

・春の日が部屋に溜って赤いから盃の中に入れてみにけり

(『短歌』1981年11月)

著者は、この一首から、方代が「一見初心者らしい拙さに見える語法も、じつは歌人方代というフィルターで濾過させていること」を示す一例として、俵万智の一首と比較する。

・「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

(俵万智)

 同じ因果関係を示す「赤いから」、「言ったから」という「から」を使用しながら、万智の歌が「方代の歌に比べて平板で、語が薄く感じられる」のは、上句と下句の間に「飛躍がないからである」とし、方代作品では「歌に織り込まれた<作者の働き>」によって「思いもかけない躍動感」が生まれる、と明快に解く。

本書の後半「Ⅱ方代が方代になるまで」の分析も鋭く、引き込まれる。「方代文体と鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩鈔』」では、方代のフランス詩人への傾倒の意外性から説き起こすが、方代にヴィヨンを勧めた岡部桂一郎、ヴィヨンと方代の本質的なかかわりを「追放流竄」の運命の悲しみとその反抗としての「無頼」にあるとした玉城徹の論からさらに進めた。方代がこの詩人から引き出したものは主題ばかりでなく、出征前には文語体の歌であったのが、戦後「口語を大胆にとりいれるスタイルを発明工夫させるきっかけとも動力ともなった」のは「ヴィヨン」ではなく「鈴木信太郎訳の『ヴィヨン詩鈔』」であったと推論する。

・ゆく所まで行かねばならぬ告白は十五世紀のヴィヨンに聞いてくれ

(『方代』、初出「工人」1949年4月)

 また、「方代の修羅」では、方代が戦場体験や軍隊生活で、戦傷者でありながら、加害者であったかもしれない自分の戦後を生きる道としての「無頼」を意識的に獲得したのが、ヴィヨンであったとの視点から、「温かい、ふるさとを思わせるような歌人」という方代論から一歩進めたところが新鮮であった。

 本書は、作品鑑賞と方代論が相まって、奥深い入門書になっていよう。『山崎方代全歌集』(玉城徹ほか編 不識書院 一九九五年)には、初期作品ほか、索引、年譜が付される。一九八七年には、「山崎方代を語り継ぐ会」が立ち上げられ、一九九六年には、『方代研究』が創刊された。また、毎年、鎌倉の瑞泉寺と故郷で「方代忌」が開催され、顕彰が続いている。  

(『国文目白』53号 日本女子大学国語国文学会編刊 20143月) 

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色づき始めたアジサイ

<2>方代とキリスト          

 

・川床にころがっていた石ころを本尊さまと崇めまつりぬ

・太書きの万年筆をたまわりぬキリスト様は何も呉れない

(『うた』198310月)

 方代没後に刊行された第四歌集『迦葉』には、この二首が並ぶ。初出はいずれも『うた』誌上である。山崎一輪と名乗っていた戦前の作品にも「仏様」はいろいろな形で登場する。多くの庶民がそうであったように、方代もその父母も、仏に祈ることは暮らしの一部であったのではないか。

 しかし、方代の作品にキリストが登場するのはいつのころだったのか。戦後まもなくつぎの一首が現れるが、歌集には収められていない。

・少女子は夕日の後の焼跡に額たりて小さく十字を切りぬ

(『一路』19486月)

後年の『こおろぎ』には、つぎの一首があり、「少女が切る十字」が、長い間モチーフとしてあたためられていたことがわかる。

・縄跳びの赤い夕日の輪の中に少女が十字を切っている

(『短歌』197611月)

 前者には、占領下の焼け跡という環境下で、少女の祈りが、多くの被災者や国民の祈りにも重なる状況が伺える。しかし、後者の設定では、上句と下句の必然性が薄く、十字を切ることの唐突さとその風景の絵画性が強調されている。こうした例はほかにもあり、教会、十字架、聖者、降誕祭、地名などが点景として配される場合が多い。

・天にのびる高き教会の石垣の下に転がる方代と石ころ 

(『工人』 19509月)

・ヨルダンの夜辺のあかりが灯る頃フライパンに油を落とす

(合同歌集『現代』196911月) 

・ひび黒き茶碗と箸を取り出してひとり降誕祭(ノエル)の夜を送れり

(『国学院短歌』19726月)

一首目は『方代』、二・三首目が『右左口』から。降誕祭を「ノエル」と読ませるのが方代の美学であったろうか。冒頭の「キリスト様は何も呉れない」は、キリストとの距離と親密性を微妙にあらわしていて、筆者にも近しい一首であった。

(『現代短歌』20145月)

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ちらほら実をつけ始めたイチジク


  

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2014年5月21日 (水)

現代批評講座(第7回):対談 安丸良夫×菅孝行『近代日本の国家権力と天皇制』(5月17日)に参加して

  会場は、いつもの明治大学リバティタワー裏の研究棟で、御茶ノ水駅からのわずかな距離ながら、学生街の雑踏を歩くのは嫌いではない。昨年の11月(第5回)には、拙著『天皇の短歌は何を語るのか』を取り上げてくださった批評会である。今回は、御茶の水書房刊行のブックレット『近代日本の国家権力と天皇制』というので、逃すわけにはいかなかった。

 事故のため総武線が遅れて、すでに、安丸氏の報告は始まっていた。かつて『近代天皇像の形成』(岩波書店2001年)には目を通しているはずだったが、読み直す時間もなく、白紙の状態での参加だった。民衆史の中でとらえる天皇制とは・・。やや聞きづらいお声ながら、「通俗道徳」、これも初めて耳にする言葉だったが、その通俗道徳こそがが、天皇制イデオロギーを支えてきたということを力説されていたと思う。菅氏の報告は、今回のブックレットにもあるように、多岐にわたる天皇論は、予備校の講師もなさっていたというだけあって明快であった。とてもまとめにくいのだが、私が一番印象に残ったのは、昭和天皇は、マッカーサー、占領軍との敗戦処理における攻防で、東條の断罪、沖縄の施政権、国家神道の排除などと引き換えに天皇制と私事としての神道を残したという部分である。皇室の私事としての神道、それに伴う祭祀については占領軍にも手を触れさせず、いまも国家の中心に在り続け、国民の目には触れない形で権力者との連携を保っているという構図についてあった。 保守党と天皇制についてはもちろんであるが、さまざまな野党や少数の政治的なグループと天皇制への姿勢については、私の中でも整理できていないところであり、もう少し詳しく知りたかった。

  コメンテイターの友常氏の話で、私には、お二人の話の位置づけが少しだけ分かったような気がした。ここでも断片的な要約ながら、私にとっては、ミクロの世界の現場での検証や戦いの積み重ね、下からの自律的な自己形成によって実現可能な変革もありうる・・・という話に、少しだけ勇気づけられた。そして、天皇制研究が日米開戦の1940年代より盛んで、進化を遂げているのはアメリカであるが、その限界もある。そこで育った日本人の研究者も出てきていることにも期待したいということだった。 質疑の前半での途中退席ながら、刺激的な批評会であった。

会の案内は以下に詳しい。

http://chikyuza.net/archives/44121

 

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2014年5月19日 (月)

「風評被害」の名で、政府は責任を転嫁している~「美味しんぼ」批判の重大性

 安倍首相の福島県視察は7回目になるという。 517日、福島市の県立医大、仮設住宅、飯館村などを訪ね、サクランボ農家ではサクランボ試食のパフォーマンスも見せた。「根拠のない風評を払拭していくためにも、県民や国民に正確な情報を出して行くことに力を尽くしたい」と述べた(NHK[ニュース7]517日、毎日新聞518日朝刊)。また、原発事故による影響に関して「放射性物質に起因する直接的な健康被害の例は確認されていないということだ」と記者団に強調した(東京新聞518日)。報道によれば、これらは、記者の「美味しんぼ」(雁屋哲作・花咲アキラ画)の原発事故による健康被害にかかる描写についての質問に応えてのコメントだったようである。

 常々思うのだが、いわゆる原発事故による放射性物質によって引き起こされる健康被害、農畜産物・水産物などについての「風評被害」っていったい何なのか。その被害の要因は、放出し続けている放射線、除去できない放射線物質、流出が続く汚染水のいずれもがコントロールされていないことにあるのではないか。昨年の9月、汚染水は完全にコントロールされていると国際社会に発信した以降も、報道されているだけでも汚染水事故は続出し、今日に至っている。* そのこと自体が県民や県民以外の人々を不安に陥れているという「風評」以前の無策を、漠たる「風評被害」を助長したという批判で、多様な意見や考え方の提示さえも抑え込もうとする今回の政府の対応は、看過できない。

*(参照当ブログ記事)「福島第一原発事故の汚染水問題から見えてくるもの」(2013年10月30日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/10/post-9b65.html

 政府に不都合な真実を口にしたり、書いたりする人々を黙らせ、筆を折らせるのには、「風評」を使えばいい・・・、ということになった。言論や表現の自由の萎縮効果、抑止力を目論んだものだろう。

かつて「土方殺すにゃ刃物は要らぬ、雨の三日も降ればいい」といわれた。いや、非正規労働者が増大し続ける今日でも生きていることわざかも知れない。もはや「雨」も「特定秘密保護法」も要らない。政府は、自治体には予算をチラつかせ、首相は、ときどきマス・メディアの要人と会食し、財界は、広告費をチラつかせればよい。「園遊会」や「叙勲」「授賞」という手もあるではないか。

 

「歌人殺すにゃ刃物は要らぬ、・・・」この先は、歌人も心に手を当てて考えてほしい。

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2014年5月18日 (日)

おかしいぞ!先ほど9時からNHK「日曜討論」 ~「ごちそうさん」のあとで

 司会の島田敏男は、安倍首相が記者会見をした16日の夜、新橋のすし屋で首相と会食した報道関係者の一人だ。まさに、「ごちそうさん」のあと、どんなお返しをするのかな。しょっぱなから、おかしい。「グレーゾーン」の事例=仮定の極論から始めたのだ。これって、おかしくないか。おとといの「NHKスペシャル」でも同様であったが、具体的事例が頻出して、基本的な討論に欠けていた。憲法上、集団的自衛権行使が許されるのかの問題から入るべきではないのか。生活の党の鈴木幹事長の「木を見て森を見ていない」との言葉がまさに当てはまるのではないか。番組の半ばもすぎた、見守っていかねば・・・。(9時55分)

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2014年5月16日 (金)

今夜のNHKスペシャル「集団的自衛権を問う」のメールでの意見募集の怪

  知人からの知らせで、上記「NHKスペシャル」で意見募集をしているのを、けさ知った。さっそく、NHKオンラインのトップページから

「ドキュメント・教養」⇒「NHKスペシャル」⇒「意見募集中」をクリックして出た、意見応募のフォーマットに従って、つぎの4問の回答を選択し、その理由を70字以内で記入し、送信した。
1.集団的自衛権の行使について
2.限定的行使容認について
3.憲法解釈変更の是非について
4.日本の安全保障政策について、その他

  控が取れていないので送信時刻は不明だが、11時前後だと思う。同時に、地元の9条の会の仲間たちにも、意見募集中とのメールを送信した。午後になって、新聞テレビ欄の番組表末尾の「ホームページから意見募集中」を見た別の友人から「ファックスではダメなの?」という質問を受けた。さっそく、視聴者センターに電話すると、今回はメールだけです、とにべもない。
Q:どうしてファックスは受け付けないのか
A:急な番組編成で、時間もないから
 と、これも理由にならない理由。
Q:それではメールをしない人たちの意見はどう伝えたらいいのか、無視するのか
A:この電話で、意見を言っていただけば、入力して、必ず番組に届けます。けさ、番組担当者からそのような知らせを受けています
Q:だったら、その旨を、ホームページやテレビの番宣で、流してください
A:担当者にそのように伝えます

   そして再び、「NHKスペシャル」のホームページにもどって、出演者などの確認をしていて、「意見募集中」をたまたまクリックすると、先に私が送信した意見記入のフォーマットが消えていて、「5つの質問のうちの一つを選んで回答せよ」という別の書式に変わっていたのだ。キツネにつままれた思いで再び視聴者センターに問い合わせると、二つのフォーマットがあることを認めない、というより分からないらしい。どうなっているのか、私が送信した意見は届いているのか不安にもなる。ながながと待たされて、上司に代わるとか、ただ今調査中だとかラチが明かない。

「どうも不具合が生じているようなので」「最初のフォーマットは使えないはずです」「新しいのでお願いします」「ああわかりました、ただ今、係から連絡が入りました。どちらのフォーマットで送信していただいても届いています」・・・。

  4つの質問への回答と5つの質問から一つを選べとして述べた意見をいっしょくたに集約して、どんな意味があるのだろう。
Q:どうして途中でフォーマットを変えたのか
A:最初のフォーマットでの意見が大量になって処理しきれなくなったので、一問を選ぶ方式にしました
Q:それだったら、少なくとも意見募集に不備があったことは、番組中に明確に放送してください
A:そんなことは約束できません  

 そんなこんなで、今晩10時からの視聴者の意見集約は、相当混乱の末の結果であって、どのく らいの意味があるのか分からなくなった。というより、回答する条件が明らかに異なる場合の回答を 同等に扱えるのだろうか。番組ではどう説明するのだろうか。これもNHKの不手際、お粗末極りない一件であった。そういえば、NHKの世論調査って、信用できるのかなあ。不安と不信感は募るばかりである。

(付記)もうすぐ番組も始まる9時30分、もう一度「NHKスペシャル」のホームページを調べたら、意見募集中の2か所から行き着く先は、一問選択回答の以下のフォーマットになっていた。しかし、途中でフォーマットを変更した記述はどこにもない。

http://www.nhk.or.jp/special/boshu/jieiken/formx.html

(付記2/ 5月17日)番組内で、意見募集の過程の不備についてのコメントはなかった。な お、集まった意見は1万5000件と言っていたが、上記の何をカウントしたのかは不明。
また、NHKスペシャルのホームページでは、放映後の感想も募集していたので、200字以内ということであったが、以下の内容で送信した。200字はキツイ。

①集団的自衛権行使の事例を中心に話が進められたが、その行使が、日本国憲法の平和主義、第9条、日米安保条約上との法的な関係がきちんと論じられなかった。
②政治学者の北岡、中野両氏の話は、ともに情緒的な要素が色濃く、論理的な説得力に欠けた。
③この記事にある意見募集過程の不備についての説明も詫びもなくフェアでない
④正面の映像の背景は、騒々しく、散漫になるので不要。首相の顔写真の頻出には意図的なものが感じられる。

 

 

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15日の夜、なぜ、報道関係者は安倍首相との会食を拒まないのか

  昨515日夕方6時から、安倍首相は、記者会見し、集団自衛権行使を容認する解釈の変更に向けて一歩踏み出した。私的な諮問機関である「安全保障の法的基盤再構築に関する懇談会」の報告書が出たのが220分、約3時間半後の会見、有識者とやらとの出来レースが見え見えだった。

 

当日の「ニュース7」は

15日のNHK「ニュース7」では、延長して32分の枠内で26分がこの会見関係で費やされた。安倍首相の発言部分が長い上、賛成・反対の識者コメント(長谷部恭男、西修)、街の声が、賛否のバランスよく?拾い上げられ、与党自民(高村)・公明(山口代表)と野党6党の声が放映された。そしてNHKの報道の特色は、首相の発言と懇談会の方向性の違いが「際立った」として強調したことだったが、その意図は何であったのか。報告書では「多国籍軍への参加は憲法上の制約はなし」としている点は、首相は「採用できない」とするが、集団的自衛権が一定の要件で行使でき、その行使は政府の総合的な判断を委ねられている点を評価?しているのだった。これって、不動産屋との駆け引きのようではないか。最初少し高めに設定しておいて、あとで、これだけ安くしておきます、といったやり口である。それを「際立った方向性の違い」などと、訳知りに解説するのがNHKなのだ。

そして、このNHK報道の常套手段、「集団自衛権論議の焦点は」とのアナウンサーの問いに「与党内の協議」と言ってはばからないのである。この論調は、けさの「おはよう日本」でも同じで、昨日とは違う政治部記者をして、首相は「わかりやすく、丁寧に説明した」と明言していたし、これからの焦点は与党協議や、公明党の理解をいかに取り付けるかが焦点であると繰り返した。意見が対立していて、国民的論議が必要な問題については、多様な情報を提供するのが、公共放送NHKの役目ではないのか。

 

首相はさっそく報道関係者との会食

こともあろうに、この首相の記者会見のあった翌朝けさの新聞「(昨日の)首相の動静」などによれば、首相は、15日の夜、西新橋の「しまだ鮨」で86分から時事通信の田崎史郎、毎日新聞の山田孝男隆男特別編集委員、朝日新聞の曽我豪編集委員、NHKの島田敏男解説委員らと会食したとある。まさに、この夜に信じられないような成り行きである。読売は?産経は?どうだったのか。個別だったのか、この際、不要と思ったのか。招く首相も首相だが、応じる方の報道関係者の見識を疑う。かねてより報道機関の要人たちの会食は、報道の中立性を保つためには決して望ましくない、私も言い続けて来たし、報道機関として倫理上の問われるべきではなかったのか。とくに2013年冬、安倍首相就任間もないころの3カ月余りの間に、読売・産経・朝日・毎日・日経・共同通信、フジテレビやテレビ朝日の社長たちとの個別の会食が報じられた。今回は、編集にかかわる要人たちが、一堂に招かれたことになる。「一つお手柔らかに」という「ご挨拶」だったのだろうか。「ご会食」「懇談」「ご説明」などが怪しいのだ。報道機関に席を置く彼らはとっくにそんなことは承知しながら、あの夜、食事を共にしたという事実は重い。報道の中立性がほんとうに担保できるのか。

NHKの政府広報ぶりについては、このブログでも何度か触れ、前段でも述べた。私の知る限りだが、少なくとも、けさ516日の朝日の社説「戦争に必要最小限度はない」、立松朗政治部長「最後の歯止めを外すのか」、毎日の社説「根拠なき憲法の破壊だ」、末次省三政治部長「これでは筋が通らぬ」、東京の社説「行使ありきの危うさ」山田哲夫論説主幹「大戦の悔恨を忘れるな」などをはじめ特集記事においても、安倍首相・懇談会報告書には厳しいものであった。だが、これからどう変わっていくのかは分からない。じわじわと、なにげに、政権への監視を緩め、すり寄るとも限らないのだ、NHKのように。そんな場面は戦後史においても何度か見せつけられている。

517日付記)

 

その後、 J-CAST5161158分配信)によれば、会食には、小田尚読売新聞東京本社論説委員長、粕谷賢之日本テレビ網報道局長の2名も同席して、10時頃まで続いたという。

 

(その後、ネット検索により、以下の記事を見つけました。一度お確かめください)

 

憲法メデイアフォーラム 現場http://www.kenpou-media.jp/modules/bulletin2/index.php?storytopic=14
 
(2013-07-10更新)

 

東京発 読者の疑念招く新聞社トップと首相の会食

 

「新聞労連・東京新聞労組ニュース『推進』No.44」(6月26日付)から

 

Baogon中国上海~こうなってるよ
 
http://honcho.vivian.jp/villa/aboutblog
 
2014/05/10 :

 

安倍首相が軒並み会食 新聞・テレビ・通信社幹部と。メディア懐柔全力の怖さ

 

The PAGE http://thepage.jp/detail/20150317-00000012-wordleaf?utm_expid=90592221-37.fVZ9WgkFQES3eBF2lg39IQ.0&utm_referrer=http%3A%2F%2Fthepage.jp%2Fsearch%3Fq%3D%25E9%25A6%2596%25E7%259B%25B8%25E3%2580%2580%2B%25E3%2583%25A1%25E3%2583%2587%25E3%2582%25A3%25E3%2582%25A2%25E3%2580%2580%25E4%25BC%259A%25E9%25A3%259F
 
2015.03.17 18:12

 

懐柔策か 取材機会か 首相とメディアの会食にはどんな問題があるのか?

 

しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-04-11/2013041101_01_1.html
2013
411()
   これでいいのか大手メディア 首相と会食 とまらない 社長に続き政治部長・論説委員長らも

 

しんぶん赤旗
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-18/2014121803_01_1.html
 
2014121809:30

 

「読売」「朝日」「毎日」「日経」・NHK・日テレ・時事/開票2日後 編集委員ら首相と会食

 

しんぶん赤旗
 http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2014-12-30/2014123001_01_1.html
 
2014
1230

 

安倍政権のメディア戦略 幹部とは会食 現場には恫喝

 

政権べったりの社を選別 突出する「読売」、フジテレビ

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年5月13日 (火)

「これでいいのか、NHK~元経営委員小林緑さんが語る」、会場の熱気につつまれて

 一つ前の当ブログ記事でも紹介しましたが、私が参加している地元の9条の会主催の講演会(5月10日午後1時30分~佐倉市ミレニアムセンター)は大盛況のうちに、終了しました。受付を始めたときは、どれほどの方が参加されるか心細かったのですが、開会の時刻が迫る頃には行列ができましたし、足りなくなった資料もあって大慌てしたほどです。100名定員の佐倉市ミレニアムセンターホールは、満席となり、20席近い補助席を設置しました。受付で記名をしてくださったのが110余名。5月8日東京新聞(千葉中央版)に詳しい記事として掲載され、それを見たという方も多かったと思います。

 これまで、NHKに対してくすぶっていた視聴者の不満は、125日の籾井会長の就任員記者会見直後、いっきに火が付いた形です。その後も「やってくれるじゃないの」というほど、会長に加えて、新任の百田尚樹、長谷川三千子経営委員の言動もひどいものでした。その言動が、民主主義を根底から覆すものであり、あからさまに安倍政権の応援団を自称してはばからず、加えて、その語り口は、三人とも品格が問われるものでした。

 放送法によって、経営委員会から任命されるNHK会長は、当然のことながら、高い資質が要請されています。「放送法順守」をお題目のように繰り返す会長ですが、放送法第1条に大きく外れた資質は、その資格がないでしょう。経営委員も、何を勘違いしているのか、個人の思想の自由を楯に暴言を繰り返すことが、放送法、服務基準に違反していることは明らかです(末尾の資料参照)。

 こんな人物に、会長は年俸3092万円、非常勤の経営委員で495万円(平成25年度、月2回の会議日の日当約20万以上)が受信料から支払われることになるのですから、視聴者にしてみたらやりきれません。政府広報のようなニュース番組、お笑いや歌い手等のタレントが司会をしたり、コメンテイターになったりという民放のそっくり番組を見せ続けられたら・・・。 

  小林緑さんは、ご自分の経営委員の就任の経緯から、音楽史専攻の研究者として音楽とジェンダーの視点などから、NHKとN響の実態、ETV番組改変問題などを通じ、NHK改革の発言や行動への道筋を示されました。とくに、クラシック音楽の世界に埋もれている女性作曲家の話は、多くの参加者にとっては印象深いものでした。小林さんの講演のあとは、地元のNHKを監視・激励する視聴者コミュニティの醍醐聰共同代表が聞き手となって、さらに現在のNHK問題の核心を探りました。

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 会場からは、現在のNHK改革のためには、視聴者として何ができるかについての質問や提案が相次ぎました。NHKへの意見や抗議の仕方、署名や受信料の凍結について、さらにNHK職員・労働組合との共闘の限界などにも及びました。視聴者の手で、会長はじめ二人の経営委員を辞めさせ、政権寄りの放送内容を改めさせるための手段として、コールセンターへの抗議や受信料凍結運動の展開によって、視聴者の声を届けようということになりました。

 

佐倉市内からの参加者が多かったですが、近隣の千葉市、船橋、習志野、八千代、成田はじめ各市からの参加が多いのもうれしいことでした。20近くの人が、小林さんを囲んでの二次会に参加、大いに語り合いました。なお、小林さんが遠慮がちに配られた、流山市男女共同参画室主催の小林さん解説による演奏会の案内がありました。ノルウェーのグレンダールはじめ19世紀に凛として輝いた女性作曲家たちの作品の若い女性演奏家たちによるコンサートです。そのチラシの問い合わせが数件ありましたので、以下をご覧ください。

 

http://www.na-shimin.org/pdf/forame.pdf#search='%E6%B5%81%E5%B1%B1%E5%B8%82%E7%94%B7%E5%A5%B3%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%8F%82%E7%94%BB%E5%AE%A4+%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%B7%91'

  

 

 なお、小林さんの企画によるコンサート「吉田隆子の世界」に私が出かけたときの記事は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2013/04/post-79ba.html2013411日)

<参考資料 >

放送法

(目的)

第1条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。

一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。

二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。

三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

(委員の任命)

31条 委員は、公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。この場合において、その選任については、教育、文化、科学、産業その他の各分野及び全国各地方が公平に代表されることを考慮しなければならない。(委員の権限等)

経営委員会委員の服務に関する準則

総則)

 第1条 この準則は、放送法第62条に基づき、日本放送協会の経営委員会委員が、公共放送の使命と社会的責任を深く自覚し、高い倫理観を持って職務を適切に執行するために必要な服務に関する事項を定めたものである。

(服務基準)

 第2条 経営委員会委員は、放送が公正、不偏不党な立場に立って国民文化の向上と健全な民主主義の発達に資するとともに、国民に最大の効用と福祉とをもたらすべき使命を負うものであることを自覚して、誠実にその職責を果たさなければならない。

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2014年5月 7日 (水)

最近のNHK、かなり、おかしい!視聴者に何ができるか!

前からおかしいのだが、最近は、とくに安倍政権になって、かなりヤバイのでは。公共放送としてのNHKの責任を放棄して、もっぱら政府広報としての偏向が目立つ。テレビの「ニュース7」を見ている限りでも、その傾向は、ますます著しくなった感がある。

いずれ、報告もしたいと思うが、今回は、125日の籾井勝人NHK就任記者会見以降のNHK自体の対応の鈍さというより、相変わらずの閉鎖性が問われるべきだと思う。案の定、いわゆる安倍首相友だち人事と呼ばれる会長と新任の経営委員二人の、メディアの幹部にあるまじき言動がつぎつぎ明らかになり、それらに対する視聴者の反響も大きくなっている。しかし、NHKの対応は、従前のように、コールセンターへの抗議の件数などを会長や放送総局長の定例会見の折、記者に問われて回答する程度でしかない。国会での籾井会長の答弁はシドロモドロの念仏のような繰り返しがほとんどで、会見時のやり取りに輪をかけたような資質の無さに、視聴者は怒った。受信料を支払っている視聴者たちの怒りは広がっている。

ともかく、NHKが何らかの形で発信している「視聴者の反響」を時系列で、表にまとめようとした。NHKの公表資料でたどれるかと思ったが、結構厄介だったのだ。正確を期したいので、その正確な数字の推移と発信源を問い合わせているが、57日現在、回答が届かないばかりか何の連絡もない。公表されている数字は概数で、批判的な意見を具体的に紹介したり分析したりすることも極力していない。NHKのホームページには「視聴者対応報告」という、月単位と週単位で、視聴者の声をまとめているコーナーがあるのだが、1月分の報告に、表にあるような数字を発表したが、それ以降の報告はない。会長、放送総局長会見では直近までの数字が報告されるが、それも43日以降ストップしている。あくまで概数であって、しかも一覧できる資料はどこにもない。ずいぶんと恣意的な「視聴者の反響」報告なのである。

仕方がないので、NHKのホームページ、新聞記事やネット検索により、ともかくまとめたのが、今回の表である。批判的な意見は、60%から65%へと、徐々に上昇し、肯定的な意見は徐々に下降しているのが見て取れる。さらに、表では、経営委員会の動向などもわかる限り記した。視聴者、市民の動向をみると、NHKへの危機感は募り、その活動も全国的に活発になりつつあるが、主なものに限った。

NHK籾井会長就任記者会見(2014125日)以降の籾井発言などへの視聴者の反響の推移 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/momiikaikennhankyoitiran.pdf

 

なお、私が参加している地元の9条の会でも、元NHK経営委員を務められ、現在は、NHK問題への発言を続けていらっしゃる小林緑さん(国立音楽大学名誉教授、音楽史専攻)に「これでいいのか、NHK」と題して、お話を聞くことになりました。ぜひお出かけください。

510日(土)午後130分から4時まで

佐倉ミレニアムセンターホール(京成佐倉駅隣接)

詳細は、以下をご覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/nhkkobayasikoenkaitirasi.pdf

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その後の鉄線の花、藤娘ならぬクレマチスの姫?が

出てきそうな・・・

 

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2014年5月 4日 (日)

みどりの日、関さんの森、再訪

   初めて訪ねたのも2年前のゴールデンウィーク。2010年から、「関さんの森を育む会」のボランティアに参加している長女が帰省中でもあり、一緒に出かけた。新松戸駅下車、さかい農園の際を通ってゆるやかな坂を上ってゆく。やがて道は、車のすれちがいができないほど狭くなったり、急な坂や階段が現れたりするが、ともかく国道6号線につながる市道の交差点に出る。2年前はまだ工事中だった市道、2012年9月に開通し、連休中だったためか、この日の車の往来は激しい。前回の訪問記は以下の記事、あわせてご参照ください。 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/05/post-e122.html(2012年5月8日)

    前にもお会いした「育む会」の武笠さんがすでに正門前で、入園者を待っていらした。私たちは、常時開放の「関さんの森―屋敷林」の方を先にと、しばらく森に沿って歩き、入口の階段をのぼる。起伏のある鬱蒼とした雑木林を進むと、2月14日の大雪でだいぶ折れた枝や竹もあったらしく、そこここに片づけられていた。後に訪ねる関家の庭園を含めると、全部で1.5ヘクタールの広さという。湧水の池は決してきれいとは言えなかったが、ご近所の親子連れが何組か、ザリガニをとりに来ていて、時折、子どもらの歓声が、森に響いていた。

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    今日は、さらにこの森から6~7分ほどのところに、やはりかつて関家の所有だった「溜ノ上の森」があるという。途中、右手には、「花嶋さんのスダジイ」が見え始め、その一樹が何軒もの屋敷をまもるようにこんもりと辺りを睥睨しているようだった。「溜ノ上の森」は、広さから言うと、「関さんのの森」の三分の一くらいだそうだ。昔は、松も多かったらしいが、いまは竹林が広がり、そして、まさにタケノコ、若竹の季節。破竹の勢いというが、2~3mに伸びた「タケノコ」が、突然、目の前に現れて驚かされる。

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スダジイ

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  そして再び、「関さんの森」に戻り、今度は関家の庭園を見学させていただく。梅林の梅の実は、大きいものはすでにほんのり色づき始めていた。この、広大な緑地を開発から守り続けた関家のご姉妹にもお会いすることができた。そしてのんびりお昼寝中の猫たちにも。

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雑蔵の裏手、アジサイの道になるそうだ。いまは古文書が保管されている。3.11以降、燃すに燃せない薪と。

  1964年、関家の敷地を通る都市計画道路が決定したが、先代の関武夫氏が、周辺の都市化によって失われてゆく自然を守りたいという願いから、関家の屋敷林と畑を「子どもの森」「子どもの広場」として市民に開放したのが1967年。1994年、氏の死去後は、その多くを環境保護団体に寄付、1996年には「育む会」が誕生、屋敷林の維持管理とともに、松戸市との道路計画変更協議を重ね、関家とも2009年に合意、翌年着工の運びのなったという経緯がある。

  天気にも恵まれ、のんびりと森林浴を楽しんだ、みどりの日となった。

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2014年5月 3日 (土)

鉄線、いっきに花開きました

東側のレッドロビンの生け垣の間から、毎年、花を見せてくれる鉄線、何の世話もしないのにうれしいことです。

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新緑の歴博へ、企画展「歴史にみる震災」はこれでよかったのか(3)

常設展第6展示室(現代)を大急ぎで

たしか、23年前に、沖縄戦における「集団自決」の解説文のなかで、「軍の関与の有無」が問題となってクレームが付き、軍の関与がなかったような曖昧な表現に修正したとのニュースが思い出された。事前に調べてくればよかったと思いながらの入室。「現代」というのは、1931年満州事変からの「戦争の時代」、1945年から7年間の「占領の時代」、1955年を起点とする「高度経済成長の時代」となった1970年代までを対象とするらしい。大きく「戦争と平和」「戦後の生活革命」の2部構成をとる。展示目録もないし、カタログもなく、A44頁のリーフレットが用意されているだけだった。この部屋のコンセプトは「現代史研究の現段階における総括であると共に、その新たな出発でもあります」ということだが、1970年代までという発想に、ここでも私は戸惑ってしまった。

企画展で直近の大震災を対象としなかったこと、常設展「現代」で1980年代以降の総括を対象外にしてしまうこととは共通している点があろう。歴史研究者は、どこまで用心深いのだろうか。研究上の慎重さは大事だが、研究にゴールはないのだから、成果の発信は、つねに「現段階」でしかないのではないか。

歴博のある佐倉城址は佐倉歩兵連隊の跡地でもあり、数年前の企画展「佐倉連隊にみる戦争の時代」(200674日~93日)の実績があるので、「兵士の誕生」「銃後の生活」では臨場感のある資料やものが展示されていた(下記ブログ記事参照)。 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sakurarenntai.pdf 

 2006年当時の当ブログにおける訪問記事です。

 

市役所の隣にある海隣寺は日清戦争時、「清国捕虜清国厰舎」に充てられていた当時の写真の看板が下げられる門柱に、いまの佇まいを重ねた。三八歩兵銃は、1.28m、3.95キロで、手にすることができるようになっているが、これを持っての行軍の過酷さを知る。連隊の除隊記念の塗り物のお盆には「軽き身に重き務を恙なく果して帰る今日の嬉しさ」の短歌が書かれていたりする。

問題の「集団自決」は、「大量殺戮の時代―沖縄戦と原爆投下」のコーナーに展示されていた。帰宅後調べてみると、説明文は、以下のような変遷をたどっていることがわかった。マーカーは筆者によるが、この箇所の違いに着目してほしい。

 

①「集団自決」 (未定稿~201038日の新聞報道によってあきらかになった)

 沖縄戦の犠牲者のなかには、戦闘ばかりではなく、「自決」による死者も含まれている。米軍の上陸後、住民たちのなかにはガマ(自然洞窟)のなかに非難した人びとがいた。そして、米軍からの投降の呼びかけを前に、集団自決をはかった人びとが数多くいた。その背景には、住民への軍国主義教育や、軍人からの指示や命令など、住民の意思決定を左右する戦時下のさまざまな要因があった。 

 

 「戦場の民間人」 2010316日開室時~201012月)

沖縄戦では生活の場が戦場になった。とりわけ米軍の上陸後は、住居や村を追われて避難する人びとも多かった。 激しい戦闘で多くの人びとが生命を落としたほか、犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく、「集団自決」に追い込まれた人びともいた。 

③「集団自決」(201115日~)

沖縄戦の犠牲者のなかには、戦闘ばかりでなく、「集団自決」による死者がふくまれていた。米軍の上陸後、住民たちはガマ(自然洞窟)などに避難した。そして投降を促す米軍からの呼びかけを前に「集団自決」を図った人びとが数多くいた。その背景には、米軍に対する住民の恐怖心のほか、日本軍により軍民の一体化が押し進められたなかで、米軍に投降すべきでないとの観念が一般にも浸透したこと、そして手りゅう弾の配布に示される軍人の指示など、住民の意思決定を左右する沖縄特有のさまざまな要因があった。

*①②については、当時の新聞記事などの写真から書き起こしたが、③については、会場でメモも取っていなかったため、桜チャンネルの一画面から、書き写した。

 

①から②への変更の経緯について、歴博からの説明によれば、1)大江健三郎・岩波書店『沖縄ノート』他のケースが訴訟継続中であったこと 2)文字資料から検証できるレベルのものに留め、軍の関与をぼかす文章にした、とある。②から③への変更については、歴博内外の研究者たちによりリニューアル委員会の検討の結果であるとする。③では①と較べる、と軍の関与を示す「命令」の文字が消えている。その点について歴博側は、沖縄戦体験者の証言映像や集団自決体験者の証言を補充資料として会場での公開閲覧に供していることを言明している。会場を訪れた入館者への伝達方法として、どれほど有効なのか。じっくりと時間を取れる場合や特別の関心がある人は別にして、やはりパネルの解説文というのは、重要なのではないか。

20058月大阪地裁に元沖縄戦指揮官らにより大江らは『沖縄ノート』が記す集団自決命令はなかった、と名誉棄損で提訴された。2008328日に第一審判決では「自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない 」とする一方、「大江の記述には合理的な根拠があり、本件各書籍の発行時に大江健三郎等は(命令をしたことを)真実と信じる相当の理由があったと言える」として、原告の請求を棄却、大阪高裁も20081031日に地裁判決を支持、控訴を棄却、2011421日、最高裁第一小法廷は上告を棄却している。

歴博訪問は、丸一日かけても、全部は回り切れない。また一度、常設展は見に行かねばと思っている。

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歴博隣接のくらしの植物園入り口、ヒマラヤスギと

散り急ぐ八重桜

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歴博から京成佐倉へ、帰りは徒歩で。

佐倉城址、外濠の沿って

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2014年5月 1日 (木)

新緑の歴博へ、企画展「歴史にみる震災」はこれでよかったのか(2)

  

企画展「趣旨」と「ごあいさつ」のあいだ

展示会冒頭のキャプションや貞観地震での解説に見られる、東日本大震災の“枕詞”にもなっていた「想定外」「1000年に1度」への異議申し立ての姿勢に納得し、第2部「近代の震災」では、阪神淡路大震災と直近の東日本大震災をどのように総括するのかに期待した。歴博のホームページにおける、今回の企画展の「趣旨」ではつぎのように述べられている。

「本展示は、東北地方の歴史上の震災と、近現代の震災という、大きく二つの角度から構成しています。前者が、歴史を大きくさかのぼりながら、長いスパンで、311に至るまでの地震災害の連続性を捉えるものであるのに対して、後者は、近い時代の震災の中に、今日と通底する問題を見いだしていこうとするものです。(中略)

被災地のイメージは、最も被害の大きかった地域を中心に形作られるケースが多く、そこから距離のある地域の被害や被災者は、ともすると忘れられがちになります。

また他方で、被災者の救済が、震災では大きな課題になります。今日的にいえば、「復興」のなかには、本来的にこの救済が含まれるのですが、実際にはそのなかで、救済の網の目からこぼれ落ちる人びとを出してしまいがちなのもまた事実です。震災の歴史とは、そうした救済の欠落に向き合おうとしてきた歴史であるともいえます。

本展示では、これら、いわば人や社会によって、震災がどう経験され、何が学ばれ、そして何が忘れられるのかといった点を、時代性や社会史の視点から紐解くと同時に、自然科学的な知見と人文科学を交差させる形で、災害史の研究成果を反映させつつ、震災を立体的に捉え直す場にしたいと思います。」

 

しかし、阪神淡路、東日本大震災についての展示は極端に少なく、関東大震災が大きな比重を占め、近現代の大きな震災における「各論」の展開を見たかったので、少しアテが外れた思いがした。

「カタログ」の人間文化研究機構(国立歴史民俗博物館)による「ごあいさつ」では、つぎのように記されていた。

「(前略)本展示の企画は、東日本大震災を目の前にしながら、いま、歴史博物館という場で何ができるのかを問いながら始まりました。地震と津波が大きな被害をもたらすという事実を、私たちはいやがおうにも認識させられ、また、身を以て体験された方も数多くいらっしゃいます。そうしたなかあらためて歴史という視点から何を示すことができるのかということが、非常に大きな課題でした。

実は、この難しい課題に対して、未だすっきりとした答えを出せているわけではありません。一人ひとりが、被災後の変化し続ける条項を、それぞれに異なる痛みや喪失感を抱きながら、なんらかの意味で「当事者」として生きているいま、多くの方々に向けて一義的に発することができることはそもそもないのかもしれません。

そうしたなかで、いまできることは、歴史のなかに、いまを考えるための材料が潜在していることを信じながら、これまでの研究の一端をお示しするということに尽きるのだろうと思います。(後略)」

 

ウーン、ずいぶんと謙虚な言い回しだな、という印象を受けた。「博物館」なので、文字資料、音声・映像・建造物などの非文字資料とともにそれらを超えた資料の収集・展示が仕事だと思うけれど、たとえば、阪神淡路、東日本大震災における資料収集の片鱗でも、積極的に展示してもよかったのではないかと思う。「趣旨」でいう、ともすれば「忘れられがちな被害や被災者」への視線、「救済の欠落」との対峙は、震災の歴史を語る上で不可欠な要素であったはずであるが、現代の震災になるほど、それが抜け落ちてしまっているように見受けられた。「契機」としての阪神淡路大震災、東日本大震災ではなく、その内実に迫る資料の展示が少なかったのである。とくに、「原発事故」に関しての資料の展示は、除染工事にかかる写真が幾枚か展示されていたくらいだったか。「原発事故」に関する資料は、いまだ評価が定まらない、ということなのだろうか。そもそも、「東日本大震災」自体を今回のメインの展示対象から外しているのたが、それでは、いつ「歴史にみる東日本大震災」の展示が可能なのだろうか。

 

関東大震災から戦時期・占領期の震災

たしかに、「歴史上」の震災となった関東大震災についての展示には見るべきものが多かった。情報手段が、現在に比べて格段に少なかった時代、しかも広範囲に被害をもたらした地震であったから、被害状況を写した写真や絵画による絵葉書、大震災の流行歌が流布したりしている。東京はもちろんだが、横浜・湘南、房総半島南部の東京湾沿岸等の死者数や倒壊家屋が多かったことをあらためて知らされた。また、「殺された人びと」のコーナーでは、1枚のパネルと朝鮮人、中国人、戒厳令下の社会主義者・無政府主義者らの虐殺事件については、主として官庁資料の展示であり、カタログの解説でも、虐殺された朝鮮人の数の信憑性への疑問、本所大島町の中国人労働者300人殺害事件自体の隠蔽処理の過程への言及にとどまるものだった。内務省警保局資料では、警察署別に犯罪として起訴された事件の概要が記され、「鮮人と誤認された邦人」が殺傷されたケースも多いことがわかる。千葉県に限っても、場所や犯人が特定できないケースで起訴に至らない事件の関係資料や証言も多いはずであり、習志野捕虜収容所に収容された朝鮮人・中国人も多く、その実態は、種々の証言や映画「払い下げられた朝鮮人~関東大震災と習志野収容所」などでも知られるところである。習志野収容所から上海に送還された中国人の証言、中国政府による調査結果がカタログで紹介されてはいたが、展示では、その全容は見えてこない。

これまで戦時期の地震被害については、極端な報道管制下にあったということは聞いていたが、今回の展示で知ることも多かった。19439月の鳥取地震、194412月の東南海地震、19451月の三河地震において、多数の死者が出ているにもかかわらず、報道がされなかったばかりか、専門家による現地調査や調査研究がなされず、残るデータも少ないという。「内務省警保局検閲課新聞検閲係勤務日誌」(昭和1911~12月)によると報道機関につぎのような通達を電話でしたとある。

①被害状況は誇大刺激的にわたらないこと②軍関係施設、交通通信の被害など戦力低下を推知させる事項は掲載しないこと③被害程度は当局発表・資料に基づくこと④災害現場写真は掲載しないこと、の旨が記されている。

さらに、194612月の南海地震、19486月の福井地震は、占領下にあったため、災害報道自体の抑制からは解放されたものの、用紙不足による報道の縮小を余儀なくされた。福井地震による死者は、震源の丸岡町から福井市に及び全体陀3769人にのぼった。GHQ福井軍政部の将校として駐屯していたジェームス・原谷は、救援活動の一環として、被災後の状況をカラー写真に収め、多数の写真を残し、「ライフ」にも紹介された「半壊の大和百貨店」などがある。カラーで被害状況を伝える貴重な資料となっている。

ギャラリートークの原山氏は、震災年表のパネルを示しながら、19439月の鳥取から19486月の福井地震までの死者の数10831223230613303769を合計すると9711名となり、多くの国民に知られることもなく命を落とし、阪神淡路大震災の犠牲者をはるかに上回ることになることを強調されていた。その阪神淡路大震災の1995117日まで、大きな地震に見舞われることがなかった時代と日本の高度経済成長期が重なったことの意味を示唆していたのだが・・・。

阪神淡路、東日本大震災の展示が少ないままに、後半の第2部が終わってしまったのには、なんとなく尻切れトンボの感を抱きながら、会場を後にしたのだった。いつか近い将来に、現代の震災について企画展を期待したい。(続く)

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