阿部静枝の若き日の肖像画に出会う~初めての友愛労働歴史館にて
芝の友愛会館が見つからない
一昨年、友愛会結成100年を記念してリニューアルオープンしたという芝にある友愛会館「友愛労働歴史館」に出かけた。「阿部静枝の資料を集めています」との情報を、ネットで知ったばかりだった。どのくらいの資料を収集しているのか確かめたいと思った。都営浅草線三田駅下車、目指す友愛会館が見つからない。アクセスの地図には三田会館となってはいたが・・・。ビジネスホテル三田会館左手の入り口に「友愛会館」の表示が。事前の事務局長Mさんとの話では、静枝に関する資料は「まだ、それほどでも」とのことだったので、私が持っている、「歌人阿部静枝」関係の図書やコピーなどの一部を持参した。しかし、阿部静枝の歌集や著書、拙著の何冊かと『ポトナムの歌人』などは、すでに所蔵していた。Mさんは、非常勤とのことだったが、資料の収集や展示の責任者であり、その熱意がよく分かった。温厚な語り口で、常設展「日本の労働運動100年」と企画展「コンドルと惟一館/山口文象と青雲荘」(2014年3月10日~8月30日)の解説をしてくださった。
↑三田会館脇には、惟一館の礎石が遺されていた
友愛会の前身、ユニテリアン教会「惟一館」(1894年)の設計者は、なんと、あのコンドル(1852~1920年)で、「惟一館」自体は、1945年5月の空襲で焼失している。再建された友愛会館のビルは、さらに2012年に建て直され、16階の7階までがホテルで8階以上が友愛会館や傘下の組合オフィスが入っているとのことだった。コンドルと言えば、現存のニコライ堂(1891年)、旧岩崎邸(1896年)、旧古河邸(1917年)などの設計者として有名な、明治のお雇い外国人である。いまでは、「惟一館」は写真でしか見られないが、Mさんの説明によれば、この和洋折衷の建物は、コンドルの設計の建築物の中ではあまり評判が良くなかったらしい。たしかに神社風の屋根でありながら、二階建てで方形の窓がついていたりする。その隣に、1936年に建てたアパートメントハウス青雲荘と友愛病院を設計したのが、山口文象(1902~1978年)であったのである。
「友愛会」って?
そもそも友愛会は、1912年、鈴木文治が、福沢諭吉が招聘した牧師が起こしたユニテリアン教会から出発して、立ち上げた組織で、その後の1921年総同盟結成、戦後復活した総同盟、1964年以降は同盟として、1989年以降は連合として、労働運動の源流とされている。 阿部静枝との関係でいえば、夫の弁護士阿部温知は当初、1922年に犬養毅、尾崎行雄、島田三郎らによって結成された、護憲・普選拡張を推進した革新倶楽部から東京府議会議員に当選したが、1924年には、治安維持法をめぐって分裂解党してしまう。1927年11月安部磯雄、片山哲らによって結成された社会民衆党に入党、総同盟法律部員として活動、その後も東京府議として地方政治にかかわり、国政にも挑戦するも敗退する。静枝は1928年社会民衆婦人同盟結成に参画、執行委員となり、無産婦人運動の本格的なスタートを切ることになる。その後の無産政党の運動は、さまざまな局面に立つが、社会民衆党は1932年社会大衆党となり、阿部温知は1938年病気で急逝するまで、中央執行委員を務める。静枝は、1940年7月社会大衆党、社会大衆婦人同盟解散後は、歌人、評論家としての目覚ましい活動が注目された。
私自身の感覚からいえば、戦後労働運動史の歩みの中で、総同盟・同盟・連合は、社会党右派、民社党・・・、民主党の支持母体となり、労使協調路線を推進してきたと言える。
「阿部静枝」って?
阿部静枝(1899~1974年)といってもほとんどのひとは知らない。歌人と呼ばれている人でも、歌人阿部静枝を知る人は少なくなった。「歌手のあべ静江なら知っているけど」という人はちらほらいるかもしれない。阿部静枝先生は、私にとって、ご近所に住む、最初に出会った歌人だった。すでに地元、豊島区区議会の議員でもあって、写真は見ていたが、お会いしてはいなかった。母が地元の「豊島新聞」主催の歌会に通い始め、阿部静枝、宮崎白蓮、富永貢らの教えを受けていて、その母の勧めで私の短歌も時折、提出していた。母は阿部先生が選者をされていたポトナム短歌会にも入会していたが、私が大学に入った年、56才で病死した。大学の短歌研究会の先輩にポトナム会員がいたこともあって、翌年、その先輩と阿部先生を訪ね、ポトナム短歌会に入会、結果的に母と入れ替わり、母娘二代で、阿部先生の指導を受けることになった。しかし、その後の私は、阿部先生の周辺に若い人が少なかったこともあり、敬遠気味で、あまり寄りつかなかったというのが正直なところだった。
にもかかわらず、短歌史あるいはポトナム史をたどるときはもちろん、日本の近代女性史や労働運動史をひもとくと、阿部静枝の名が浮上してくる。1975年3月号『ポトナム』での追悼号での年譜作成や著作解題以来、細々と調査は続けており、『ポトナム』誌上などでもときどきレポートを続けてきた。最近では、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか―女性歌人起用の背景」(『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年7月)があり、研究会でのレポートがある(「阿部静枝歌集『秋草』から「霜の道」へ、その空白」新・フェミニズム批評の会Ⅱ 2012年12月)がある。
「阿部静枝コーナー」の企画が
今秋、友愛労働歴史館の企画展「同盟結成50年(2014年9月8日~2015年2月28日)」の開催が決まったという。Mさんの話では、その企画展の中のコーナー展示で、没後40年にあたる阿部静枝を取り上げたいということだった。ついては、静枝の写真や色紙・短冊などがあるとありがたいとのことだった。静枝の肖像写真は、いいものが見つからず、仙台文学館の展示カタログ(『みやぎの杜の文学者たち(開館記念特別展)』 仙台文学館編刊 2009年5月)の写真から「肖像画」を描かせたといい、その写真を見せてくださった。「エッ、これが若いときの阿部先生!?」と思わず、声をあげたほどだった。もとになったカタログの写真はモノクロで、7・3で前髪を分け、右の後ろに櫛かんざしがわずかに見え、後ろをどう結っているのかわからない。着ているのは、大きな縞の銘仙のようにも見え、フチなしの眼鏡をかけている。理知的なまなざしと端正な顔立ちが印象的だった。
↑左が赤松常子、右が阿部静枝、この写真をもとに肖像画が描かれている
帰宅後、探してみると
帰宅後、私も欠かさず参加していた1960年代~70年代前半、ポトナムの全国大会、東京での歌会や出版記念会などの集合写真やスナップの中から阿部静枝を探す。その中で、1973年12月、郷里石森町の伊勢岡神明社の歌碑修祓の折の「式次第」とスナップの数枚、1974年9月池袋祥雲寺における告別式の「式次第」とスナップの数枚は役に立ちそうであった。また、残念ながら、阿部静枝の色紙はなかったのだが、ポトナム全国大会が東京で開催された折(九段会館1968年8月)、五月書房(増田文子)から参加者に配布された静枝筆の短歌染め抜きの「手ぬぐい」がたしか・・・。新品があったようにも思ったが、使い古ししか残っていなかった。「家あればそこにかならず何の木か花咲ける越後国原の春 静枝」とある。さらに洗濯をして、アイロンを当ててみる。ほか、写真のコピーなどを友愛労働歴史館に送ることにした。役に立ってくれればよいが・・・。
↑1940年7月21日、総同盟解散の日
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企画展「同盟結成50年」
「第Ⅳ部 同盟ゆかりの人々ー阿部静枝 その人と生涯ー」
と き:2014年9月8日(月)~2014年10月24日(金) 10:00~17:00
ところ:友愛労働歴史館展示室
テーマ:「阿部静枝 その人と生涯―歌人・社会運動家として生きて」
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