「実録」という名の編集自在の「実録抄」か~「昭和天皇実録」公開というが
9月9日朝の新聞は、昭和天皇死去報道をよみがえらせるものであった。あの日から四半世紀を経た。9月9日付で宮内庁が『昭和天皇実録』を公開したと報じた。どの新聞も多くの頁を割いて、昭和史関係の「識者」を動員して、コメントが付され、座談会が持たれている。その『実録』公開・公刊の歴史的な意義とともに「苦悩する昭和天皇」を浮き彫りにするものであった。きょう、こういう記事が見られるということは、事前に公開されていたのだろう。本来は行政文書扱いなのだが、宮内庁は報道各社には、公開請求を待たずに内容を公開することに踏み切ったという(『東京新聞』)。通読しなくとも用が足りるような簡略版でも配られているのだろう。国民には、公刊を前に、短期間、閲覧時間・人数制限をしながらコピーを公開するらしい。とりあえず、わが家購読の新聞で、一面見出しと社説の見出しと主な記事を一覧表にしてみることにした。まさに、昭和天皇死去報道の再現であった。詳しくはPDFでご覧ください。この表にはないが、ちなみに9月9日のNHK昼のニュースでの報道は、実にあっさりしたものだった。男女、老若二人の「実録」閲覧者のコメントを流すのみで、内容には触れていなかった。夜7時のニュースでは、「実録」を分析する専門家による会をNHKがが立ち上げたというが、その中の二人のコメントによれば、評価は高く、気になるところだった。その内の一人は、新聞紙上でのコメントと趣旨がことなり、使い分けているのかしらとも思われた。あるいはNHKがそれこそ恣意的に編集したものなのだろうか。
http://dmituko.cocolog-nifty.com/syuseisinnbunkiji.pdf
<主な新聞の『昭和天皇実録』公開報道(2014年9月9日朝刊)>
*網掛けは短歌関係記事を示す
読売新聞:(一面)昭和天皇苦悩の日々
(社説)史実解明への情報公開を
沖縄訪問望み続け(石原信雄元官房副長官に聞く)/実録残された謎~マッカーサー会見、靖国参拝見送り/「ある一日の」記述から/実録から見た 付年表~青年期、柳条湖事件、陸軍将校反乱、真珠湾攻撃、終戦、憲法、復興/*平和・祈り 和歌に託す/識者はこう読む~波乱の生涯あざやかに、3人に聞く(御厨貴、岡野弘彦、秦郁彦)/孫の壬生基博さん語る/生き生き少年時代
東京新聞:(一面)開戦回避できず苦悩
(社説)未来を考える歴史書に
戦争責任抑制的に/官製「正史」に限界も/激動の時代軌跡を追う/対談・歴史ひもとく鍵・付年表(半藤一利・古川隆久)/墨塗りなし直ぐ公開/人間天皇克明に/元侍従メモ「実録」外のエピソード(中村賢二郎)/*歌に浮かぶ昭和天皇の思い(岡野弘彦)
毎日新聞:(一面)「冨田メモ」を追認~靖国参拝経緯
(社説)国民に開く近現代史に
出典の曖昧さ残す/若き帝修養の日々/*世相と共鳴若き日の歌(大井浩一)
万策尽き「聖断」へ付年表~軍との確執深刻化/座談会「正史」何学ぶか(五百旗頭真、保阪正康、井上寿一)/断続と継続の戦後~「お言葉」外交の虚実/記録照合に力注ぐ(編修課長岩壁義光)
朝日新聞:(一面)昭和天皇の動静克明~新資料や回顧録の存在判明
(社説)歴史と向き合う素材に
映し出す昭和史の断面/激動の87年描く(写真集)/昭和天皇の生涯・年表~八つのテーマから(2・26、開戦、終戦、日本国憲法、退位、マッカーサー会見、沖縄、家族)/専門家三氏語り合う(保阪正康、加藤陽子、原武史)/昭和実相の思い
これら各紙の社説を含めほぼ共通な論調として、公開により新しい史料の存在が判明したことがわかるが、内容の検証には出典の公開、未公開資料の公開の必要性を主張している。また、歴史を覆すような新事実が現れたわけではないが、保阪氏の詳しい貴重な文献としての評価(東京)や御厨氏の20世紀を検証する基礎的な資料としての評価(読売)がある一方、吉田裕教授(一橋大)は、出典資料名を伏せたり、まとめて記載されていたりして、第三者の検証を難しくしている(毎日)、原武史教授(明治学院大)は天皇顕彰の性格上退位問題や高松宮との対立など触れられず、史料の引用に問題がある(毎日)(朝日)、天皇の肉声や見解表明は抑制的である(毎日社説)、古川隆久教授(日大)宮内庁は昭和天皇に関する資料はすべて公開すべきである(朝日)政治的な配慮があり過ぎる(東京)などの批判がある。沖縄メッセージについては真意が非常にわかりにくい点など沖縄の人々やメデイアはどう受け取るであろうか。
いま、私が着目するのは、これまでもたびたび触れてきた「昭和天皇の短歌」である。「実録」には、約500首の短歌が収められているという。上記一覧で、読売、東京、毎日が、紙面を割いているが、もっと詳しいのは読売で、「平和・祈り 和歌に託す~皇室と国民 歌で結ぶ」の見出しのもとに戦前・戦中・戦後に分けて19首の短歌について解説している。
・天地の神にそいのる朝なきの海のことくに波たヽぬ世を(戦前)
・戦のわざはひうけし国民をおもふこころにいでたちてきぬ(戦中)
・思はざる病ひとなりぬ沖縄をたづねて果たさむつとめありしを(戦後)
1首目は、5・15事件の翌年1933年の歌会始「朝海」の作であり、2首目は、1945年3月18日東京大空襲被災地視察の折の作となっている。3首目は、1987年病いのため沖縄訪問が取りやめに折の作として紹介されている。ひたすら平和を願い、国民に寄り添い、沖縄を思う心の現れと捉える鑑賞が死去・追悼報道のなかで盛んに喧伝されたのである。また毎日のコラム「世相と共鳴 若き日の歌」では、「実録」で初めて公表された3首が紹介されている。その中の1首で、
・赤石の山をはるかになかむればけさうつくしく雪そつもれる
1917年1月、天皇15歳の作という。岡野弘彦の「叙景的で素直な作品。大正期らしい新鮮な時代の感覚が出ている」というコメントで締めくくられていた。
東京新聞では、「歌に浮かぶ昭和天皇の思い」を相談役・歌人岡野氏語るとして、つぎの2首を掲げる。
・身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて
・この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし
1首目は、これまで何回か出された天皇の歌集には収録されていない。1968年刊行の木下道雄元侍従次長による『宮中見聞録』(新小説社)には、終戦時に詠まれた歌として収められていたが、1997年刊行の徳川義寛元侍従長による『侍従長の遺言』(朝日新聞社)では「〈身はいかなるとも〉が最初に来てはいけない」と記している(参照、拙著「昭和天皇の歌は何が変わったのか」『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房2013年7月 6~8頁)。この記事によれば、天皇最晩年の1988年秋、当時徳川義寛侍従長参与が、この一首を八通りに推敲された直筆の一枚を携え、岡野弘彦教授(国学院大)を訪ねた由、そこでその一つを選んだが、今回の「実録」には収められていないという、エピソードが語られている。2首目は、靖国神社へのA級戦犯合祀は1978年だが、徳川元侍従長は、1986年の作として、岡野教授に見せた折、自分と入江相政元侍従長とが、合祀への不快感の表現が直接的過ぎたので、この表現に落ち着いたと語ったという。この歌は歌集「おほうなはら」(読売新聞社 1990年10月)に収められているし、「実録」の1986年8月15日の記述の中にも収められているという。第1首目について昭和天皇自身がこれほど最晩年までこだわっていたことは、今回知った。
天皇の短歌を読み解く場合に限らず、歌一首による心情吐露に深入りしてしまうのは、多くのリスクを抱えることになる。逆に言えば、歌一首が、その詠み手の判断や言動の軌跡を覆せるものではなく、自らの言動の言い訳や弁明であってはならないのではないか。せっかくの名月の夜、重い話になってしまったが。
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