これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(3)~敗戦後の村岡花子は、何をしたか
この記事を書いているさなかに、中島岳志氏のツィッターで、ドラマ「花子とアン」の史実との違いを、花子や宮崎龍介が執筆した文献の文言により丹念に検証しているのを知った。説得力のある発言で、論文として、ぜひまとめたものを読みたいと思っている。それらのツイートをまとめてあるサイトがあったので、網羅的なのかはわからないが、下に紹介しよう。私は、いま手元の資料だけでの作業なので、少し心細いが、続けてみたい。
http://togetter.com/li/716573
日本進歩党って、どんな党だったのか
村岡花子が日本進歩党(1945年11月16日~1947年3月31日)結成時に婦人部長に就任していたことは『近代日本婦人問題年表』(ドメス出版 1988年)で知った。この前後には、日本社会党で赤松常子が、日本自由党で吉岡弥生、日本共産党で野坂竜が婦人部長に就任している。この日本進歩党は、小磯・米内内閣傘下の大日本政治会の町田忠治らを中心に結成されたが、最も反動的な戦争協力者たちの根拠地とされ、公職追放によって打撃を受け(『日本近代史辞典』東洋経済新報社 1958年)、1947年には日本自由党離脱組などと合流、日本民主党となっている。また、花子は、同時に、厚生省のリードで、市町村の婦人会を束ねるべく、1945年11月6日に日本婦人協力会(委員長宮城タマヨ)が立ち上げられ、花子は、吉岡弥生、山高しげりらと共に参加している。しかし、メンバーの大部分が大日本婦人会の幹部が引き継いでいたので、批判もあって、翌1946年1月16日に解散に至っている。ここには、戦時下の言動と相通じるものがある。
NHKとの深い縁
放送、NHKとの関係でいえば、敗戦直後の8月23日には「少国民の時間」は復活、12月より「仲良しクラブ」になり、「子供の時間」の名称が復活するのは1948年からである。花子は、1946年1月に、ラジオの子ども向け特別番組に出演した。ドラマでも、GHQの担当者の無礼を諌め、英語で渡り合う場面となっていた。その真偽のほどは分からないが、1945年9月22日にはGHQのラジオ・コードによる検閲が開始し、9月27日には日本政府による検閲は廃止されていた。CIE(民間教育情報局)とCCD(民間検閲支隊)は、東京放送会館内に置かれ、CIEは放送全般の指導を、CCDは番組の検閲を行っていた。1949年6月18日GHQは、放送法案審議を指示、1949年10月18日にはCCDによる検閲を廃止している。
政府は、その年1949年12月、電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)を国会に上程した。その審議の過程で、1950年2月8日の衆議院電気通信委員会公聴会で、花子は、評論家の肩書で公述人となっている。議事録を読むとかなりの長文なのだが、花子は「家庭の主婦で、家庭の仕事の合間にものを書いている者」との自己紹介の後、若干の不安と疑問を持ちながらも法案には賛成している。そのなかで、法案は、日本では未知に近い商業放送への研究が足りないのではないかという懸念を示している。アメリカの友人たちに拠れば、その騒音に悲鳴をあげている言うくだりもある。これは現在の放送実態を予見しているかのようでもあった。さらに、NHKには不偏不党、公平無私、多種多様さが要求されるけれども、経営委員が国会の承認を必要としているが、「多数党のみが国民の意志代表ではなく、少数党の中にもまた、相当数の国民の意志が宿っていることに思い到」る、と公述している。この点をズバリ指摘しているのが、公述人の一人、川島武宣東大教授の発言だった。川島は、経営委員を内閣総理大臣の任命後、国会の承認が必要となると、言論機関が多数党の支配下に置かれることになって根本的に憲法の精神に反する」と明言していたのである。二人の公述人の危惧はまさに的中し、現在の首相やNHK会長に聞かせたい発言でもある。
もっとも、ここで、私の疑問なのだが、花子が、この公述人となった時期は、短い期間ながらNHKの理事であったという事典の記述もあったので、放送博物館に確かめると、1949年12月の理事名簿にはあるが、翌1950年12月の名簿にはないということであった。
社会的進出の意味
一方、同じ頃1946年1月31日憲法研究委員会に田辺繁子と出席したとの記述が上記『年表』にある。ここでどんな発言をしたのかは、今後調べなければならない。この委員会は、当時、東京大学南原繁総長の発案で学内に立ち上げられ(委員長宮沢俊義)、独自の憲法改正案を提示するつもりだったが、出遅れてしまった感があって、3月6日には、政府より憲法改正草案要綱、4月17日には憲法改正草案が公表されたので、修正案検討に入ったという。
1946年3月には、アメリカ教育使節団が来日したが、この際、花子はその語学力で、文部省嘱託となって、教育改革に尽力している。 さらに夏に入ると、第一次吉田茂内閣は、憲法改正草案要綱に沿って7月3日、臨時法制調査会を設置、7月11日に第1回総会を開き、司法省は、7月9日、司法制度審議会を設置、7月12日に第1回総会を開いた。調査会の第3部会(司法制度)委員83人と司法制度審議会は同一とし、同じ会議体が二つの顔を持って進められることになり、村岡花子、久布白落実、武田キヨ、村島喜代、榊原千代、河崎なつは司法制度審議会第2小委員会(民法・戸籍法など改正)のメンバーとなっている。戸主権、家督権廃止に賛成の意見を述べたとの記述がある。
その後も1952年6月4日、公明選挙連盟を結成、市川房枝、坂西志保らと理事を務める。1953年12月18日、設置が閣議了承され売春問題対策協議会(会長山崎佐)では、花子が副会長を務め、女性委員として久布白落実、山高しげり、平林たい子が就任し、様々な曲折があり、ザル法とも言われながら1956年5月24日売春防止法が成立している。1955年9月30日、新生活運動協会(会長前田多門)では、奥むめお、山高しげり、市川房枝らと役員を務めている。
こうした社会的な発言の場には、戦時下の銃後支援に積極的に参加、ひたすら翼賛活動にまい進した女性指導者たちが多く引き立てられていった。その戦時下の活動の責任が曖昧なまま、敗戦後は、男女平等、女性の地位向上のためにその「能力」を発揮していく過程が見られる。村岡花子もその一人であることは確かなようだ。敗戦を境に、戦時下の体制迎合をただちにGHQに乗り換えて協力し、やがて、日本が独立し、55年体制に入れば、大した抵抗もなく取り込まれてゆく知識人や各界のリーダーの多くを見ていると、現代も余り変わってはいないのではの思いがよぎる。
まだ色々と
なお、「村岡花子」のキーワードで国立国会図書館の目録を見るだけでも、いろいろなことがわかってくる。敗戦後から晩年に至る、花子の翻訳活動には、目を見張るものがある。『赤毛のアン』が三笠書房から出版されたのは1952年5月、敗戦後からそれまでの間にも、数多くの創作集とともに翻訳書を出版している。ドラマでは、『赤毛のアン』出版の苦労話が強調されているが、事情は少し違っているのではないか。結局、L・Mモンゴメリの「アン」シリーズに限っても、訳本は16冊にも及び、カナダ文学の紹介に大きく貢献したことになる。
ところが、今回知ったことなのだが、村岡花子の”ANNE OF GREEN GABLES”の訳出には、いろいろな疑問が早くより指摘されていたらしい。つぎの2冊も読んでみなければならない。
・山本史郎:東大の教室で『赤毛のアン』を読む 東京大学出版会 2008年
・菱田信彦:快読『赤毛のアン』 彩流社 2014年
また、『赤毛のアン』出版の陰の功労者であったという、三笠書房の編集者小池喜孝(ドラマでは小泉?)が、民衆史掘り起しに貢献した北海道の歴史研究者、小池喜孝であったことにも驚いた。知らないこともたくさん知ることになった。
次回は白蓮について書いてみたい。(つづく)
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