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2014年5月28日 (水)

山崎方代を読む二題

 315日の記事に書きましたように、山崎方代について書く機会が2度ほどありました。ここに、合わせて再録します。

<1>『方代を読む』(阿木津英著 現代短歌社 201211月)書評

・寂しくてひとり笑えば茶ぶ台の上の茶碗が笑い出したり

(『短歌』1967年10月)

・手のひらに豆腐を乗せていそいそといつもの角をまがりて帰る

(『毎日新聞』1968年9月15日)

「方代」は「ほうだい」と読む。山崎方代(一九一四~一九八五年)は、山梨県右左口村(うばくちむら・現、中道町)出身の男性歌人である。小学校卒業後、農業に従事しながら作歌を始め、地元の文芸誌や新聞などに山崎一輪の名で投稿、一九三六年頃より『あしかび』『一路』などに出詠する。一九四一年応召、チモール島で右眼失明の戦傷を負い、一九四六年帰還し、翌年『一路』に復帰する。一九四八年には岡部桂一郎らと『工人』を創刊、一時は姉の嫁ぎ先に寄居するが、職と居を転々とし、歌集『方代』(一九五五年)出版後、同人誌『泥』(一九五六年創刊)、『寒暑』(一九七一年創刊)に拠り、この間、短歌総合誌や新聞への寄稿も多くなり、評価を高めていった。一九七二年、鎌倉の支援者の提供による四畳半の庵に落ち着く。その後の歌集に短歌新聞社刊『左右口』(一九七四年)、『こおろぎ』(一九八〇年)がある。方代は、最後の歌集『迦葉(かしょう)』(一九八五年一一月 不識書房)の完成を待たず、一九八五年八月一九日に肺癌で没した。その境涯と口語を多用するなどの愛誦性が、多くの読者を魅了するのかもしれない。

・鍋蓋を軒に吊るして待っている御用の方は鳴らしてほしい

(『文芸春秋』1982年3月)

・ふるさとの右左口村は骨壺の底に揺られてわが帰る村

(『かまくら春秋』1982年3月)

本書は、「Ⅰ方代短歌の謎を解く―『迦葉』散策」、「Ⅱ方代が方代になるまで」の二部構成である。Ⅰにおいては、『迦葉』からの選出作品の一首一首の解釈のみならず、背景と共にキーワードから系譜をたどっているので、方代ワールドを満喫することができる。

・そなたとは急須のようにしたしくてうき世はなべて嘘ばかり 

(初出『うた』1981年10月)

著者阿木津は「乱雑に散らかった卓袱台のうえに急須が一つ。その急須と向かい合う、ひとりぐらしの老いそめた男の姿。『そなた』は所在ないさびしさから生まれる幻影であるということを、読む者は瞬時に了解する」とし、方代の擬人法の特色を「実在と幻影とが交錯するあわいが歌に実現した」と見る。

・奴豆腐は酒のさかなで近づいて来る戦争の音を聞いている

(『短歌新聞』1981年10月)

・手作りの豆腐を前に何にもかもみんな忘れてかしこまりおる

(『かまくら春秋』1982年1月)

著者は、上記一首目を掲げ、短い間に「手作りの豆腐を前に近づいて来る戦争の音をきいている」(『かまくら春秋』一九八一年一一月)「手作りの豆腐を前にもやもやと日なが一日を消してゐにけり((『うた』一九八二年一月)を経て、二首目に落着した過程をたどる。方代にとって「戦争―もっと言うなら戦争と庶民―は方代の歌の底深く厚く流れている大きな主題であった」のだが、ここでは、キーワードが「戦争」から離れて「手作り豆腐」に移っていく過程が示されているのが興味深い。

・春の日が部屋に溜って赤いから盃の中に入れてみにけり

(『短歌』1981年11月)

著者は、この一首から、方代が「一見初心者らしい拙さに見える語法も、じつは歌人方代というフィルターで濾過させていること」を示す一例として、俵万智の一首と比較する。

・「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

(俵万智)

 同じ因果関係を示す「赤いから」、「言ったから」という「から」を使用しながら、万智の歌が「方代の歌に比べて平板で、語が薄く感じられる」のは、上句と下句の間に「飛躍がないからである」とし、方代作品では「歌に織り込まれた<作者の働き>」によって「思いもかけない躍動感」が生まれる、と明快に解く。

本書の後半「Ⅱ方代が方代になるまで」の分析も鋭く、引き込まれる。「方代文体と鈴木信太郎訳『ヴィヨン詩鈔』」では、方代のフランス詩人への傾倒の意外性から説き起こすが、方代にヴィヨンを勧めた岡部桂一郎、ヴィヨンと方代の本質的なかかわりを「追放流竄」の運命の悲しみとその反抗としての「無頼」にあるとした玉城徹の論からさらに進めた。方代がこの詩人から引き出したものは主題ばかりでなく、出征前には文語体の歌であったのが、戦後「口語を大胆にとりいれるスタイルを発明工夫させるきっかけとも動力ともなった」のは「ヴィヨン」ではなく「鈴木信太郎訳の『ヴィヨン詩鈔』」であったと推論する。

・ゆく所まで行かねばならぬ告白は十五世紀のヴィヨンに聞いてくれ

(『方代』、初出「工人」1949年4月)

 また、「方代の修羅」では、方代が戦場体験や軍隊生活で、戦傷者でありながら、加害者であったかもしれない自分の戦後を生きる道としての「無頼」を意識的に獲得したのが、ヴィヨンであったとの視点から、「温かい、ふるさとを思わせるような歌人」という方代論から一歩進めたところが新鮮であった。

 本書は、作品鑑賞と方代論が相まって、奥深い入門書になっていよう。『山崎方代全歌集』(玉城徹ほか編 不識書院 一九九五年)には、初期作品ほか、索引、年譜が付される。一九八七年には、「山崎方代を語り継ぐ会」が立ち上げられ、一九九六年には、『方代研究』が創刊された。また、毎年、鎌倉の瑞泉寺と故郷で「方代忌」が開催され、顕彰が続いている。  

(『国文目白』53号 日本女子大学国語国文学会編刊 20143月) 

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色づき始めたアジサイ

<2>方代とキリスト          

 

・川床にころがっていた石ころを本尊さまと崇めまつりぬ

・太書きの万年筆をたまわりぬキリスト様は何も呉れない

(『うた』198310月)

 方代没後に刊行された第四歌集『迦葉』には、この二首が並ぶ。初出はいずれも『うた』誌上である。山崎一輪と名乗っていた戦前の作品にも「仏様」はいろいろな形で登場する。多くの庶民がそうであったように、方代もその父母も、仏に祈ることは暮らしの一部であったのではないか。

 しかし、方代の作品にキリストが登場するのはいつのころだったのか。戦後まもなくつぎの一首が現れるが、歌集には収められていない。

・少女子は夕日の後の焼跡に額たりて小さく十字を切りぬ

(『一路』19486月)

後年の『こおろぎ』には、つぎの一首があり、「少女が切る十字」が、長い間モチーフとしてあたためられていたことがわかる。

・縄跳びの赤い夕日の輪の中に少女が十字を切っている

(『短歌』197611月)

 前者には、占領下の焼け跡という環境下で、少女の祈りが、多くの被災者や国民の祈りにも重なる状況が伺える。しかし、後者の設定では、上句と下句の必然性が薄く、十字を切ることの唐突さとその風景の絵画性が強調されている。こうした例はほかにもあり、教会、十字架、聖者、降誕祭、地名などが点景として配される場合が多い。

・天にのびる高き教会の石垣の下に転がる方代と石ころ 

(『工人』 19509月)

・ヨルダンの夜辺のあかりが灯る頃フライパンに油を落とす

(合同歌集『現代』196911月) 

・ひび黒き茶碗と箸を取り出してひとり降誕祭(ノエル)の夜を送れり

(『国学院短歌』19726月)

一首目は『方代』、二・三首目が『右左口』から。降誕祭を「ノエル」と読ませるのが方代の美学であったろうか。冒頭の「キリスト様は何も呉れない」は、キリストとの距離と親密性を微妙にあらわしていて、筆者にも近しい一首であった。

(『現代短歌』20145月)

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ちらほら実をつけ始めたイチジク


  

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