« 沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(1) | トップページ | 沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(3) »

2014年11月19日 (水)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(2)

海の青さが違う
  11月11日、羽田空港8時55分発のJAL便で、那覇空港11時40分着だった。着陸前の海の青さに旅心は募る。気温の落差が心配だったが、長そでシャツにベストで、暑いということもなかった。モノレール乗り場へは直結していて、ホームに立てば、街からは、選挙街宣車の声が届く。姿は見えないが、県知事オナガ候補夫人、那覇市長しろま候補の娘さんが紹介され、短い挨拶が続いていた。通称「ゆいレール」で16分の牧志(マキシ)下車(260円)、かなり高いところを走り、日中は10分に1本、終点は首里だが、佐倉のユーカリが丘線とは輸送量が違う。沖縄には鉄道というものがない。宿は国際通りのほぼ中央のJAL cityホテル、昼前ながらチェックインができた。荷物を置いて街に出よう。

Gedc4056
声はすれども、選挙カー見えず、モノレールの駅から

首里城の再建、あまりの絢爛さに戸惑う
    最初に向かうのは首里城、今度は、ゆいレールの県庁前から乗って、終点首里で下車。交差点近くにある選挙公報の看板が長いのは、知事・市長選と県議と市議の補欠選挙が同時にあるらしい。上りも下りもある城壁沿いを進めば、見晴らしのいい高台に出る。やがて、左手に、久慶門、歓会門が現れ、この辺りになると観光客、修学旅行生でにぎやかとなる。まずは、守礼門に隣接するレストランで昼食、私は初めての沖縄そばの定食にした。歓会門から入り、いくつかの門をくぐり、修学旅行生たちのガイドさんの説明を聞きながら進む。奉神門からは有料ということでチケットが必要だ。中庭から南殿、正殿、北殿と順路に沿って回るのだが、すべてが琉球王国の絢爛さだけを再現したような印象であった。

Gedc4065jouheki
しばらく続いた城壁沿いの道、赤い屋根が見えてきた

Gedc4104
歓会門を望む

Gedc4109
屋内の撮影は禁止だが、南殿の窓から御庭を望む

玉陵から一中健児の塔へ
  つぎは、その城主たちの陵、交差点一つを越えただけなのに「玉陵」(タマウドゥン)でまで来ると観光客はごくまれだ。壮大な三つの石室からなる陵で、墓前の白い砂利の庭は広い。そこで出遇った男性に「ひとり旅なもので撮ってもらえますか」と声を掛けられた。「広島から一泊で飛んできました」とも言っていた。この資料館では、「風葬」の後の「洗骨」という埋葬の風習をあらためて知ることになる。この玉陵と道を隔てたところは首里高校だった。とすると沖縄一中生の沖縄戦犠牲者追悼の碑が近いかもしれないと、夫が、玉陵の受付に戻って尋ねてきた。玉陵の横の道をしばらく下ったところに、首里高校の同窓会館があり、そこからさらに階段を上ったところに、「一中健児の碑」はあった(養秀尞跡)。手を合わせた後、会館の2階の「一中学徒隊資料展示室」に立ち寄った。訪問者リストに記入を求められた。きょうは11日だが、一番新しい訪問者は11月5日とあった。ここまで訪ねてくる人は、これまたまれなのだろう。展示室には、犠牲者全員の顔写真が掲げられているが、どの写真もまだ幼い少年の顔であり、中には幼少時の写真もある。家族全員が犠牲になって写真が集められなかった生徒もいるということであった。1945年 3月 27日卒業式後、鉄血勤皇隊に動員された144名、2年生中心の通信隊に動員された110名、4月19日養秀尞艦砲弾で全焼、軍と共に南部へ撤退し、犠牲者続出、289名を数える。

Gedc4080
玉陵、並ぶ三つの墓室

Gedc4091
一中生健児の塔の碑文

Gedc4096
一中学徒隊資料展示室内部

第32軍司令部跡
  ふたたび首里城公園に戻って、第32軍司令部として使われた、首里城の地下壕跡があるはずと探し始めた。歓会門前の下り始めると、左手には、立派な案内板があった。この説明文については、歴史研究者の委員たちが執筆した原稿が、県によって一方的に了解なく、削除された部分があり、県議会などでも問題になったというが、現在も、そのままで復元されていないそうだ。その案内板の奥には小さな穴が見え、格子が建てられ立ち入り禁止になっていいるが、地下30m、坑道の全長約1kmに及ぶといい、1945年3月の空襲激化に伴い、この壕に軍司令部は移転してきている。二人連れの女子高校生が寄ってきたので、どこから?と尋ねると長野県からという。私たちは行ったことがないけれど、松代の地下壕は知っている?と聞けば、行ったことがあるという。さらに下ると円鑑池と呼ばれる池があり、弁財天堂が浮かび、水どりが羽を休めていた。
   この日の夕食、国際通りぶらりと入ったのが「八重山」だった。

Gedc4074syu
これが有名な守礼門

Gedc4116
第32軍司令部跡の案内板(2012年3月設置)

Gedc4114
上記案内板の下段中央部分を拡大する。「壕内のようす」の3行目、「女性軍属、慰安婦などが」との案文から「慰安婦」が削除され、この案文の最後に続いていた「司令部壕周辺では、日本軍に〈スパイ視〉された沖縄住民の虐殺などもおこりました」が削除された。(『沖縄の戦跡ブック・ガマ』改訂版 沖縄県高教組教育資料センタ―『ガマ』編集委員会編 2013年)

Gedc4117
五つある坑口の一つ。この壕内では、軍が壊滅状態でありながら、各師団参謀長らにより1945年5月22日南部撤退が決定され、想像を絶する軍民混在の撤退行が始まり、犠牲者は激増した


国際通りのにぎわいの中で
   国際通りに戻ると、ここも修学旅行生でにぎわっていた。お土産物屋さんの呼び込みもかなり激しさを増す。どうもおもちゃ屋さんみたいなにぎやかさで、のぞく気にもならないが、高校生のグループやカップルでのショッピングは、実に屈託もなく、楽しそうであった。私たちはそろそろ夕食をと店を探し始めるのだった。

Photo
シーサー専門店?

Gedc4052
こんな店も、観光客が買ってゆくのだろうか

Photo_2
こんなアーケード街も

Gedc4050
「石敢當」というお札のようなものは「厄除け」の一種で、家々の石塀の角に彫り込まれたり、書きこまれているのを見かけた

 

|

« 沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(1) | トップページ | 沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(3) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(1) | トップページ | 沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(3) »