これでいいのか、花子と白蓮の戦前・戦後(4)「花子とアン」が終わって、柳原白蓮の戦前・戦後を振り返る
「花子とアン」は、途中から、柳原白蓮の人気で盛り上がったようなところもあったらしい。そういう、私も少し前のブログ記事であやかったことがある。「花子とアン」の白蓮は、短歌史、女性史をひもといた者であれば、「少し違うのでは?」の思いがあったのではないか。私は、女性短歌史、短歌とジェンダーについての関心から、これまで、「溢れ出た女たちの戦争詠」(『女たちの戦争責任』東京堂出版 2004年)では若山喜志子と斎藤史を、「内閣情報局は阿部静枝をどう見ていたか」(『天皇の短歌は何を語るのか』御茶の水書房 2013年)では阿部静枝を、少し古くなるが「女性歌人たちの敗戦前後」(『扉を開く女たち―ジェンダーから見た短歌史1945~1953』砂子屋書房 2001年)では、女性歌人群像に焦点を当て、検証してきたことがある。白蓮自体について書いたものはないが、関係資料を残していた。敗戦前後の短歌総合誌と婦人雑誌の短歌や読者歌壇のコピーが今回役に立っている。
今回のドラマで、白蓮をモデルにした「蓮子」は、あくまでもフィクションなのだからという抗弁が聞こえてくるようだが、現実には、花子の場合と同様、ドラマでの「蓮子」と現実の白蓮が混在しながら白蓮としてひとり歩きしている現象には、大いなる危惧を覚えている。ドラマでは、夫の宮崎龍介ともども、平和を願う反戦論者を貫く設定になっているが、ここでも、現実との乖離は大きいと言わなければならない。なお、柳原白蓮は、「白蓮」と「燁子」を使い分けているので、太字で記した。歌人としての白蓮は、養親北小路随光による手ほどきとその嗣子との結婚後の佐佐木信綱の竹柏会『心の花』入会にさかのぼり、東洋英和時代に村岡花子をも誘うことになる。その後、宮崎龍介との一件で『心の花』を離れるが、1934年歌誌『ことたま』を主宰し、晩年まで続けられる。ドラマでは、『心の花』での片山廣子、長谷川時雨らとの交流は登場しなかったようだ。
1940年当時、柳原白蓮は、『主婦の友』に次いで100万部近い発行部数を誇る『婦人倶楽部』の読者文芸の短歌欄で、今井邦子、中河幹子ら数人の女性歌人たちと共に一カ月交代で選者を務めていた。その選者たちの競詠として1940年10月号には<靖国の英霊に捧げまつる>が組まれ、柳原燁子はつぎの2首を寄せている。
・征きてみ楯死にて護国の神となる男の中の男とぞおもふ
・御拝賜ふこのみ社にいくたりの女もありときくありがた
また、長谷川時雨を中心に相寄った女性作家たちによる銃後支援をめざした「輝く会」が主催する九段対面の日、遺児の日のための白扇揮毫の折、柳原白蓮がしたためた短歌が機関誌『輝ク』に収録されている。
・天が下やがて治まり日の出ゆ東亜の空によき春来れ
(九段対面の日)(『輝ク』83号1940年4月)
・やがて鳴る東洋平和のかねの音に君がいさをもなりひびけとぞ
(遺児の日)(『輝ク』95号1941年4月)
これらの短歌は、当時のステレオタイプの戦意昂揚短歌にしか読めない。さらに、戦局が悪化、日本軍の各地での敗退が重なるさなか、多くの兵士が戦地に送られた。1944年2月『日本短歌』は<皇軍将士におくる歌>を特集、36人の女性歌人たちの短歌が集められた。柳原白蓮が「吾子は召されて」(8首)と題してつぎのような作品を寄せている。わが子に及んだ出征という事実の前に、気持ちは動揺したと思うが、ここでも、当時の「祝出征」の、いわば歌人としての公式的な短歌を詠み果せたいう感じで、個性が感じられない。これは、白蓮に限ったことではなく、当時の著名な歌人たちにも共通して言えることではなかったか。
・幼くて母の乳房をまさぐりしその手か軍旗ささげて征くは
・親にすぎし身丈器量と見上げけりこれやみ国のみ楯と思ふに
・国をあげて極まるときし召されたり親をも家をも忘れて征けや
・借りたるをかへすが如く有難く吾子をたたせて心すがしき
こうした短歌は、斎藤茂吉の言う「制服短歌」であったのか。敗戦後、「第二芸術論」をなんとかやり過ごした歌壇だったが、戦時下の作品をできればなかったことにしたいとする歌集編集が横行したり、自分は隠さず「全部見せます」と開き直りながら隠蔽したり、さまざまな手法で「清算」が試みられている。さらに近年では、戦時下の情報統制、言論統制の中で、みんな一生懸命歌っていたのだから、いまから責任うんぬんを言えないとの論調が再浮上したり、戦時下の短歌の再評価の機運さえ高まったりしている昨今なのである。
なお、白蓮は、前述の『婦人倶楽部』の読者歌壇では、柳原燁子として別の一面を見せているようだ。というより、多くは女性読者から寄せられる短歌一首の背景にある、ひたひたと押し寄せる実生活の過酷さに目をつぶるわけにはいかなかったのだろう。この頃の歌壇欄は、見開き2頁で、約30首が入選作として発表され、3首が特選で短評が付されているが、やがて1頁となり、この欄の終期は未確認である。
1940年2月
・砂の上に征夫の名しるし遊ぶ児は還らぬ父を日毎待つらし
(長野 大宮一穂)
・聖戦の野に散りませし人なればわが兄ながら何か尊し
(静岡 入山登美)
・召され行く愛馬の好きなる薊をば小草枯れゆく野に探しけり
(熊本 平原重子)
1940年8月
・わが背にて慕ひて泣く子に征く夫の挙手の別れはきびしかりけり
(愛媛 榊とし穂)
・次郎柿の消毒期なりと薬価までくはしき兄の軍事郵便とどきぬ
(静岡 鈴木しげ子)
1941年4月
・政府米納めて帰る空車老いたる父をのせて急ぎぬ
(愛知 大橋ふじゑ)
・手さぐりに俵編みする戦盲の兄と居向かひ涙わきくる
(横浜 山本信代)
1941年12月
・既にして遺児と呼ばる運命をもつ胎動に耐へて初衣縫ひけり
(兵庫 藤井富美子)
・軍需工のわれにしあれば妻にすら言葉つつしむことの多かり
(防諜のおきて守りて)(大阪 刈谷留雄)
ここには、「東洋平和」「東亜建設」などという総論的な「国策」は、もはや登場し得ないのである。
そして、先の短歌にもあるように、実生活の白蓮は、長男の出征に直面し、敗戦の4日前8月11日死亡の公報を受けた。ここにして、はじめて、柳原燁子は下記のような作品により母親の心情を吐露するに至るのである。
「休戦四日前吾子香織戦死す」(10首)から
・たつた四日生きて居たらば死なざりし命と思ふ四日が切なし
・戦ひはかくなりはててなほ吾子の死なねばならぬ命なりしか
・かへり来る吾子に食はする白き米手握る指ゆこぼしては見つ
・かなしみはいまだ到らず心呆け炊きかけの飯に石くべそへつ
・我国が敗戦国といふこともしらで逝きしよ父母をおきて
(『短歌研究』1945年10月)
この母の悲しみが原動力となって、白蓮は、「国際悲母の会」結成や世界連邦運動に参加するようになる。世界連邦運動は、その実現性からいっても、現実の平和運動とはなり得ないまま、現在の日本委員会メンバーを見ても自民党から共産党まで超党派の議員たちのサロンのようなことになっている様子が伺われる。
なお、櫻本富雄氏のブログ「空席通信・余話」(2014年9月3日)もぜひご覧ください。
ドラマにだまされないように。 ドラマは虚実ない交ぜのでたらめ話である
http://yowa.seesaa.net/article/404814799.html
なお、宮崎龍介についても、ドラマでは、反戦を貫き、和平工作に努めたような流れであったが、これも現実とは違う。また、稿を改めたい。
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