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2014年7月31日 (木)

自治会の自立性と自治体・開発業者~男性たちの「地域デビュー」って、居場所探し?

 私の住む地域での各種団体によるユーカリタウンネットワークが、この5月に特定非営利活動法人として認証されたそうだ。この団体の成り立ちと、それへの疑問は、このブログでも何回か取り上げた。そこには、この町の開発業者「山万」が大きくかかわり、地域の自治会を取り込むために、自治会の連合体の地区自治会協議会の業務を横取りするようなことまでして何とかNPO法人認証までこぎつけた感がある。

*ユーカリが丘地域まちづくり協議会は、なぜ不認証になったのか(1)http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2011/12/post-673d.html(2011年12月6日)

*ユーカリが丘地域まちづくり協議会は、なぜ不認証になったのか(2) http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2012/02/post-a456.html(2012年2月8日)

*「ユーカリタウンネットワーク」って、いったい何をしたいの?
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/04/post-8e24.html(2014年4月10日)  

   私が、なぜこうもこだわるのかと言えば、自治会活動に数年かかわった経験から、住民自治会の行政や開発業者からの自立性が大事だということを自覚したことと、住民の多くが深く考えないまま、「市民協働」とか、市民・行政・ディベロッパーの「三位一体」とかの言葉に踊らされている実態が見えてきたからである。  

  それに、ごく最近、電車の中でかわされている会話を耳にして、その感を一層強くした。最寄りのユーカリが丘駅で京成に乗ったところ、同じ駅から乗ってきた初老の男性二人が隣席に座った。その会話を聞くともなく聞いていると、お互いの近況報告のなかで、その内のひとりが、「こんどユーカリタウンネットというのが、出来ましてね。その会議も結構あるんだが、会議に出ていると、アタマも使うから、ボケ防止になるかなとも思って・・・」と言い出した。 正直と言えば正直だが、そんな意識の人が多いのは確かだと思う。ユーカリタウンネットワークの発起人、後の理事たちの名簿を見ていると、半数以上を占める、ディイベロッパー関連企業、商店会関係の人間たち、それぞれ思惑があるのだろう。他には、自治会協議会の、むかし「顧問」とか称されていた自治会会長OB、社協役員OB、PTA会長、老人会、子供会、ボランティア団体などの役職の名が連なる。そして、彼らをして、自治会を取り込み、自動的に構成メンバーにしたい構想なのである。

    自治会には、もともと地区ごとに自治会協議会があって、そこには、佐倉市からも補助金が出ている。さらに佐倉市は、「地域まちづくり協議会」の立ち上げを積極的に進めて、ここにも年間90万円の補助金を出そうというわけである。この「地域まちづくり協議会」についても、私は何回か、このブログの記事にしている。詳しくは、それをご覧いただきたいが、これが、自治会や地区社協の屋上に屋を重ねるような、曖昧な趣旨の上に、自治会を取り込もうとしているのだ。これって、自治会の力を結集するのではなく、むしろ弱体化、相対化をもくろみ、自治体の業務を補助金と一緒に丸投げしようとする魂胆なのではないか。いずれにしても、本来自治体がなすべき業務の責任を拡散、無化するに等しいのではないかとさえ思えてくるのだ。

    前 にも書いたが、わが自治会にも、この「地域まちづくり協議会」の参加をめぐっての議論があった。その過程で、準備委員会の一人は、「お金も出るし、みんなで楽しくワイワイやればいいじゃないか」とさえ言い出したのである。

*「まちづくり協議会」、住民はどこに
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/04/post-6afc.html(2014年4月10日)

  最近、「団塊世代の地域デビュー」とか「シニアの出番」とかのキャッチフレーズで、自治体や社協が躍起になって「シニアの皆様の経験と知識」を活かしてくださいみたいな動きが盛んである。そこで、リーダーとなって達成感を味わえるのはほんの一部の人たちであって、それが誇張され、喧伝されているのが現状であろう。7月27日(日)NHK「サキどり」でも、放映していた。要するに、行政の「応援団」育成と自分の居場所探しが合致したとしても、それによって、シニアを含めた市民の生活環境が良くなるとは思えず、むしろ阻害している部分もあるのではないか。シニア自身のほんとうの意味の自立や福祉につながるのだろうか、というのが私の疑問なのである。

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2014年7月29日 (火)

沢山の物語を背負い、隣家からやってきた、ウメ!、16年、お疲れ様でした

   7月18日に亡くなった飼い犬のウメは、今年の猛暑に会わずに済んだのが、せめての救いだった。

  それでも、梅雨の間の蒸し暑さには、息苦しく見えることもあって、クーラーはドライにすることが多かった。夕飯後、大小の排泄が滞りなく完了していると、あとは、ヨーグルトの水割りか牛乳のお湯割りなどをひとしきり飲むと、私の膝枕で寝込んでしまうとソォーっと膝をはずして布団に寝かせたり、添い寝しながら一緒に眠り込んでしまったりすることもあった。そして、夜更けから夜明けに目を覚ましてゴソゴソし出したとき、抱いて門扉近くのグレーチングや浴室に連れて行くと、用を足すことが多くなった。そのタイミングをのがすと、おねしょシートをはみ出して敷物やバスタオルを汚すこともあった。

   朝6時台には目を覚ますので、抱きかかえて所定の場所に走ると、用を足してくれる。居間の自分の場所に戻れば、すぐに朝ごはんのおねだりが始まり、か細く啼きだすのである。牛肉やキャベツが好きだったのに、昨夏の病気以来、獣医師からは、胃腸が弱っているからと、ささみや魚の白身を勧められた。それらをご飯と煮込んだものをよく食べたし、2種類の胃腸薬も嫌がらずに飲み込んでくれた。ときどきご飯に缶詰のおかずを混ぜたりしたが、連れ合いは、毎日同じものだったら飽きるじゃないか、とウメの代弁者を自認することもあったが、ウメは器を舐めるように平らげてくれたのである。

   後ろ足に力が入らず、寝ていることが多いながら、昼間は、敷物をはみ出し、床に出て、立ちあがろうともがく。シャカシャカと弱った足で床を蹴る音がやり切れず、同じ居間でパソコンに向かうことが多い私は、イライラすることもあった。「もう、どうしてくれるの!」と抱いて敷物の真ん中に寝せるのだが、いつの間にかシャカシャカとやり出すのである。しかし、抱き上げたとき、くたくたの身を私に委ね、なんとも情けない、そしてたより切った目で見つめられると・・・。

    いまは、そんな音も聞こえない。朝起きて、あわてて抱いて走りだすこともない。しかし、最後の夜の、苦しかっただろう吐血、絞り出すような啼き声と荒い息遣いがときどきよみがえる。17年と10カ月、どうもありがとう。安らかにと、祈るばかりである。

7月17日、亡くなる前日の歌会に提出したのがつぎの一首だった。

寝たきりの犬の身を返せるてのひらに触るる骨のかたち寂しむ

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もう、ここまで堕ちた!NHK~7月27日NHKスペシャル「調査報告STAP細胞~不正の深層」

 最初の方は聞き逃してしまったのだが、研究不正をどう防ぐかというテーマは時宜にかなったものと思われた。しかし、大幅に理化学研究所のCBD(発生・再生科学総合研究センター)の取材協力を得たらしい構成で、センター長、研究員、共同研究者などが登場して、検証しているというコメントは発せられるが、核心に触れるものではない、どうでもいい内容に思えた。ネイチャー誌に投稿した論文原稿と直前の論文原稿との図表の違い、特許申請時期との関係の検証には説得力はあったと思う。小保方氏と笹井氏との論文作成上の様々なやり取りがあったことが想像される。ところが、そこで、番組に突如登場するのが、両氏が私的にかわしたメールの一部だった。最初はイメージ映像かとも思ったが、2通のメール、その断りもない。メールを読み上げる男女の声に演技が入っているので再現ドラマ?まさか?メール紹介の前に、たしか「調査のため理研へ提出した書類の中に・・・・」のようなコメントが聞こえたような気がする。どんな書類?誰もが入手できる書類?独自に入手した書類?いずれにしても、個人のメールのやり取り公開は、ドキュメンタリーと言えども禁じ手ではなったのか。しかも、論文作成上のやり取りの核心に触れる内容でもなく、両氏、いわば師弟間のやり取りではないか。強いて言えば、親しさを示す挨拶もあったが、それ以上でも、それ以下でもないのではないか。あまりにも情緒的な状況証拠ではなかったのか。これが公開されなければならない緊急性も、公共性も皆無であったろう。まさにイエローペーパーの関心に過ぎなかったのではないか。

 私は、今回の論文の撤回に至るまでの経過のなかで、小保方氏に味方するわけではないし、笹井氏を擁護するつもりもない。しかし、彼女を取り巻く研究環境の不安定さや検証・査読の杜撰さ、個人のモラルの問題に矮小化されて幕引きがなされることを怖れている。今回の番組では、ターゲットを小保方・笹井両氏に絞って、責任を追及するような全体の流れに危惧を感じた。

 笹井氏が論文作成技術に長けていたとか、企業や行政に対して予算獲得の政治力は抜きんでていた、という関係者のコメントも付されていたが、それを学界の第一人者とか、トップランナーとか褒めそやしてきたのは誰たちだったのだろう。

 

 なお、この番組作成過程で、小保方氏への過剰取材で、心身傷害にまで至り、NHKが謝罪したという事件まで引き起こしている。今回の番組の中で、その事件への言及や謝罪もなかったし、他のニュース番組でも報道はなかったと認識しているが、念のためNHKにも確認したが、これに関する報道はしてないということだった。

 さらに、理研CBD広報に問い合わせてみたが、メールの出所は不明であるとのことであった。あのメールを知りうる人は非常に限られていて、自分たちも不思議に思っているとのこと。 理研からのリークなのか、NHKの強引な取材の結果なのか、いずれにしても、報道されるべき内容ではなく、NHKによるプライバシーの侵害は明きらかであった。

 

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2014年7月16日 (水)

<ストップ詐欺被害!私はだまされない>だって?!そっくり政府とNHKにもお返ししたい

NHK(首都圏)で<ストップ詐欺被害!私はだまされない>が始まる

NHK総合テレビ夕方6時からの全国ニュースのあと、「首都圏ネットワーク」で、331日から「詐欺被害!私はだまされない」のコーナーが新設され、いまでも続いている。「オレオレ詐欺」の類の被害事件が頻発し、その勢いが止まらないらしい。だます手法は日に日に進化し、多くの高齢者たちが被害に遇っている。私の住む佐倉市でも、防災放送は、毎日のように、「不審な電話に注意せよ」との呼び掛けが続いている。被害額は全国で年間500億に上るという。事件の内容をテレビや新聞で知るかぎり、なぜ、そんな言葉に騙されてしまうのだろうと思うし、なぜ何百万円も、ときには何千万の大金をも手放してしまうのだろう、と不思議に思うことが多い。それだけ、言葉巧みに危機感をあおることに長けているのだろうと思う。

番組では、初回「携帯電話の番号が変わった」に始まり、毎回「カバンをなくした」「同僚が行くから渡してほしい」「あなたの口座が犯罪に使われている」「お金が返ってくる」「レターパック」などのフレーズが混じる電話が来たら、まず怪しいから、通報せよ、と直近に起こった実際の事件を例に解説するものだ。このキャンペーンでは、キーワードは繰り返されつつも、実際の事件は、より最近のものに変えられているので、臨場感はある。

その合間には、犯人サイドが悪用する「電話帳」「名簿」「個人情報」「親切心」「劇場型」などへの注意喚起もなされている。それは、それで、被害防止の一助にはなっているのだと思うが、効果はどれほどか。

「シッカリと」「テイネイに」と言ってだますのは誰?

私はといえば、毎回「私はだまされない」のコーナーでアナウンサーが丁寧に説明すればするほど、別の思いが頭をよぎる。政府、とくに安倍首相の記者会見や国会答弁を聞いていると、よくもまあ、次から次へと、国民をだまし続けているな、と思うからである。それ以前ももちろんなのだが、ともかく、一昨年の選挙公約から始まって、少なくとも国民との約束を次から次へと破っているではないか。そして、それを伝えるNHKの報道は、先に報道したこととの矛盾点は何のその、政府の広報に徹するばかりで、公共放送の役割を放棄しているに等しい。

首相が「国会ではシッカリと審議いただき、国民にはテイネイに説明していく」と答えるならば、それはもう「短期間の審議でしのぎ、審議打ち切りや強行採決に持ち込み、国民の疑問を押し切る」と同義といってよい。一度決まったことや国民にとって不都合なことを進めるには、手続きにのっとって「シュクシュク(粛々)と進める」というのも常套手段である。「シッカリと」「テイネイに」「シュクシュクと」がキーワードと言える。昨年の特定秘密保護法の折も衆参合わせて68時間の審議で打ち切り、126日の可決に持ち込んだ。先の71日の集団的自衛権行使容認の閣議決定については、71415日の衆参予算委の集中審議で済ませ、関連法案の改正は、来年の4月以降の一括提案、安保担当大臣新設で一気に片付けようという目論見である。なぜ、来年なのかと言えば、今年の11月沖縄知事選、年末消費税10%への引き上げ判断と日米ガイドライン改訂、来年春の統一総選挙を控えているので、本来ならば、その前に審議が必要なのだが、あえて先延ばしにするのは、公明党や選挙民への刺激をしたくないという策略にも近い。「シッカリと」「テイネイに」は、当たり前のように、どんどん遠のいていく。

そのとき、NHKは

一方、それを報道するメディアは、とくにNHKでは、昨年の特定秘密保護法成立に向けての与野党協議、今回の集団的自衛権行使容認の閣議決定に向けての自公協議の経緯についてのみ、それこそ「シッカリと」「テイネイに」報道したとしか言いようがない。肝心の「特定秘密保護法の問題点は何なのか」「憲法は集団的自衛権を認めるのか」をあっさりとスルーして、検証をしないまま、「客観報道」=「政府広報」を貫く。しかも、この間の中国、北朝鮮、韓国の不穏な政情や領土・領海問題での摩擦などを何回となく詳細に、「シッカリと」「テイネイに」報道することが顕著になり、日本を取り巻く環境への危機感を募らせるのに熱心であった。とくに、政府によるNHK人事への露骨な介入、新経営委員、新NHK会長の就任後の発言は、ことごとく、公共放送の中立・公平の理念を真っ向から崩す内容のものであり、同時に、現に、ニュースにおける報道内容や番組内容の政府広報化への偏向が顕著になっていった。まだ、一部の新聞やテレビ番組がかろうじてジャーナリズムの視点を失わずに健闘するのを目の当たりすると、NHKの堕落ぶりは明らかだろう。

特定秘密保護法が可決されたときも、今回の集団的自衛権が閣議決定されたときも、その後に及んで、たとえば「ニュース7」では、大きなパネルを作製して、武田アナウンサーが、大股で行き来をしながら、ややたかぶった調子で、その問題点を解説し始めるのである。そして担当記者との質疑、これもよく目にするNHKのニュースの光景なのである。与野党協議、与党協議の攻防戦・駆け引きがあたかも問題の焦点であるかのようなすり替えを行うのもいつものことだ。

その駆け引きが「やらせ」であり、国会での「質疑」に至っては

 71日午前中までのギリギリの与党協議というパフォーマンスを見せた「駆け引き」は、筋書き通りの茶番だったことは、ほぼ信じていいのだろう。というのは、620日の『西日本新聞』(「集団的自衛権を追う」)によれば、いわゆる集団的自衛権行使容認の新3要件は、613日の与党協議の会合で、高村自民党副総裁が私案として提出されたことになっているが、実は、その下書きは、北側公明党副代表が、内閣法制局に作成させたものであった、というのである。あとは、お互いの譲歩を示すために小出しにして71日に至ったということである。

自衛権行使「新3要件」公明が原案 自民案装い、落としどころ 

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/politics/article/96159

同様の「事実」は、今日716日の『読売新聞』(「憲法考9」)でも関係者の取材をもとに「北側案は法制局との<合作>」と報じられているのだから、その信憑性は高いとみてよい。とすると、520日から11回の密室の与党協議とは、何であったのか。それを、ことさらに集団的自衛権の焦点であるかのように報じる「ノー天気さ」加減にあきれる。

さらに、714日・15日の衆・参予算委での集中審議における高村議員、北側議員が質問に立ち、首相や横畠内閣法制局長官が答弁するという、その内容の空しさがいっそう際立つのであった。首相は「国民の命と暮らしを守るため」を繰り返すばかりながら、その一方で、新3要件などさえすっ飛ばして、他国の戦闘で石油の供給がストップして、国民の経済生活に支障をきたせば、自衛隊による機雷掃海も可能だといい、後方支援による武器使用も可能だという風に、拡大の一途をたどっている。

それでも、憲法の基本的な理念を変更していないと言い続けるのである。

「政治の現実ってそんなもんだよ」と納得するのが大人の対応?なのだろうか。

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2014年7月 4日 (金)

阿部静枝の若き日の肖像画に出会う~初めての友愛労働歴史館にて

 芝の友愛会館が見つからない

一昨年、友愛会結成100年を記念してリニューアルオープンしたという芝にある友愛会館「友愛労働歴史館」に出かけた。「阿部静枝の資料を集めています」との情報を、ネットで知ったばかりだった。どのくらいの資料を収集しているのか確かめたいと思った。都営浅草線三田駅下車、目指す友愛会館が見つからない。アクセスの地図には三田会館となってはいたが・・・。ビジネスホテル三田会館左手の入り口に「友愛会館」の表示が。事前の事務局長Mさんとの話では、静枝に関する資料は「まだ、それほどでも」とのことだったので、私が持っている、「歌人阿部静枝」関係の図書やコピーなどの一部を持参した。しかし、阿部静枝の歌集や著書、拙著の何冊かと『ポトナムの歌人』などは、すでに所蔵していた。Mさんは、非常勤とのことだったが、資料の収集や展示の責任者であり、その熱意がよく分かった。温厚な語り口で、常設展「日本の労働運動100年」と企画展「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」(2014310日~830日)の解説をしてくださった。Img485 
↑三田会館脇には、惟一館の礎石が遺されていた

 

 友愛会の前身、ユニテリアン教会「惟一館」(1894年)の設計者は、なんと、あのコンドル(18521920年)で、「惟一館」自体は、19455月の空襲で焼失している。再建された友愛会館のビルは、さらに2012年に建て直され、16階の7階までがホテルで8階以上が友愛会館や傘下の組合オフィスが入っているとのことだった。コンドルと言えば、現存のニコライ堂(1891年)、旧岩崎邸(1896年)、旧古河邸(1917)などの設計者として有名な、明治のお雇い外国人である。いまでは、「惟一館」は写真でしか見られないが、Mさんの説明によれば、この和洋折衷の建物は、コンドルの設計の建築物の中ではあまり評判が良くなかったらしい。たしかに神社風の屋根でありながら、二階建てで方形の窓がついていたりする。その隣に、1936年に建てたアパートメントハウス青雲荘と友愛病院を設計したのが、山口文象(19021978年)であったのである。

 「友愛会」って?

そもそも友愛会は、1912年、鈴木文治が、福沢諭吉が招聘した牧師が起こしたユニテリアン教会から出発して、立ち上げた組織で、その後の1921年総同盟結成、戦後復活した総同盟、1964年以降は同盟として、1989年以降は連合として、労働運動の源流とされている。 阿部静枝との関係でいえば、夫の弁護士阿部温知は当初、1922年に犬養毅、尾崎行雄、島田三郎らによって結成された、護憲・普選拡張を推進した革新倶楽部から東京府議会議員に当選したが、1924年には、治安維持法をめぐって分裂解党してしまう。192711月安部磯雄、片山哲らによって結成された社会民衆党に入党、総同盟法律部員として活動、その後も東京府議として地方政治にかかわり、国政にも挑戦するも敗退する。静枝は1928年社会民衆婦人同盟結成に参画、執行委員となり、無産婦人運動の本格的なスタートを切ることになる。その後の無産政党の運動は、さまざまな局面に立つが、社会民衆党は1932年社会大衆党となり、阿部温知は1938年病気で急逝するまで、中央執行委員を務める。静枝は、19407月社会大衆党、社会大衆婦人同盟解散後は、歌人、評論家としての目覚ましい活動が注目された。

 私自身の感覚からいえば、戦後労働運動史の歩みの中で、総同盟・同盟・連合は、社会党右派、民社党・・・、民主党の支持母体となり、労使協調路線を推進してきたと言える。

 

「阿部静枝」って?

 阿部静枝(18991974年)といってもほとんどのひとは知らない。歌人と呼ばれている人でも、歌人阿部静枝を知る人は少なくなった。「歌手のあべ静江なら知っているけど」という人はちらほらいるかもしれない。阿部静枝先生は、私にとって、ご近所に住む、最初に出会った歌人だった。すでに地元、豊島区区議会の議員でもあって、写真は見ていたが、お会いしてはいなかった。母が地元の「豊島新聞」主催の歌会に通い始め、阿部静枝、宮崎白蓮、富永貢らの教えを受けていて、その母の勧めで私の短歌も時折、提出していた。母は阿部先生が選者をされていたポトナム短歌会にも入会していたが、私が大学に入った年、56才で病死した。大学の短歌研究会の先輩にポトナム会員がいたこともあって、翌年、その先輩と阿部先生を訪ね、ポトナム短歌会に入会、結果的に母と入れ替わり、母娘二代で、阿部先生の指導を受けることになった。しかし、その後の私は、阿部先生の周辺に若い人が少なかったこともあり、敬遠気味で、あまり寄りつかなかったというのが正直なところだった。

 にもかかわらず、短歌史あるいはポトナム史をたどるときはもちろん、日本の近代女性史や労働運動史をひもとくと、阿部静枝の名が浮上してくる。19753月号『ポトナム』での追悼号での年譜作成や著作解題以来、細々と調査は続けており、『ポトナム』誌上などでもときどきレポートを続けてきた。最近では、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか―女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 20137月)があり、研究会でのレポートがある(「阿部静枝歌集『秋草』から「霜の道」へ、その空白」新・フェミニズム批評の会Ⅱ 201212月)がある。

 

 「阿部静枝コーナー」の企画が

今秋、友愛労働歴史館の企画展「同盟結成50年(201498日~2015228日)」の開催が決まったという。Mさんの話では、その企画展の中のコーナー展示で、没後40年にあたる阿部静枝を取り上げたいということだった。ついては、静枝の写真や色紙・短冊などがあるとありがたいとのことだった。静枝の肖像写真は、いいものが見つからず、仙台文学館の展示カタログ(『みやぎの杜の文学者たち(開館記念特別展)』 仙台文学館編刊 20095月)の写真から「肖像画」を描かせたといい、その写真を見せてくださった。「エッ、これが若いときの阿部先生!?」と思わず、声をあげたほどだった。もとになったカタログの写真はモノクロで、73で前髪を分け、右の後ろに櫛かんざしがわずかに見え、後ろをどう結っているのかわからない。着ているのは、大きな縞の銘仙のようにも見え、フチなしの眼鏡をかけている。理知的なまなざしと端正な顔立ちが印象的だった。

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↑左が赤松常子、右が阿部静枝、この写真をもとに肖像画が描かれている

 

帰宅後、探してみると

 帰宅後、私も欠かさず参加していた1960年代~70年代前半、ポトナムの全国大会、東京での歌会や出版記念会などの集合写真やスナップの中から阿部静枝を探す。その中で、197312月、郷里石森町の伊勢岡神明社の歌碑修祓の折の「式次第」とスナップの数枚、19749月池袋祥雲寺における告別式の「式次第」とスナップの数枚は役に立ちそうであった。また、残念ながら、阿部静枝の色紙はなかったのだが、ポトナム全国大会が東京で開催された折(九段会館19688月)、五月書房(増田文子)から参加者に配布された静枝筆の短歌染め抜きの「手ぬぐい」がたしか・・・。新品があったようにも思ったが、使い古ししか残っていなかった。「家あればそこにかならず何の木か花咲ける越後国原の春 静枝」とある。さらに洗濯をして、アイロンを当ててみる。ほか、写真のコピーなどを友愛労働歴史館に送ることにした。役に立ってくれればよいが・・・。

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↑1940年7月21日、総同盟解散の日

 

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 企画展「同盟結成50年」

「第Ⅳ部 同盟ゆかりの人々ー阿部静枝 その人と生涯ー」

と き:201498日(月)~20141024日(金) 10001700

ところ:友愛労働歴史館展示室

テーマ:「阿部静枝 その人と生涯―歌人・社会運動家として生きて」

 

 

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