梅雨の晴れ間~清里を歩く~(2) ポール・ラッシュと諜報
ポール・ラッシュについて
この日は、昼食をはさんで、半日ほど歩いたことになる。まずは、汗を流したいところだが、キープ協会の基礎を築き、「清里の父」とも呼ばれるポール・ラッシュの記念館が新館近くにあるというので、ひとりで出かけた。受付に女性が一人、もちろん来館者は他にはいない。日本へ来てからの活動が大きなパネルで紹介されていた。もう一つの展示室は、もっぱら日本のアメリカンフットボールの歴史とラッシュの業績を顕彰するものであった。前述のように、日米開戦直後には、田園調布のスミレキャンプ(注①)に抑留、強制送還されたのだが、敗戦後は、GHQの一員として再来日をしている(注②)。 パネルにあった「スミレキャンプ」って、気になるので調べてみると、注①の文献に詳しく、つぎのようなことが分かった。
スミレキャンプは、1941年12月開戦時に抑留された外国人の抑留所のひとつで、当時、菫女学院(現田園調布雙葉学園)の校舎が当てられ、男性37人が収容され、ポール・ラッシュ(45歳)もその一人であった。翌年の第1次日米交換船で帰国している。これからが、私には意外に思われたポール・ラッシュの「もう一つの顔」である。俄然、「キナ臭い」部分に立ち入ることになる。注②の文献によればアメリカに帰国後の1942年11月から来日までは陸軍省情報部(MIS)や語学学校で日系2世の語学教育の任務に当たり、1945年9月から1949年7月までは、GHQの参謀第2部(G2)の民間諜報局(CIS)に属し、文書編集課長として戦犯追放リスト等の作成、さらにウィロビー少将の命により原田熊雄日記の翻訳とゾルゲ事件再調査に当たる。また、春名幹男『秘密のファイル―CIAの対日工作』(新潮社 2000年)によれば、731部隊の石井四郎元中将の取調べ・免罪工作に関与する文書には、しばしばポール・ラッシュの名前が記されているという。 1949年7月退役以後は、清里での活動、日本聖公会復興、立教大学での活動へとシフトしていることが分かった。現在の池袋の立教キャンパスに、池袋中・高等学校施設としてポール・ラッシュの名を冠したアスレティックセンターが新設されてまもない。
パネルの一部
記念館のパネルには、原田日記の翻訳のことは記されていたが、「もう一つの顔」の方は明確ではなかった。また、沢田美喜のサンダース・ホーム設立にも貢献したことが記されていた。沢田夫妻の家は接収され、沢田ハウスはCISハウスと呼ばれていた。ポール・ラッシュの退役記念パーティは、その沢田ハウスで開催、吉田首相、ウィロビー少将、松平参院議長と並ぶ写真も注②の文献には収められていた。 その人脈から、彼の「もう一つの顔」が伺えるのではないか。
なんと、知らなかったことが多いことか。この年に至って、あらためて「知る」喜びを一端を味わった旅の終章だった。(つづく)
注①
小宮まゆみ:太平洋戦争下の「敵国人」抑留―日本国内在住にした英米系外国人の抑留について(『御茶の水史学』43号1999年9月)
http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/891/1/KJ00004470995.pdf%20-%20search='%E7%94%B0%E5%9C%92%E8%AA%BF%E5%B8%83+%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97
小宮まゆみ:『敵国人抑留―戦時下の外国民間人』吉川弘文館 2009年
注②
加藤哲郎:GHQ/G2ウィロビー=CISポール・ラッシュの諜報工作―ゾルゲ事件被告川合貞吉の場合(インテリジェンス研究所第3回諜報研究会2013年7月13日)
ポール・ラッシュの住まいの一部が見学できる。見学中にひと雨あったらしい。
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コメント
佐藤様 コメントありがとうございます。藤倉学園疎開児童のお墓、知りませんでした。萌木の村のどの辺りか記憶が定かではないのですが、突然墓地があったことを思い出しました。小さな案内などあったのでしょうか。お参り出来なかったのが残念でした。一方、萌木の村で原色のメリーゴーランドを目にした時は、いささか驚いたりもしました。
投稿: 内野 | 2014年7月 8日 (火) 01時01分
はじめまして。
山梨県北杜市でぼんやりと暮らしています、老生73さいです。突然のコメントにてお許し下さい。
内野さんの「短歌と天皇制」を北杜市大泉町にある金田一(春彦)図書館から借りて以前に読んだことがあり、勉強させてもらいました。自分は歌を詠むことはなく、もっぱら鑑賞するだけです。
その図書館の玄関前には、P.ラッシュの銅像があります。清里のものと良く似ています。
P.ラッシュについては山梨の戦争遺跡http://www13.ocn.ne.jp/~senseki/kennainosensouiseki.htmにも記述があります。
そこに紹介されている藤倉学園児の墓http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn016/fujikura/fujikura.htmlを自分は、清里へ行ったときに、寄ったりします。
(失礼いたしました)
投稿: 佐藤喜正 | 2014年7月 7日 (月) 13時01分