91年前の9月、身近な町でなされたこと~関東大震災でいわれなく殺された人々
91年前の9月、身近な町でなされたこと
3・11から3年半、1923年関東大震災から91年になる。9月7日、隣町の八千代市高津の観音寺での「朝鮮人犠牲者、追悼・慰霊祭」に参列した。昨年90年のとき、連れ合いが参列しているので、お知らせも届き、誘われた。
京成八千代台駅からバスで数分の高津山観音寺は住宅街に接し、やや高台にある。早朝が雨のこともあって、今年は本堂での追悼・慰霊祭となり、椅子にも座ることもできた。主催者のひとつ「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」代表の吉川清さんの挨拶に続いて献花や焼香が行われた。こうした慰霊祭は1983年から行い、1999年「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」をこの観音寺に建ててから16回目ということであった。きょうは、昨年就任のA市長の参列もあって、これまでにないことだとの報告もあった。八千代の場合、犠牲となった朝鮮人は、当時の陸軍演習場にあった東習志野捕虜収容所(現在、東習志野保育園)から、「払い下げ」と称して地元の人々に渡され、地元の人の手によって殺されたという異常な事件が、証言や記録などで明らかになり、知られるようになった。強制的に加害者にさせられたという点で被害者となった地元に人々の衝撃も大きく、長い間、沈黙が続くことになった。
高津、観音寺の慰霊碑
本堂での次第が済むと、まず、観音寺境内の韓国式鐘楼と慰霊碑へと向かった。鐘楼は1985年に「関東大震災韓国人犠牲者慰霊の鐘を送る会」が、韓国からの鐘や建材、そしてやってきた職人さんによって建てられた。「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」は地元高津区の人々と観音寺、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会の三者で建てられた。1923年9月7日に6人の朝鮮人を引き渡され、演習場に接するなぎの原での惨劇となった後、埋葬され、戦後、地元の方々と観音寺住職によりひそかに供養されていた。
むくげの花が咲いていた
韓国式の鐘楼
一本松の「無縁仏之墓」
高津、観音寺での慰霊祭のあと、参列者は、実行委員会の方の車に分乗させていただき、墓地・慰霊塔めぐりに出発する。まず、最初に訪ねたのは、大和田新田447番地、296沿いのおかざき外科前にあった小さな「無縁仏の墓」であった。実行委員会お世話役の大竹さんは、大和田小学校時代に、大震災当時小学校3年だった阿部こう先生から、「9月10日頃、役場から3人の朝鮮人引き渡しの通達を受け、3人が路上で針金で縛られているのを見た」などの証言を聞いたそうだ。それ以来、大竹さんもこうした事実を後世に伝えていかねばと思われたそうだ。この辺は一本松と呼ばれていたらしいが、遺骨もないまま、何の説明書きもないまま、地元の人々によって供養が続けられているという。車の往来も激しく、多くの人が知らないまま通り過ぎてゆく。
お参りしている人の背後は296の往来がせわしい
大竹さんの話をきく参加者、この日、千葉日報の記者とカメラマンも取材で一緒に巡った
萱田下、長福寺「震災異国人犠牲者 至心供養塔」
296と16号線の交差点近くの長福寺、1983年、村のもみよ共同墓地が宅地造成にかかったとき、地元の君塚国治さんの尽力で、3人の朝鮮人の遺骨を、この長福寺に改葬したそうだ。いまその共同墓地跡には超高層のマンションが建ち、お寺を見下ろしている。君塚さんは、改葬にあたって、村の人々に発掘やその後の供養について説得したという。その努力のあとは、供養塔碑面にある「異国人」が端的に示していよう。君塚さんは、供養塔の隣のお墓から見守っているようだった。
村の共同墓地もみよ墓地からの改葬であった
萱田上、中台墓地「無縁供養塔」
最後に訪ねたのが、八千代市民会館横の中台墓地だった。広い駐車場の脇が墓地への坂道になっている。「大震災の数日後、村の半鐘がなり、半鐘の下には一人の朝鮮人が縛りつけられていて、その坂道を上って墓地に連れて行かれた。墓地では目隠しをされて松の木に縛られていて、すでに穴が掘られていた」と当時小学校4年生だった女性が証言した。昨年亡くなられたそうだが、1995年には、地元の有志の方々と、墓地の中央に大きな「無縁供養塔」を建てられたが、その碑の裏には、「中台墓地関係者一同」としか記されていないのは、地元の方々の苦渋が見られる。
事件の経緯や供養塔建立の経緯には触れることはないが、
地元の人々の気持ちはどう引き継かれていくのだろう
慰霊碑の巡拝に参加してみて思うのは、警察や役場が組織的に動いて、自警団に朝鮮人を虐殺させたり、引き取らせて市民に手を下させたさせたりしたことについて、誰も責任を取ってこなかったことである。そして、やむにやまれず、当時の関係者や遺族、地元住民、研究者らが追悼や慰霊の気持ちに突き動かされて、それぞれさまざまな方法で、活動しているのが現況なのだろうと思う。しかし、年が経つほどに、関係者は高齢化し、亡くなっていく。今すぐにでも自分に降りかかってくる危機かもしれないという自覚をもって、真相究明と過ちを繰り返さない覚悟が必要だと思った。いま各地で、こうした慰霊碑や記念碑の撤去や解説の書き直しなどを迫る勢力が台頭してきているからこそ、と思うことしきりであった。
日本弁護士会は
日本弁護士会は、2003年8月、ある虐殺事件に関する人権救済申立事件について調査した結果、内閣総理大臣小泉純一郎あてに「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(日本弁護士連合会人権擁護委員会2003年7月)を付して、勧告書を提出している。その趣旨はつぎの通りだった。
1、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、 遺族、および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、 その責任を認めて謝罪すべきである。
2、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすべきである。
国立歴史民俗博物館では
今年の3月11日から東日本大震災3年目の企画展示「歴史に見る震災」においても、震災直後に朝鮮人・中国人と誤認された日本人、監視対象の社会主義者無政府主義者らの虐殺事件が各地で発生したことに触れるパネルと資料の展示がなされていた。下記のブログ記事で指摘のように、主として官庁資料による検証に過ぎなかった。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/05/post-1faa.html
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