ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(8)
この辺り一帯をベンドラー・ブロックと呼ぶらしい
未消化ながら、その抵抗精神を貫いた人々の足跡に圧倒されながら、抵抗運動記念博物館を後にしたわけだが、外に出てみると、Polizeiの文字の車が並び、点々と警官が立っている。何ごとかと思えば、絵画館前辺りで、気勢をあげている一団、せいぜい20 人くらいの人たちが、遠目で分からないのだが旗を振りながらシュプレヒコールをしているのを、多くの警官が囲んでいるではないか。ネオ・ナチ?詳細が分からないまま、私たちは反対側の歩道を進んだ。この辺り一帯は、都市計画の設計者にちなんでベンドラー・ブロックと呼ばれているらしい。さまざまな公的な文化施設が立ち並んでいて、「文化フォーラム」と名付けられている。その一角に、翌日再び来ることになるコンサートホールの「フィルハーモニー」もあったのである。
「文化フォーラム」翌日訪ねたフィルハーモニーも、新国立美術館もこの一角にあった
近づくのが憚られ、遠景になった
つぎは、ポツダム広場を経て、ブランデンブルグまで、歩くことになった。広場では、残された「壁」の付近を写真におさめた後、広大なティーア・ガルテンを左にしながら、黄葉の並木道を歩くのは苦にならなかった。2008年の際は、あのブランデンブルグ門わき、いわば都心の一等地に建設されたホロコースト追悼モニュメント、方形の、高さの異なるコンクリート塊による“巨大迷路”のような建造物に圧倒されたのを思い出す。「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のために」2005年5月に完成して、3年目であったのだ。議事堂をもまじかに控えたこの地に、ドイツが、こうしたモニュメントを建設したこと自体、日本という国の在り方、歴史認識の違いを目の当たりにして驚いたのであった。きょうは、ウンター・デン・リンデン通りを進み、博物館島あたりまで歩いてみようということになった。かつては素通りしてしまったカフェ・アインシュタインにも立ち寄りたいと連れ合いはいう。また、その前に、たしか議事堂脇の道端にあった、ブランデンブルグの東西分断の壁越えをしようとして犠牲になった人たち、多くは若者たちを追悼する碑をもう一度訪ねたいというのが連れ合いの希望だったが、どうしても見つからなかった。
ホロコースト碑、19073平方メートルに2711基の石によるオブジェだが、墓石のようにも、石棺のようにも・・・
シンティ・ロマ族追悼記念碑
そこで、迷い込んだ?のが、新しいアクリル板の長いモニュメントに囲まれ、円形の池を擁する一画であった。パネルの説明と出口で手にしたリーフレットによれば、ナチス時代のシンティ・ロマ族のジェノサイドによる犠牲者の追悼記念碑であった。荘厳な音楽が辺りに流れ、池の周囲には、真新しい花束がいくつか供えられていた。よく見ると、10月24日に式典が行われているらしかった。ジプシーであった少数民族シンティ・ロマ族は、ドイツ民族の純潔を汚すとして、1933年から迫害が始まり、絶滅政策の犠牲になった。ユダヤ民族への迫害・絶滅については、多くの記録が残され、語り継がれているが、シンティ・ロマ族に関しては、知られることが少なかったという。この記念碑建設までには、その立地、解説文などを巡って、多くの歳月を要し、2012年10月に完成している。私も無知に等しかったが、ドイツやナチスの歴史には、わずかながらページを割き、書かれていたのをあとで知った次第である。今回は素通りの国会議事堂の、まさに足もとにこうした追悼記念碑が建設されたことに、先のホローコスト追悼記念碑の建設と同様な感慨を覚えるのであった。
石畳のところどころに、犠牲者の名前が彫られていた
リーフレットの一部(1)
リーフレットの一部(2)
ブランデンブルグ、その周辺
一帯は、相変わらず観光客が引きも切らず賑わっていたが、門の正面には、たしか以前にはなかった、一風変わったモニュメントがあるのに気付いた。ポーランド絶滅戦争についてのメッセージが込められているのだろうか、金網で囲われた厚い壁のような柱状の中に人間の顔ほどの大きさの石が積まれているのだ。側面には、その歴史を語る写真と解説パネルが貼られていた。「ここにも・・・」の思いが去らない。なお、もう少し進むと右手の大きなビルには、ホテル・アドロンの表示があった。ここは、かつて三国同盟時代の松岡洋右外相が泊ったホテルであったが、ベルリン市街戦下では野戦病院にもなったといい、1945年3月には焼け落ちている。ホテル再開は1997年で、いまはケンピンスキー系列の五つ星のホテルになっている。オバマ大統領も泊ったそうだ。ホテルを右に折れる街路は、ナチス時代の各省が並んでいた官庁街、現在は、ホテルと街路をはさんでは警察本部が、ホテルの並びにはイギリス大使館などが並んでいた。
「ポーランドにおける絶滅の戦争」(?)名付けられていた
さらに進むと、向かいのスタバの前を、絵画館前にいた一団が警官に守られながら?行進をしているのに再会する。そちら側に渡ってしばらくすると、ブラント元首相の資料館があった。連れ合いは、寄ってみたいが時間が気になると、まずはカフェに急ぐ。アインシュタインの店内は満席に近く、ようやく見つけた相席で、頼んだラテ・コーヒーとバニラクリームつきのケーキは格別だった。よく考えてみると、結局昼食抜きで4時過ぎまで歩いていたのだが、ケーキは二人で一つを分け合って正解だった。その大きかったこと。一息ついて、はや暮れかかった通りを進めば、巨大なフリードリヒ大王の騎馬像が目に入る。ただ、いまだ再開発の工事だろうか、これも背が高いクレーンが、頭上高くコンクリート塊を挟んだまま止まっているのは恐ろしかった。まずフンボルト大学の門をくぐり、建物に入ればエントランスホールは、明るくにぎやかだった。前庭の様々な銅像のいわれを知りたいが、先を急がねば。振り返れば、大学の建物は少し前にライトアップされたようだった。
ごちそうさまでした
フンボルト大学のライトアップ
道路を挟んだベーベル広場には、今日の目的でもあるナチス時代の焚書の記念モニュメントがあるはずである。この広場の左手は国立歌劇場だが、大改修工事中らしい。かつての国立図書館に面したベーベル広場は焚書広場とも呼ばれているのに、見渡しても、そのモニュメントらしきものがない。「焚書」を象徴する「空っぽの図書館」があるはずなのだが・・・。すると、すでに薄暗くなった広場の工事中の板塀付近に人だかりがしているので、近づいてみると、ありました!足もとの石畳が大きく繰りぬかれ、ガラス張りの下には真っ白な書棚だけが見え、みんなが覗いていたのである。地上には、板塀に、その表示があるだけだった。それだけのことだったのだが、「焚書」という歴史的事実を忘れないためのモニュメントとして、地下からの白い光の束は、やはり衝撃的であった。
工事中の板塀に、こんな表示だけがあった。1933年5月10日、ナチスによりハイネ、ブレヒト、ツヴァイク、マルクス、ケストナーらの本が焼き払われた
深さ5mというが、空洞で、焼かれた2万5000冊の本が収まる空っぽの本棚
抵抗運動記念博物館に展示されていた「焚書」時の写真
すっかり暮れてしまい、昼食抜きで歩いたためか、疲れもピークか、ここからバスの100系でZoo中央駅に引き返すのだが、初めてバスの2階席に上がってみた。かなりの大回りながら、街の夜景が眩しかった。明日は、少し遠出の予定である。レストランに行くのが面倒と、ホテルでのテイクアウトの夕食とあいなった。
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