梅雨の晴れ間~清里を歩く~(1)
佐倉の家を出るときも、特急あずさが新宿を発つときも、かなりの雨で、せっかくの小旅行が思いやられた。持ち込んだサンドイッチをさっそく頬張ると、「もう?」と娘から笑われる。この1・2年一緒に温泉でも行きたいね、と言い続けていて、ようやく実現できた2泊3日の清里行きである。我が家では老犬の介護が始まり、連れ合いは忙しくなるは、私の体調や娘の仕事の都合もあるはで、延び延びになって、この時期になってしまった。私には、宿も切符もお任せの気楽な旅となった。
キープ協会って
小淵沢で小海線に乗り換えると、乗客は結構な混みようで、一段とにぎやかになる。甲斐小泉駅の線路際には平山郁夫美術館があったが、土曜だというのに人影が見えない。遠くには山なみが、近くには雑木林の新緑が流れ去る車窓、点々とヤマツツジの朱がひときわ目を引く。清里駅に下車する人は少なく、駅前の商店街は閑散としていた。雨は止んでいたが、相変わらず雲の動きが速いので、歩くことはあきらめ、今日の宿、キープ協会の清泉尞までは車を利用した(1000円)。
キープ協会とは、私も娘から聞くまでは知らなかったのだが、Kiyosato Edukcational Experiment Project(清里教育実験計画)の頭文字をとってKEEP協会と名付けられた公益財団法人である。関東大震災後の1925年、東京と横浜のYMCA 会館再建のために来日したアメリカの宣教師ポール・ラッシュ(1897~1979)が、その後も立教大学での教職の傍ら布教活動と共に、日本聖徒アンデレ同胞会設立(BSA)の設立、アメリカンフットボールの紹介などに尽力した。1938年日米協会の青年活動、BSA研修の場として清泉尞を建設したが、日米開戦のためアメリカへ強制送還されてしまう。戦後、GHQ将校として 再び来日、清里に農村センター建設を開始した。荒れ地だった清里に、聖アンドレ教会、高冷地実験農場や牧場を建設、環境教育の研修の場としての活動も開始、1957年、宿泊施設清泉寮を再建、現在の清泉寮の基礎になった。ところが、後述するように、この彼にはもう一つの顔があったことを帰宅後知るのだった。
娘は院生時代、2回ほど来ていて、最初はコテッジ、2度目は敷地内のキープ自然学校に宿泊している。今回の新館は初めてとのこと。ベッドの部屋の予約が取れず、10 畳の和室と同じくらいの板間、結構な料金ですよ、と娘には脅かされていた。
炭酸水素塩泉はクセがなくて
久し振りの温泉の泉質は、うす茶色でナトリウム・マグネシウムとのこと。夕食前の大浴場は、最初は私たちだけ、41~42度と結構熱めなので、長湯が苦手な私は先に部屋に戻る。明日の天気が気になるところ、午前中は曇りという予報だが・・・。
まだ明るい6時の夕食、レストランは家族連れが多い。前菜とデザートがバイキング方式で、メインは、スズキと米茄子の蒸しものを選んだ。地元のビールの小ビンを二人で分けて乾杯、娘はサングリアを追加していた。前菜は酢のもの系が多く、デザートも豊富で、つい欲張ってしまったので、部屋に戻るなり布団になだれ込む。今頃、家では連れ合いが老犬の介護で夕食もゆっくりとれていないのではと、心配ではあった。
2度目の入浴から戻った娘と明日の予定、雨の場合、曇りの場合の二通りを考えておこう、ということになった。
思いがけず、富士が
朝、たしかに降ってはいないが、雲が厚い。にぎやかなレストラン、和食系と洋食系のバイキングだが、ついついお皿は山盛りとなり、娘にたしなめられる。生野菜も新鮮だし、ヨーグルトやプリンもおいしい。キープのソフトクリームはお勧めと聞いていたので、今日の楽しみとして置こう。ベランダに出ていたグループから歓声が上がる。雲が切れて富士が見えたらしい。東の空の雲は払われ、稜線が見えてきた。もっとも南寄りに富士はあった。思いがけないことで、少し得をした気分であった。
このまま、降らずに済んでくれればいいが、清泉尞9時05分発のピクニックバスには一日乗車券(610円)で乗り込む。駅は直行ならば5分ちょっとの距離だが、ピックニックバスの由縁か、木製の椅子にアーチ形の窓、大きな馬車のような作りで、大回りをして、いくつかの施設やホテルを回る。乗客は私たちだけで、運転手さんは、車窓の左右をガイドしてくれる。「これから渡るのが赤い橋、八ケ岳倶楽部ってあの柳生さんがオーナーです、つぎが黄色い橋、中村農場は鶏が有名で、芸人さんがグルメの旅で来たりしています・・・・」などと。きょうは「ツツジウォークラリーだけど、ツツジがシカに喰われてしまってね、年々少なくなって」とも。山から下りて来てはお好みの木の皮を食べて枯らしてしまうことが多いそうだ。
↑シカに樹皮を食べられてしまって・・・
清里駅前で下車、季節外れの、さびしい街を5分ほどで通り抜けると「萌木の村」、1977年にスタートしたナチュラルリゾートということで、さまざまな店や工房、小さな博物館などが広場を囲んで並ぶ。地ビール工房もある。そのすぐ裏手から入る滝見の丘への遊歩道を進んだ。急に深い森に入った感じだが、足元は木材チップが敷き詰められて歩きやすい。水の音も大きくなったり小さくなったり、どんな滝が現れるかと思っていたら、丘と言っても、人が2・3人立てるかどうかの高みからのぞけば、森の中に小さな白い滝が見えるだけだったが、雨のあとの木々の緑は格別だった。
↑滝見の丘への道で
広場に戻り、あとはいろいろな店に立ち寄りながら進むと、奥まったミルクランド前ではバンド演奏がなされていた。ジャムの店、パンの店、みな美味しそうだったが、荷物になるのであきらめ、酒井牧場の牛たちに挨拶をして、ビール工房のあるROCKで早めに軽いランチとなった。、少々お高いが、家には地ビール6本を送っておいた。明日は6月9日、「ロックの日」?店の名にもちなんで、今夜は前夜祭でロックコンサートが開かれるという。そういえば、ミッキーカーチスの風情の人たちが楽器を抱えて出入りしていたようだった。胸にワッペンをつけたウォークラリーの人たちが続々やって来る、チェックポイントがあるらしい。
↑ビール工房併設のレストランROCK
サラサドウダンとミズキの花を見上げつつ
萌木の村からつぎの目的地、絵本ミュージアムまではピクニックバス5分ほどだというので、歩くことにした。人も車もほとんど見かけない141号線の沿道は、ヤマツツジ、真っ盛りのサラサドウダン、びっしりと白い花をつけたミズキを仰ぎながら歩く。途中雨がぱらつき、あるはずの交差点になかなか着かず、心細くなったが、左手の遊歩道からウォークラリーの人たちが列をなして国道に登ってくる。彼らと一緒に、交差点にたどり着く。ウォークラリーの誘導員さんが「もう少しですよ、ゆるい登り坂だから頑張ってください」と声を掛けてくれる。牧場通りへ入ると、右左にはたしかに広い草原や牧場が散在している。
↑満開のサラサドウダン
↑絵本ミュージアム付近のミズキ
結局、萌木の村を出てから40分近く、ようやく絵本ミュージアムの企画展「ノンタン展」にたどり着いた。ノンタンシリーズは、娘が家でも保育園でもお世話になった絵本だ。彼女もよく覚えていて、この「ノンタン展」は見ておこうということになった。『ノンタンぶらんこのせて』は、キヨノサチコのデビュー作で1976年だったことがわかる。原画や下書き、画材やノート、年譜などが展示され、作者のキヨノさんは2008年に亡くなったことも知った。47歳でパイロットのライセンスを取得したという、夢多き作家だったのだ。「ブルーナ」か「ちひろ」かといえば、私はちひろの方が好みなのだが、ブルーナ系のノンタンは、ともかくわかりやすく、少しいたずらな真っ白な子猫だったのが、人気の秘密なのかもしれない。見学中に、空はにわかに暗くなり土砂降りとなったのには驚いた。入場券についているドリンク券、私はぶどうジュースをいただきホッと一息入れた。山の天気はほんとうに変わりやすい。
↑えほんミュージアムのノンタン展
↑えほんミュージアムの窓から、ベランダは雨
ミュージアムを出るころには雨はやみ、ピクニックバスの停留所まで急ぎ、14時08分発に乗る。つぎのバス停「丘の公園」は、ウォークラリーのゴール地点だったらしく、受付のノボリや机を片付け始める人たちがいた。清里駅、清里の森を経て、横浜学園・明治大学などの学校尞の看板が多いエリアを抜けて、美しの森、清里高原ホテルを経て清泉尞に着いたのが3時近かった。(つづく)
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