沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(5)
デイゴ並木の7号線を行く
11月13日、南の「平和の礎」を目的地として、途中の戦跡を巡ることができればと思っていた。夫は、すでに今夏、訪ねたところと重なるかもしれないが、訪ね損なった地も沢山あるという。この日は、ホテルを通しての車の予約が難しいと聞いていた。きのうお付き合いいただいたKさんも、明日はどうしても外せない予約が入っているとのことで残念に思っていた。修学旅行生はバスでの移動が主だが、車での移動や観光も多く、車が出払うこともよくあるそうだ。このホテルにも、札幌大谷高校の生徒たちが宿泊している。先生方はロビーで、生徒たちの夜の自由時間の管理が大変そうであった。それはともかく、前日の夕食後、もう一度ホテルに、契約以外の車でもいいのでと依頼していたところ、なんと、Kさんの都合がついて、明日も案内してもらえることになったのである。
昨日より30分早い9時にホテルを出た。海軍司令部跡と南風原陸軍病院跡は、すでに夫は訪ねていたので、豊見城市に入る。Kさんは、この辺りはマンゴの栽培が盛んで、 台風を避けるのに、窪地が適しているとのこと、宮崎県のマンゴウは沖縄からの伝来にもかかわらず、宮崎県の方が有名になってしまったのが悔しそうだった。県道7号線は、デイゴの並木、あまり大きな木ではなく、こんもりとした感じで続いているが、4月の花期は見事だそうだ。桜よりは濃い紅色だという。
「轟壕」から始まる
糸満市に入り、まず車を停めたのが「轟壕」(伊敷)だった。ここからは、まさに壕めぐりの感が強くなる。というのも、沖縄戦当時、米軍上陸地と想定した日本軍は、この近辺での宿舎や物資の調達・供出、動員をエスカレートさせたが、とくに本島爆撃が開始された1945年3月23日以降は、住民の多くは集落近くのガマ、避難壕、墓などへの避難が続いた。さらに中南部の住民の避難や第32軍司令部、野戦病院、行政機能の南下によって、住民たちは、避難していた壕の追い出しや軍民雑居を強いられ、食料の奪い合い、軍による幼児殺害、投降拒否のあげくの集団自決の強要などが続発した地域でもある。八重瀬岳には、いま自衛隊のレーダーが配備されているが、この周辺は、当時、日本軍が米軍と戦闘を繰り広げた最後の地でもあった。糸満市域は、沖縄戦最大の戦場と化し、戦後、収容所で生き延びた住民たちは、遺骸や遺骨の散乱を目の当たりにしたという。
轟壕は、1945年6月初旬、県庁職員に続いて島田叡知事一行が移動して来て、住民の動員など定めた「後方指導挺身隊」を解散、県庁業務を停止させ、中旬には軍司令部移動に合流するため摩文仁に向かった。以降は軍による監視が強まり、食糧難、米軍攻撃により犠牲者は増え、最後は、捕虜になった住民一人の説得で残った避難民は収容されたという。
ここでもガイドの話を聞く修学旅行生に出会った。添乗員の手元の資料には「新潟県立県央工業高校」とあったのを覗いてしまう。
壕の入口への急な階段の下には、さらには深い大きな洞窟が見える。多いときは、1000人以上の避難民がいたという、いまの私には想像を絶した世界であった。
看護学徒のたどった壕をめぐる
陸軍病院の野戦病院は、日本軍が中南部へ敗退してくるにともない、南下、合流し、その機能を失ってゆく。その中での看護学徒の献身と落命・自決の足跡は、多くの壕に残されていた。
糸州のウッカーガマと鎮魂の碑(糸満市糸州)
つぎに降りたのは、「糸州の壕」の表示とその傍らに立つ鎮魂の碑がある畑の真ん中であった。牧場でもあるのか、その強烈な臭いが漂っていたが、近くの畑では、土の入れ替え工事をしていて、白茶けた大きな岩が山と積まれていた。かつては、タバコの栽培が盛んな地であったそうだ。
鎮魂の碑の碑文には「此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野、富山、石川県出身の将兵現地防衛召集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である」とあった。
ウッカーガマは、奥でウンジャーガマとつながり、ここでも名城・糸州の住民と軍との雑居となり、多くの犠牲者を出し、8月下旬、一人の住民の呼びかけで生き延びた住民と兵士が捕虜となっている。
壕の近くの岩場や入口への階段を降りるとき、Kさんは幾度か「ハブに気を付けてください」と声をかけてくれた。とくにトグロを巻いていたら、絶対さわらずに離れてください、くねっている場合は人間から離れようとしているからソッとして置いて・・・と。たしかに首里城の城壁沿いの道にも「ハブに注意」の札があったことを思い出す。今回は、幸いにもハブとは出会わずに済んだのだが。
中央、黄色に見えるのが掘りだされた岩
壕へは左の細い道を下っていく
陸軍病院第二外科壕跡
(糸満市糸州)
一時期、不動産業者が埋立てをはじめたのを学徒の同窓生たちが中止させたという、そのあとが伺われる。近くで畑仕事をしている人たちにとっては、最近のガマ見学者にはマナーの悪い一団もいて、心を痛め、さらに、ガマの地主の一部の人たちには、できればガマは埋め立てて畑にしたいという意向も見られるそうである。
陸軍病院の塔・陸軍病院本部跡 (糸満市伊原) ここのガマ見学には、雨合羽が必要とあって、白い雨合羽の修学旅行生の列が壕へと降りて行った。Kさんは、私たちの見学が、修学旅行生と重なったり、邪魔になったりしないように、ずいぶんと気を遣っていた。壕のなかでの話し声は反響するし、暗闇体験を損なってはいけないので、私たちも、若い人たちの学習を優先するのはやぶさかではないので、素通りした壕もある。ここには、陸軍病院の軍医であった長田紀春2首の歌碑がある。
ガイドの話を聞く高校生に託したいもの
雨合羽を着て壕に入る
陸軍病院第一外科壕跡(糸満市伊原)
この碑文は、万葉仮名交じりのしかも崩してあるので、読みにくい。その一部だが「ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である。米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点であるここで負傷戦没した生徒」として10人の氏名が書かれ、「冥福と平和を祈願する」(1974年 6月 ひめゆり同窓会)と結ぶ。さらに、作者不明ながら、続けて短歌2首が刻まれていた。
第一外科壕入口
ひめゆりの塔~陸軍病院第三外科壕(糸満市伊原)
こ こは、やはり想像通り、大変な賑わいであった。右側には、モンペにセーラー服の女学生の石像が立っていたが、そのモンペの左側に縫い付けられた氏名が、悲しいことに遺骨の身元確認に役立ったそうだ。ここが陸軍病院第三外科壕になる。私は、今井正監督、香川京子・津島恵子主演の映画(1953年)は、公開時ではなかったが幾度か見ているはずだ。当時、その悲惨さに涙し、画面から目を背けた記憶はあるものの、沖縄戦の全体像は分かっていなかった。いまでも知らないことが多いのだから。
ひめゆりの塔、第三外科壕を覗く
梯梧之塔(糸満市伊原) ひめゆりの塔の前の土産物屋さんと駐車場を通り抜けたところに、昭和高等女学校の看護学徒の慰霊碑がある。ここにくる参拝者はほとんど見当たらない。わずかしか離れていないのに、ひめゆりの塔とは大変な違いだった。1930年に創立された、この女学校の校長八巻太一の顕彰碑もあった。Kさんと挨拶をかわす店の人が、こちらの碑にも参っていいただきありがとうと、私たちに梯梧之塔のリーフレット渡してくれた。
魂魄の塔(糸満市米須) 1946年1月、米軍の収容所からでた真和志村(現那覇市)の住民たちが元の村に戻れず、集団移住を余儀なくされた地がこの辺りで、まず耕作することになるが、住民や兵士の遺骨の収集から始めなければならなかった。身元が分からない遺骨が3万5000体にも及び、納骨したのがこの慰霊塔であった。大きな土饅頭のような形をしているのがわかる。その後、周辺には、北海道、奈良県など13基の慰霊塔も建てられている。さらにその後、那覇市の中央納骨所への分骨を経て、1979年摩文仁の「国立沖縄戦没者墓苑」に移された。身元不明の遺骨の居場所は、都合で放浪にも近く、摩文仁の丘に眠ることができただろうか。
住民によって収集された身元不明の遺骨3万5000体納骨された慰霊塔。その後、摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑に移転された
北海道、奈良県など13の慰霊塔がある
荒崎海岸~ひめゆり学徒たちの自決の地(糸満市束里)
「平和創造の森」との案内板のある海への道を下ってゆくと、何台もの車が停められ、何組かのサーファーたちが着替えている。穏やかに広がる海、やや白波が立っているあたりに、人影がいくつか上下している。サーフィン日和なのだろうか。目の前は砂浜ならぬ、ごつごつした岩が続く海岸である。ひめゆり部隊終焉の地、集団自決の海岸であった。1945年6月18日、伊原の第三外科壕にいたひめゆり学徒隊には解散命令が出され、米軍に荒崎海岸にまで追い詰められた6月21日、銃撃の乱射の中、沖縄県立第一高等女学校の教師1人と生徒7人、卒業生1人、県立第二高等女学校の生徒1人が手りゅう弾で命を絶っている。2008年、付近の海岸では、別の27体の遺骨も発見されている。摩文仁方向に海岸に降りると「ひめゆり学徒散華の跡」の碑があるという。
遅い昼食後は、いよいよ摩文仁に向かう。
| 固定リンク
コメント