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2014年6月16日 (月)

梅雨の晴れ間、清里を歩く(3)  清泉尞から清里駅まで

昼には、清里駅を発つ。朝、宅急便で、少しのお土産や衣類などを家へ送る。防寒用のセーターは使わなかった。身軽になって駅まで歩こうというわけだ。玄関を出ようとしたとき中高年の女性たちがどっと入ってきた。皆さん、赤十字のワッペンを胸につけていた。バス4台の間を縫って、まずは、本館真向いの県立八ヶ岳自然ふれあいセンター、ここでは小学生の野外学習と会う。ギャラリーの展示よりは森に飛び出したいところだが、時間がない。その斜め前の、ジャージー・ハット、きょうは、家への土産にサクランボを買った。昨日は出ていた新府の白桃はまだ届いていないらしい。朝からソフトクリームのお客さんがやはり多い。さらに下るとパン工房、五穀パンと菓子パンを少々を買い、キープファームショップへ立ち寄るが、ここも清泉尞自家製の商品が並ぶ。 さらに進むと、右手の少し入ったところに、聖アンデレ教会と併設の幼稚園がある。教会は、1948年完成とあり、戦後の建物だが、礼拝堂は畳み敷きであるのが、むしろ新鮮だった。 よほどのぶらぶら歩きだったのだろう、10時から歩き始めて、清里駅に着いたのは、発車の15分ほど前だった。娘は、なんとなつかしい峠の釜めしを買っていたが、私はパンで済ませるつもりだ。大雨に濡れることもなく、もう旅の終わりも近い。連れにはただ感謝、お疲れ様でした。

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ポールラッシュ通りを下る、小海線を越えると、昨日歩いた牧場通りにかわる

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清里駅を後に


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2014年6月15日 (日)

梅雨の晴れ間~清里を歩く~(2) ポール・ラッシュと諜報

  ポール・ラッシュについて

 この日は、昼食をはさんで、半日ほど歩いたことになる。まずは、汗を流したいところだが、キープ協会の基礎を築き、「清里の父」とも呼ばれるポール・ラッシュの記念館が新館近くにあるというので、ひとりで出かけた。受付に女性が一人、もちろん来館者は他にはいない。日本へ来てからの活動が大きなパネルで紹介されていた。もう一つの展示室は、もっぱら日本のアメリカンフットボールの歴史とラッシュの業績を顕彰するものであった。前述のように、日米開戦直後には、田園調布のスミレキャンプ(注①)に抑留、強制送還されたのだが、敗戦後は、GHQの一員として再来日をしている(注②)。 パネルにあった「スミレキャンプ」って、気になるので調べてみると、注①の文献に詳しく、つぎのようなことが分かった。

 スミレキャンプは、1941年12月開戦時に抑留された外国人の抑留所のひとつで、当時、菫女学院(現田園調布雙葉学園)の校舎が当てられ、男性37人が収容され、ポール・ラッシュ(45歳)もその一人であった。翌年の第1次日米交換船で帰国している。これからが、私には意外に思われたポール・ラッシュの「もう一つの顔」である。俄然、「キナ臭い」部分に立ち入ることになる。注②の文献によればアメリカに帰国後の1942年11月から来日までは陸軍省情報部(MIS)や語学学校で日系2世の語学教育の任務に当たり、1945年9月から1949年7月までは、GHQの参謀第2部(G2)の民間諜報局(CIS)に属し、文書編集課長として戦犯追放リスト等の作成、さらにウィロビー少将の命により原田熊雄日記の翻訳とゾルゲ事件再調査に当たる。また、春名幹男『秘密のファイル―CIAの対日工作』(新潮社 2000年)によれば、731部隊の石井四郎元中将の取調べ・免罪工作に関与する文書には、しばしばポール・ラッシュの名前が記されているという。 1949年7月退役以後は、清里での活動、日本聖公会復興、立教大学での活動へとシフトしていることが分かった。現在の池袋の立教キャンパスに、池袋中・高等学校施設としてポール・ラッシュの名を冠したアスレティックセンターが新設されてまもない。

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パネルの一部

  記念館のパネルには、原田日記の翻訳のことは記されていたが、「もう一つの顔」の方は明確ではなかった。また、沢田美喜のサンダース・ホーム設立にも貢献したことが記されていた。沢田夫妻の家は接収され、沢田ハウスはCISハウスと呼ばれていた。ポール・ラッシュの退役記念パーティは、その沢田ハウスで開催、吉田首相、ウィロビー少将、松平参院議長と並ぶ写真も注②の文献には収められていた。 その人脈から、彼の「もう一つの顔」が伺えるのではないか。

  なんと、知らなかったことが多いことか。この年に至って、あらためて「知る」喜びを一端を味わった旅の終章だった。(つづく)

注①
小宮まゆみ:太平洋戦争下の「敵国人」抑留―日本国内在住にした英米系外国人の抑留について(『御茶の水史学』43号1999年9月) http://teapot.lib.ocha.ac.jp/ocha/bitstream/10083/891/1/KJ00004470995.pdf%20-%20search='%E7%94%B0%E5%9C%92%E8%AA%BF%E5%B8%83+%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%83%AC%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97
小宮まゆみ:『敵国人抑留―戦時下の外国民間人』吉川弘文館 2009年

注②
加藤哲郎:GHQ/G2ウィロビー=CISポール・ラッシュの諜報工作―ゾルゲ事件被告川合貞吉の場合(インテリジェンス研究所第3回諜報研究会2013年7月13日)

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ポール・ラッシュの住まいの一部が見学できる。見学中にひと雨あったらしい。

 

 

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2014年6月14日 (土)

梅雨の晴れ間~清里を歩く~(1)

佐倉の家を出るときも、特急あずさが新宿を発つときも、かなりの雨で、せっかくの小旅行が思いやられた。持ち込んだサンドイッチをさっそく頬張ると、「もう?」と娘から笑われる。この12年一緒に温泉でも行きたいね、と言い続けていて、ようやく実現できた23日の清里行きである。我が家では老犬の介護が始まり、連れ合いは忙しくなるは、私の体調や娘の仕事の都合もあるはで、延び延びになって、この時期になってしまった。私には、宿も切符もお任せの気楽な旅となった。

キープ協会って

小淵沢で小海線に乗り換えると、乗客は結構な混みようで、一段とにぎやかになる。甲斐小泉駅の線路際には平山郁夫美術館があったが、土曜だというのに人影が見えない。遠くには山なみが、近くには雑木林の新緑が流れ去る車窓、点々とヤマツツジの朱がひときわ目を引く。清里駅に下車する人は少なく、駅前の商店街は閑散としていた。雨は止んでいたが、相変わらず雲の動きが速いので、歩くことはあきらめ、今日の宿、キープ協会の清泉尞までは車を利用した(1000円)。

キープ協会とは、私も娘から聞くまでは知らなかったのだが、Kiyosato Edukcational Experiment Project(清里教育実験計画)の頭文字をとってKEEP協会と名付けられた公益財団法人である。関東大震災後の1925年、東京と横浜のYMCA 会館再建のために来日したアメリカの宣教師ポール・ラッシュ(18971979)が、その後も立教大学での教職の傍ら布教活動と共に、日本聖徒アンデレ同胞会設立(BSA)の設立、アメリカンフットボールの紹介などに尽力した。1938年日米協会の青年活動、BSA研修の場として清泉尞を建設したが、日米開戦のためアメリカへ強制送還されてしまう。戦後、GHQ将校として 再び来日、清里に農村センター建設を開始した。荒れ地だった清里に、聖アンドレ教会、高冷地実験農場や牧場を建設、環境教育の研修の場としての活動も開始、1957年、宿泊施設清泉寮を再建、現在の清泉寮の基礎になった。ところが、後述するように、この彼にはもう一つの顔があったことを帰宅後知るのだった。

娘は院生時代、2回ほど来ていて、最初はコテッジ、2度目は敷地内のキープ自然学校に宿泊している。今回の新館は初めてとのこと。ベッドの部屋の予約が取れず、10 畳の和室と同じくらいの板間、結構な料金ですよ、と娘には脅かされていた。

炭酸水素塩泉はクセがなくて

久し振りの温泉の泉質は、うす茶色でナトリウム・マグネシウムとのこと。夕食前の大浴場は、最初は私たちだけ、41~42度と結構熱めなので、長湯が苦手な私は先に部屋に戻る。明日の天気が気になるところ、午前中は曇りという予報だが・・・。

まだ明るい6時の夕食、レストランは家族連れが多い。前菜とデザートがバイキング方式で、メインは、スズキと米茄子の蒸しものを選んだ。地元のビールの小ビンを二人で分けて乾杯、娘はサングリアを追加していた。前菜は酢のもの系が多く、デザートも豊富で、つい欲張ってしまったので、部屋に戻るなり布団になだれ込む。今頃、家では連れ合いが老犬の介護で夕食もゆっくりとれていないのではと、心配ではあった。

2度目の入浴から戻った娘と明日の予定、雨の場合、曇りの場合の二通りを考えておこう、ということになった。

思いがけず、富士が

朝、たしかに降ってはいないが、雲が厚い。にぎやかなレストラン、和食系と洋食系のバイキングだが、ついついお皿は山盛りとなり、娘にたしなめられる。生野菜も新鮮だし、ヨーグルトやプリンもおいしい。キープのソフトクリームはお勧めと聞いていたので、今日の楽しみとして置こう。ベランダに出ていたグループから歓声が上がる。雲が切れて富士が見えたらしい。東の空の雲は払われ、稜線が見えてきた。もっとも南寄りに富士はあった。思いがけないことで、少し得をした気分であった。

このまま、降らずに済んでくれればいいが、清泉尞905分発のピクニックバスには一日乗車券(610円)で乗り込む。駅は直行ならば5分ちょっとの距離だが、ピックニックバスの由縁か、木製の椅子にアーチ形の窓、大きな馬車のような作りで、大回りをして、いくつかの施設やホテルを回る。乗客は私たちだけで、運転手さんは、車窓の左右をガイドしてくれる。「これから渡るのが赤い橋、八ケ岳倶楽部ってあの柳生さんがオーナーです、つぎが黄色い橋、中村農場は鶏が有名で、芸人さんがグルメの旅で来たりしています・・・・」などと。きょうは「ツツジウォークラリーだけど、ツツジがシカに喰われてしまってね、年々少なくなって」とも。山から下りて来てはお好みの木の皮を食べて枯らしてしまうことが多いそうだ。

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↑シカに樹皮を食べられてしまって・・・

清里駅前で下車、季節外れの、さびしい街を5分ほどで通り抜けると「萌木の村」、1977年にスタートしたナチュラルリゾートということで、さまざまな店や工房、小さな博物館などが広場を囲んで並ぶ。地ビール工房もある。そのすぐ裏手から入る滝見の丘への遊歩道を進んだ。急に深い森に入った感じだが、足元は木材チップが敷き詰められて歩きやすい。水の音も大きくなったり小さくなったり、どんな滝が現れるかと思っていたら、丘と言っても、人が23人立てるかどうかの高みからのぞけば、森の中に小さな白い滝が見えるだけだったが、雨のあとの木々の緑は格別だった。

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↑滝見の丘への道で

広場に戻り、あとはいろいろな店に立ち寄りながら進むと、奥まったミルクランド前ではバンド演奏がなされていた。ジャムの店、パンの店、みな美味しそうだったが、荷物になるのであきらめ、酒井牧場の牛たちに挨拶をして、ビール工房のあるROCKで早めに軽いランチとなった。、少々お高いが、家には地ビール6本を送っておいた。明日は69日、「ロックの日」?店の名にもちなんで、今夜は前夜祭でロックコンサートが開かれるという。そういえば、ミッキーカーチスの風情の人たちが楽器を抱えて出入りしていたようだった。胸にワッペンをつけたウォークラリーの人たちが続々やって来る、チェックポイントがあるらしい。

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↑ビール工房併設のレストランROCK 

サラサドウダンとミズキの花を見上げつつ

萌木の村からつぎの目的地、絵本ミュージアムまではピクニックバス5分ほどだというので、歩くことにした。人も車もほとんど見かけない141号線の沿道は、ヤマツツジ、真っ盛りのサラサドウダン、びっしりと白い花をつけたミズキを仰ぎながら歩く。途中雨がぱらつき、あるはずの交差点になかなか着かず、心細くなったが、左手の遊歩道からウォークラリーの人たちが列をなして国道に登ってくる。彼らと一緒に、交差点にたどり着く。ウォークラリーの誘導員さんが「もう少しですよ、ゆるい登り坂だから頑張ってください」と声を掛けてくれる。牧場通りへ入ると、右左にはたしかに広い草原や牧場が散在している。

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↑満開のサラサドウダン

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↑絵本ミュージアム付近のミズキ

結局、萌木の村を出てから40分近く、ようやく絵本ミュージアムの企画展「ノンタン展」にたどり着いた。ノンタンシリーズは、娘が家でも保育園でもお世話になった絵本だ。彼女もよく覚えていて、この「ノンタン展」は見ておこうということになった。『ノンタンぶらんこのせて』は、キヨノサチコのデビュー作で1976年だったことがわかる。原画や下書き、画材やノート、年譜などが展示され、作者のキヨノさんは2008年に亡くなったことも知った。47歳でパイロットのライセンスを取得したという、夢多き作家だったのだ。「ブルーナ」か「ちひろ」かといえば、私はちひろの方が好みなのだが、ブルーナ系のノンタンは、ともかくわかりやすく、少しいたずらな真っ白な子猫だったのが、人気の秘密なのかもしれない。見学中に、空はにわかに暗くなり土砂降りとなったのには驚いた。入場券についているドリンク券、私はぶどうジュースをいただきホッと一息入れた。山の天気はほんとうに変わりやすい。

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↑えほんミュージアムのノンタン展

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↑えほんミュージアムの窓から、ベランダは雨

ミュージアムを出るころには雨はやみ、ピクニックバスの停留所まで急ぎ、1408分発に乗る。つぎのバス停「丘の公園」は、ウォークラリーのゴール地点だったらしく、受付のノボリや机を片付け始める人たちがいた。清里駅、清里の森を経て、横浜学園・明治大学などの学校尞の看板が多いエリアを抜けて、美しの森、清里高原ホテルを経て清泉尞に着いたのが3時近かった。(つづく)

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2014年6月 6日 (金)

佐倉市社協への人権費補助は、大幅に減額されたのか~その背後を探る

 市内の友人から、「ことし、社協の人件費補助が大幅に減額されている!」とのメールが入った。「ほんと?」との疑問から調べてみると、たしかに、千万単位で減額されているのがわかった。しかし、結論的に言えば、それは単なる費目の付け替えだったのである。

自治体は地方自治法により、毎年10月、財政援助団体などの監査結果報告とその報告に基づいて講じた措置を公表することになっている。いま、市のHPでは平成1925年度の監査結果と措置結果を閲覧することができる。そこでは、佐倉市の社会福祉協議会への「人件費補助」については、毎回、毎回、法人経営の見直し、職員の意識改革の必要が指摘されながら、いっこうに変わる気配がなかったのである。以下の表には、社協への経常経費補助、人件費補助、事業費補助などのその他の補助金の額を時系列でたどってみた。

近年の佐倉市から佐倉市社会福祉協議会への人件費補助の推移

http://dmituko.cocolog-nifty.com/syakyojinnkennhisuii.pdf

佐倉市でも1996年、行財政改革という時代の流れにのって、7年後に補助金のすべてを白紙に戻すという「大綱」が決定されたものの、一年延長、その間、2001年には個々の補助金の価値性・公平性・効率性などのチェックシートによる全体的な再点検を行うことした。2003年から第三者委員会、補助金検討委員会が立ち上げられ、全136件についての審査が行われた。という流れの中でも、社協への人件費補助の一件は、相変わらず、抜本的な改善がみられないまま、社協内部での不透明感や他の福祉関係団体との不公平性が引き継がれていた。チェックシートも第三者委員会も機能せず、2013年度まで、ほぼ同じ状況が続いていた。監査委員による「監査結果」のポイントは表にも記しているが、もう少し、詳細にたどってみると、監査結果の報告を受けた市長名による「措置結果」の記述に大きな変化が見られるのがわかるだろうか。以下のとおりである。

平成19年年度(2007年)には、つぎのようなに監査結果が出た。

「事業運営については、人件費をはじめとする多額の市補助金が充てられています。(中略)昨年度も指摘しましたが、抜本的な法人経営の見直しと市および法人職員の意識改革をはじめとする体質改善が不可欠です。平成18年度においては『検討すべき案件がなかった』として経営検討委員会が一度も開催されませんでした。市民の負託にこたえるためにも、さらなる使命感および緊張感をもって経営を行ってください」

これに対して、市長名の措置結果は「平成19年度の5つの重点実施事項が着実に実施されるよう指導してまいります。また、経営検討委員会の開催により法人経営の見直しが図られるように併せて指導してまいります」といった、まるでオウム返しのような文面であった。

 

平成23年度(2011年)の監査結果に、つぎのように、先進他市に学べと付け加えられた。

「佐倉市は、市社会福祉協議会に対して、人件費をはじめとして多額の市補助金を充てています。また、自治会・町内会に頼る会費収入にも限界があります。このための抜本的な法人運営の見直し及び市社会福祉協議会役職員の意識改革をはじめとする体質改善が不可欠です。引き続き、先進市の社会福祉協議会の運営状況などを参考にして経営改善方策を検討し改善を進めてください。」

措置結果として「佐倉市と同等かそれ以上の規模の他市(県外)の先進市社会福祉協議会の運営状況を参考にして、人事考課制度の有効活用や役職員の意識改革等経営改善が図られるように指導してまいります」と応えている。

 平成24年度(2012年)においては、つぎのように、やや具体的な監査結果が出された。

「佐倉市社会福祉協議会事業推進費補助金の人件費分については、市の関係部署等と協議し、さらに対象となる職務内容や社会情勢についても考慮した上で、検討してください。社会福祉協議会が行う社会福祉事業は、市民からの会費と市の補助金が主な財源です。『社協さくら』やホームページ等に、市からの補助金の内容や職員給与についても掲載するなど、一層の情報公開に努めてください。」

市長名による措置結果の文面が変わった。すなわち、「社会福祉協議会に対し、措置結果を照会したところ、次のとおり報告がありました」とあり、従来の文言の主語は市長であったのに反し、「・・・協議してまいります」「情報公開に・・・努めてまいります」の主語は社協に変わった。これは何を意味するのだろう。市長は、行政の長としての「指導」を放棄し、財政援助団体に「丸投げ」をしたことになったわけである。

 最も新しい、平成25年度(2013年)では、さらに具体的に「人件費の算定資料には、委託事業に係る人件費も含まれていることから、対象経費の見直しに努めてください」と指摘している。

 これに対して、市長名による措置結果では、つぎのように社協からの報告という形式は前年度を踏襲し、「佐倉市社会福祉協議会事業推進費補助金につきましては、委託事業に係る人件費も含まれていることから、市の関係部署と協議しながら、委託事業に人件費を含めるよう見直しを進めてまいります

 そして、平成26年度の(2014年)の予算に行き着き、前年度の予算における人件費補助の7415.7万が今年度予算では一気に3935.0万に減額されている。なぜ?人件費補助金はすべて正職員に充てられていたので、職員が半減?そんなわけはない。今年度予算が掲載された「社協さくら」5月号では、何の説明がないので、社協に問い合わせてわかったのだが、従来の人件費補助には、委託事業の人件費も含まれていたので、それを「受託金収入」に入れることにした、というのである。上記、平成25年度の「監査結果」に見るように、「人件費の算定資料には、委託事業に係る人件費も含まれていることから、対象経費の見直し」の指摘に従って、「措置結果」では、委託事業の人件費は「受託金収入」繰り入れたことになる。

 ということは、受託金収入における人件費を算定しなければ、平成25年度以前の人件費補助金との比較はできないことになる。ちなみに、参考までに「委託金」(平成24年度以降は「受託金収入」)の額を付記しておく。市から社協への委託事業は、昨年度から一挙に増え、受託金収入は、昨年が14000万円、今年が20300万円となった。たしかに、佐倉市社協は、成年後見支援センター、昨年10月から生活困窮者自立促進支援モデル事業の受託をしている(参考「社説・生活困窮者支援 お役所仕事ではできぬ」『毎日新聞』201429日、「困窮者の自立・就労支援」『朝日新聞』201464日)。

 「成年後見支援」も「生活困窮者支援」も、どちらも個人や家庭のプライバシーに最も深く立ち入らねばならぬ仕事である。いわゆる「お役所仕事」ではできないことはもちろんだが、本来ならば「役所」がしなければならない仕事ではないか。安倍政権は生活保護費を削減しているので、生活保護に至る手前の支援に重点を置こうというものだが、相談者は社協の相談窓口で、ほんとうのことが話せるだろうか。担当者は、社協の正規職員なのか、嘱託職員なのか、非正規の専門職なのか。プライバシーはほんとうに守れるのか。各地で問題になっている生活保護受給申請の回避や不正受給者というレッテル張りによる受給申請への抑止につながらなければいいと思っている。最近の補助金検討委員会(2014219日)でも議論されていて、社協職員採用基準が佐倉市職員と違うのに同様の待遇を受けるのはおかしいのではないか、人件費補助と委託事業の人件費がどうなっているのか、5月のヒヤリングまでには資料を作成してほしいなどの素朴な疑問が相次いでいた。

 上記の表でもわかるように、社協への人件費補助は、何十年来、問題を指摘されながら、まるで既得権のように手離そうとはしない様相が明らかだ。そして自治体の方は、委託事業、指定管理者制度などのもとに社協を勝手よく使いまわすことによって、他の社会福祉法人や多数のNPO法人との差別化を図り、福祉において最も丹念に対応しなければならない人々を遠ざけてはいないか、不安なのである。

 

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2014年6月 5日 (木)

ドラマ「サイレント・プア」が終わった~現実とのギャップ

NHK火曜のドラマ10「サイレント・プア」が終わった。社協職員の深田恭子が、弱者には根気よく寄り添い、前向きに生きる力を引き出すという役柄で、自らも阪神淡路大震災の折、弟の手を離したので死なせてしまったという自責の念に苛まれているという設定だ。全回を見たわけではないが、その主人公は、ごみ屋敷にこもる老齢の女性、引きこもりの青年、認知症の母を抱える主婦、余命を知ったホームレス男性、東日本大震災の折、施設の職員として高齢者を助けられなかったと、これも自分を責める避難者である男性とその家族、一話、一話、どれも明るい兆しが見えて完結する。こんなにうまくいくのかな、現実はこんなものではないだろう。べテランの助演者に囲まれての深田の演技は、やはり単調さが目立った。繰り返されるクローズアップの表情には、心の葛藤が見えにくい・・・。ドラマの舞台は東京だが、豊中市の社会福祉協議会の全面的な協力をあおいでいるという。ドラマでは、社会福祉協議会の組織や業務、行政との関係、その位置づけが曖昧だし、職場の人間関係は図式的である。いま、ほとんどの社協の現場でその職務を担っているのは非正規・非常勤職員であり、地区社協のボランテイアである。

豊中市と言えば、2011年1月、当時の報道によれば、元資産家の60歳代の姉妹が唯一の所有となってしまったマンションの自室で、数十円の小銭しか残っていない、餓死状態の遺体で発見され、死後2週間以上経っていたという事件、が思い出される。相続した不動産の運用に失敗―その不動産に付け込まれ、多額の借金、相続税の滞納、差し押え、無収入への道をたどり、電気やガスもすでに止められていたという。裁判所執行官が豊中市役所担当課に連絡、相談するよう何回か張り紙やポスティングをしたものの、双方、それ以上のことはしなかった、という。豊中市男女共同参画推進センター「すてっぷ」初代館長でありながら、不当解雇事件で市や市議会と闘い、最高裁で勝訴が確定(2011120日)した三井マリ子さんも、当時、このニュースを聞いて、自身のブログ「三井マリ子の世界」で「救命力世界一宣言の豊中市で孤独死」(2011111)で次のように記していた。

「姉妹の住まいの周辺には病院もいくつもあり、駅も近い、市役所だって1駅だ。そんな環境にいて、なぜ餓死するまでほおっておかれたのか。市の福祉担当者や市議会議員は、死に至る前に、なぜその徴候を嗅ぎとれなかったか。電気ガス会社はなぜSOSを発しなかったのか。個人情報云々で善意のサポートが入り込めない事態を招いてはいなかったか・・・。」

「とよなか このまちいいな 救命力世界一宣言」というのが、20101月、豊中市のキャッチフレーズになったそうで、市役所や公用車にはこの標語の幕が付されていたそうだ。現実とのギャップは大きい。豊中市社協のコミュニティ・ソーシャル・ワーカーCSWで、いまは管理職となっている勝部さんという方が「CSWの星」のような形で活躍中のようであるが、社協をめぐる課題は、まだまだ不透明で重いはずだ。

ひるがえって、地元の社協だが、かねてより注視していた、佐倉市からの人件費補助について若干の動きがあった。次の記事でまとめたい。

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関東梅雨入りの6月5日、アマリリスが開いた

 

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