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2014年10月19日 (日)

疑問の多い「まちづくり協議会」(1)補助金検討委員会の議論から見えてくるもの

 私たちの街にも、小学校の名を付した「まちづくり協議会」が発足した。以下「まち協」と略す。このブログでも触れたことがある。わが家が属する自治会は、参加を見送っている自治会の一つである。その経過については以下を参照していただけるとありがたい。

・地域まちづくり協議会、住民はどこに~「まち協」は本当に必要なのか(2014410日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/04/post-6afc.html

 そもそも補助金検討委員会って? なぜ委員の名を公表しないのか?

その「まち協」事業への佐倉市からの交付金が、いま開かれている補助金検討委員会で議論されていた。そもそも、補助金検討委員会は、2006年に現行の補助金交付基準が策定され、2008年度、2011年度と3年に一度、補助金(交付金、助成金など)の見直しの検討を行い、意見書を提出することになっている。今年も1月から10月にかけて10回ほどの会議で集中的に検討され、近く意見書としてまとめられるらしい。その9回目までの会議録が市のホームページで読むことができる。上記「まち協事業」への交付金についての議論に限ってではあるが、一部の委員により、かなりの突っ込んだ議論が交わされたようだ。ただし会議録は、5人の委員のうち、委員長の発言は明示されるが、他の委員の発言者はただ「委員」としか表示されないので、4人の委員の発言は区別がつかない仕組みになっている。行政は、よく「匿名にするのは自由な発言をしてもらうため」の配慮だという。しかし、行政が選定する有識者委員、市民公募による委員にしても、それぞれの立場から、責任を持って発言することが期待され、自らも応募しての公募委員であるにも関わらず、委員名を明示しないのはなぜなのだろう。

さらに不思議なのは、1月から検討委員会が始まっているのに、どう検索してみても、その委員のフルネームが出てこないのだ。仕方ないので、問い合わせたところ、公表してないことが分かった。決定した段階ないしは遅くても第1回会議録の資料として付されるのが当然だろう。「10回の委員会が終わって、最終の意見書を公表するときに発表します」とのことだ。

佐倉市の情報公開と言ってもこの程度なのだ。発言者の委員の氏名を発表しなどころか、会議録さえ発表しない審議会も結構ある。それは「情報公開でお願いします」とすぐ逃げる。ホームページで情報提供されてこそ「公開」なのではないか。できれば公開してほしくないという行政の昔ながらの本音が見え隠れし、隠蔽体質が払しょくできないのが行政の情報公開の実態である。

本題に入ろう。

「まちづくり協議会」が持つ矛盾

 そもそも、まちづくり協議会事業は、2007年「市民協働の推進に関する条例」に基づいて始められたもので、各小学校校区を単位の設立をめざし、校区内の自治会をはじめとする諸団体が連携して地域力を高める趣旨のようだ。とくに311以後、市や自治会での防災対策や機動力が十分機能しなかったこともあり、高齢者福祉対策などの不備も明らかになった。つまり「公助」の限界と称して、市や市長は、あわてて、自治会、自主防災会組織、社会福祉協議か、まちづくり協議会などに、地域での「共助」による補完を声高に強調するようになった。防災対策業務自体の充実ではなく、笛吹けどもなかなか踊らない?まちづくり協議会の設立促進、支援に力を入れることが、あたかも「行政の行き届かない」部分の業務を遂行することであるかのような方向性を採るようになった。この3年間の「まち協」について市議会での質疑を聴いてみるとよくわかる。毎年90万円の交付金で地域の問題解決、災害時共助の強化の主力を、この「まち協」に投げて「事足れり」としている姿勢が垣間見られるのである。

いま開催中で、間もなく意見書がまとめられる補助金検討委員会で、「まち協」についての議論をたどってみると、その問題点が浮き彫りになる。佐倉市の小学校は23校、現在、8つの校区に7つのまち協があり、その後、2つがスタートしているが、すでに解散しているまち協もある。設立時に70万、以降毎年90万円が、通常の二分の一補助ではなく、その活動が「公共の利益に資する」重要性、「市が依頼する報償的な財政支援」ということから、範囲内の全額交付されることになっている。

となると、交付金に見合う活動が持続的になされているかが問題となる。既成の地域団体、自治会、自主防災会、社協、商店会、PTANPO・・・。一つの団体ではできないところを連携して地域力を高めようというのだが、いま一つ一つの団体の組織率の低下や支えてきた人々の高齢化等が重なり、担い手が減り、団体自体の体力が衰えている中、束ねて強くなるものだろうか。私と同じ不安を抱く検討委員たちがいた。

・人材が少ない中で、元気なリタイア組が老人クラブは入りたくないかと、まち協になだれ込んだりして、すでにある組織―自治会、老人会、子ども会、防災組織などの弱体化を招かないか

・「まちづくり」は都市計画というハード面(開発・再開発、建築計画、緑化協定・・・)とソフト面があるが、佐倉市は、庁内整理が必要で、まち協が、防災、環境、青少年健全育成やイベント活動まで含み、「なんでもあり」ということになりかねない。

・自治会を中心に、そこを強化すべきではないか。

 などの意見があり(2014219日 第2回補助金検討委員会)、私も常々そう考えていた。市は、まずヒヤリングの対象とします、ということで、直接的な答えがない。さらに、疑問は続く。

・自治会単位で解決できない問題をまち協でというが、まち協がない校区はどうするのか。

・設立後のまち協の反応は、どうか。

・本来自治会が主体的に活動すべきところに、自治体が自治会活動に交付金まで出して手を入れているのは、まち協活動と自治会活動とを混同してはいないか。二重行政になっていないか。小学校区単位で、地域の自治会・町内かを組み入れるような仕組み「まち協」を作って、市役所が自治会・町内会をコントロールしているように感じられる。

 最後の発言は、委員長の疑問だったのだが、まっとうな意見で、まさに私の疑問と重なる。市は、連携や加入を強制ということはしないが、設立に向けて、参加に向けて働きかけている。地域の問題解決は、いろいろな側面があるので従来の縦割りでは対応しきれないところがあるが、行政施策を、まち協が直接担うものではないという(2014512日 第5回補助金検討委員会)。それは当然のことながら、これまで佐倉市が、自治会・町内会自体への市からの印刷物配布への協力金、自治会・町内会に助成金を出して自主防災会組織を立ち上げることを推進して来たり、広域の課題解決対策のための自治会・町内会連絡協議会に交付金を出して助成したりしていることとの整合性はどうなのだろう。地域へのバラマキの感を否めない。

 しかしながら、委員会の終盤になると、財政課からは、「いろいろなご意見をいただきましたが、コミュニティの活性化が必要という点については共通していたかと思います。担当課(自治人権推進課)とは、そういう観点からご意見をいただければという協議をしました」とまとめられ、各委員も、「より補助の効果が出るような形で、検討してください」「効果を検証したうえで、今後がどういう方向を目指すのか議論してほしい」「まち協と自治会の有機的な連携も模索していただきたい。そうした上で継続としましょう」という流れになってしまった(2014818日 第9回補助金検討委員会)。委員たちから出された疑問には、ほとんど応えられていないのに。

 つぎは、「市民協働推進委員会の事業申請の審議から見えてくるもの」について書いてみたい。

(追記)

上記補助金検討委員会から、次の意見書が出された。

 

20141028

 

補助金の在り方に関する意見書(平成2610月 補助金検討委員会)

 

http://www.city.sakura.lg.jp/cmsfiles/contents/0000010/10496/25_00_ikensyo.pdf

 

 

 

 

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2014年10月18日 (土)

あのヘリコプターの編隊は何だ~10月26日、百里基地観閲式の訓練らしい・・・

  1015日、正午近く、私は西の空を南から北へ編隊で飛んで行くヘリを見た。5機ほどの編隊が二つ、雁のように編隊を組んで10機ほどが飛んでいくのを見た。これは、通常の訓練ではない、何だろうか。それでもその日は、一回きりだったように思う。16日は、家を離れていたので分からないが、17日の10時半ころ、今度はもっと低空で、北西から南東へと10機ほどが我が家の上空を飛んで行った。この日になって、下総の航空自衛隊の基地に問い合わせてみたところ、下総からはヘリは飛んでいない。どこの基地から飛んでいるかは、県に届けが出ているので県が把握しているはずとしか答えてもらえなかった。

千葉県庁の代表番号に、ヘリコプターの件でというと、「オスプレイについてですか」と問い返される。最初は生活環境?…という部署だったが、企画政策課?に回された。ここではケンモホロロに自衛隊のことは自衛隊に聞け、こちらでは「答えられない」の一点張り。自衛隊と言っても、可能性のある基地は分かるのではないか、その連絡先をといえば、航空機は、日本中どこからでも飛んでくるからどの基地からかはわからない!とまで言い放った。この県民の不安はいったいどうしたら解決されるのだろう。「自衛隊のことは自衛隊に聞け」ともう一度、下総に電話して、広報窓口に経過を話せば、代わった上司らしき人は、「これは、正確な答えではなく、あくまでも自分の推測ではありますが・・・」と答えてたところに拠れば、1026日、茨城県の百里基地で航空自衛隊の観閲式が開催されるので、その訓練ではないかと思う、とのことであり、次の日曜日は、総予行訓練日なので、また騒音で迷惑をかけるかもしれないということであった。

下総基地でも、最初からその程度の答えは、聞かせてほしかったし、千葉県は、おそらく承知しながら、面倒を避けるため、答えることを拒んだのだろう。ああ、集団的自衛権行使が容認され、特定秘密保護法が施行される段には、国防のためならばもう秘密は何でもアリ、ということになってしまうのではないか。日に日に身めぐりの不自由さを感じるこの頃、国民の暮らしと命を守るという首相の言葉は空しい。

その後、百里基地のホームページを開いてみると、1026日の観閲式と13日の訓練が台風のため1017日になったというお知らせは載せていた。陸海空の自衛隊の観閲式は、百里基地で行われ、1年交代で、3年で一回りするそうで、今年は60周年になるという。

災害救助隊として派遣されて活躍する自衛隊員には、ほんとうにその苦労に感謝することが多くなった。御嶽山での行方不明者の捜索にあたっても、二重遭難が危惧される状況の中、捜索の成果がなく下山してきた隊の責任者にマイクを向けるメディア・・・。軍隊ではなく、戦争のための、戦場のための訓練ではなく、戦力増強ではなく、その予算をもって、災害救助隊としての最高の装備とスキルを備えてほしい。

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2014年10月14日 (火)

ユーカリが丘駅前の大学誘致をめぐるおかしな動き、やっぱり、山万が ~第3回「大学等の誘致に関する懇話会」(2014年10月10日)傍聴から振り返る(2)

そして、今年の市議会では~市長、はっきりして!

  今年に入って、誘致賛成派の議員たちの順天堂への働きかけ、山万との話し合いなどを重ねていたようだし、市議会での市長への質問も活発であった。直近の9月議会を録画で見てみると、賛成の議員は勢いづいての質問であったが、9月8日の大野博美議員と9月9日の萩原陽子議員の質問によって、実態が少しわかるようになった。

  大野議員の質問によって明らかになった事実、7月10日の順天堂からの文書での佐倉市進出構想案では「サテライトキャンパス」となっていたのを、誤解を招くとして「削除」させた件、2006年には、順天堂大学印西キャンパスを都内葛飾区のUR工場跡地に移転すべく交渉を進めていたが、3年後になって、本郷キャンパス拡充が優先するとして辞退にいたり、葛飾区の責任が問われることになった件(その後、理科大誘致が実現)などを例に、大学誘致は、大学の事情、資金やタイミングにおいて、多大のリスクを伴うことを指摘した。大学誘致には、当然、立地可能な用途地域変更、容積率緩和などが必要になって来るが、市は、建設計画の詳細が不明な以上、都市計画変更上必要な手続きは進められない、と答弁していた。なお、先の7月10日文書で、建設予定地は無償の使用貸借ではなく、地上権設定によって第三者対抗要件を備えたより安定的な権利関係を望んでいるが、当事者間で確定したわけでもない。また、市民の意識調査の実施、懇話会の設置に関しても、順天堂誘致の具体的提示がないままでは、有効な結果は得られないだろうとの指摘は、もっともなことであった。

  9月9日、萩原議員の質問では、先の記事にあったように、周辺住民にしてみれば、土地区画整理事業との関係が一大関心事である。2013年4月のユーカリが丘駅北土地区画整理組合準備会提出の事業計画では、対象面積4ヘクタール、想定人口1000人、300戸であったが、その後大学誘致を含めての事業計画変更の申請はいまだにないという。山万からの周辺住民への説明では、20階建てで、1階は店舗、上階を教室・研究室・図書館の10000㎡、600人収容講堂の1200㎡、バスケットコート2面他の2500㎡とのことであったが、その後、佐倉市にも詳細な計画は一切伝えられていない、との答弁であった。また、懇話会には、土地区画整理事業の件は、一切伝えないままで、議論を進めているのは、大学誘致とは別々の申請であって、それを受けてから進めたいとしていた点は、納得しがたいところであった。 なお、両議員がともに、市に質したのは、順天堂大学が示した、総工費48.5億円の根拠であった。市は、詳細が一切不明なこと、したがって公的支出の判断のしようがない、というのが一貫したスタンスではあった。なお、順天堂側は、公的支援の規模がわからない以上、詳細は示せないという、どうもそんな綱引きが続いている様相である。しかし、公的支援を受けようとする側が、その額の根拠を示せないというのは、合理的根拠に欠けるのは明らかだろう。

  市長よ、ふらふらするな、ハッキリしてほしい。財政的な余力は、佐倉市にはない。 第一、少子化により大学の存続自体が危ぶまれる昨今、さらに学生募集の目玉として、どこの都市圏でも、都心回帰が進む現状をどうとらえるのか。870人程度の昼間人口が増えて街が活性化するのか、経済効果があるのか。コンビニやファストフードの店が増えるかもしれない、関連の非正規雇用が若干増えるかもしれない程度の経済効果ではないのか、素人ながら考える。 山万の考える「まちづくり」は掛け声や宣伝が先走る。年取らないまちを目指すといいながら空き家はふえる一方だし、高齢者の買い物が大変そう、中途半端な実証実験バスが街を走るけれど、ユーカリが丘に図書館というものがない、本格的な書店がない、見たい映画がかからない・・・。佐倉市からもかなりの公的支出を引き出した井野東、井野南の区画整理事業の功罪を見極めたい。今度の公的支出は、さらに半端でない25億である。  

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ユーカリが丘駅前の大学誘致をめぐるおかしな動き、やっぱり、山万が~第3回「大学等の誘致に関する懇話会」(2014年10月10日)傍聴から振り返る(1)

この日の懇話会では~順天堂、山万にとって、なんともムシのいい話では?

傍聴した懇話会は、つぎのようなメンバーで、すでに、第1523日、第2725日と開催されている。懇話会設置の目的について、市長は、順天堂から大学のスポーツ健康科学部の新キャンパス構想案の提案を受け、同時に大学施設建設への財政支援を要請されたので、その公的支出の在り方について有識者の意見をいただきたい旨、述べている。年内に5回ほど開催して、報告書作成の段取りらしい。この間、市が行った市民の誘致に関する意識調査と他の自治体における誘致事例調査、シンクタンクによる大学誘致の経済効果などの結果を踏まえての議論が進んでいる。第3回は、主に経済効果調査の報告を中心に意見交換がなされた。私は初めての傍聴だったが、傍聴者は11人、これまでで一番多いとか、山万関係者1名、市民8名、議員2名であった。

この日の懇話会でも、委員から疑問が出ていたが、その性格がスタート当初から不明確なのだ。12回の議事録を読んでみると、懇話会の事前に、事務局から、一般的に大学誘致に伴う公的支出の在り方を論じてもらうのであって、特定の大学名、すなわち順天堂大学という個別の話はしないようにというの指示があったらしい。委員たちは、それでは検討が難しいと言えば、「個別の話にのみに特化するのではなく、大学誘致をそもそもどう考えるのかについてご議論いただきたいとの趣旨であった。その中で、個別の話を出していただくのは構わない」(?!)と事務局は応えている(第1回議事録より)。分かったよう分からないような答弁。市民のアンケート調査にしても回収率が悪く、どう見ても質問や選択肢が悪いし、誘導的であった。期待できる効果を問うたものにしても、人口増加、雇用拡大、昼間人口増による賑わい、社会貢献、消費による経済効果など、その回答には突出したものはなく、ばらけていていずれもパーセントは低く、20%前後だ。他の自治体の大学誘致の事例、佐倉市と同規模自治体の同程度規模の大学誘致の事例も報告されているが、それは様々で、誘致の経過、公的支出の割合、誘致によるメリット、デメリット・・・、誘致効果など簡単に計れるものではないだろう。街は賑やかになったか、若者の人口が増えたか・・・、担当者に面談か電話かをする調査もしていたらしいが、これとて参考のデータになるのだろうか。経済効果にいたっては、具体的な条件が定まらずして、調査ができたのだろうか。この調査業務は200万で千葉銀行の研究所が落札したという。委員には、詳細な資料が配られているのか否か、傍聴人に配られた簡単な資料も退室時には回収されてしまった。その資料によれば、順天堂大学側の提案の一部が表になっていて、山万からの3000坪無償貸与を前提に、学生が4学年870名、教職員60名の規模、教室・研究室・図書館と600人収容の講堂、バスケットコート2面を含む施設の総費用485000万円、その半分を佐倉市が負担せよ、容積率も変更せよ、というものだった。ひとことで言えば、大学にとっても、ユーカリが丘駅北口再開発を進める山万にとっても、なんと“虫のいい”話ではないか。市民の税金25億近くを出させようとは。

 委員同士、担当の企画政策課とのやり取りを聞いていても、環境経済学、行政法専攻の教授たち、弁護士、葛飾区で理科大誘致にかかわった元担当者、シンクタンクの研究員たちの質問や意見は専門的とは言い難く、感想や思い付きの座談めいて、それはゆるいものだった。なかには、委員同士のエール交換だったり、委員が市担当者の調査をねぎらうものであったりと、実がない。いったいどんな報告書を出そうというのだろうか。 あと2回の懇話会に何が期待できようか。

  たしかに市のスタンスは曖昧なのだが、委員は市が何をしたいのかを明確にしない以上はとお茶を濁さず、山万や市議たちの外圧に惑わされることなく、「御用」ではない第三者の専門家としての知見を発揮してほしい。

***********************                                      

 

 任期:平成265月~平成273月 

 

佐倉市大学等の誘致に関する懇話会委員名簿

 
 

氏名

 
 

経歴等

 
 

備考

 
 

有村 俊秀

 
 

早稲田大学政治経済学術院教授

 
 

 

 
 

淡路 睦

 
 

株式会社ちばぎん総合研究所主任研究員
 
佐倉市補助金検討委員会委員

 
 

 

 
 

下井 康史

 
 

千葉大学大学院専門法務研究科教授

 
 

副会長

 
 

山崎 喜久雄

 
 

元葛飾区教育委員会教育長
 
佐倉市行政改革懇話会委員
 
佐倉市補助金検討委員会委員

 
 

 

 
 

湯川 芳朗

 
 

弁護士

 
 

会長

 

 そもそも、どこから出た話なのか

佐倉市の大学誘致の話は、わが家が転居してきたころだから、平成に入って、菊間、渡貫市長時代から、ちらほら聞かないではなかった。企業誘致と合わせての市の振興策の一環として、市議会でやりとりされている。渡貫市長は、市の側から積極的に大学誘致をするということは、財政負担が生ずることになるので慎重にならざるを得ないという姿勢であった。

蕨市長(20074月~)時代に入って、2011年末の市議会から、順天堂という大学名を伴って、一部会派の議員たちが、盛んに市長に質問し始めている。市長は、佐倉市への大学進出は街の活性化に寄与するが具体的な話は一切届いていない、大学が誘致されても免税されるので税増収にはつながらないので企業誘致の方を優先したい旨の答弁をしていた。2012年になると、さらに質問は執拗になり、市長は具体的な話があれば、手伝いはさせてもらうが、佐倉市には多額の財政支援を行う余力はない、としていた。20121217日「大学誘致に関する意見書」がさくら会、公明党などにより市議会に発議され、28人中22名の賛成で議決されている。それは、佐倉市の生産年齢人口の急減が憂慮され「佐倉市の人口減少と少子高齢化への対応と高等教育環境の整備、経済振興の活性化と品格ある佐倉市に期するため」順天堂大学を佐倉市に誘致するよう要請するものであった。

2013年の11月議会において、1119日、順天堂の理事長から佐倉市長に、山万からユーカリが丘駅北口に3000坪の土地の無償提供を受けること、容積率の緩和をすることなどを条件に、スポーツ健康科学部の新キャンパスを開設したい旨の正式な表明がなされたこと。市長は、多額の支援は困難であること、市民の理解が得られること、早く具体案を示してほしいことの3点を伝えたことが、議会の質疑で明らかになった(123日。なお、11月28日に理事長からの正式文書が届いている)。山万の広報誌「わがまち」12月号は待ってましたとばかりに「順天堂大学の誘致がいよいよ始動します!」と伝えた。

ところが、ここに至るまでには、山万の相変わらずの強引な、地元無視の手法が展開されていたのだ。毎年、秋に開催されるユーカリが丘自治会協議会と市長との懇談会に向けて、各自治会から提出された要望事項というのがある。2013119日に、地元のユーカリが丘3丁目自治会は、当該の3000坪を含む「ユーカリが丘駅北土地区画整理事業について」、とにかく、怒って、つぎのような経緯と要望を提出している。その主旨は、201376日、「ユーカリが丘駅北土地区画整理事業組合準備会」(山万ほか地権者)*による地元周辺住民への説明会が開催されたが、そこでは事業計画の内容ではなく、事業計画に記載されていない「大学の立地について」の説明に終始した。そこで、佐倉市に問い合わせたところ「20134月、市は、準備会から「基本計画協議書」が提出された以降、協議を進め、周辺住民への影響を考慮して基本計画の内容を十分説明した上で合意形成を計るよう助言を繰り返していた。市として順天堂大学に確認したところ、当区画整理事業区域内に進出する意思はないとのことである」との回答(82日)を貰ったが、さらに、準備会、実質的な事業計画者、山万への指導を強化するよう要望していたのだ。さらに、地元では、大学誘致による用途地域変更についてはもちろん、ユーカリが丘3丁目の地区計画制定者の一員でもあることから、周辺住民との協議をするよう、市の強力な指導を要望していたのである。なお、これらの要望については、同年1227日付で、ほぼ同上82日付回答と同旨で、加えて市と準備会との協議が中断しているとのことも明らかになった。

*<参考>千葉県における土地区画整理事業の手引き:

http://www.pref.chiba.lg.jp/tosei/shigaichiseibi/kumiai/tejun.html

この経過を見ると、地元自治会の山万への不信感は募るばかりだろう。しかし、市からの回答も、1227日付にしては、もっぱら準備会と地元自治会との問題に限定したもので、上記、市議会での質疑や市長の答弁がまるっきり反映されていないわけだから、市への不信感もいかばかりかと思う。そのさなかでの、「わがまち」のトップ記事だったわけである。(つづく)

 

 

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2014年10月 9日 (木)

何年ぶりだろう、京都へ(2)伏見桃山御陵、京都国立博物館

 もう一泊するつもりだったが、どうも、台風18号に、追いかけられるのか、追いかけるのかの様相になってきたので、一泊で夕方帰ることにした。昨夜の京都は、静かなものだったが。

 伏見桃山御陵に近い「泰長老」、何ともおめでたい地名に合同宿舎はあった。連れ合いが赴任中、私も娘もときどき訪ねてはいた。朝、近くのテニスコートの球音で目が覚めたのを思い出す。現在、この宿舎の廃止が決まり、15棟近い建物に入居者が散在して残っているようで、各出入り口のメールボックスは1戸ないし34戸以外は目張りがしてある状況で、さびしい団地になっていた。一部建て替え計画では、工事車両の出入り口に難航しているらしい。こんな「官有地」が全国に散らばっているのだろうな。早く見直して財政再建に役立ててほしい、というのが庶民の気持ちだ。JR桃山駅は相変わらずの佇まいで、踏切を渡ったところのお蕎麦屋さんを娘は覚えていた。御陵と反対側へ行けば、京阪伏見桃山駅、大手筋商店街で、当時はなかなかの賑わいであったが、いまはどうだろう。

 

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メールボックスは塞がれて

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 今日は参道へと進み、立派な砂利道となる。明治天皇陵まで登ると、宇治川と向島団地一帯が見下ろせる。かつては、真下の長い階段は、体育会系の生徒や学生の練習場と化していたが、今日、この階段には、23人の姿しか見えない。さらに少し下りの参道を進むと昭憲皇太后陵なのだが、陵の左右の松が赤茶けて枯れているようだった。目の前のゆるい短い石段を降りると、先の天皇陵前の階段下に合流する。下から見上げる石段には、なかなかの威圧感がある。

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JR桃山駅、踏切より望む

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明治天皇陵前から街を望む

 さて、夕方早めの新幹線に乗ろうとすると、あまり時間はない。少なくとも、9月にオープンしたという国立博物館新館へは行ってみたい。ということで、ルートは娘に任せて、JR桃山から東福寺乗換で京阪七条に出る。 若いときのひとり旅では、たしか京都駅から歩いた記憶もある。左手にすぐ博物館のレンガ塀が始まり、道路の向かいは三十三間堂で、辺りはにぎわいはじめ、ようやく観光地の趣を呈してきた。まずは、遅いお昼ということで、博物館内のカフェに入った。旧館「明治古都館」では、107日から鳥獣戯画展が始まるというが、新館「平成知新館」では913日から「京へのいざない」というオープン記念展が開かれている。あまり関心を示さない娘は入場料を払い、私は70歳以上無料の恩典に浴した。という私も、1階の仏像展示は、信仰の場で見なければ意味がないなどとライトアップされた仏像をしり目に、主に2階の肖像画、中世・近世絵画コーナーと1階の絵巻・書跡・染織コーナーを、かなりの駆け足で見学した。神護寺の平重盛像、源頼朝像は教科書でも見たような気がするし、その表情の違いなど興味深かったし、「京のにぎわい」の絵図の子どもや屏風の遊女たちの姿にも足を止めるものがあった。知恩院の法然上人絵伝が出品されているのは、後から知った。どうも通り過してしまったらしい。染織では日本の織物の装飾性というかデザイン性の高さをあらためて感じながら、もうちょっと時間が欲しいと思いながら、博物館を後にした。

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考える人レプリカと京都タワーを望む

京都博物館旧館前広場から

 京都駅では、娘オススメの中村藤吉本店の生茶ゼリー入りあんみつを土産に、柿の葉寿司のお弁当を買い込んで、八条口で別れた。

 結局、京都は時雨もしなかったが、名古屋を過ぎたあたりから、雲行きが怪しくなり、東京は、朝からシッカリ雨が降っていたそうだ。

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何年ぶりだろう、京都へ(1)醍醐寺

 台風18号が近づいて来るので天気が心配な週末だったが、仕事で京都に滞在している長女を訪ねた。ともかく、久しぶりの京都。1980年代半ば、連れ合いが京都に単身赴任が決まった時は、名古屋からひと月に一回くらいは訪ねる予定だったし、私の転職や長女の転校の算段などで訪ねた時期もあったが、ほとんど連れ合いが名古屋に帰るという暮らしになってしまった。その生活も3年で終止符が打たれ、夫の東京への転任で、一家は千葉県へ転居している。夫の住まいのあった桃山御陵辺りも、今回、ぜひ訪ねてみたいと思っていた。

 初日は、紅葉にはまだ早い醍醐寺へ向かった。京都駅前からの京阪バスは、結構乗りでがあって30分もかかっただろうか。二人とも初めてなので、その伽藍の広さにまず驚き、世界文化遺産(1994年)になっていることも初めて知った。桜もきっと見事だろうし、三宝院の庭園は失礼して、西大門を経て左に金堂、右に五重塔をみて、奥へ進むと朱塗りの弁天堂と橋が、池に映え、紅葉の時期の素晴らしさも想像できた。台風のためか、土曜日というのに、閑散としているのもありがたかった。上醍醐へのお参りは、時間もかかりそうなので、省略したのが残念ではあった。

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金堂では薬師如来像に手を合わせる

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醍醐天皇のため、朱雀天皇が着工、村上天皇の951年に完成。
幾度かの火災にも焼け残った、国宝

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若い僧たち、境内の掃除が始まったらしい。

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醍醐寺バス停

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2014年10月 1日 (水)

これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(4)「花子とアン」が終わって、柳原白蓮の戦前・戦後を振り返る

「花子とアン」は、途中から、柳原白蓮の人気で盛り上がったようなところもあったらしい。そういう、私も少し前のブログ記事であやかったことがある。「花子とアン」の白蓮は、短歌史、女性史をひもといた者であれば、「少し違うのでは?」の思いがあったのではないか。私は、女性短歌史、短歌とジェンダーについての関心から、これまで、「溢れ出た女たちの戦争詠」(『女たちの戦争責任』東京堂出版 2004年)では若山喜志子と斎藤史を、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」(『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年)では阿部静枝を、少し古くなるが「女性歌人たちの敗戦前後」(『扉を開く女たち―ジェンダーから見た短歌史19451953』砂子屋書房 2001年)では、女性歌人群像に焦点を当て、検証してきたことがある。白蓮自体について書いたものはないが、関係資料を残していた。敗戦前後の短歌総合誌と婦人雑誌の短歌や読者歌壇のコピーが今回役に立っている。

今回のドラマで、白蓮をモデルにした「蓮子」は、あくまでもフィクションなのだからという抗弁が聞こえてくるようだが、現実には、花子の場合と同様、ドラマでの「蓮子」と現実の白蓮が混在しながら白蓮としてひとり歩きしている現象には、大いなる危惧を覚えている。ドラマでは、夫の宮崎龍介ともども、平和を願う反戦論者を貫く設定になっているが、ここでも、現実との乖離は大きいと言わなければならない。なお、柳原白蓮は、「白蓮」と「燁子」を使い分けているので、太字で記した。歌人としての白蓮は、養親北小路随光による手ほどきとその嗣子との結婚後の佐佐木信綱の竹柏会『心の花』入会にさかのぼり、東洋英和時代に村岡花子をも誘うことになる。その後、宮崎龍介との一件で『心の花』を離れるが、1934年歌誌『ことたま』を主宰し、晩年まで続けられる。ドラマでは、『心の花』での片山廣子、長谷川時雨らとの交流は登場しなかったようだ。

1940年当時、柳原白蓮は、『主婦の友』に次いで100万部近い発行部数を誇る『婦人倶楽部』の読者文芸の短歌欄で、今井邦子、中河幹子ら数人の女性歌人たちと共に一カ月交代で選者を務めていた。その選者たちの競詠として194010月号には<靖国の英霊に捧げまつる>が組まれ、柳原燁子はつぎの2首を寄せている。

 

・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ

 

・御拝賜ふこのみ社にいくたりの女もありときくありがた

 

 また、長谷川時雨を中心に相寄った女性作家たちによる銃後支援をめざした「輝く会」が主催する九段対面の日、遺児の日のための白扇揮毫の折、柳原白蓮がしたためた短歌が機関誌『輝ク』に収録されている。

 

・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ

(九段対面の日)(『輝ク』8319404月)

 

・やがて鳴る東洋平和のかねの音に君がいさをもなりひびけとぞ

(遺児の日)(『輝ク』9519414月)

 

 これらの短歌は、当時のステレオタイプの戦意昂揚短歌にしか読めない。さらに、戦局が悪化、日本軍の各地での敗退が重なるさなか、多くの兵士が戦地に送られた。19442月『日本短歌』は<皇軍将士におくる歌>を特集、36人の女性歌人たちの短歌が集められた。柳原白蓮が「吾子は召されて」(8首)と題してつぎのような作品を寄せている。わが子に及んだ出征という事実の前に、気持ちは動揺したと思うが、ここでも、当時の「祝出征」の、いわば歌人としての公式的な短歌を詠み果せたいう感じで、個性が感じられない。これは、白蓮に限ったことではなく、当時の著名な歌人たちにも共通して言えることではなかったか。

・幼くて母の乳房をまさぐりしその手か軍旗ささげて征くは

 

・親にすぎし身丈器量と見上げけりこれやみ国のみ楯と思ふに

 

・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや

 

・借りたるをかへすが如く有難く吾子をたたせて心すがしき

 

 こうした短歌は、斎藤茂吉の言う「制服短歌」であったのか。敗戦後、「第二芸術論」をなんとかやり過ごした歌壇だったが、戦時下の作品をできればなかったことにしたいとする歌集編集が横行したり、自分は隠さず「全部見せます」と開き直りながら隠蔽したり、さまざまな手法で「清算」が試みられている。さらに近年では、戦時下の情報統制、言論統制の中で、みんな一生懸命歌っていたのだから、いまから責任うんぬんを言えないとの論調が再浮上したり、戦時下の短歌の再評価の機運さえ高まったりしている昨今なのである。

 なお、白蓮は、前述の『婦人倶楽部』の読者歌壇では、柳原燁子として別の一面を見せているようだ。というより、多くは女性読者から寄せられる短歌一首の背景にある、ひたひたと押し寄せる実生活の過酷さに目をつぶるわけにはいかなかったのだろう。この頃の歌壇欄は、見開き2頁で、約30首が入選作として発表され、3首が特選で短評が付されているが、やがて1頁となり、この欄の終期は未確認である。

 

19402

・砂の上に征夫の名しるし遊ぶ児は還らぬ父を日毎待つらし

(長野 大宮一穂)

 

・聖戦の野に散りませし人なればわが兄ながら何か尊し

(静岡 入山登美)

 

・召され行く愛馬の好きなる薊をば小草枯れゆく野に探しけり

(熊本 平原重子)

 

19408

・わが背にて慕ひて泣く子に征く夫の挙手の別れはきびしかりけり

(愛媛 榊とし穂)

 

・次郎柿の消毒期なりと薬価までくはしき兄の軍事郵便とどきぬ

(静岡 鈴木しげ子)

 

19414

・政府米納めて帰る空車老いたる父をのせて急ぎぬ

(愛知 大橋ふじゑ)

 

・手さぐりに俵編みする戦盲の兄と居向かひ涙わきくる

(横浜 山本信代)

 

194112

・既にして遺児と呼ばる運命をもつ胎動に耐へて初衣縫ひけり

(兵庫 藤井富美子)

 

・軍需工のわれにしあれば妻にすら言葉つつしむことの多かり

(防諜のおきて守りて)(大阪 刈谷留雄)

 

 ここには、「東洋平和」「東亜建設」などという総論的な「国策」は、もはや登場し得ないのである。

 そして、先の短歌にもあるように、実生活の白蓮は、長男の出征に直面し、敗戦の4日前811日死亡の公報を受けた。ここにして、はじめて、柳原燁子は下記のような作品により母親の心情を吐露するに至るのである。

 

「休戦四日前吾子香織戦死す」(10首)から

・たつた四日生きて居たらば死なざりし命と思ふ四日が切なし

 

・戦ひはかくなりはててなほ吾子の死なねばならぬ命なりしか

 

・かへり来る吾子に食はする白き米手握る指ゆこぼしては見つ

 

・かなしみはいまだ到らず心呆け炊きかけの飯に石くべそへつ

 

・我国が敗戦国といふこともしらで逝きしよ父母をおきて

(『短歌研究』194510月)

 

 この母の悲しみが原動力となって、白蓮は、「国際悲母の会」結成や世界連邦運動に参加するようになる。世界連邦運動は、その実現性からいっても、現実の平和運動とはなり得ないまま、現在の日本委員会メンバーを見ても自民党から共産党まで超党派の議員たちのサロンのようなことになっている様子が伺われる。

なお、櫻本富雄氏のブログ「空席通信・余話」(2014年9月3日)もぜひご覧ください。

 

ドラマにだまされないように。 ドラマは虚実ない交ぜのでたらめ話である

http://yowa.seesaa.net/article/404814799.html

 

 なお、宮崎龍介についても、ドラマでは、反戦を貫き、和平工作に努めたような流れであったが、これも現実とは違う。また、稿を改めたい。 

 

 

 

 

 

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