ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)
ベルリン3日目、冬時間へ
私たちが日本を発ってすぐに小渕・松島両大臣が辞任したことは、ホテルの新聞で知った。その後の娘からのメールでは、後任の両大臣にも、つぎつぎとボロが噴出しているとのことであった。こちらではテレビを見るゆとりもなく、天気予報を見るくらいだった。青空を見ることは少なかったが、傘をさして歩いたのは、フランクフルトの2日目の夕方だけだったように思う。
10月26日(日)、いよいよベルリンも3日目となった。朝6時、早すぎるかなと思いながら、旅のメモでも取っておこうと、ふたたび枕元の時計を見ると、?まだ5時?ホテルの時計が止まっている!と夫に告げると、「そう、きょうからだったのかな、冬時間に切り替わったかもしれない。旅行社のMさんが言っていた」とのこと。この時期に影響の少ない日曜日に夏時間から冬時間に切り替わるらしい。少し得をした気分ではあった。ほんとうにドイツの朝は、明るくなるのが遅く、7時になっても真っ暗だった。早めの食事を済ませ、夫は、きょうの目的地、ザクセンハウゼン強制収容所への予習に余念がない。そして、きのう、私が「なんか気持ちの重くなる所ばかりをまわてきたので、コンサートにでも行きたいね」と口走ったばかりに、夫は、昨晩のうちに、今夜ベルリン・フィルハーモニーでドイツ・シンフォニー・オーケストラのコンサートがあることをホテルで確認、予約を依頼したが、当日売りで入手してくれとのことだった。その方もやや気がかりではあった。
ザクセンハウゼン強制収容所へ
Sバーンでベルリン中央駅に出て、RB(Regional Bahn)5で強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かう。9時44分発、約30分。駅からは歩いて20分というが、804系バスには、学生だろうか、日本の若い女性3人組と一緒に乗った。終点バス停の前で、帰りのバスを確かめ、1時間に一本なので午後1時9分とした。厚いコンクリートの壁の切れ目から入場、収容所の入り口は、長い石の塀に沿った一本道、いわゆる「収容所通り」を進んだところらしい。その途中の塀には、強制収容所での出来事が大きな写真で展示され、その役割を強く印象づけられる。ナチス解体後は、ソ連、東独の特設収容所となっていたのである。入口の正面にはレーニンの顔写真が掲げられている写真もあった。
バス停を降りると、こんな壁の間を縫って
収容所通りには黄葉が舞う
目を蔽いたくなるような写真が続く
以下は、入り口で購入したコピーの日本語案内(50セント)による。1933年3月、ナチ突撃隊によってオラ二エンブルク市の中心部に開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、1934年7月に親衛隊に引き継がれ閉鎖している。1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、親衛隊により設計されたのがザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。以降1945年4月22・23日、ソ連とポーランドの軍隊ににより解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。当初は政治犯が主だったが、後は人種による収容が多くなった。1945年8月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも1万2000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、ソ連軍東独軍の施設として利用されていたが、1961年に国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。
案内所では、オーディオガイドも借りられるが、日本語はなくて、上記のA4版20数頁のコピーによる案内だけが用意されていた。収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字は、アウシュヴィッツ収容所の入り口のアーチに掲げられている文言と一緒である。その一辺を底辺とすれば頂点に近い位置に、東独時代の石の記念碑が立っている。入り口近くに扇型の点呼広場⑫を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。
入口から正面のオベリスクは高さ40mあるという
”ARBEIT MACHT FREI”の文字が見える
③ 収容所通り ⑩ 入り口 ⑫ 点呼広場
まず、博物館で、予備知識をと思い入館した。収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回り切れず、いわば、本部に当たる監査棟、病理棟、強制労働がなされた工場棟、犠牲者の墓地など大半を見残している。が、総じて、権力を持った人間が持つ狂気、それに押しつぶされる人間の良心と抵抗の力をも、あらためて知ることになるのだった。
博物館、ある画家の残したエッチングなど
博物館、流れる映像と鉄条網の束
バラック38は、収容棟博物館になっている
遠くの施設には足を運べなかった
当日券でコンサートへ
オラニエンブルクからポツダム広場に直行、きのうも出かけた「文化フォーラム」の一画にある「フィルハーモニー」のコンサート会場には3時過ぎに着いたのだが、夜8時からの開演で、当日券は6時30分から発売とのことだった。それではと、近くの新国立美術館に入ってみることにしたが、これまた、まさにドイツの現代美術展であって、抽象画や奇妙なオブジェも多く、正直なところ馴染めないまま、一回りだけはしたのだった。この間にとソニー・センターの2階のレストランで夕食となり、少しゆっくりしたのだった。きょうも結構歩いたなと、万歩計をのぞけば、1万3000歩、ドイツに来てからは、1万3000~2万歩で、日常的には多くて5000から6000歩なのだから、いつもの3倍は歩いていることになる。頑張っているではないかと自分をほめたい?感じ。
ようやく当日券入手、迷いはしたが、座席はFブロックで32€(プログラム2€)、7時には開場とのことだったが、だいぶ遅れた。大ホールは、複雑な重層的な構造で、F席は3階のようである。この会場では、まだ先のようであるが、内田光子や辻井伸行のリサイタルも開催されるらしい。開演間際になると、A・B席はほぼ満席、F席は6・7割か、まるで空席のブロックもあり、全体として4・5割程度なのかもしれない。ワグナーの「ジークフリート牧歌」とバルトークの「弦楽器と打楽器、チェレスタのための音楽」で休憩に入るので、そこで失礼することにした。ワグナーは、やさしい子守唄を聞いているようであったし、バルトークは、チェレスタ・ピアノ・木琴をはじめ打楽器が多彩で、ピアノの連弾もあって、たのしく聴くことができた。ベルリン最後の日も長い一日となった。
チケットと大ホールの見取り図
大ホールをF席から見ると
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