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2014年5月 1日 (木)

新緑の歴博へ、企画展「歴史にみる震災」はこれでよかったのか(2)

  

企画展「趣旨」と「ごあいさつ」のあいだ

展示会冒頭のキャプションや貞観地震での解説に見られる、東日本大震災の“枕詞”にもなっていた「想定外」「1000年に1度」への異議申し立ての姿勢に納得し、第2部「近代の震災」では、阪神淡路大震災と直近の東日本大震災をどのように総括するのかに期待した。歴博のホームページにおける、今回の企画展の「趣旨」ではつぎのように述べられている。

「本展示は、東北地方の歴史上の震災と、近現代の震災という、大きく二つの角度から構成しています。前者が、歴史を大きくさかのぼりながら、長いスパンで、311に至るまでの地震災害の連続性を捉えるものであるのに対して、後者は、近い時代の震災の中に、今日と通底する問題を見いだしていこうとするものです。(中略)

被災地のイメージは、最も被害の大きかった地域を中心に形作られるケースが多く、そこから距離のある地域の被害や被災者は、ともすると忘れられがちになります。

また他方で、被災者の救済が、震災では大きな課題になります。今日的にいえば、「復興」のなかには、本来的にこの救済が含まれるのですが、実際にはそのなかで、救済の網の目からこぼれ落ちる人びとを出してしまいがちなのもまた事実です。震災の歴史とは、そうした救済の欠落に向き合おうとしてきた歴史であるともいえます。

本展示では、これら、いわば人や社会によって、震災がどう経験され、何が学ばれ、そして何が忘れられるのかといった点を、時代性や社会史の視点から紐解くと同時に、自然科学的な知見と人文科学を交差させる形で、災害史の研究成果を反映させつつ、震災を立体的に捉え直す場にしたいと思います。」

 

しかし、阪神淡路、東日本大震災についての展示は極端に少なく、関東大震災が大きな比重を占め、近現代の大きな震災における「各論」の展開を見たかったので、少しアテが外れた思いがした。

「カタログ」の人間文化研究機構(国立歴史民俗博物館)による「ごあいさつ」では、つぎのように記されていた。

「(前略)本展示の企画は、東日本大震災を目の前にしながら、いま、歴史博物館という場で何ができるのかを問いながら始まりました。地震と津波が大きな被害をもたらすという事実を、私たちはいやがおうにも認識させられ、また、身を以て体験された方も数多くいらっしゃいます。そうしたなかあらためて歴史という視点から何を示すことができるのかということが、非常に大きな課題でした。

実は、この難しい課題に対して、未だすっきりとした答えを出せているわけではありません。一人ひとりが、被災後の変化し続ける条項を、それぞれに異なる痛みや喪失感を抱きながら、なんらかの意味で「当事者」として生きているいま、多くの方々に向けて一義的に発することができることはそもそもないのかもしれません。

そうしたなかで、いまできることは、歴史のなかに、いまを考えるための材料が潜在していることを信じながら、これまでの研究の一端をお示しするということに尽きるのだろうと思います。(後略)」

 

ウーン、ずいぶんと謙虚な言い回しだな、という印象を受けた。「博物館」なので、文字資料、音声・映像・建造物などの非文字資料とともにそれらを超えた資料の収集・展示が仕事だと思うけれど、たとえば、阪神淡路、東日本大震災における資料収集の片鱗でも、積極的に展示してもよかったのではないかと思う。「趣旨」でいう、ともすれば「忘れられがちな被害や被災者」への視線、「救済の欠落」との対峙は、震災の歴史を語る上で不可欠な要素であったはずであるが、現代の震災になるほど、それが抜け落ちてしまっているように見受けられた。「契機」としての阪神淡路大震災、東日本大震災ではなく、その内実に迫る資料の展示が少なかったのである。とくに、「原発事故」に関しての資料の展示は、除染工事にかかる写真が幾枚か展示されていたくらいだったか。「原発事故」に関する資料は、いまだ評価が定まらない、ということなのだろうか。そもそも、「東日本大震災」自体を今回のメインの展示対象から外しているのたが、それでは、いつ「歴史にみる東日本大震災」の展示が可能なのだろうか。

 

関東大震災から戦時期・占領期の震災

たしかに、「歴史上」の震災となった関東大震災についての展示には見るべきものが多かった。情報手段が、現在に比べて格段に少なかった時代、しかも広範囲に被害をもたらした地震であったから、被害状況を写した写真や絵画による絵葉書、大震災の流行歌が流布したりしている。東京はもちろんだが、横浜・湘南、房総半島南部の東京湾沿岸等の死者数や倒壊家屋が多かったことをあらためて知らされた。また、「殺された人びと」のコーナーでは、1枚のパネルと朝鮮人、中国人、戒厳令下の社会主義者・無政府主義者らの虐殺事件については、主として官庁資料の展示であり、カタログの解説でも、虐殺された朝鮮人の数の信憑性への疑問、本所大島町の中国人労働者300人殺害事件自体の隠蔽処理の過程への言及にとどまるものだった。内務省警保局資料では、警察署別に犯罪として起訴された事件の概要が記され、「鮮人と誤認された邦人」が殺傷されたケースも多いことがわかる。千葉県に限っても、場所や犯人が特定できないケースで起訴に至らない事件の関係資料や証言も多いはずであり、習志野捕虜収容所に収容された朝鮮人・中国人も多く、その実態は、種々の証言や映画「払い下げられた朝鮮人~関東大震災と習志野収容所」などでも知られるところである。習志野収容所から上海に送還された中国人の証言、中国政府による調査結果がカタログで紹介されてはいたが、展示では、その全容は見えてこない。

これまで戦時期の地震被害については、極端な報道管制下にあったということは聞いていたが、今回の展示で知ることも多かった。19439月の鳥取地震、194412月の東南海地震、19451月の三河地震において、多数の死者が出ているにもかかわらず、報道がされなかったばかりか、専門家による現地調査や調査研究がなされず、残るデータも少ないという。「内務省警保局検閲課新聞検閲係勤務日誌」(昭和1911~12月)によると報道機関につぎのような通達を電話でしたとある。

①被害状況は誇大刺激的にわたらないこと②軍関係施設、交通通信の被害など戦力低下を推知させる事項は掲載しないこと③被害程度は当局発表・資料に基づくこと④災害現場写真は掲載しないこと、の旨が記されている。

さらに、194612月の南海地震、19486月の福井地震は、占領下にあったため、災害報道自体の抑制からは解放されたものの、用紙不足による報道の縮小を余儀なくされた。福井地震による死者は、震源の丸岡町から福井市に及び全体陀3769人にのぼった。GHQ福井軍政部の将校として駐屯していたジェームス・原谷は、救援活動の一環として、被災後の状況をカラー写真に収め、多数の写真を残し、「ライフ」にも紹介された「半壊の大和百貨店」などがある。カラーで被害状況を伝える貴重な資料となっている。

ギャラリートークの原山氏は、震災年表のパネルを示しながら、19439月の鳥取から19486月の福井地震までの死者の数10831223230613303769を合計すると9711名となり、多くの国民に知られることもなく命を落とし、阪神淡路大震災の犠牲者をはるかに上回ることになることを強調されていた。その阪神淡路大震災の1995117日まで、大きな地震に見舞われることがなかった時代と日本の高度経済成長期が重なったことの意味を示唆していたのだが・・・。

阪神淡路、東日本大震災の展示が少ないままに、後半の第2部が終わってしまったのには、なんとなく尻切れトンボの感を抱きながら、会場を後にしたのだった。いつか近い将来に、現代の震災について企画展を期待したい。(続く)

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