沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(4)
チビチリガマへ、修学旅行の高校生とともに
つぎは「チビチリガマ」(波平)だった。沖縄で「ガマ」というのは、海岸の岩場や地中に自然にできた鍾乳洞のことで、それを若干の手を加えて、利用したものが「壕」と呼ばれる。このガマは、1944年10月10日の空襲以来、住民の避難壕になっていて、米軍上陸当時140人が避難していた。米軍に捕らえられれば、殺されると信じ込まされていた住民は、米兵に突撃して射殺された2人を含み、狭い壕内で毛布に火が放たれもして、薬殺や自決などに追い込まれ85人が命を落とした。こうした真相がわかったのは1983年で、1985年には遺族たちと地域住民により追悼の平和の像が完成した。が、間もなく何者かに破壊されたので、現在のような石の壁で囲われるようになったとのことだった。
私たちが壕に着いたときは、高校生が来ていて、ガイドの女性が説明しているところだった。一方、このガマに近い同じ波平の「シムクガマ」に避難した住民は1000人に及んだ。米兵の呼びかけがあったとき、住民の中のハワイ帰りの二人が間に立ち、住民の多くが混乱、突撃しようとする者たちもいたがなだめ、 説得し、全員を無事助け出すことができたという話もKさんから聞いた。
右手の白いモニュメントは、壊されてから、コンクリートで覆われた平和の像
赤ちゃん泣き声は、敵に居所を知らせるのだから、早くここを出るなり、殺せと兵士たちに迫られた母親の気持ちを訴えていた
チビチリガマの入り口
「さとうきび畑」の碑へ
波平から、サトウキビ畑の続く、細い道を少し走ったところに車は停められた。森山良子が歌う「さとうきび畑」の碑という。あの「ざわわ、ざわわ」の歌。高志保の村有地に建てられ、2012年4月1日に除幕式が行われたというから、まだ新しい。寺島尚彦作詞・作曲、1970年代から「みんなのうた」でも放送され、ポピュラーな歌となったのだろう。森山以外の何人かの歌手に歌われている歌でもある。サトウキビ畑の真ん中に、石垣を巡らし、階段も付けられ、歌詞の彫られたプレートが石の台座にはめられた歌碑、そして大きな鉄の板がくりぬかれ、そこに66本のサトウキビを模したパイプが立てられているモニュメント、傍らのボタンを押すとメロディが流れる仕組みになっている。なぜ66本かというと11番まである歌詞のなかに「ざわわ」が66あるとのことだった。 それにしても、辺りは人も車もほとんど通らない、サトウキビの花穂に埋まりそうに立っているモニュメントは、あまりにもさびしそうだった。
碑のすぐ前に、洗濯物も干されていた平屋の一軒家が建たっていて、あたかも、この碑を見守っているようで、少しは安堵したのだったが。
2012年4月1日に除幕された「さとうきび畑」の歌碑
茶色のモニュメントは鉄板で、「鉄の暴風」を意味するという
ススキによく似たサトウキビの花穂が揺れる
座喜味城跡へ、ここでも高校生と
渡慶次の在郷軍人会が1912年に建てた「忠魂碑」を経て、座喜味城跡で降りた。ここからの眺望がすばらしいと案内書にあったが、まず、城址公園の広いことと城壁の描くその造形の美しさに惹かれた。説明によると、築城の名人護佐丸の設計になるという15世紀初頭に築かれた城だ。沖縄の「世界遺産」の一つになっている。
ここでも、いくつかの学校の修学旅行生たちと出会った。琉球松の林の中では、生徒たちが、神妙に話を聞いていた。Kさんは「あのガイドさんが知花昌一さんですよ」と教えてくれる。かつての米軍通信所「象のオリ」の中の地主さんの一人であり、沖縄の平和運動家としても有名で、私もよく名前は聞いている人だ。Kさんは50代とお見受けしたが、折があれば、沖縄の歴史を勉強し、講演会などにも足を運んでいるようだった。仕事とはいえ、途中で出会う戦跡のガイド、バスの運転手、ガイドさんはじめ知り合いの方が多く、親しく挨拶をかわしていた。
城壁を繰り抜いたアーチ型の門をくぐるたびに、高い城壁の上にのぼったときにも、思いがけない城壁の描く曲線の造形美に、はっとさせられるのだった。これが、城を「守る」術にかなっているとも聞いた。規模は首里城に及ばないし、建造物の復元はないが、良い形で遺されていると言えそうだ。駐車場横の資料館に入ると時間がかかりそうで失礼したが、外には、かつての馬力によるサトウキビを絞る仕掛けが展示されていて、その苦労がしのばれた。
見学中の生徒たちは、停まっているバスの名札で都立南葛飾高校、立教女学院と知るのだった。
知花昌一さんのガイド、琉球松の林の中で、右側の高校生に混じって、観光客も
城壁が描く曲線による造形美は見事ではないか
護佐丸を讃えるパネル
馬が綱を引いて回るサトウキビの絞り機
行き止まりの「栄橋」
つぎに、県道74号線から左に折れ、行き止まりになった道路に降りた。米軍の上陸によって敗退する日本軍が、米軍の利用を断つため自ら爆破したという栄橋、戦前はサトウキビを工場に搬入する重要なルートであったという栄橋があるはずである。爆破されたままの形で遺されているという。正面の鬱蒼とした木々の間から、たしかに、コンクリートの橋げたの断面が見えた。かつては美しいアーチ型の二重橋であったという。行き止まりのガードレール脇には、標識板も立っていた。右手は嘉手納高校である。高校の比謝川沿いには、日本軍陣地壕、鉄血勤皇農林隊壕、慰安所跡などがあるはずだが、案内表示がない。Kさんは、また「待っていてください」と一人で「偵察」に出かけ、野球場や陸上競技場はわかったものの、畑で働く人にも聞いてみたけれど、その場所などは知らなかったそうだ。あとで、調べてみると、すでに施設の駐車場の下になっていたり、壕の跡などは樹木に覆われていたりしているということがわかった。
この辺り一帯の住民は、日本軍の飛行場建設や陣地建設、戦闘訓練に動員された。近くの嘉手納の県立農林学校の生徒たちは、鉄血勤皇隊に入り、軍の支配下で、特攻隊へ配属された者もいた。沖縄戦での農林学校の戦死者は124人に及んだ。こうした事実を、嘉手納高校の生徒たちは、どう学んでいるのだろうか。たしか、甲子園に出場したことのある高校ではなかったか。
行き止まり、緑の標識は、史跡案内だが、「栄橋」の説明しかされていなかった
ススキに挟まれた辺りに、わずか橋げただけが見える
道の駅「かでな」から、基地を遠望する
県道74号線に戻ってすぐに降りたのが道の駅「かでな」だった。地図で見ると、嘉手納高校や運動場施設と隣接しているような位置である。いきなり階段を上っていくKさんについていくと、頭上からすごい轟音である。「ここでビデオをみてください」と暗くした映写室に入った。嘉手納基地の沿革と現状を手短かにまとめたものだった。すでにKさんから聞いている話を含めて、嘉手納町総面積の83%が米軍基地であること、その規模の大きさに驚くのだった。見終わったところで、屋上へとあがると、さっきの轟音の続きである。目の前の3700mの二本の滑走路から離着陸する騒音は、道路端に設置された測定器では100デシベルを超える。この幹線道路の通常の車の騒音が60デシベル程度のところ、軍用機が飛ぶたびに100を超える。これは肌で実感できる被害ではあるが、県民は、いつ墜落するかもしれない不安、目に見えない数多くの被害とともに、深い心の傷を負っているに違いない。基地内に墓を取り込まれ、思うようにお参りもできない、借地料が入ろうとも耕作地を奪われた人々、多くの遺骨が収集されないままに放置され、まるで産廃処理場のような状況で何が埋もれているか分からない状態での返還に甘んじる日本政府、そして現実には、墜落事故と米兵による暴行・殺傷事件が続く。県民の怒りと悔しさのほんの一部でも共有できただろうか。
帰途の車内では、沖縄経済の基地への依存度が取りざたされるが、いまや極単に少なくなった現状について、Kさんと夫との会話は続く。本土の人たちの「沖縄は基地があるからやっていける」との大いなる誤解は払しょくしなければならないと。 すでに、約束の5時間はとっくに過ぎて、ホテルに着いたのは4時すぎであった。その夜の食事は、ホテルのカウンター係員に、モノレール美栄橋駅近くの食堂を紹介してもらった。ホテルの横の路地を進むと大通りに出ると、大きな店を構えたジュンク堂前の「我部祖可」だった。今日も長い、そして重い旅の一日だったが、沖縄そばとゴーヤチャンプルなどの家庭料理とオリオンビールはおいしく頂戴したのだった。
機影は点のようにしか見えないのだけれど
左下の赤い数字が現在の騒音測定値を示している
翌日11月13日には、町による騒音測定がなされ、同日の夕方、ホテルのテレビで地元メディアのニュースを見た
道の駅「かでな」前、甘藷伝来の恩人という
「我部祖可」の赤いノボリが見える食堂
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