これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(2)NHK「花子とアン」は今日が最終回でした
戦時下の花子は何をしていたか
この朝ドラ「花子とアン」全体については、感想は後で述べたいが、この一連の記事を書いているさなかに、ネット上で見つけたのが、昨日の記事でも紹介した「事実とテレビ小説の違い」というサイトだった。この一覧をみていて、そうだったのかと思うことも沢山あった。ぜひ一度ご覧になってください。私は、網羅的にその違いを書くことはできないが、自らの関心で気づいた点を指摘しておきたい。
◇事実とテレビ小説との違い~実在した村岡花子とNHK連続テレビ小説「花子とアン」の花子の違い
http://chihojichi.web.fc2.com/NHK-HANA-ANNE.html
まず、1941年12月8日の開戦後の花子に焦点を合わせて見てみよう。1941年12月8日(月)夕方が「コドモの新聞」が受持だった村岡花子は、当時のことを戦後になって、「その朝放送局から電話があって『今晩は休んで貰いたい』と言って来た。その夜の『コドモニュース』は勇ましい(?)男の声で伝えられた。そして、私は私自身の持っていた理由から、辞表を提出し、斯くて世間に面した私の家の窓は閉じられたのであった」と記している(「世間に面した窓」『放送』1947年5月)。
朝ドラでもそのような展開で描かれていた。 花子は、「これ以上戦争のニュースを子どもたちに伝えたくない」からと番組を降板、なぜラジオの仕事を辞めたのかを娘に問われて「国と国とは戦争しているけれど、敵の国には私の大切な先生や友達がいるから」と説明していた。さらに、ドラマに沿って、花子が、「ラジオのおばさん」を離れた後、「世間に面した窓」はどのように閉じられたのかを追ってみよう。
近所の少年たちに「非国民」といわれて、村岡家の窓に石を投げられた。花子の言動が原因だと告げられる(9月8日放送)。空襲が激しくなれば、後の「赤毛のアン」の原書と辞書を持って防空壕に逃げ、1944年11月の空襲で焼け残った家の書斎でも翻訳に専念する。さらに、地元の大日本婦人会の面々は、花子には敵国に友だちがいてスパイではないかと、家の中に上がり込み、洋書を燃やせと迫る(9月12日)。「平和を待つのではなく、このいまこそ」と翻訳に打ち込み、「曲がり角の先には必ず一番良いことが待っている」と信じて、「何十個の爆弾が落とされようと翻訳は完成させる」と覚悟を述べ(9月15日)、敗戦を迎えることになる。さまざまな苦難にもめげず、夫の村岡と協力し合って、「赤毛のアン」の翻訳に専念していたことが、繰り返し強調されていた。
そして今日の最終回でも、「赤毛のアン」がベストセラーになり、花子ゆかりの人々が家族と共にあちこちで読み聞かせ、耳を傾ける光景が続く。出版記念会を抜け出して、はや「赤毛のアン」続編の翻訳に取りかかっているところで終る。いわば、つねに敵役でもあった作家の宇田川にさえも、敗戦後、筆を折っていたが、「あなたにではなく『赤毛のアン』のアンに励まされ、書く気になったわ、邪魔しないで」と言わせての大団円であった。
このドラマの花子は、「ラジオのおばさん」を辞めた経緯、英語の本をたくさん持っていたり、外国人の友だちがいたりするので、「非国民」とか「スパイ」とかの非難を受けたことなど、いわば戦時体制の中では、もっぱら「被害者」に扱われていることだった。
ところが、村岡花子の実際は、どうだったのだろう。とくに、社会的活動に焦点を当ててみると、非国民やスパイのそしりを受けながらも、ドラマで強調するような「翻訳だけに専念」していたとは思えず、むしろ、体制へ積極的にかかわり、翼賛的な活動が展開されていたとみるべきだろう。その一端を紹介してみたい。
前述のように、花子の随筆・評論関係の出版も盛んであったが、創作集として『村岡花子童話集1年・2年生』(童話春秋社 1940年)、『たんぽぽの目』(鶴書房 1941年)などもあり、翻訳にも『母の生活』パール・バック著 第一書房 1940年)、『家なき天使』方洙源著 那珂書房 1943年)がある。
また、長谷川時雨による自由でインターナショナルな女性文芸雑誌『女人芸術』(1928年7月~1932年6月)には、多くの作家たちが結集し、多くの新人を輩出したが、花子は、3巻1号<翻訳特集>(1930年1月)にA・E・コパード原作「混沌」の訳を発表、同じく長谷川時雨により立ち上げられた「輝く会」のリーフレット『輝ク』(1933年4月~1941年11月)にも登場、兵士や遺族の慰問活動や銃後支援活動が中心となってゆくなか、花子は、慰問文集の一つ『海の銃後』(1941年1月)に「時局と子供」を寄稿している。ここでは、子供の日常に、「意外に<非常時意識>が幼な心にしみ込んでゐるのに、大人の方がびつくりした」とか、町内での出征軍人見送り時の大人たちの次第を真似する愛らしさ、とかのエッセイであった。
1942年6月18日に発足した日本文学報国会は、役員・事務局のもと、8部門、7委員会によって構成され、その中の一つが女流文学者委員会であった。日本文学報国会主催による第1回の大東亜文学者大会(1942年11月3日~10日)では、女性としては吉屋信子と花子が日本側議員として参加した。そこでの花子の発言は、お互いの魂が触れあい、文学を理解するためには、子どもの頃から「大東亜精神を築きあげるべき」で、それには「言葉の習得」が必要であるから、これまで「西洋語」を介して理解し合ってきた「東亜の民族」の相互理解のために「日本語習得」を要望するものであったという(岡野幸江「大東亜文学者大会のトップレディたち」『女たちの戦争責任』東京堂出版 2004年)。1943年2月6日女流文学者委員会の第1回総会が開かれ、役員が発表された。委員長吉屋信子、委員23人、ちなみに歌人では、阿部静枝、今井邦子、斎藤史、四賀光子、中河幹子、若山喜志子の6名、花子は議長を務めている(櫻本富雄『日本文学報国会 青木書店 1995年)。なお、日本文学報国会の機関誌『文学報国』に「貯蓄について」(23号1944年4月20日、「疎開児童~一人の母の眼で」(44号1945年1月10日)が収録されている。44号は「戦ふ女性」特集で大田洋子、城夏子、阿部静枝、永瀬清子、江間章子の6人が寄稿していた。前年の夏に「学童疎開先の子どもたちの様子を放送した」ことをマクラにしていることから、日本放送協会とは、その後、折り合って、出演していたらしい。復刻版では、活字がつぶれてやや読みにくいのだが、学童疎開生活の現実の厳しさを見て、寮母や教師の休息や送り出す母親の工夫などが提案されていた。
ドラマのなかの村岡花子とこの現実との乖離は、余りに大きい。というより、家に石を投げられたとか、スパイと疑われたとかいう事実は、身内の著作にもない。上記のような、花子の発言や書いたものを無視、あるいは、隠蔽するだけではなく、さらに事実とは真逆の思想の持ち主として描いたことになりはしないか。たった、70年前を生きた人間の言動が、こうも捻じ曲げられてしまっていいのだろうか。
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