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2014年11月 7日 (金)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(6)

家庭的なレストラン、Heisingで  
   10月24日(金) 午後、ベルリン中央駅を経て、定刻の15:08分には、Zoo中央駅に着いた。ホテルSoftilは、カイザー・ウィルヘルム教会の通りを越えた、6・7分ほどの角。 7階、室内は、現代の抽象画で統一されていた。また、バスタブは、シャワー室ともトイレとも仕切られていて、なんとなく落ち着く空間になりそうだった。まだ、夕方までには時間がありそうなので、どこかへ出かけようなどと話してはいたが、私は、車中で分けてもらった缶ビールの酔いが回ってきたのか、疲れと睡魔に襲われ、ベットで一休みとなだれ込んだ。そして、なんと起こされたのが6時半、2時間は眠っていたことになる。ここから遠くないところで、行ってみたい、評判のレストランがあるからというので、出かけてみることになった。歩き出すと、どうも右足が少し痛い。踏み出すとき、踵が痛む。予約はしてなかったのだが、入口に近い席でよかったらとその一つに案内するのは、年配の紳士で、片言の日本語で迎えてくれた。オーナー夫婦のご主人らしかった。三品のコースを頼んで、連れ合いは赤ワインを、私は情けないがソフトドリンクとした。メインは仔牛のステーキだった。店内の壁や調度品などには年代が伺われ、落ち着いた雰囲気であった。空いていた2つのテーブルも埋まり、続く来店客は何組か断られていた。ときどきワインを注ぎに来るご主人に、連れ合いは、突然、日本語で「オゲンキデスカ」とか問われて、戸惑っていたのがおかしかった。私は、いささか元気を取り戻して、ホテルでは洗濯をしたのだが、どうも足が痛むので、やたらと湿布とバンテリン軟膏をぬって、休むことにした。あしたは、最悪の場合、私はホテルに残ってとも考えていた。

  鎮魂の17番線ホーム
  10月25日(土)、なんとか足の痛みもひいたので、一緒に出掛けることができた。駅でベルリンカード(3日間)を購入、グリューネヴァルトの「17番線ホーム」をめざす。この「17番線ホーム」のことを最初に知ったのは、歌人正古誠子さんのエッセイだった(「ベルリンを歩く」1~2『言葉』20~21号2008~2009年)だった。もしベルリンにもう一度来ることができたら、ぜひと思っていた。ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所を訪ねたのは2008年だったが、ベルリンのユダヤ人の多くが、このグリューネヴァルトの「17番線ホーム」から、アウシュヴィッツやテレジン、リガの強制収容所などへと送られていたのである。そして、その記録が、いまは使用されていない、貨物列車専用ホーム17番線に刻まれているという。 
  下車したのは、何の変哲もないグリューネヴァルト駅、幅広いホームには乗客の姿もなく、無人駅にも思え、地下通路へ降りると”GLEIS 17”の看板が見えるだけである。さっそく階段を上ると落葉が降り積もるホームがどこまでも続いているかと思うほど長い。その線路側には、白いバラの切り花が延々と続く。そして、足下は、錆びた鉄の格子状の板が敷き詰められている。が、よく見ると、その白バラの下に"25.1.1942/1014/JUDEN /BERLIN-RIGA"といった文字が刻まれている。「1942年1月25日に1014人のユダヤ人がベルリンからリガへこのホームから発った」ことが刻まれているのだ。駅には、1941年10月18日から1945年3月27日まで、183枚のこのプレートが敷きつけられ、その人数は1万7000人 に及ぶという。見た感じでは、テレジン行きが一番多いように思われた。
  ホームには、時折、ジョギングの青年や犬を連れた家族連れなど地元の方々が、すれ違い、通り過ぎてゆく。辺り一帯は、昔も今も、高級住宅地でもあるという。靴底から伝わってくる鉄と落葉の感触とかすかな音のみの世界、すっかり黄色に染まった木々の葉は、ときには私たちの肩にも触れて、ホームの白バラの上に落ちる。その下に刻まれた文字が示す、遠い過去の戦慄の事実に、身も心もなえてしまう。人々は、こんな季節にも、列車に押し込まれ、この地を離れて行った。そのときの心を思うと、いまの私は何をしたらいいのか、立ち尽くすばかりだった。

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"25.1.1942/1014/JUDEN /BERLIN-RIGA"の文字が読める

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この駅にある店は、花屋とパン屋さんだけだった

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この駅舎からは、想像もできない事実を秘めている

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駅の外からも、このホームに登れるようになっている

 

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日常的に供えられている花なのだろうか。だいぶ雨に打たれているようでもあった。
帰国後、今年は10月15日に73年目の追悼式が行われたことを知った

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帰国後、持ち帰った資料の中から出てきた、10月15日追悼式のプログラムとその表紙

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忘れないために。17番線ホームの外からの上り口に、コンクリートに彫られた追悼碑は、ポーランドの彫刻家の手によるという。女性や子どもとわかる姿も刻まれている

 

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語り継ぐために。駅前にあったブック・ボックス<17番線ホーム文庫>

 

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帰りの地下通路で、こんなポスターを見かけた

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