ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(2)
ゲーテハウスにたどり着く
10月22日、朝7時は、まだ暗い。荷物整理後、朝食へ。モノポールのアニメティには、石鹸がなかったので、洗濯ができなかった。また、歯磨きのチューブも、当地で調達した。チェックアウト後、荷物を預け、今日は最後のフランクフルト市内観光である。U4でレーマー広場へ。シルン美術館の裏手に出たらしく、まごまごしていると、一緒に降りた中年の女性が、広場を教えてくれる。今回の旅行では、ドイツ人の親切さには、幾度も助けられた。当方がよほど頼りなげに見えたのか、街かどで地図を広げていようものなら、必ずと言っていいほど、声をかけてくれるのだ。世代を問わず、つたない英語を聞き分け、熱心に教えてくれる。中には追いかけてきて、ホームへのエスカレーターまで誘導してくれたり、乗る電車のドアを開けて待ってくれたりする。施設に入れば、英語や日本語のガイドを手渡しにきてくれる。「おもてなし」などというが、自分たちが東京の街角の外国人にこれほどまでに親切にできるだろうか、と考え込むこともあった。
レーマー広場の石畳は、昨夜からの雨に、白く光っていた。寂しげな広場とも思っていた矢先、遠足の子どもたちが、列をなしてやってきた。まだ低学年と思われるが、いまどきの子どもたちは、デジカメかスマホか、みな手を高く掲げ、撮影に余念がない。広場の中央の正義の女神?と旧市庁舎のファサードが連なっている光景は、たしかに中世の面影を留める。工事中の大聖堂、そして工事中の歴史博物館の外を一巡りして、ゲーテハウスを目指す。
レーマー広場は急ににぎやかになった
大聖堂裏側では工事が進んでいた
そんなに遠くはないはずだが、細かい路地の通り名が記されている地図が少ない。見当をつけて、店の前で煙草をのんでいる女性店員に尋ねると、なんと目の前だったので、笑ってしまう。入口は目立たないのだが、赤く色づいた蔦が屋根までの壁を覆っていた。ここは、ゲーテが生まれて26歳まで過ごした家、もちろん、大戦で焼け落ちたのだが、調度・家具類は、地下などに避難させて無事だったという。1階で、まず目を引いたのが、台所である。くみ上げ式の井戸、かまどと鍋類、壁に掛けられたケーキの型ぬきの種類の多さ。棚の上には、カンテラがあり、カンテラの火の数が、身分で決まっていたらしいとか、1階から2階に上がる階段の3段までは焼け残ったものなので、色が少し違うとか、当時の男子・女子の教育の違いとか・・・。たまたま、見学コースで鉢合わせる日本の女性3人連れのお一人からの受け売りである。3人ともドイツ住まいが長いということであった。
ともかく、どの部屋にもデザインの違う立派な暖炉が置かれ、そして、さまざまな意匠のライティングデスクが置かれていた。ゲーテの父親の教育熱心なさまは音楽室や学習室、そして書斎などに伺うことができた。隣には、美術館が設置されていたが、ゆっくり見ることはできなかった。
ゲーテハウス入口
ケーキの型抜きとミルク差し
これは質素な方の暖炉がある書斎
少し歩けば、ゲーテをはじめとするモニュメントがある緑地帯があるはず。トラムが行き来する五差路にぶつかる。その手前には、写真で見かけた、欧州中央銀行のユーロの形をした大きなモニュメントが控えていた。緑地帯はフェンスを巡らし、工事中であったが、シラーとハイネの記念碑は見つかった。ゲーテ像が仰げなかったのが心残りだったが、Uのヴィリー・ブラント駅からホテルに引き返す。私は、この駅名が覚えられなかったが、あとから、なんとブラント首相(1969~1974在任。ドイツ社会民主党首1964~1987年、1992年に79才で死去、1971年にノーベル平和賞を受賞している)にちなんだものと知ったのだった。
欧州中央銀行前庭
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