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2014年9月30日 (火)

これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(3)~敗戦後の村岡花子は、何をしたか

 この記事を書いているさなかに、中島岳志氏のツィッターで、ドラマ「花子とアン」の史実との違いを、花子や宮崎龍介が執筆した文献の文言により丹念に検証しているのを知った。説得力のある発言で、論文として、ぜひまとめたものを読みたいと思っている。それらのツイートをまとめてあるサイトがあったので、網羅的なのかはわからないが、下に紹介しよう。私は、いま手元の資料だけでの作業なので、少し心細いが、続けてみたい。

http://togetter.com/li/715037

http://togetter.com/li/716573

http://togetter.com/li/702469

 

日本進歩党って、どんな党だったのか

 村岡花子が日本進歩党(19451116日~1947331日)結成時に婦人部長に就任していたことは『近代日本婦人問題年表』(ドメス出版 1988年)で知った。この前後には、日本社会党で赤松常子が、日本自由党で吉岡弥生、日本共産党で野坂竜が婦人部長に就任している。この日本進歩党は、小磯・米内内閣傘下の大日本政治会の町田忠治らを中心に結成されたが、最も反動的な戦争協力者たちの根拠地とされ、公職追放によって打撃を受け(『日本近代史辞典』東洋経済新報社 1958年)、1947年には日本自由党離脱組などと合流、日本民主党となっている。また、花子は、同時に、厚生省のリードで、市町村の婦人会を束ねるべく、1945116日に日本婦人協力会(委員長宮城タマヨ)が立ち上げられ、花子は、吉岡弥生、山高しげりらと共に参加している。しかし、メンバーの大部分が大日本婦人会の幹部が引き継いでいたので、批判もあって、翌1946116日に解散に至っている。ここには、戦時下の言動と相通じるものがある。

NHKとの深い縁

放送、NHKとの関係でいえば、敗戦直後の823日には「少国民の時間」は復活、12月より「仲良しクラブ」になり、「子供の時間」の名称が復活するのは1948年からである。花子は、19461月に、ラジオの子ども向け特別番組に出演した。ドラマでも、GHQの担当者の無礼を諌め、英語で渡り合う場面となっていた。その真偽のほどは分からないが、1945922日にはGHQのラジオ・コードによる検閲が開始し、927日には日本政府による検閲は廃止されていた。CIE(民間教育情報局)とCCD(民間検閲支隊)は、東京放送会館内に置かれ、CIEは放送全般の指導を、CCDは番組の検閲を行っていた。1949618GHQは、放送法案審議を指示、19491018日にはCCDによる検閲を廃止している。

政府は、その年194912月、電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)を国会に上程した。その審議の過程で、195028日の衆議院電気通信委員会公聴会で、花子は、評論家の肩書で公述人となっている。議事録を読むとかなりの長文なのだが、花子は「家庭の主婦で、家庭の仕事の合間にものを書いている者」との自己紹介の後、若干の不安と疑問を持ちながらも法案には賛成している。そのなかで、法案は、日本では未知に近い商業放送への研究が足りないのではないかという懸念を示している。アメリカの友人たちに拠れば、その騒音に悲鳴をあげている言うくだりもある。これは現在の放送実態を予見しているかのようでもあった。さらに、NHKには不偏不党、公平無私、多種多様さが要求されるけれども、経営委員が国会の承認を必要としているが、「多数党のみが国民の意志代表ではなく、少数党の中にもまた、相当数の国民の意志が宿っていることに思い到」る、と公述している。この点をズバリ指摘しているのが、公述人の一人、川島武宣東大教授の発言だった。川島は、経営委員を内閣総理大臣の任命後、国会の承認が必要となると、言論機関が多数党の支配下に置かれることになって根本的に憲法の精神に反する」と明言していたのである。二人の公述人の危惧はまさに的中し、現在の首相やNHK会長に聞かせたい発言でもある。

もっとも、ここで、私の疑問なのだが、花子が、この公述人となった時期は、短い期間ながらNHKの理事であったという事典の記述もあったので、放送博物館に確かめると、194912月の理事名簿にはあるが、翌195012月の名簿にはないということであった。 

社会的進出の意味
 
一方、同じ頃1946131日憲法研究委員会に田辺繁子と出席したとの記述が上記『年表』にある。ここでどんな発言をしたのかは、今後調べなければならない。この委員会は、当時、東京大学南原繁総長の発案で学内に立ち上げられ(委員長宮沢俊義)、独自の憲法改正案を提示するつもりだったが、出遅れてしまった感があって、36日には、政府より憲法改正草案要綱、417日には憲法改正草案が公表されたので、修正案検討に入ったという。

19463月には、アメリカ教育使節団が来日したが、この際、花子はその語学力で、文部省嘱託となって、教育改革に尽力している。 さらに夏に入ると、第一次吉田茂内閣は、憲法改正草案要綱に沿って73日、臨時法制調査会を設置、711日に第1回総会を開き、司法省は、79日、司法制度審議会を設置、712日に第1回総会を開いた。調査会の第3部会(司法制度)委員83人と司法制度審議会は同一とし、同じ会議体が二つの顔を持って進められることになり、村岡花子、久布白落実、武田キヨ、村島喜代、榊原千代、河崎なつは司法制度審議会第2小委員会(民法・戸籍法など改正)のメンバーとなっている。戸主権、家督権廃止に賛成の意見を述べたとの記述がある。 

 その後も195264日、公明選挙連盟を結成、市川房枝、坂西志保らと理事を務める。19531218日、設置が閣議了承され売春問題対策協議会(会長山崎佐)では、花子が副会長を務め、女性委員として久布白落実、山高しげり、平林たい子が就任し、様々な曲折があり、ザル法とも言われながら1956524日売春防止法が成立している。1955930日、新生活運動協会(会長前田多門)では、奥むめお、山高しげり、市川房枝らと役員を務めている。

こうした社会的な発言の場には、戦時下の銃後支援に積極的に参加、ひたすら翼賛活動にまい進した女性指導者たちが多く引き立てられていった。その戦時下の活動の責任が曖昧なまま、敗戦後は、男女平等、女性の地位向上のためにその「能力」を発揮していく過程が見られる。村岡花子もその一人であることは確かなようだ。敗戦を境に、戦時下の体制迎合をただちにGHQに乗り換えて協力し、やがて、日本が独立し、55年体制に入れば、大した抵抗もなく取り込まれてゆく知識人や各界のリーダーの多くを見ていると、現代も余り変わってはいないのではの思いがよぎる。

まだ色々と
 
なお、「村岡花子」のキーワードで国立国会図書館の目録を見るだけでも、いろいろなことがわかってくる。敗戦後から晩年に至る、花子の翻訳活動には、目を見張るものがある。『赤毛のアン』が三笠書房から出版されたのは19525月、敗戦後からそれまでの間にも、数多くの創作集とともに翻訳書を出版している。ドラマでは、『赤毛のアン』出版の苦労話が強調されているが、事情は少し違っているのではないか。結局、LMモンゴメリの「アン」シリーズに限っても、訳本は16冊にも及び、カナダ文学の紹介に大きく貢献したことになる。

ところが、今回知ったことなのだが、村岡花子の”ANNE OF GREEN GABLES”の訳出には、いろいろな疑問が早くより指摘されていたらしい。つぎの2冊も読んでみなければならない。

・山本史郎:東大の教室で『赤毛のアン』を読む 東京大学出版会 2008

・菱田信彦:快読『赤毛のアン』 彩流社 2014

また、『赤毛のアン』出版の陰の功労者であったという、三笠書房の編集者小池喜孝(ドラマでは小泉?)が、民衆史掘り起しに貢献した北海道の歴史研究者、小池喜孝であったことにも驚いた。知らないこともたくさん知ることになった。

次回は白蓮について書いてみたい。(つづく)

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2014年9月27日 (土)

これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(2)NHK「花子とアン」は今日が最終回でした

戦時下の花子は何をしていたか

 この朝ドラ「花子とアン」全体については、感想は後で述べたいが、この一連の記事を書いているさなかに、ネット上で見つけたのが、昨日の記事でも紹介した「事実とテレビ小説の違い」というサイトだった。この一覧をみていて、そうだったのかと思うことも沢山あった。ぜひ一度ご覧になってください。私は、網羅的にその違いを書くことはできないが、自らの関心で気づいた点を指摘しておきたい。

◇事実とテレビ小説との違い~実在した村岡花子とNHK連続テレビ小説「花子とアン」の花子の違い

http://chihojichi.web.fc2.com/NHK-HANA-ANNE.html

 

まず、1941128日の開戦後の花子に焦点を合わせて見てみよう。1941128日(月)夕方が「コドモの新聞」が受持だった村岡花子は、当時のことを戦後になって、「その朝放送局から電話があって『今晩は休んで貰いたい』と言って来た。その夜の『コドモニュース』は勇ましい(?)男の声で伝えられた。そして、私は私自身の持っていた理由から、辞表を提出し、斯くて世間に面した私の家の窓は閉じられたのであった」と記している(「世間に面した窓」『放送』19475月)。

朝ドラでもそのような展開で描かれていた。 花子は、「これ以上戦争のニュースを子どもたちに伝えたくない」からと番組を降板、なぜラジオの仕事を辞めたのかを娘に問われて「国と国とは戦争しているけれど、敵の国には私の大切な先生や友達がいるから」と説明していた。さらに、ドラマに沿って、花子が、「ラジオのおばさん」を離れた後、「世間に面した窓」はどのように閉じられたのかを追ってみよう。

近所の少年たちに「非国民」といわれて、村岡家の窓に石を投げられた。花子の言動が原因だと告げられる(98日放送)。空襲が激しくなれば、後の「赤毛のアン」の原書と辞書を持って防空壕に逃げ、194411月の空襲で焼け残った家の書斎でも翻訳に専念する。さらに、地元の大日本婦人会の面々は、花子には敵国に友だちがいてスパイではないかと、家の中に上がり込み、洋書を燃やせと迫る(912日)。「平和を待つのではなく、このいまこそ」と翻訳に打ち込み、「曲がり角の先には必ず一番良いことが待っている」と信じて、「何十個の爆弾が落とされようと翻訳は完成させる」と覚悟を述べ(915日)、敗戦を迎えることになる。さまざまな苦難にもめげず、夫の村岡と協力し合って、「赤毛のアン」の翻訳に専念していたことが、繰り返し強調されていた。

そして今日の最終回でも、「赤毛のアン」がベストセラーになり、花子ゆかりの人々が家族と共にあちこちで読み聞かせ、耳を傾ける光景が続く。出版記念会を抜け出して、はや「赤毛のアン」続編の翻訳に取りかかっているところで終る。いわば、つねに敵役でもあった作家の宇田川にさえも、敗戦後、筆を折っていたが、「あなたにではなく『赤毛のアン』のアンに励まされ、書く気になったわ、邪魔しないで」と言わせての大団円であった。

このドラマの花子は、「ラジオのおばさん」を辞めた経緯、英語の本をたくさん持っていたり、外国人の友だちがいたりするので、「非国民」とか「スパイ」とかの非難を受けたことなど、いわば戦時体制の中では、もっぱら「被害者」に扱われていることだった。

ところが、村岡花子の実際は、どうだったのだろう。とくに、社会的活動に焦点を当ててみると、非国民やスパイのそしりを受けながらも、ドラマで強調するような「翻訳だけに専念」していたとは思えず、むしろ、体制へ積極的にかかわり、翼賛的な活動が展開されていたとみるべきだろう。その一端を紹介してみたい。

 

前述のように、花子の随筆・評論関係の出版も盛んであったが、創作集として『村岡花子童話集1年・2年生』(童話春秋社 1940年)、『たんぽぽの目』(鶴書房 1941年)などもあり、翻訳にも『母の生活』パール・バック著 第一書房 1940年)、『家なき天使』方洙源著 那珂書房 1943年)がある。

また、長谷川時雨による自由でインターナショナルな女性文芸雑誌『女人芸術』(19287月~19326月)には、多くの作家たちが結集し、多くの新人を輩出したが、花子は、31号<翻訳特集>(19301月)にAE・コパード原作「混沌」の訳を発表、同じく長谷川時雨により立ち上げられた「輝く会」のリーフレット『輝ク』(19334月~194111月)にも登場、兵士や遺族の慰問活動や銃後支援活動が中心となってゆくなか、花子は、慰問文集の一つ『海の銃後』(19411月)に「時局と子供」を寄稿している。ここでは、子供の日常に、「意外に<非常時意識>が幼な心にしみ込んでゐるのに、大人の方がびつくりした」とか、町内での出征軍人見送り時の大人たちの次第を真似する愛らしさ、とかのエッセイであった。

1942618日に発足した日本文学報国会は、役員・事務局のもと、8部門、7委員会によって構成され、その中の一つが女流文学者委員会であった。日本文学報国会主催による第1回の大東亜文学者大会(1942113日~10日)では、女性としては吉屋信子と花子が日本側議員として参加した。そこでの花子の発言は、お互いの魂が触れあい、文学を理解するためには、子どもの頃から「大東亜精神を築きあげるべき」で、それには「言葉の習得」が必要であるから、これまで「西洋語」を介して理解し合ってきた「東亜の民族」の相互理解のために「日本語習得」を要望するものであったという(岡野幸江「大東亜文学者大会のトップレディたち」『女たちの戦争責任』東京堂出版 2004年)。194326日女流文学者委員会の第1回総会が開かれ、役員が発表された。委員長吉屋信子、委員23人、ちなみに歌人では、阿部静枝、今井邦子、斎藤史、四賀光子、中河幹子、若山喜志子の6名、花子は議長を務めている(櫻本富雄『日本文学報国会 青木書店 1995年)。なお、日本文学報国会の機関誌『文学報国』に「貯蓄について」(231944420日、「疎開児童~一人の母の眼で」(441945110日)が収録されている。44号は「戦ふ女性」特集で大田洋子、城夏子、阿部静枝、永瀬清子、江間章子の6人が寄稿していた。前年の夏に「学童疎開先の子どもたちの様子を放送した」ことをマクラにしていることから、日本放送協会とは、その後、折り合って、出演していたらしい。復刻版では、活字がつぶれてやや読みにくいのだが、学童疎開生活の現実の厳しさを見て、寮母や教師の休息や送り出す母親の工夫などが提案されていた。

ドラマのなかの村岡花子とこの現実との乖離は、余りに大きい。というより、家に石を投げられたとか、スパイと疑われたとかいう事実は、身内の著作にもない。上記のような、花子の発言や書いたものを無視、あるいは、隠蔽するだけではなく、さらに事実とは真逆の思想の持ち主として描いたことになりはしないか。たった、70年前を生きた人間の言動が、こうも捻じ曲げられてしまっていいのだろうか。

 

 

 

 

 

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2014年9月26日 (金)

これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(1)NHK「花子とアン」が明日で終る

 今年331日から始まった朝ドラ「花子とアン」、いま、なぜ村岡花子?との思いで、ときどき見ていたところ、視聴率が高いと評判のようだった。それも、わき役だったはずの柳原白蓮(ドラマでは嘉納蓮子)と宮崎龍介の出奔劇が大いに影響しているらしい、とのことであった。新聞や週刊誌でも、またネット上ではさらにさまざまな記事が登場するようになった。とくに戦時下の花子や白蓮に触れた資料をメモしておきたい。

 

◇「花子とアン」とその時代142014427日、29日、55日、10日)

ブログ「峡陽文庫」http://kaz794889.exblog.jp/21900659/

 今週の本棚「花子とアン」の世界(鼎談・高畠勲・岩間陽子・中村桂子)

毎日新聞2014831

 松尾羊一:「花子とアン」によせて~ラジオと時代

 赤旗201497

 みんなのアンテナ「花子とアン」いよいよ最終盤~戦時場面の多くの感想

  赤旗2014920

 古澤有峰:「花子とアン」から考える、文学者の戦争協力1~3 (2014 84日、15日、17 )

ブログ「古澤有峰Official Web Site

http://www.yumifurusawa.com/info/2014/0817052306.htmlほか

 対談・村岡花子と短歌(佐佐木幸綱・村岡恵理・司会栗木京子)  

   短歌 20149

 事実とテレビ小説との違い~実在した村岡花子とNHK連続テレビ小説「花子とアン」の花子の違い
  
http://chihojichi.web.fc2.com/NHK-HANA-ANNE.html 

 

  私は、戦時下の花子と白蓮がどう描かれるのかに着目していた。89日の拙ブログ記事でも触れたが、終盤9月半ばから朝か再放送かのどちらかを見るようにしていた。
 ドラマがいくらフィクションだといっても、村岡花子の名をかたるドラマである以上、やはり事実、史実に忠実であってほしい。都合のいいところだけをつなげて、その実在の人物への称揚に繋げるような作り方や宣伝の仕方は慎まなければならないはず。「坂の上の雲」でも、NHKは、事実とも、小説とも違う実在の人物の名をかたってドラマを作り上げてしまった。視聴者がドラマで歴史を学んだような錯覚を持つことがコワいのだ。 

 

 内閣情報局は、花子をどう見ていたか

  すでにこれまでも何度か使っている『最近に於ける婦人執筆者に関する調査』(内閣情報局第一部作成 19417月)という資料のコピーが手元にある。表紙には「部外秘」の印がある75頁ほどの冊子。その作成目的は、19405月号より19414月号までの八大婦人雑誌における主な婦人執筆者に就き量的・質的の2方面から考察し、輿論指導上の参考資料として、調査した、と記す。さらに凡例では「長期戦下銃後の一端を担ふ婦人に対し或程度の指導力を持つと認めらるる婦人執筆者群の動向に関して調査し」たとある。調査対象は、発行部数順に、主婦之友122万、婦人倶楽部98万、婦人公論19.3万、婦人之友8.5万、新女苑6.4万、婦人朝日35万、婦女界2.9万、婦人画報1.8万の八誌である(発行部数は19406月調査)。執筆者を歌人、作家、評論家と分類し、村岡花子は、評論家に分類されている。評論というジャンルをこえての総登場回数で多いのは、宮本百合子22、山川菊栄19、羽仁もと子19、阿部静枝11、奥むめお9、竹内茂代9などである。この調査対象期間において、村岡花子は、婦女界2(座談会2)、新女苑1(雑文)、婦人朝日1(雑文)の4回(筆者の調査では、さらに婦人倶楽部1がある)にとどまる。この資料の執筆者は花子について「恐ろしく人付合の良い常識の発達した人である。此の如才のない常識的な面が何時の間にか彼女を有名人にしてしまつた観(ママ)があるが、有名になるだけ、思想の貧困さが目立ち、長所がかえつて鼻に突くやうに思はれる。有名に堕する事なく動いて呉れれば、誰よりも好ましい人であらう」などと評している。さらに雑誌の出版社の評判も採録され、一社だけのコメントが付され「何よりも話し上手なので、座談会などでは座持ちがよく、一人喋る感がある。明るく、気さくで、お人よしなので、雑誌社が使うのには便利な人」と記されている。  

 

 花子は、同時期の調査対象外の雑誌、たとえば、『少女之友』では連載「女学生論」があり、『逓信協会雑誌』には「女性の声」という投書欄の選者を務め、『家の光』『公論』『国民六年生』『ホームライフ』『愛育』『家庭』など、多方面への寄稿が散見できる。さらに、1941年には『心の饗宴』(時代社)、1942年には『母心抄』(西村書店)、『私の隣組随筆集』(翼賛図書刊行会)、『母心随想』(時代社)などが立て続けに単行書として刊行されるという活躍ぶりであった。当時の出版用紙は、内閣情報局の監督下に194012月に設立された日本出版文化協会が、1941621日施行の「出版用紙割当規定」により、出版事業者が提出する企画届をもって査定をしていた。内容的にも、その基準に合致していたと判断されていたことになる。少なくとも、内閣情報局の一員、メディアの担当者が、上記のように花子を見ていたことは確かであり、彼女の一面を突いてはいないか。

 さらに、花子の「質的考察」においては、住所・電話番号・学歴などの個人情報と共に、「放送局嘱託」となっている。この資料では触れていないが、1932年日本放送協会は、女子アナウンサーを募集して、37人の中から、2人が嘱託で採用され、その一人が花子だったのである。193261日から「子供の時間」に全国向けに「コドモの新聞」コーナーが新設され、1935年からは関屋五十二(19021984)と組んで、原則的に一週間交代で担当していた。19411130日まで、いわば太平洋戦争開始直前まで続けられていた(『日本放送史・上』239頁、53840頁。頁により記述に食い違いがあったので、放送博物館に確認)。なお、19411月からは「子供の時間」は「ラジオ少国民の時間と名称が変わっている(『日本放送史・上』365頁』)。

ちなみに、上記調査で登場回数ベストワンの宮本百合子については、上記資料の「考察」に、つぎのような記述がある。いかに理解すべきか、興味深いものがある。

「中條百合子の名を以つて知られ、よし理論の立役者でないにせよ、最も華々しく文芸を通して実際運動に携はり、最後迄、踏みとどまつた一人である。(中略)中條から宮本に改名したのも、此の夫君の検挙後の事であれば、尚更、問題視されて良い。元来、作家としてプロ文壇に登場した人であつたが、早くから天才少女として知られ、」てゐるだけに、評論に、随筆に、批評に、其の存在は、思想の貧困を喞つ女流言論界に今尚異彩を放つてゐる。此の多方面な才能は現時の婦人雑誌界に於ける彼女の地位を不動のものとし、極めて便利な、重宝なる人としたのであるが、それだけに婦人層に与へる影響力は、其の大半が無批判を極める層であつてみれば、心理的にも大きく、彼女の才能のためには残念ではあるが、自重がのぞましい」 


 また、山川菊栄についてはつぎのようにも記されている。

   「昔日、境真柄、伊藤野枝等と「赤爛会」を組織し、左傾思想の宣伝をなし、一つは山川均の夫人なる故もあらうが、此の方面に厳然たるものであり、其の記憶が今尚生々しいものであるだけに、時局下の言論界が此の人の再登場を促した事は、たとひ、其の転向が完璧のものであつても、軽視さるべきでない。思想の洗練され円熟の境に達してゐる事は、驚くべきであるが、それだけに、悪意をもつてすれば、偽装の時局便乗の疑点も感ぜられ、昔日の筆法を残すと思はれるのは此の人のためにも残念である」

 

 

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2014年9月20日 (土)

朝日新聞バッシングの気持ち悪さと恐ろしさ

 いま、私は家で、4つの全国紙と業界新聞など2紙に目を通している。主に全国紙なのだが、いまこれらマス・メディアの間で、メディアの問題として、連日報道されているのは、朝日新聞の従軍慰安婦に関する吉田証言誤報と福島原発事故に関する当時の現場責任者だった吉田調書誤報問題である。さらに、新聞で目にする週刊誌―週刊文春、週刊新潮、週刊ポスト、WILL・・・、文芸春秋などの広告である。これでもか、これでもか、朝日をつぶすぞとばかりのバッシング記事である。私など、あの文言を読むと、生理的な嫌悪感さえ感じる。この罵詈雑言の、行儀の悪さの記事広告は、目を覆うばかりである。私は先のブログ記事「安倍首相記者会見の気持ち悪さ」(201457日)でシナリオ通りの行儀の良すぎるお通夜みたいな、いまの首相記者会見の不気味さを指摘したが、これとは対照的に、これらの週刊誌は、メディア同士の商売がたきとなると、ああも攻撃的になって、自らの醜態をかえりみない事態になるのか。<行儀の良い・悪い>を使い分けて、時の権力にすりよる姿勢が露わである。 

いまの政治状況の中で、原発事故からの復興がママならなず、沖縄での基地の固定化・分散化が見えてきたなか、特定秘密保護法などでの情報管理・統制が厳しくなる一方、集団的自衛権行使容認、原発再稼働・原発輸出、消費税再増税、TPP参加によるアメリカ従属の規制緩和・・・と、首相の外遊にぞろぞろ従いていく経済界の面々たちには、さまざま寄与できたとしても、大多数の国民にとっても、メディアにとっては、その命や暮らし、存続さえ脅かされようとしている。攻撃の矛先はいまの政府にあるというのに、攻撃の相手を間違えてはいないのか。メディアは自分で自分の首を絞めていないのか、の疑問に立ち至る。はや、NHKや全国紙の一部には、政府広報と化しているものがある。実際のところ、肝心の週刊誌の売り上げは増えているのだろうか。

 朝日新聞の従軍慰安婦問題における「吉田証言」の信憑性は、訂正記事にある事実よって崩れたのだから、遅きに失したことは否定できない。これまでの経過をみても、すでにその信憑性には疑問が投げかけられていたのだから。しかし、この吉田証言の虚偽によって、「従軍慰安婦」の強制性自体が否定されるものではなく、他の記録や証言に拠っても明らかである。首相は、朝日の記事で日本の国際的信用を傷つけた?と言っているそうだが、国際的信用を傷つけているのは誰?IOCで福島の原発事故による汚染水を完全にコントロールされていると言ってから1年も経つのに、コントロールの決め手がない。首相の靖国参拝には、アメリカまでを失望させ、「河野談話」を見直すと言ってみたり、止めたと言ってみたり、北朝鮮の拉致被害者の救出にあたっては、その場限りの全員救出をうたうだけで外交的な努力がなく、北朝鮮の攻勢に右往左往しているばかりではないか。今回の内閣改造では、その右傾化が拍車をかけ、ナチス礼賛団体との親密性が国際的にも拡散しているのが実態だろう。

そんななかで、メディアは、上記、現内閣の国際的信用の失墜について独自の調査と見解をどこまで報道できたのか。せいぜい、「識者」や「専門家」を自社の都合にあわせて起用し、「バランスよく」発言をさせて、お茶をにごす程度ではないのか。その発言者たちも、そのメディアに都合のいいところを切り取られて、まるっきり反対のコメントとして報道されても、抗議をするでもなく、メデイアへの頻出を自らのステイタスのごとくに大事にしていることがわかってきた。ああ、これが<翼賛>なんだな、と思わせる。言論弾圧とは、ある日、突然、土足で家に上がり込んで、蔵書を持ち去られたり、身柄を拘束されたりすることだけを意味するものではなく、じわりじわりと、ときに笑顔でやってくる恐ろしさは、歴史からも多くを学ばねばと思う。

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2014年9月16日 (火)

91年前の9月、身近な町でなされたこと~関東大震災でいわれなく殺された人々

91年前の9月、身近な町でなされたこと

 311から3年半、1923年関東大震災から91年になる。97日、隣町の八千代市高津の観音寺での「朝鮮人犠牲者、追悼・慰霊祭」に参列した。昨年90年のとき、連れ合いが参列しているので、お知らせも届き、誘われた。

 京成八千代台駅からバスで数分の高津山観音寺は住宅街に接し、やや高台にある。早朝が雨のこともあって、今年は本堂での追悼・慰霊祭となり、椅子にも座ることもできた。主催者のひとつ「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」代表の吉川清さんの挨拶に続いて献花や焼香が行われた。こうした慰霊祭は1983年から行い、1999年「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」をこの観音寺に建ててから16回目ということであった。きょうは、昨年就任のA市長の参列もあって、これまでにないことだとの報告もあった。八千代の場合、犠牲となった朝鮮人は、当時の陸軍演習場にあった東習志野捕虜収容所(現在、東習志野保育園)から、「払い下げ」と称して地元の人々に渡され、地元の人の手によって殺されたという異常な事件が、証言や記録などで明らかになり、知られるようになった。強制的に加害者にさせられたという点で被害者となった地元に人々の衝撃も大きく、長い間、沈黙が続くことになった。 

 

高津、観音寺の慰霊碑

 本堂での次第が済むと、まず、観音寺境内の韓国式鐘楼と慰霊碑へと向かった。鐘楼は1985年に「関東大震災韓国人犠牲者慰霊の鐘を送る会」が、韓国からの鐘や建材、そしてやってきた職人さんによって建てられた。「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」は地元高津区の人々と観音寺、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会の三者で建てられた。192397日に6人の朝鮮人を引き渡され、演習場に接するなぎの原での惨劇となった後、埋葬され、戦後、地元の方々と観音寺住職によりひそかに供養されていた。

Kannonjireihiura_2

むくげの花が咲いていた

Kannonjisyouro
韓国式の鐘楼

 

一本松の「無縁仏之墓」

 高津、観音寺での慰霊祭のあと、参列者は、実行委員会の方の車に分乗させていただき、墓地・慰霊塔めぐりに出発する。まず、最初に訪ねたのは、大和田新田447番地、296沿いのおかざき外科前にあった小さな「無縁仏の墓」であった。実行委員会お世話役の大竹さんは、大和田小学校時代に、大震災当時小学校3年だった阿部こう先生から、「910日頃、役場から3人の朝鮮人引き渡しの通達を受け、3人が路上で針金で縛られているのを見た」などの証言を聞いたそうだ。それ以来、大竹さんもこうした事実を後世に伝えていかねばと思われたそうだ。この辺は一本松と呼ばれていたらしいが、遺骨もないまま、何の説明書きもないまま、地元の人々によって供養が続けられているという。車の往来も激しく、多くの人が知らないまま通り過ぎてゆく。 

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お参りしている人の背後は296の往来がせわしい

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大竹さんの話をきく参加者、この日、千葉日報の記者とカメラマンも取材で一緒に巡った

萱田下、長福寺「震災異国人犠牲者 至心供養塔」
 29616号線の交差点近くの長福寺、1983年、村のもみよ共同墓地が宅地造成にかかったとき、地元の君塚国治さんの尽力で、3人の朝鮮人の遺骨を、この長福寺に改葬したそうだ。いまその共同墓地跡には超高層のマンションが建ち、お寺を見下ろしている。君塚さんは、改葬にあたって、村の人々に発掘やその後の供養について説得したという。その努力のあとは、供養塔碑面にある「異国人」が端的に示していよう。君塚さんは、供養塔の隣のお墓から見守っているようだった。

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村の共同墓地もみよ墓地からの改葬であった

 

萱田上、中台墓地「無縁供養塔」

 最後に訪ねたのが、八千代市民会館横の中台墓地だった。広い駐車場の脇が墓地への坂道になっている。「大震災の数日後、村の半鐘がなり、半鐘の下には一人の朝鮮人が縛りつけられていて、その坂道を上って墓地に連れて行かれた。墓地では目隠しをされて松の木に縛られていて、すでに穴が掘られていた」と当時小学校4年生だった女性が証言した。昨年亡くなられたそうだが、1995年には、地元の有志の方々と、墓地の中央に大きな「無縁供養塔」を建てられたが、その碑の裏には、「中台墓地関係者一同」としか記されていないのは、地元の方々の苦渋が見られる。

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事件の経緯や供養塔建立の経緯には触れることはないが、
地元の人々の気持ちはどう引き継かれていくのだろう

  慰霊碑の巡拝に参加してみて思うのは、警察や役場が組織的に動いて、自警団に朝鮮人を虐殺させたり、引き取らせて市民に手を下させたさせたりしたことについて、誰も責任を取ってこなかったことである。そして、やむにやまれず、当時の関係者や遺族、地元住民、研究者らが追悼や慰霊の気持ちに突き動かされて、それぞれさまざまな方法で、活動しているのが現況なのだろうと思う。しかし、年が経つほどに、関係者は高齢化し、亡くなっていく。今すぐにでも自分に降りかかってくる危機かもしれないという自覚をもって、真相究明と過ちを繰り返さない覚悟が必要だと思った。いま各地で、こうした慰霊碑や記念碑の撤去や解説の書き直しなどを迫る勢力が台頭してきているからこそ、と思うことしきりであった。

 

日本弁護士会は

日本弁護士会は、20038月、ある虐殺事件に関する人権救済申立事件について調査した結果、内閣総理大臣小泉純一郎あてに「関東大震災人権救済申立事件調査報告書」(日本弁護士連合会人権擁護委員会20037月)を付して、勧告書を提出している。その趣旨はつぎの通りだった。

 1、国は関東大震災直後の朝鮮人、中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者、 遺族、および虚偽事実の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者、遺族に対し、 その責任を認めて謝罪すべきである。

 2、国は、朝鮮人、中国人虐殺の全貌と真相を調査し、その原因を明らかにすべきである。

 

国立歴史民俗博物館では 

 今年の3月11日から東日本大震災3年目の企画展示「歴史に見る震災」においても、震災直後に朝鮮人・中国人と誤認された日本人、監視対象の社会主義者無政府主義者らの虐殺事件が各地で発生したことに触れるパネルと資料の展示がなされていた。下記のブログ記事で指摘のように、主として官庁資料による検証に過ぎなかった。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/05/post-1faa.html

 

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2014年9月15日 (月)

オルセー美術館展へ出かけました

オルセー美術館、もう一度、行ってみたい

 311以降、室内犬になってしまい、去年の夏以来、介護が必要になった高齢犬を、この7月に見送った。連れ合いともども、二人で家を空けることができなくなっていた3年間余り、旅行は封印していたのだが、また、出かけてみたい衝動に駆られている。もう一度訪ねたい街はいろいろあるけれども、パリもその一つ。2回ともオランジェリー美術館は工事中で入ることはできなかったし、ルーブルもオルセーも、それにこじんまりとしたマルモッタン美術館でさえ、十分な時間を取ったとは言いがたい。たしか、2007年の都美術館でのオルセー展のときの混み様を思い出すと気が進まなかったけれど、80点以上作品がやってきた今回の「オルセー美術館展」(~1020日。国立新美術館)、85日、週日だったためか、それほどの混み様でもなく楽しむことが出来た。

 日本テレビだったか、東出クンがナビゲーターの番組を偶然途中から見てしまったのだが、私はあの手のガイドは苦手で、おしゃべりより、作品とデータを愚直に映してくれた方がありがたい。日本人は印象派が好きだとか言われているそうだが、たしかに私も、嫌いではない。明るくて、穏やかで、分かりやすい。といいながら、私が自然と足を止めたのが、何ともパリ郊外や田園の冬の風景であった。モネの「かささぎ」、ピサロの「白い霜」、シスレーの「ルーブシエンヌの雪」であり、思わず手が伸びた絵葉書であった。

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気になる画家たち~クールベ、カイユボット、ラトゥール 

 かつて、オルセー美術館を訪ねたとき、たしか一部が工事中だったけれども、入り口を入った途端、クールベ(1819~1877)の作品に度胆をぬかれたことを思い出す。後から知った「世界の起源」(1866年)と題された作品だった。そのとき、クールベ(18191877)の大作「オルナンの埋葬」(184950年)、「画家のアトリエ」(1855年)は、それまでの歴史画の形式をとりながら、村人たちと画家たちという、まるで対照的な人たちの群像を通して、リアルな細部と物語性を醸し出しているのにひかれた。今回出品の「市から帰るフラジェの農民たち」(185560年)と「裸婦と犬」(196162年)においても、大作ではないが、同様のことを感じた。農民の日常と裸婦、そしてそこに登場する動物たちも描き分けている。農民を助ける牛や馬であり、売れ残った豚だったのだろうか、一方は裸婦と口づけをするかに見える犬はプードルか。しかし、裸婦が見せている一方の足裏が汚れているのは、クールベらしいと思った。

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 カイユボット(1848~1894は、オルセー美術館のコレクションの基礎を築いたとのことは、最近まで知らなかった。生まれた家が裕福で、1876年の第2回印象派展から、自らの作品を出品し続ける一方、仲間の画家たちの絵を買い上げ、経済的に支え、自らの絵は売ることがなかったという。遠近法がくっきりとした都市の光景を好んで描いたと、昨年のカイユボット展を紹介していた日曜美術館で聞きかじっていたが、今回、「床に鉋をかけるひとびと」に再会できたことは何よりだった。農民を描く画家は多かったけれども、当時の都市で働く人々、職人たちの姿は珍しく、上半身裸の3人の男たちの屈む背中を照らす逆光、鉋を持つ手、単調な床板の直線~なるほどここにも遠近法が強調されているのだが~、から伝わるメッセージが直截であったからだ。当時、画壇のアカデミズムやサロン派に抗して、印象派を支援するということは、覚悟があってのことで、没後もそのコレクションを受け入れるところは少なかったというのである。

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 ラトゥール(18361904も、短歌の仲間から教えてもらって、はじめて知った。千葉市での短歌教室の当初からのメンバーで、絵も描くTさんから、ラトゥールの作品に取材したという短歌が歌会に提出された。やや難解な作品に私も戸惑っているときに、その画家のことを教えられたのだった。それからというもの、とても気になる画家になってしまったのである。陰影と光源とを明確にする、どちらかというと暗い群像画が多いと思っていたのだが、今回も出品している「花瓶のキク」(1873年)のような、花、とくにバラを描いた作品が多いことも知った。ファンタン=ラトゥールという品種のバラも作られたそうだ。しかし、私が惹かれるのは、やはり、妻の家族を描いた、記念写真めいた「デュブール家の人々」(1878年)や当時の詩人や作家、画家たちがその雰囲気を漂わせながら思い思いのポーズと視線が描かれた「テーブルの片隅」(1872年)のような集団肖像画で、その時代の文芸のありようがわかるような気がするのである。ドラクロアの自画像を真ん中に集う画家たちの「ドラクロア礼賛」(1864)やいわば「マネ礼賛」でもある『バティニョルのアトリエ』(1870)を見た記憶は薄れるが、カタログや画集でみても、興味深いものがある。ルーブルで名品の模写に励み、クールベの画室にも通い、ホイッスラーにも大きな影響を受けたという、地味な画家ではあるが目が離せない。

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2014年9月12日 (金)

沖縄のメディアは、「昭和天皇実録」をどう読んだか

ネット上で、琉球新報と沖縄タイムズの910日付の社説のみネット上で読んだので、追記しておきたい。上記本文で紹介した4紙の論調との違いが明確に表れている。いずれも、「沖縄メッセージ」ほか、具体的に言及している点である。琉球新報の方がより明確である。沖縄タイムズが昭和天皇の沖縄巡幸の願いに「贖罪」を忖度し、いまの天皇夫妻がその遺志を引き継いでいるとも記している点は、日本国憲法下での天皇の間接的な政治への関与を言及しながら、政治的利用にもなりかねない論調ではないか。

琉球新報:(社説)

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-231371-storytopic-11.html

二つの責任を明記すべきだ

(要約)昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている、とする。

①最初は沖縄戦。近衛首相の進言にもかかわらず、天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示し、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。

 ②45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作の「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。

③沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」で、天皇は47年9月、米側にメッセージに「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するのみ。

「天皇メッセージ」から67年。沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中している。これら三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声が「実録」には明らかにされていない。天皇の発言をぼかしながら、沖縄訪問の希望のみが繰り返され、「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。

沖縄タイムズ:(社説)

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=82631

戦後史の理不尽を正せ   

(要約)沖縄に関係する記述お腹で注目されるの「天皇メッセージ」についてである。1947年9月19日、昭和天皇の意向としてマッカーサーに伝えられたシーボルトの報告書(進藤栄一が1979年に米国立公文書館で発掘)には「天皇は、米国が沖縄の軍事占領を継続することを希望している」「その占領は米国の利益となり、日本を守ることにもなる」とあり、発表当時、政府は国会答弁で、事実関係の有無を一切明らかにせず、逃げの一手に終始した。 実録で昭和天皇の生の言葉が紹介されているわけではないが、シーボルトの「報告書」の存在することを正式に認め、その内容を引用したということは、大きな意味を持つ。新憲法下でも、天皇が政治に間接的に「関与」していた天皇像を浮き彫りにする。 

昭和天皇は、1946年(昭和21)2月に横浜を訪れたのを皮切りに、戦後、8年余りの間に沖縄を除くすべての都道府県を回った。全国で唯一、沖縄への「地方巡幸」が実現できなかったのは、沖縄が米国の施政下にあったからである。 実録からは、復帰後、沖縄訪問を希望し続けていたことが分かる。贖罪(しょくざい)意識があったのかもしれない。 

(今の)天皇陛下は2012年12月、79歳の誕生日に合わせて記者会見し、「日本全体の人が、皆で沖縄の人々の苦労をしている面を考えていくということが大事ではないか」と述べた。昭和天皇が果たせなかったことを天皇ご夫妻が意識的に引き受けているのは明らかである。

 問題は、そのような思いが生かされないまま、冷戦期に出来上がった基地網を再編・新設し、半永久的に維持しようと日米両政府が躍起になっていることだ。  戦後史の理不尽は解消されていない。 

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2014年9月11日 (木)

再び友愛労働歴史館へ~阿部静枝コーナーの展示が始まった

  

  歴史館の阿部静枝展示コーナーは、下記の案内のように同館の企画展「同盟結成から50年~その今日的意義を探る」のなかの第Ⅳ部「同盟ゆかりの人々」で、1か月余り展示され、その後、武藤光明、続いて西尾末広に入れ替わるコーナーである。すでに8日から始まっていたが、910日には、菅原千代さんの「宮城時代の阿部静枝について」の報告がされる学習会があるというので、静枝が1922年、創刊直後から50年以上、選者を務めた短歌雑誌「ポトナム」、現在の編集人の藤井治さんはじめ全部で6人の参加となった。なかには、今回資料の提供もなさった、静枝の姪にあたるHさんもいらした。私も、6月の半ばに、企画展のことを知り、このコーナーの展示資料に少しだけかかわったことは、下記のブログ記事に詳しい。

 

 http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/07/post-927a.html

  例の静枝の肖像画を中心に、静枝(18991974年)が歌人として、無産政党の活動家として、また評論家として歩んだ足跡を、写真や著書、自筆の色紙、年表やゆかりの品々の展示によって、たどるものであった。私が寄贈した、短歌が染め抜かれた手ぬぐいや追悼号、写真などもあって、そんな品々の居所が定まり、どこかちょっとほっとした気持ちにもなった。展示ケースの端には20数ページのスライドも用意されていた。事務局のMさんは学習会冒頭、そのスライドを使って、静枝の生涯をわかりやすくたどってくださった。1974831日に亡くなり、910日が池袋祥雲寺での告別式であったから、まさに没後40年の集いであった。菅原さんが同郷の歌人阿部静枝の存在を知って、調べ始めて2冊の編著をまとめた経緯や静枝の生き方の立脚点は、古事記や日本書記から説き起こす「女流歌人論」(1931年)にあったとの私論が報告された。が、私にはやや想定外の内容であった。静枝の短歌表現の曲折や言説の変容は、複雑な要素が錯綜していると思う。レジメや資料に短歌作品が提示されていなかったのもさびしく思われた。参加者から乞われて、何首か朗読されたのだが。

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歴史館で収集された阿部静枝著書と関連文献

 

東京にも大雨警報が出たのだが、帰り際にはポトナムの6人が近くのカフェに立ち寄り、静枝について、ポトナムについて、しばし語り合った。その内に雨脚も弱まり、暮れかけた芝のビル街からそれぞれ帰路に就くのだった。

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企画展「同盟結成から50年~その今日的意義を探る」

「第Ⅳ部 同盟ゆかりの人々ー阿部静枝 その人と生涯ー」

 と き:201498日(月)~20141024日(金) 10001700

 ところ:友愛労働歴史館展示室

 テーマ:「阿部静枝 その人と生涯―歌人・社会運動家として生きて」

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なお、展示及び当日の模様は「友愛労働歴史館たより」85号にも詳しい。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/uairoudourekisikaikan85.pdf

 

 この日に先だって、まだ、残暑が厳しかった822日、ほんとに何十年ぶりかで阿部静枝先生のお墓(八柱霊園)にお参りした。数年前までは、8月の末には「秋草忌」が毎年とりおこなわれていたと聞いていた。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年9月10日 (水)

「実録」という名の編集自在の「実録抄」か~「昭和天皇実録」公開というが

  99日朝の新聞は、昭和天皇死去報道をよみがえらせるものであった。あの日から四半世紀を経た。99日付で宮内庁が『昭和天皇実録』を公開したと報じた。どの新聞も多くの頁を割いて、昭和史関係の「識者」を動員して、コメントが付され、座談会が持たれている。その『実録』公開・公刊の歴史的な意義とともに「苦悩する昭和天皇」を浮き彫りにするものであった。きょう、こういう記事が見られるということは、事前に公開されていたのだろう。本来は行政文書扱いなのだが、宮内庁は報道各社には、公開請求を待たずに内容を公開することに踏み切ったという(『東京新聞』)。通読しなくとも用が足りるような簡略版でも配られているのだろう。国民には、公刊を前に、短期間、閲覧時間・人数制限をしながらコピーを公開するらしい。とりあえず、わが家購読の新聞で、一面見出しと社説の見出しと主な記事を一覧表にしてみることにした。まさに、昭和天皇死去報道の再現であった。詳しくはPDFでご覧ください。この表にはないが、ちなみに99日のNHK昼のニュースでの報道は、実にあっさりしたものだった。男女、老若二人の「実録」閲覧者のコメントを流すのみで、内容には触れていなかった。夜7時のニュースでは、「実録」を分析する専門家による会をNHKがが立ち上げたというが、その中の二人のコメントによれば、評価は高く、気になるところだった。その内の一人は、新聞紙上でのコメントと趣旨がことなり、使い分けているのかしらとも思われた。あるいはNHKがそれこそ恣意的に編集したものなのだろうか。

 

http://dmituko.cocolog-nifty.com/syuseisinnbunkiji.pdf

 

<主な新聞の『昭和天皇実録』公開報道(201499日朝刊)>

*網掛けは短歌関係記事を示す

 

読売新聞:(一面)昭和天皇苦悩の日々 

 (社説)史実解明への情報公開を

沖縄訪問望み続け(石原信雄元官房副長官に聞く)/実録残された謎~マッカーサー会見、靖国参拝見送り/「ある一日の」記述から/実録から見た 付年表~青年期、柳条湖事件、陸軍将校反乱、真珠湾攻撃、終戦、憲法、復興/*平和・祈り 和歌に託す/識者はこう読む~波乱の生涯あざやかに、3人に聞く(御厨貴、岡野弘彦、秦郁彦)/孫の壬生基博さん語る/生き生き少年時代

 

東京新聞:(一面)開戦回避できず苦悩

     (社説)未来を考える歴史書に

戦争責任抑制的に/官製「正史」に限界も/激動の時代軌跡を追う/対談・歴史ひもとく鍵・付年表(半藤一利・古川隆久)/墨塗りなし直ぐ公開/人間天皇克明に/元侍従メモ「実録」外のエピソード(中村賢二郎)/*歌に浮かぶ昭和天皇の思い(岡野弘彦)

 

毎日新聞:(一面)「冨田メモ」を追認~靖国参拝経緯

     (社説)国民に開く近現代史に

出典の曖昧さ残す/若き帝修養の日々/*世相と共鳴若き日の歌(大井浩一)

万策尽き「聖断」へ付年表~軍との確執深刻化/座談会「正史」何学ぶか(五百旗頭真、保阪正康、井上寿一)/断続と継続の戦後~「お言葉」外交の虚実/記録照合に力注ぐ(編修課長岩壁義光)

 

朝日新聞:(一面)昭和天皇の動静克明~新資料や回顧録の存在判明

     (社説)歴史と向き合う素材に

映し出す昭和史の断面/激動の87年描く(写真集)/昭和天皇の生涯・年表~八つのテーマから(226、開戦、終戦、日本国憲法、退位、マッカーサー会見、沖縄、家族)/専門家三氏語り合う(保阪正康、加藤陽子、原武史)/昭和実相の思い 

 

 これら各紙の社説を含めほぼ共通な論調として、公開により新しい史料の存在が判明したことがわかるが、内容の検証には出典の公開、未公開資料の公開の必要性を主張している。また、歴史を覆すような新事実が現れたわけではないが、保阪氏の詳しい貴重な文献としての評価(東京)や御厨氏の20世紀を検証する基礎的な資料としての評価(読売)がある一方、吉田裕教授(一橋大)は、出典資料名を伏せたり、まとめて記載されていたりして、第三者の検証を難しくしている(毎日)、原武史教授(明治学院大)は天皇顕彰の性格上退位問題や高松宮との対立など触れられず、史料の引用に問題がある(毎日)(朝日)、天皇の肉声や見解表明は抑制的である(毎日社説)、古川隆久教授(日大)宮内庁は昭和天皇に関する資料はすべて公開すべきである(朝日)政治的な配慮があり過ぎる(東京)などの批判がある。沖縄メッセージについては真意が非常にわかりにくい点など沖縄の人々やメデイアはどう受け取るであろうか。

 いま、私が着目するのは、これまでもたびたび触れてきた「昭和天皇の短歌」である。「実録」には、約500首の短歌が収められているという。上記一覧で、読売、東京、毎日が、紙面を割いているが、もっと詳しいのは読売で、「平和・祈り 和歌に託す~皇室と国民 歌で結ぶ」の見出しのもとに戦前・戦中・戦後に分けて19首の短歌について解説している。

・天地の神にそいのる朝なきの海のことくに波たヽぬ世を(戦前)

・戦のわざはひうけし国民をおもふこころにいでたちてきぬ(戦中)

・思はざる病ひとなりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを(戦後)

 

1首目は、515事件の翌年1933年の歌会始「朝海」の作であり、2首目は、1945318日東京大空襲被災地視察の折の作となっている。3首目は、1987年病いのため沖縄訪問が取りやめに折の作として紹介されている。ひたすら平和を願い、国民に寄り添い、沖縄を思う心の現れと捉える鑑賞が死去・追悼報道のなかで盛んに喧伝されたのである。また毎日のコラム「世相と共鳴 若き日の歌」では、「実録」で初めて公表された3首が紹介されている。その中の1首で、

・赤石の山をはるかになかむればけさうつくしく雪そつもれる

 

19171月、天皇15歳の作という。岡野弘彦の「叙景的で素直な作品。大正期らしい新鮮な時代の感覚が出ている」というコメントで締めくくられていた。

東京新聞では、「歌に浮かぶ昭和天皇の思い」を相談役・歌人岡野氏語るとして、つぎの2首を掲げる。

・身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

・この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし

1首目は、これまで何回か出された天皇の歌集には収録されていない。1968年刊行の木下道雄元侍従次長による『宮中見聞録』(新小説社)には、終戦時に詠まれた歌として収められていたが、1997年刊行の徳川義寛元侍従長による『侍従長の遺言』(朝日新聞社)では「〈身はいかなるとも〉が最初に来てはいけない」と記している(参照、拙著「昭和天皇の歌は何が変わったのか」『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房20137月 68頁)。この記事によれば、天皇最晩年の1988年秋、当時徳川義寛侍従長参与が、この一首を八通りに推敲された直筆の一枚を携え、岡野弘彦教授(国学院大)を訪ねた由、そこでその一つを選んだが、今回の「実録」には収められていないという、エピソードが語られている。2首目は、靖国神社へのA級戦犯合祀は1978年だが、徳川元侍従長は、1986年の作として、岡野教授に見せた折、自分と入江相政元侍従長とが、合祀への不快感の表現が直接的過ぎたので、この表現に落ち着いたと語ったという。この歌は歌集「おほうなはら」(読売新聞社 199010月)に収められているし、「実録」の1986815日の記述の中にも収められているという。第1首目について昭和天皇自身がこれほど最晩年までこだわっていたことは、今回知った。

 

天皇の短歌を読み解く場合に限らず、歌一首による心情吐露に深入りしてしまうのは、多くのリスクを抱えることになる。逆に言えば、歌一首が、その詠み手の判断や言動の軌跡を覆せるものではなく、自らの言動の言い訳や弁明であってはならないのではないか。せっかくの名月の夜、重い話になってしまったが。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年9月 5日 (金)

「女性活躍・少子化担当大臣」って?!なぜ「男女共同参画」ではないのか

   93日、安倍改造内閣は、女性5人の入閣、1人の党役員人事でスタートした。顔ぶれを見ると、女性ならば誰でもいいのか、割合さえ高ければ女性の地位が向上したことになるのか、情けない思いがする。6人の経歴やこれまでの言動を知る限りでも、期待ができないだけではなく、大いなる不安と暗雲が漂う。

有村治子女性活躍・少子化担当大臣は、国家公務員制度、消費者・食品安全、規制改革、行政改革の7分野を担当する。「男女共同参画」に反対する「日本会議」のメンバーだし、マクドナルドの全店舗にポスターを張って比例代表で当選した参議院議員だし、2012年、今年との中国からの偽装食肉輸入についてのマクドナルドの対応を見ていると、食の安全など守れるのか疑問が去らない。「女性活躍・少子化」といかにも実務的な受けそうなネーミングではあるが、だとすると、これまで、一体何をしてきたのか、あらたな担当大臣や新法を作っても、まさに、本気度がみえない、実効性がない。

 高市総務大臣は言わずと知れた、首相応援団の急先鋒で、首相にしては、いまやってもらってはまずい?ことまで先走るタカ派である。毎年、みんなで靖国参拝をする議員の会の先頭を切って、参拝する映像や討論番組での松下政経塾でトレーニングしましたみたいな「笑顔」は見るに堪えない。

政党や派閥を渡り歩いたことでは、山谷えり子も同じで、もともと信頼してはいけない人物ではある。「サンケイリビング」の編集長だった時代を知らないが、「産経新聞」「正論」はじめ、カトリック信者でありながら「神社新報」「世界日報」(統一教会機関紙)などへの執筆が多く、ジェンダーフリー教育や性教育、男女共同参画にも反対の論陣を張る。

松島みどりは、名前はみどりだが、勝負服は赤とのことで、朝日新聞出身というが、体育会系でもあって、単純な人のようだ。2000年、自民党初の公募で、比例東京ブロックで衆議院議員当選し、政治家としてのスタートを切った。すぐに、当選前の帝京大学グループからの給与隠しで問題になったらしい。法務大臣として適任なのかどうか。

小渕優子通産大臣は、まだ荷が重すぎるのではないか。就任の弁で、2児の母親としても、原発再稼働に不安があるのは当然だから、国民にはテイネイに説明していきたいと語っていたが、説明して安全になるものではないのが原発であり、原発事故なのである。汚染水の処理も不可能に近く、放射性物質の中間貯蔵施設も「金目」の解決に持ち込もうとするのに必死の状況である。原発の安全性判断の責任を原子力規制委員会も政府も取る気がない中で、安倍首相のエネルギー政策暴走を女性という目くらましで緩和、柔軟化をはかろうとする思惑が見え隠れする。

 何も女性ばかりが弱体なのではなく、たとえば、待機組の江渡防衛・安保体制担当大臣は、就任内定時の議員室で、実にうれしそうに、「いま必死に勉強中で、何度もこれを読んでいる」と記者に見せたのが「安倍政権と安保法制」と読めるペーパーバック様の本だった。こんなものを何度も読んでどうする!もう国会答弁のお粗末さは目に見えるようで、安倍首相と同様、テープレコーダーのように繰り返すのが想像できる。ちなみに、その本というのは、調べてみると、自民党の岐阜県連のHPにこんなお知らせがあった。

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書籍出版のお知らせ「安倍政権と安保法制」【H26.7.3発行】

このたび自由民主党では、「安倍政権と安保法制」を出版いたしました。

本書は、憲法と自衛隊に関する一般常識、安倍政権の安全保障体制の整備、

安保法制に関する閣議決定、35種のQ&Aなどで、

どなたにもご理解をいただける内容となっております。

ご興味をお持ちの方は是非ご一読ください。

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それは、自民党政務調査会調査役 田村重信著『安倍政権と安保法制』(内外出版)で、要するに、自民党員や支援者向けに書かれた本なのだろう。安保法制担当大臣のテキストがこれ一冊?それを臆面もなく記者に披露するとは!

ふりかえれば、消費税増税判断、特定秘密保護法の自公協議末の強行採決、NHKはじめマスコミへの介入の連鎖、ジリジリと後退を迫られているTPP交渉、集団自衛権行使容認を閣議決定でやってのけ、歯止めにならない公明党、原発再稼働や輸出に踏み切った安倍政権だって、随分危ない橋を渡って、攻めどころ満載だったのに、押し切られた野党もだらしない。さらに麻生大臣のナチス発言、石原大臣の福島での「金目」発言、下村大臣の国会答弁ミス、高市自民党政務調査会長の福島原発事故の死者はいない発言、石破幹事長のデモはテロ行為発言、首相の広島の土砂災害発生時の別荘でのゴルフ対応などなど・・・、これらを攻めきれなかった野党もだらしないが、よくも600日も続けさせてしまった国民、支持率も株価も小幅な動きに落ち着くのか・・・。そして新たに続く安倍政権なのである。

安倍改造内閣に見る閣僚担当のネーミング~キラキラネーム、ここまで波及~

 すったもんだで新設された、石破地方創生・国家戦略担当大臣の席、「地方創生」「国家戦略」も言語明瞭、意味不明の部類ではないか。文部科学・教育再生担当大臣の「教育再生」も経済再生・一体改革担当大臣の「経済再生」「一体改革」も不明瞭で、他の省庁との重複状況も不明である。いずれも、人目を引こうとする、自己満足的な、中身の変わらない、一種のキラキラネームのような気がする。

宝塚やタレントの芸名でもあるまいし、と思うような、いわゆる新生児のキラキラネームが話題になってから久しい。最近では、大学名、大学学部名、学科名などにも波及しているらしい。かつて、「観光学部」「不動産学部」などは大学というより専修学校めくと思ったものである。国際、総合、文化、人間、環境などの文字がやたらと付された学部・学科が続々誕生した時代もあった。いまでは「異文化コミュニケーション学部」、「フロンティアサイエンス学部」、「芸術学部パフォーミング・アーツ学科」、「グローバル・メディア・スタディーズ学部」などカタカナが多くなり、一読、何を学べるのかが不明である。少子化の中で学生募集に躍起となっている私立大学の苦悩が見えるようだが、本末転倒のような気がする。国公立大学では、辛うじて、伝統的な名前の学部や学科がまだ健在のようであるが、研究所や研究機構の命名がまさにキラキラネームなのである。

たとえば、東京大学の「知の構造化センター」、「総括プロジェクト機構」って?また、「サステイナビリティ学連携研究機構」が「新領域創成学研究科環境学系サステイナビリティ学大学院プログラム」に移行したという説明もあったが、ますます分からなくなってしまう。理系か文系なのか、学際的でグローバルと言われてみても、こうしたところに、企業からの寄付や膨大な税金が研究費として投入されているのである。今回の理化学研究所のような事件は氷山の一角なのかも知れない。

しかし、国の組織がやたらに名前を変え、業務の担当を変え、ポスト名変えたり増やしたりしていると、予算ばかり増えて、仕事の効率も悪く、責任が曖昧になってゆく。これぞ、政治家や官僚の目くらましではないか。829日に出そろった来年度予算の概算要求は101兆円を超えているというではないか。

9月5日各省庁から集めた70人でスタートしたという「まち ひと しごと創生本部事務局」など、「事ここに極まれる」の感があり、その看板掛けの映像が流れていた。いずれどうなることやら・・・。

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