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2014年11月29日 (土)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(6)

弾痕の残る古民家で~戦場になるということ

 

  1113日の午前中は、多数の住民が避難し、多くの犠牲者を出した壕のほんの一部を訪ね、慰霊碑に手を合わせた。だいぶ遅くなったが、今日の昼食も、Kさんの案内で、真壁の「ちなー」という古民家レストランでとることにした。壕をめぐるとき、真壁というところを通過したような気がするが、その集落の一画にあり、地元の人でないと迷ってしまいそうなところだった。看板には「茶処」とあった。お弁当持ちのKさんと別れて、店に入ると、二方を廊下に囲まれた床の間のある部屋と仏壇のある部屋が開放され、いくつかの座卓には、すでに何組かの先客があった。私たちはそれぞれ、野菜そばとあんかけそばを注文した。部屋の天井や板壁には弾痕が残り、弾丸が貫通した柱も利用されていた。

 戦場と化した沖縄の中南部、糸満市における住民の「戦没率」という資料を見て驚いた。旧真壁村の集落は、75%から94%に及ぶ。私は、沖縄県民の4人に1人が戦死しているという話は聞き知っていたが、住民の94%の方が亡くなっているという集落があるという現実を知らなかった。
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銃痕の残る柱も使われていた

 

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ごちそうさま。マンゴーのシャーベットもなかなか・・・..

 

ちなみに「ちなー」のブログです。
http://makabechina.ti-da.net/

 

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後掲参考文献『ガマ』よりコピーさせていただいた

 

白梅の塔・24師団第一野戦病院壕(糸満市国吉)

 

 八重瀬岳の麓にあった第一野戦病院は、戦線が南部に移った194563日分院を閉鎖、4日には本部壕を放棄、同日、解散命令を受けた県立第二高女の白梅学徒隊はさまよって、16人がこの壕にたどり着き、618日以降の戦闘で、10人が犠牲となっている。白梅の塔には、第二高女同窓の全戦没者を祀っていて、白梅同窓会会長の生存者中山キクさんらは、若い世代への語り継ぐ努力を続けているそうだ。塔の周辺は、もっと樹木が茂っていたそうだが、いまは育った樹木の何本がが立ち枯れたままになっているのが気がかりであった。

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辺りの樹木の立ち枯れが目立つ

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同窓生ほか多くの方に見守られて

摩文仁の丘へ

平和の礎の前で   摩文仁の平和祈念公園へと向かう間にも、たくさんの慰霊塔や追悼碑があった。その多くには、失礼ながら、車中から手を合わせ通過させてもらった。失礼というならば、とKさんは、まだ遺骨が収集されていないまま整地されたグリーンでゴルフに興じる人々、開発時にはたくさんの遺骨が発見され、そこに建てられたマンションに、多くは何も知らないまま、住民票を移さずにリゾート気分で暮らしている人々がいることを嘆いていた。

 平和祈念公園の駐車場から資料館の建物をくぐりぬけた瞬間、目の前にひらけた空間は、想像よりも広く明るかった。きょうの空の青さと広場のあちこちに散らばっている若者たちの姿があったからかもしれない。整えられた歩道をまっすぐに進むと、円形の池の中央に円錐形のモニュメントが立っていた。よく見ると、その池の底から、日本列島が浮かび上がり、沖縄の、この位置にモニュメントが立っていたのである。修学旅行生が入れ代わり立ち代わり群れをなしていたのが、「平和の礎」の銘板がある記念碑だった。それに続く黒御影石の墓名碑の幾列、国ごとに、県ごとに、村ごとに、犠牲者の名が並ぶ。朝鮮人民共和国の犠牲者の多くは、名前が分かっていても、ここの刻名を拒む人たちも大勢いるのが現状である。毎年、判明した段階で、名前が刻まれ、いまでもその数は増え続けている。

 

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この正面に円形の池がある。波をイメージした歩道の中央の細い溝は、霊に供える水が流れつくようにという意味が込められているという

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池から資料館と左側の白い塔、韓国人慰霊塔をのぞむ

 

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修学旅行生が献花をしたり、「平和の誓い」を読み上げたりしていた


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沖縄県の刻銘碑、ツル、カメ、ウサ・・・、同姓同名も多い。氏名が不詳で「○○の孫」といった表示も見られる

 

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毎年、この数字は書き換えられている

 

島守の塔  19451月に着任した、最後の沖縄県知事、島田叡(19021945)は、いまでも県民からの敬愛は厚い。米軍の艦砲射撃や空襲が続くなか、沖縄県民の生活の安全や食糧確保、疎開・避難等にあたって尽力したことを、県民は忘れていないことを端々に伺わせている。Kさんもそうだった。神戸一中(県立兵庫高校)、三高、東京帝大と進んだ官僚でありながら、県庁組織解散時、ともに自決をしようとした側近たちには「生き延びて、沖縄のために尽くせ」と諭し、荒井退造警察部長と留まり、のち、摩文仁に向かった以降、消息が掴めなくなっているので、この地を終焉の地としているという。いまでもボランティアの手で、遺骨の発掘が行われているが、その在り処は依然不明である。
 
 1951625日、県民の有志が「戦没沖縄県知事島田叡/沖縄県職員慰霊塔」を建立、知事と職員458名の慰霊塔である。島守の会が維持に当たっている。1971623日には、三高野球部有志によって「鎮魂碑」建てられ、同期の山口誓子の句碑と山根斎の歌碑が建てられている。島田の出身地、兵庫県と沖縄県民の絆はいまでも厚く、とくに甲子園での高校野球では、沖縄県代表校に次いで、兵庫県代表校を応援するとのこと。兵庫県出身の夫もその話は知っていたらしい。

 

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手前の歌碑「ふるさとのいやはて見んと摩文仁山の巌に立ちし島守のかみ」
作者の仲宗根政善は、ひめゆり隊の引率教諭で、後、琉球大学教授となった。

 

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山口青邨の句碑

 

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鎮魂碑の右にある碑には島田の座右の銘「断而敢行鬼神避之」(断じて行えば鬼神もこれを避ける)」が刻まれている。2008年兵庫高校創立100周年記念として、同じ碑が同時に兵庫高校内にも
建てられた

国立沖縄戦没者墓苑   これまでも見てきたように、沖縄県下の各地において、住民による遺骨収拾は、早くより進められ、各所に納骨所や慰霊碑が設けられた。1953年から政府による遺骨収拾も始まり、身元不明の遺骨は那覇市の中央納骨所に集められたが、さらに1979年、厚生省社会援護局により、この地の納骨所に遺骨は移転して、1980225日、国立沖縄戦没者墓苑として開かれた。18万余柱が合祀され、いまも、あらたな遺骨は毎年納められている。

 

 ここにお参りして、あらためて思うのは、軍人、軍属であるがゆえに、なぜ、一宗教法人の靖国神社(2467000柱)に祀られなければならないか、A級戦犯の合祀がなぜ秘密裡に行われたのか、さらに合祀を拒む遺族の気持ちを無視するのか、国立の無宗教である戦没者の納骨や慰霊を担う施設がなぜ推進されないのだろうか。東京には、国立の千鳥ヶ淵戦没者墓苑(358000柱)がある。身元不明の遺骨や引取り手のない遺骨を合祀している。それを拡大したような形で、ここ沖縄の平和祈念公園の平和の礎のような墓名碑を東京でも設置することはできないのだろうか。皇居前広場、皇居の一部を開放したり、分散したりしてでも、作れないものだろうか。それこそ、遺された者の犠牲者への気持ちを各様に示せる施設を切に願うのであった。10月にドイツにおけるさまざまな追悼施設や歴史博物館をめぐっているときも、同じ思いだった。

 

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国立沖縄こ戦没者墓苑

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公園内の芝生上にたくさん落ちていたこんな木の実と葉っぱ。運転手さんからは「モモタモの木」と聞いたのだが、調べても分からなかった。ご存知の方教えていただければ・・・。ちなみに、落ちたときは緑だが、夜なるとやって来る蝙蝠がつつくと真ん中のようになり、やがて最上段のようになるとのことであった。
*12月2日、読者の方から「モモタマナ」ではないかとのおたよりを頂戴いたしました。私もネットで調べたところ、亜熱帯の植物で、枝が横に伸びるのも特徴で、沖縄には、野生も植栽もあるとのことでした。情報をどうもありがとうございました。

 

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こんな風に落ちている。夏はとても良い日蔭を作ってくれる木だそうだ

 

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公園内にはこんなバスが走っていた。たしかに広い

 

 のじぎくの塔  平和祈念公園には、都道府県別に各様のデザインの慰霊碑が設置されているなかの一つ。設置者は、各自治体か遺族会かどちらかの設置がほとんどである。「のじぎく」は兵庫県の県花である。兵庫県は、沖縄、北海道に次いて犠牲者が多く3073名と記されていた。1964613日遺族会が中心の建立委員会によって建てられた。建立当時の金井元彦知事の銘板と坂井時忠の歌碑がある。夫は、自分の出身である多紀郡にも67名が刻されているのを見出した。知り人こそいなかったが、遠く離れた沖縄で亡くなっていた人々の霊に祈った。

しづたまの碑  1969年、沖縄遺族連合会により建てられ、1988年にこの地に移転。1500余柱を納める。1975年当時の皇太子夫妻が参拝したとの記念碑もあった。これだけたくさんの慰霊碑があるなか、選んだのがここであったのだろう。辺りには、都道府県別の慰霊塔のほかに、郵政関係者の慰霊塔、NHK沖縄放送局関係者の慰霊塔といった、職能別のものもあった。

 

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85高地」に追い詰められて~黎明の塔・勇魂の碑・第32軍司令部終焉の地  都道府県別等の慰霊塔が途切れた先の階段を上り切ると目に入ったのが、「黎明の塔」の文字であった。めぐらされた柵の先はもう海へとなだれる崖であった。鬱蒼とした樹木に覆われ、「85高地」とも呼ばれているらしい。ここに広がる海は、623日と何が変わり、何が変わらないのかを、見つめているに違いない。この塔は、19526月、第32軍司令部の牛島満中将の部下や沖縄仏教会などによりと牛島中将と長勇参謀長の二人を祀って建てられた。19455月下旬、首里城の地下壕から轟壕を経て、この地まで追い詰められた第32軍司令部は、この高台の崖っぷちの壕に入り込み、619日、牛島は最後の軍命令「最後まで戦闘し、悠久の大義に生くべし」とゲリラ戦を指示した。622日、大本営は組織的戦闘終結を発表、23日には、牛島と長が自決した。その623日が沖縄戦終結の日とされている。しかし、現実には、各地での壕では、軍に投降することを拒まれたまま、餓死や自決、逃げ惑う中を撃たれて果てた兵士や住民が激増する。終焉の地となった第32軍司令部壕の横には、司令部の軍人・軍属約600名の黒御影石の墓銘碑と「勇魂之碑」が建てられた。ほんとうに「勇ましい魂」だったのだろうか。みじめさと悔しさの中、苦しんだ兵士の心が思われてならなかった。「英霊」認識を垣間見て、いまの私には違和感を覚えるのだった。

 

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「勇魂の碑」1974年(昭和49年6月)建立の文字が読める

 

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「第32軍司令部終焉の地」表示があるが中には入れない

 

韓国人慰霊塔  駐車場から平和祈念資料館に向かって振り返ると、気づかなかった白くて高い塔が立っていた。これが、韓国人慰霊塔で、今夏の旅で、ここを訪れた夫も素通りしてしまったらしい。今回は、じっくり時間をかけて周り、犠牲になった人々の思いに至るのだった。いまの日本で横行している「ヘイトスピーチ」の犯罪的な暴言・暴挙を“見守る”だけの警備、関係団体と閣僚たちとの親密さを思うとやりきれない気持ちになるのだった。

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1975年8月に建立されている

 

 帰りの時間も気になり、夫は前回入館しているとのことで、平和祈念資料館は素通りした。もし、もう一度沖縄を訪ねることができたらと、後に託すことにした。韓国人慰霊塔の裏側には、児童遊園もあり、隣接して風力発電の風車が何基か並んでいた。そういえば、沖縄では風力発電はどうなのだろうと尋ねてみると、Kさんは、風が強すぎてあまり適さないようだといい、自宅での太陽熱発電もセールスマンから勧められるが、海風で傷みが早いのは眼に見えているので断っているとのことだった。

 そんな話をしながら、米須の辺りで、なんと私がメモを取っていたスケッチブックがないことに気づいた。そうだ、資料館のトイレの台に置き忘れたことは確かだ。「ああ、なんというドジ・・・」、外国でのスケッチが何枚かあり、先般のドイツ旅行のメモもある。しかし「もういいです」とあきらめると、Kさんと夫は「それはまずい」と引き返してくれた。

 

第24師団第一野戦病院本部壕跡(八重瀬)~白梅看護隊の足跡
  

 帰りも遅くなり、なんとなく気は焦っていたのだが、つぎにKさんが黙って案内してくれたのが、ここだった。白梅学徒隊が、第24師団第一野戦病院看護教育隊(東風平)に入隊したのが1945年3月6日だった。3月24日、第24師団第一野戦病院(八重瀬岳)に56人全員が配置された。移動の足跡ににも図示されているように、6月4日白梅学徒隊は解散命令を受けて、本部壕を放棄したあと、戦場をさまよい、国吉の「白梅之塔」下の壕へ16人がたどり着いたが、21日までに犠牲者は10人となり、白梅学徒隊は、あわせて22人の犠牲者を出していることが分かる。

 

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深くはないが、もう一つの開口部が見えるまで進んだ

 

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白梅看護隊の足跡

 

 11月13日、朝9時から夕方の5時半まで。私たちもかなり疲れたが、Kさんの懇切な案内にはずいぶん助けられた。私たちだけでは、とうてい体験できないことも多かったに違いない。そんなKさんから、奥様が庭で収穫した青みかんと「カニステル」というだいだい色の果実をお土産にいただいた。カニステル?話によれば「すぐには食べられないが、しばらくして皮がはじけるころが食べごろ」とのことだった。たしかに、45日して、おそるおそる皮をむいて、食べたところ、食感はアボガドのようでもあり、ほのかに甘くて、クリームのようなおいしさであった。しばらくの間、朝食のデザートで楽しむことができた。ありがとう。

 

旅先での拙い思いはところどころで吐露したり、嘆いたりしたが、ドイツ旅行や沖縄で体験したことは、私が知らなかったことが多く、書物や映像では、なかなか身体や心に届かなかったことが、じわりじわり浸み込んで来るような刺激的な旅となった。こんな旅がどれほど続けられることだろう。お付き合いには感謝のひとことである。写真ももっと上手になりたいなあとも。

 

<主な参考文献>

・観光コースでない沖縄 第三版 新崎盛暉ほか編 高文研 1997

・おきなわの戦跡ブック『ガマ』 改訂版 沖縄県高教組教育資料センター『ガマ』編集委員会編 沖縄時事出版 2013

・公益財団法人沖縄県平和祈念財団ホームページ「慰霊碑・塔等」など
http://heiwa-irei-okinawa.jp/01ireitou/index.html 

・読谷バーチャル平和館

 http://heiwa.yomitan.jp/3/2530.html

・いとまん観光ナビ「平和学習コース」

http://www.city.itoman.lg.jp/kankou-navi/guide/heiwagakushu.html

 

 

 付録・沖縄旅行で出会った歌碑・短歌

 

沖縄陸軍病院の塔・歌碑

・春くるとひたすら待ちし若草の萌えたついのち君に捧げぬ(長田紀春)

・水汲みに行きし看護婦死ににけり患者の水筒四つ持ちしまま(同上)

 

梯梧の塔・歌碑

・いたましく二八に散りし乙女らの血潮に咲けるくれないの花(藤岡豊子)

・ゆさぶりて碑をゆさぶりて思い切りきけどもきけぬ声をききたし(瑞慶覧道子)

・一人来て抱きしめて見ぬわが友の名の刻まれし碑文(同上)

 

陸軍病院第一外科壕・碑文1974 6 ひめゆり同窓会)

・しらじらとあけそむる野を砲弾のあめにちりゆくすがた目にみゆ(作者不明)

・血にそまる巌のしづくは地底にしみていのちのいずみとわきていでなむ(作者不明)

 

島守の塔・歌碑(摩文仁)

・ふるさとのいやはて見んと摩文仁山の巌に立ちし島守のかみ(仲宗根政善)

 

島守の塔・鎮魂碑(摩文仁)(1971年 第三高等学校野球部有志)

・島守の塔にしづもるこのみ魂紅萌ゆるうたをききませ(山根斎)

・島の果世の果繁るこの丘が(山口誓子)

 

のじぎくの塔・歌碑(摩文仁)(兵庫県遺族会)

・しろじろとしおじはるかにかがやけるマブニのおかにきみをまつらん(坂井時忠)

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2014年11月27日 (木)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(5)

デイゴ並木の7号線を行く
 11月13日、南の「平和の礎」を目的地として、途中の戦跡を巡ることができればと思っていた。夫は、すでに今夏、訪ねたところと重なるかもしれないが、訪ね損なった地も沢山あるという。この日は、ホテルを通しての車の予約が難しいと聞いていた。きのうお付き合いいただいたKさんも、明日はどうしても外せない予約が入っているとのことで残念に思っていた。修学旅行生はバスでの移動が主だが、車での移動や観光も多く、車が出払うこともよくあるそうだ。このホテルにも、札幌大谷高校の生徒たちが宿泊している。先生方はロビーで、生徒たちの夜の自由時間の管理が大変そうであった。それはともかく、前日の夕食後、もう一度ホテルに、契約以外の車でもいいのでと依頼していたところ、なんと、Kさんの都合がついて、明日も案内してもらえることになったのである。
   昨日より30分早い9時にホテルを出た。海軍司令部跡と南風原陸軍病院跡は、すでに夫は訪ねていたので、豊見城市に入る。Kさんは、この辺りはマンゴの栽培が盛んで、 台風を避けるのに、窪地が適しているとのこと、宮崎県のマンゴウは沖縄からの伝来にもかかわらず、宮崎県の方が有名になってしまったのが悔しそうだった。県道7号線は、デイゴの並木、あまり大きな木ではなく、こんもりとした感じで続いているが、4月の花期は見事だそうだ。桜よりは濃い紅色だという。

「轟壕」から始まる
  糸満市に入り、まず車を停めたのが「轟壕」(伊敷)だった。ここからは、まさに壕めぐりの感が強くなる。というのも、沖縄戦当時、米軍上陸地と想定した日本軍は、この近辺での宿舎や物資の調達・供出、動員をエスカレートさせたが、とくに本島爆撃が開始された1945年3月23日以降は、住民の多くは集落近くのガマ、避難壕、墓などへの避難が続いた。さらに中南部の住民の避難や第32軍司令部、野戦病院、行政機能の南下によって、住民たちは、避難していた壕の追い出しや軍民雑居を強いられ、食料の奪い合い、軍による幼児殺害、投降拒否のあげくの集団自決の強要などが続発した地域でもある。八重瀬岳には、いま自衛隊のレーダーが配備されているが、この周辺は、当時、日本軍が米軍と戦闘を繰り広げた最後の地でもあった。糸満市域は、沖縄戦最大の戦場と化し、戦後、収容所で生き延びた住民たちは、遺骸や遺骨の散乱を目の当たりにしたという。
  轟壕は、1945年6月初旬、県庁職員に続いて島田叡知事一行が移動して来て、住民の動員など定めた「後方指導挺身隊」を解散、県庁業務を停止させ、中旬には軍司令部移動に合流するため摩文仁に向かった。以降は軍による監視が強まり、食糧難、米軍攻撃により犠牲者は増え、最後は、捕虜になった住民一人の説得で残った避難民は収容されたという。 ここでもガイドの話を聞く修学旅行生に出会った。添乗員の手元の資料には「新潟県立県央工業高校」とあったのを覗いてしまう。
  壕の入口への急な階段の下には、さらには深い大きな洞窟が見える。多いときは、1000人以上の避難民がいたという、いまの私には想像を絶した世界であった。

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看護学徒のたどった壕をめぐる 
  陸軍病院の野戦病院は、日本軍が中南部へ敗退してくるにともない、南下、合流し、その機能を失ってゆく。その中での看護学徒の献身と落命・自決の足跡は、多くの壕に残されていた。
糸州のウッカーガマと鎮魂の碑(糸満市糸州)   つぎに降りたのは、「糸州の壕」の表示とその傍らに立つ鎮魂の碑がある畑の真ん中であった。牧場でもあるのか、その強烈な臭いが漂っていたが、近くの畑では、土の入れ替え工事をしていて、白茶けた大きな岩が山と積まれていた。かつては、タバコの栽培が盛んな地であったそうだ。
  鎮魂の碑の碑文には「此の洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野、富山、石川県出身の将兵現地防衛召集兵並に従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である」とあった。
  ウッカーガマは、奥でウンジャーガマとつながり、ここでも名城・糸州の住民と軍との雑居となり、多くの犠牲者を出し、8月下旬、一人の住民の呼びかけで生き延びた住民と兵士が捕虜となっている。 壕の近くの岩場や入口への階段を降りるとき、Kさんは幾度か「ハブに気を付けてください」と声をかけてくれた。とくにトグロを巻いていたら、絶対さわらずに離れてください、くねっている場合は人間から離れようとしているからソッとして置いて・・・と。たしかに首里城の城壁沿いの道にも「ハブに注意」の札があったことを思い出す。今回は、幸いにもハブとは出会わずに済んだのだが。

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中央、黄色に見えるのが掘りだされた岩

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壕へは左の細い道を下っていく



陸軍病院第二外科壕跡 (糸満市糸州)

  一時期、不動産業者が埋立てをはじめたのを学徒の同窓生たちが中止させたという、そのあとが伺われる。近くで畑仕事をしている人たちにとっては、最近のガマ見学者にはマナーの悪い一団もいて、心を痛め、さらに、ガマの地主の一部の人たちには、できればガマは埋め立てて畑にしたいという意向も見られるそうである。

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陸軍病院の塔・陸軍病院本部跡 (糸満市伊原)    ここのガマ見学には、雨合羽が必要とあって、白い雨合羽の修学旅行生の列が壕へと降りて行った。Kさんは、私たちの見学が、修学旅行生と重なったり、邪魔になったりしないように、ずいぶんと気を遣っていた。壕のなかでの話し声は反響するし、暗闇体験を損なってはいけないので、私たちも、若い人たちの学習を優先するのはやぶさかではないので、素通りした壕もある。ここには、陸軍病院の軍医であった長田紀春2首の歌碑がある。

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ガイドの話を聞く高校生に託したいもの

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雨合羽を着て壕に入る

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陸軍病院第一外科壕跡(糸満市伊原)   この碑文は、万葉仮名交じりのしかも崩してあるので、読みにくい。その一部だが「ここは陸軍病院第一外科及び糸数分室所属の軍医看護婦、沖縄師範学校女子部、沖縄県立第一高等女学校職員生徒のいた壕である。米軍の迫まる1945年 6月18日夜、軍より学徒隊は解散を命ぜられて、弾雨の中をさまよい照屋秀夫教授以下多くはついに消息をたった軍医看護婦患者も同じく死線を行く生死のわかれの地点であるここで負傷戦没した生徒」として10人の氏名が書かれ、「冥福と平和を祈願する」(1974年 6月 ひめゆり同窓会)と結ぶ。さらに、作者不明ながら、続けて短歌2首が刻まれていた。

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第一外科壕入口



ひめゆりの塔~陸軍病院第三外科壕(糸満市伊原)    こ こは、やはり想像通り、大変な賑わいであった。右側には、モンペにセーラー服の女学生の石像が立っていたが、そのモンペの左側に縫い付けられた氏名が、悲しいことに遺骨の身元確認に役立ったそうだ。ここが陸軍病院第三外科壕になる。私は、今井正監督、香川京子・津島恵子主演の映画(1953年)は、公開時ではなかったが幾度か見ているはずだ。当時、その悲惨さに涙し、画面から目を背けた記憶はあるものの、沖縄戦の全体像は分かっていなかった。いまでも知らないことが多いのだから。

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ひめゆりの塔、第三外科壕を覗く

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梯梧之塔(糸満市伊原)    ひめゆりの塔の前の土産物屋さんと駐車場を通り抜けたところに、昭和高等女学校の看護学徒の慰霊碑がある。ここにくる参拝者はほとんど見当たらない。わずかしか離れていないのに、ひめゆりの塔とは大変な違いだった。1930年に創立された、この女学校の校長八巻太一の顕彰碑もあった。Kさんと挨拶をかわす店の人が、こちらの碑にも参っていいただきありがとうと、私たちに梯梧之塔のリーフレット渡してくれた。

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魂魄の塔(糸満市米須)    1946年1月、米軍の収容所からでた真和志村(現那覇市)の住民たちが元の村に戻れず、集団移住を余儀なくされた地がこの辺りで、まず耕作することになるが、住民や兵士の遺骨の収集から始めなければならなかった。身元が分からない遺骨が3万5000体にも及び、納骨したのがこの慰霊塔であった。大きな土饅頭のような形をしているのがわかる。その後、周辺には、北海道、奈良県など13基の慰霊塔も建てられている。さらにその後、那覇市の中央納骨所への分骨を経て、1979年摩文仁の「国立沖縄戦没者墓苑」に移された。身元不明の遺骨の居場所は、都合で放浪にも近く、摩文仁の丘に眠ることができただろうか。

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住民によって収集された身元不明の遺骨3万5000体納骨された慰霊塔。その後、摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑に移転された

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北海道、奈良県など13の慰霊塔がある

荒崎海岸~ひめゆり学徒たちの自決の地(糸満市束里)    「平和創造の森」との案内板のある海への道を下ってゆくと、何台もの車が停められ、何組かのサーファーたちが着替えている。穏やかに広がる海、やや白波が立っているあたりに、人影がいくつか上下している。サーフィン日和なのだろうか。目の前は砂浜ならぬ、ごつごつした岩が続く海岸である。ひめゆり部隊終焉の地、集団自決の海岸であった。1945年6月18日、伊原の第三外科壕にいたひめゆり学徒隊には解散命令が出され、米軍に荒崎海岸にまで追い詰められた6月21日、銃撃の乱射の中、沖縄県立第一高等女学校の教師1人と生徒7人、卒業生1人、県立第二高等女学校の生徒1人が手りゅう弾で命を絶っている。2008年、付近の海岸では、別の27体の遺骨も発見されている。摩文仁方向に海岸に降りると「ひめゆり学徒散華の跡」の碑があるという。
 遅い昼食後は、いよいよ摩文仁に向かう。

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2014年11月24日 (月)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(4)

チビチリガマへ、修学旅行の高校生とともに
   つぎは「チビチリガマ」(波平)だった。沖縄で「ガマ」というのは、海岸の岩場や地中に自然にできた鍾乳洞のことで、それを若干の手を加えて、利用したものが「壕」と呼ばれる。このガマは、1944年10月10日の空襲以来、住民の避難壕になっていて、米軍上陸当時140人が避難していた。米軍に捕らえられれば、殺されると信じ込まされていた住民は、米兵に突撃して射殺された2人を含み、狭い壕内で毛布に火が放たれもして、薬殺や自決などに追い込まれ85人が命を落とした。こうした真相がわかったのは1983年で、1985年には遺族たちと地域住民により追悼の平和の像が完成した。が、間もなく何者かに破壊されたので、現在のような石の壁で囲われるようになったとのことだった。
   私たちが壕に着いたときは、高校生が来ていて、ガイドの女性が説明しているところだった。一方、このガマに近い同じ波平の「シムクガマ」に避難した住民は1000人に及んだ。米兵の呼びかけがあったとき、住民の中のハワイ帰りの二人が間に立ち、住民の多くが混乱、突撃しようとする者たちもいたがなだめ、 説得し、全員を無事助け出すことができたという話もKさんから聞いた。

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右手の白いモニュメントは、壊されてから、コンクリートで覆われた平和の像

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赤ちゃん泣き声は、敵に居所を知らせるのだから、早くここを出るなり、殺せと兵士たちに迫られた母親の気持ちを訴えていた

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チビチリガマの入り口

「さとうきび畑」の碑へ  
  波平から、サトウキビ畑の続く、細い道を少し走ったところに車は停められた。森山良子が歌う「さとうきび畑」の碑という。あの「ざわわ、ざわわ」の歌。高志保の村有地に建てられ、2012年4月1日に除幕式が行われたというから、まだ新しい。寺島尚彦作詞・作曲、1970年代から「みんなのうた」でも放送され、ポピュラーな歌となったのだろう。森山以外の何人かの歌手に歌われている歌でもある。サトウキビ畑の真ん中に、石垣を巡らし、階段も付けられ、歌詞の彫られたプレートが石の台座にはめられた歌碑、そして大きな鉄の板がくりぬかれ、そこに66本のサトウキビを模したパイプが立てられているモニュメント、傍らのボタンを押すとメロディが流れる仕組みになっている。なぜ66本かというと11番まである歌詞のなかに「ざわわ」が66あるとのことだった。 それにしても、辺りは人も車もほとんど通らない、サトウキビの花穂に埋まりそうに立っているモニュメントは、あまりにもさびしそうだった。
  碑のすぐ前に、洗濯物も干されていた平屋の一軒家が建たっていて、あたかも、この碑を見守っているようで、少しは安堵したのだったが。

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2012年4月1日に除幕された「さとうきび畑」の歌碑

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茶色のモニュメントは鉄板で、「鉄の暴風」を意味するという

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ススキによく似たサトウキビの花穂が揺れる

座喜味城跡へ、ここでも高校生と  
  渡慶次の在郷軍人会が1912年に建てた「忠魂碑」を経て、座喜味城跡で降りた。ここからの眺望がすばらしいと案内書にあったが、まず、城址公園の広いことと城壁の描くその造形の美しさに惹かれた。説明によると、築城の名人護佐丸の設計になるという15世紀初頭に築かれた城だ。沖縄の「世界遺産」の一つになっている。
  ここでも、いくつかの学校の修学旅行生たちと出会った。琉球松の林の中では、生徒たちが、神妙に話を聞いていた。Kさんは「あのガイドさんが知花昌一さんですよ」と教えてくれる。かつての米軍通信所「象のオリ」の中の地主さんの一人であり、沖縄の平和運動家としても有名で、私もよく名前は聞いている人だ。Kさんは50代とお見受けしたが、折があれば、沖縄の歴史を勉強し、講演会などにも足を運んでいるようだった。仕事とはいえ、途中で出会う戦跡のガイド、バスの運転手、ガイドさんはじめ知り合いの方が多く、親しく挨拶をかわしていた。
  城壁を繰り抜いたアーチ型の門をくぐるたびに、高い城壁の上にのぼったときにも、思いがけない城壁の描く曲線の造形美に、はっとさせられるのだった。これが、城を「守る」術にかなっているとも聞いた。規模は首里城に及ばないし、建造物の復元はないが、良い形で遺されていると言えそうだ。駐車場横の資料館に入ると時間がかかりそうで失礼したが、外には、かつての馬力によるサトウキビを絞る仕掛けが展示されていて、その苦労がしのばれた。
  見学中の生徒たちは、停まっているバスの名札で都立南葛飾高校、立教女学院と知るのだった。

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知花昌一さんのガイド、琉球松の林の中で、右側の高校生に混じって、観光客も

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城壁が描く曲線による造形美は見事ではないか

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護佐丸を讃えるパネル

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馬が綱を引いて回るサトウキビの絞り機

 

行き止まりの「栄橋」
  つぎに、県道74号線から左に折れ、行き止まりになった道路に降りた。米軍の上陸によって敗退する日本軍が、米軍の利用を断つため自ら爆破したという栄橋、戦前はサトウキビを工場に搬入する重要なルートであったという栄橋があるはずである。爆破されたままの形で遺されているという。正面の鬱蒼とした木々の間から、たしかに、コンクリートの橋げたの断面が見えた。かつては美しいアーチ型の二重橋であったという。行き止まりのガードレール脇には、標識板も立っていた。右手は嘉手納高校である。高校の比謝川沿いには、日本軍陣地壕、鉄血勤皇農林隊壕、慰安所跡などがあるはずだが、案内表示がない。Kさんは、また「待っていてください」と一人で「偵察」に出かけ、野球場や陸上競技場はわかったものの、畑で働く人にも聞いてみたけれど、その場所などは知らなかったそうだ。あとで、調べてみると、すでに施設の駐車場の下になっていたり、壕の跡などは樹木に覆われていたりしているということがわかった。
  この辺り一帯の住民は、日本軍の飛行場建設や陣地建設、戦闘訓練に動員された。近くの嘉手納の県立農林学校の生徒たちは、鉄血勤皇隊に入り、軍の支配下で、特攻隊へ配属された者もいた。沖縄戦での農林学校の戦死者は124人に及んだ。こうした事実を、嘉手納高校の生徒たちは、どう学んでいるのだろうか。たしか、甲子園に出場したことのある高校ではなかったか。

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行き止まり、緑の標識は、史跡案内だが、「栄橋」の説明しかされていなかった

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ススキに挟まれた辺りに、わずか橋げただけが見える

道の駅「かでな」から、基地を遠望する  
  県道74号線に戻ってすぐに降りたのが道の駅「かでな」だった。地図で見ると、嘉手納高校や運動場施設と隣接しているような位置である。いきなり階段を上っていくKさんについていくと、頭上からすごい轟音である。「ここでビデオをみてください」と暗くした映写室に入った。嘉手納基地の沿革と現状を手短かにまとめたものだった。すでにKさんから聞いている話を含めて、嘉手納町総面積の83%が米軍基地であること、その規模の大きさに驚くのだった。見終わったところで、屋上へとあがると、さっきの轟音の続きである。目の前の3700mの二本の滑走路から離着陸する騒音は、道路端に設置された測定器では100デシベルを超える。この幹線道路の通常の車の騒音が60デシベル程度のところ、軍用機が飛ぶたびに100を超える。これは肌で実感できる被害ではあるが、県民は、いつ墜落するかもしれない不安、目に見えない数多くの被害とともに、深い心の傷を負っているに違いない。基地内に墓を取り込まれ、思うようにお参りもできない、借地料が入ろうとも耕作地を奪われた人々、多くの遺骨が収集されないままに放置され、まるで産廃処理場のような状況で何が埋もれているか分からない状態での返還に甘んじる日本政府、そして現実には、墜落事故と米兵による暴行・殺傷事件が続く。県民の怒りと悔しさのほんの一部でも共有できただろうか。  
  帰途の車内では、沖縄経済の基地への依存度が取りざたされるが、いまや極単に少なくなった現状について、Kさんと夫との会話は続く。本土の人たちの「沖縄は基地があるからやっていける」との大いなる誤解は払しょくしなければならないと。 すでに、約束の5時間はとっくに過ぎて、ホテルに着いたのは4時すぎであった。その夜の食事は、ホテルのカウンター係員に、モノレール美栄橋駅近くの食堂を紹介してもらった。ホテルの横の路地を進むと大通りに出ると、大きな店を構えたジュンク堂前の「我部祖可」だった。今日も長い、そして重い旅の一日だったが、沖縄そばとゴーヤチャンプルなどの家庭料理とオリオンビールはおいしく頂戴したのだった。

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機影は点のようにしか見えないのだけれど

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左下の赤い数字が現在の騒音測定値を示している

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翌日11月13日には、町による騒音測定がなされ、同日の夕方、ホテルのテレビで地元メディアのニュースを見た

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道の駅「かでな」前、甘藷伝来の恩人という

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「我部祖可」の赤いノボリが見える食堂











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2014年11月23日 (日)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行> 2014年11月11日~14日(3)


国道
58号を北上、読谷村へ

1112日、天気は良好。まず、先般、夫が訪ねていない読谷村(ヨミタンソン)に出かけることにした。私は、沖縄地上戦の端緒、194541日アメリカ軍の上陸地点が那覇ではなく、読谷村のどんなところだったのか知りたいと思った。沖縄には鉄道というものがない。広くても島であることから当然のように思っていたが、戦前には、製糖業に軽便鉄道は不可欠であった。あとで、教えてもらったように、いまにいたって鉄道がないのは、それなりの理由があった。そこで、私たちの旅にしては珍しく、機動力のある貸切りの車をホテルに手配してもらった。

9時半出発、Kさんという運転手さんは、半そでのかりゆしを着てあらわれた。5時間の予定で、夫は回りたい場所、主に戦跡なのだが、印をした地図を手渡した。南風原生まれで、いまも住んでいるKさんの運転と案内は、実に丁寧で詳しかった。観光案内書では知ることのできない、地元ならではの情報や気持ちを伝えてくれるので、私たちにとっては、とても新鮮で刺激的にも思えた。

国道58号線を北上、嘉手納町に入ると、Kさんは、右側に延々と続く嘉手納米軍基地の様子を話しながら、まったく右折ができない道路を嘆くとともに、基地の沿革、現状をかいつまんで話してくれる。ほとんど初めて聞くことばかりだ。なんということだろう、メモを取りながらしきりに思った。

説明を受けている車窓の施設を撮影しようとしても追いつかず、あきらめてしまった。1944年に嘉手納村に建設された中飛行場が、沖縄戦の後、アメリカ軍に占領されたまま、拡張が続いた。嘉手納町の83%を占めているのが現状である。この58号線は基地があるため右折ができないから、渋滞も激しいという。そして、道路は、不発弾処理のためよく通行が禁止になるそうだ。さらに、鉄道工事ができないのも、この基地があるためだという。沖縄では19441010日の那覇空襲、19453月に始まる艦砲射撃や地上戦がなされた地域での開発にあたっては、この不発弾と遺骨がどこから出てきても不思議はないという。走る車の正面を米軍の航空機が低空で飛ぶ。Kさんは、たちどころにその機種と性能を説明してくれる。嘉手納基地配備の軍用機のいろいろ・・・F-15F-22P3C、空中給油機、・・・、私たちには、ただの飛行物体にしか見えないので、なかなか呑み込めないのが、正直なところだった。知っているのは自衛隊の下総基地で見たP3Cくらいである。わが家の上空を500mに満たない低空で飛んでいることもあるからである。左手も基地となり、芝生に覆われた小さな山が続く。これは燃料貯蔵庫だそうで、上空から標的にされないようになっているそうだ。また、嘉手納基地の10分の9は民有地だが、沖縄独特の一見、石の家屋のも見える立派な大きなお墓が散在しているのがわかる。特定の日にしか開放されないというから、嘉手納の人々は自由に墓参りもできないことになっている。

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基地内には小学校から大学まであり、黄色いスクールバス90台が運行されている。写真の中央に黄色いバスが並んでい

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これは、拝借した写真

 

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これは、車窓から見た燃料貯蔵庫

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これも車窓から、基地内に家のように見えるのは石のお墓である



「米軍上陸の地」へ

最初に車を降りたのは、北谷町砂辺、米軍基地関係者が住むマンションという、どれも外壁が肌色で、あまり生活感のない建物が続く道をぬってたどり着いた海岸で、「砂辺の浜之歌碑」があった。沖縄の民謡界の中心人物という喜屋武繁雄作詞作曲の「砂辺の浜」という歌の碑であった。さらに、海岸の洞窟前は、「渡具知泊城」(トゥマイグシク)の標識が立つ、王国時代の「按司」、本土でいえば地方豪族に当たる人の城跡で、こういう城は全島で200くらいはあったという。海岸の岩場の道ならぬ道を進めば途中では、基地内に見かけた墓とは違う、西向きの小さな祠のような墓のいくつかに出会った。

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 渡具知泊城

そして、つぎに向かったのが「米軍上陸の地」である。194541日、米軍が沖縄本島に初めて上陸した海岸として、児童公園を経てのぼった高台に「上陸の地」としての碑が建てられている。この上陸を皮切りに、約18万3000人、総勢55万の兵力、各種戦艦1300隻以上が投入されたとある。多くの住民は、海岸の岩場にできた「ガマ」と呼ばれる鍾乳洞を、防空壕代わりにして逃げ込み、日本軍は、太刀打ちできる兵力もなく、無抵抗に近く、ただちに米軍に占領された。日本軍が建設したばかりの北飛行場も占領され、その飛行場が米軍から返還されたのは60数年後で、いまは二本の滑走路の道路に挟まれて読谷村役場が建っていた。日本軍は、住民が避難している「ガマ」から住民を追い出したり、混在したりする中で、さまざまな悲劇や殺戮が繰り返されることになるのだ。正面の静かな海の上空には、いまも、米軍の軍用機の離着陸が頻繁である。Kさんの話によれば、日常的には、F15の飛行が一番多いらしいが、この時期、F22も盛んに飛行しているという。最新最速機F22は、2時間半でハワイに飛び、機体には特殊な塗装処理がしてあるので、機体の乱反射で敵機には把握できず、レーダーにも入らないステルス性を持っている。「ほらほら、今度飛んでくるのがF22です」「いま正面に飛んでいるのが空中給油機で、尾翼の後ろに突起しているのが見えるでしょう」と教えられるのだが、“動体視力”が追いつかない!

この上陸地は比謝川の河口でもあり、川の北は読谷村となり、岩場には特攻艇秘匿洞窟群もあったという。この地には23年ぶりというKさんは、「偵察」に出てくれて、岩場が崩れ、そこへはたどり着けないとのことで、それはあきらめた。通行可能な海岸線の岩場を進み、もとの児童公園に戻った。

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 ソテツの実

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 米軍上陸地の碑の中の一つ

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米軍上陸時の写真がパネルとなっている

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記念碑近くから比謝川河口を望む

 都屋漁港、「いゆの店」へ
 そろそろ12時にも近いということで、案内してもらったのが、都屋漁港、読谷村漁業組合経営の「いゆの店」という食堂だった。「安くて、新鮮な魚が食べられますよ。モズクの天ぷらがおいしくて、仕事でここへ来たときは、よく買います」とのこと。「いゆ」とは「さかな」の意だそうだ。Kさん自身はお弁当で、車内で済ますとのことだったが、なんとこの店でいとこ夫妻にぱったり会い、久しぶりだったとのこと。地元の人にも愛されている店のようだった。
 
店内の厨房に入って注文とのこと、カウンターの奥では、魚をさばく人、てんぷらを揚げる人、盛り付ける人と忙しそうだ。出来上がると小さな窓から名前が呼ばれる。私たちは、海鮮丼「都屋の海人丼」にアーサー汁が付いている定食とお勧めのモズクの天ぷらをお願いした。ふだん食するお刺身とは格段の差、ツマでのっていた海ぶどうの食感もめずらしかった。

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都屋漁港

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「いゆの店」店内

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読谷村漁協のホームページから拝借、私の食した都屋の海人丼とアーサー汁。緑の海ぶどうとイクラが彩りを添える

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2014年11月19日 (水)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(2)

海の青さが違う
  11月11日、羽田空港8時55分発のJAL便で、那覇空港11時40分着だった。着陸前の海の青さに旅心は募る。気温の落差が心配だったが、長そでシャツにベストで、暑いということもなかった。モノレール乗り場へは直結していて、ホームに立てば、街からは、選挙街宣車の声が届く。姿は見えないが、県知事オナガ候補夫人、那覇市長しろま候補の娘さんが紹介され、短い挨拶が続いていた。通称「ゆいレール」で16分の牧志(マキシ)下車(260円)、かなり高いところを走り、日中は10分に1本、終点は首里だが、佐倉のユーカリが丘線とは輸送量が違う。沖縄には鉄道というものがない。宿は国際通りのほぼ中央のJAL cityホテル、昼前ながらチェックインができた。荷物を置いて街に出よう。

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声はすれども、選挙カー見えず、モノレールの駅から

首里城の再建、あまりの絢爛さに戸惑う
    最初に向かうのは首里城、今度は、ゆいレールの県庁前から乗って、終点首里で下車。交差点近くにある選挙公報の看板が長いのは、知事・市長選と県議と市議の補欠選挙が同時にあるらしい。上りも下りもある城壁沿いを進めば、見晴らしのいい高台に出る。やがて、左手に、久慶門、歓会門が現れ、この辺りになると観光客、修学旅行生でにぎやかとなる。まずは、守礼門に隣接するレストランで昼食、私は初めての沖縄そばの定食にした。歓会門から入り、いくつかの門をくぐり、修学旅行生たちのガイドさんの説明を聞きながら進む。奉神門からは有料ということでチケットが必要だ。中庭から南殿、正殿、北殿と順路に沿って回るのだが、すべてが琉球王国の絢爛さだけを再現したような印象であった。

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しばらく続いた城壁沿いの道、赤い屋根が見えてきた

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歓会門を望む

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屋内の撮影は禁止だが、南殿の窓から御庭を望む

玉陵から一中健児の塔へ
  つぎは、その城主たちの陵、交差点一つを越えただけなのに「玉陵」(タマウドゥン)でまで来ると観光客はごくまれだ。壮大な三つの石室からなる陵で、墓前の白い砂利の庭は広い。そこで出遇った男性に「ひとり旅なもので撮ってもらえますか」と声を掛けられた。「広島から一泊で飛んできました」とも言っていた。この資料館では、「風葬」の後の「洗骨」という埋葬の風習をあらためて知ることになる。この玉陵と道を隔てたところは首里高校だった。とすると沖縄一中生の沖縄戦犠牲者追悼の碑が近いかもしれないと、夫が、玉陵の受付に戻って尋ねてきた。玉陵の横の道をしばらく下ったところに、首里高校の同窓会館があり、そこからさらに階段を上ったところに、「一中健児の碑」はあった(養秀尞跡)。手を合わせた後、会館の2階の「一中学徒隊資料展示室」に立ち寄った。訪問者リストに記入を求められた。きょうは11日だが、一番新しい訪問者は11月5日とあった。ここまで訪ねてくる人は、これまたまれなのだろう。展示室には、犠牲者全員の顔写真が掲げられているが、どの写真もまだ幼い少年の顔であり、中には幼少時の写真もある。家族全員が犠牲になって写真が集められなかった生徒もいるということであった。1945年 3月 27日卒業式後、鉄血勤皇隊に動員された144名、2年生中心の通信隊に動員された110名、4月19日養秀尞艦砲弾で全焼、軍と共に南部へ撤退し、犠牲者続出、289名を数える。

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玉陵、並ぶ三つの墓室

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一中生健児の塔の碑文

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一中学徒隊資料展示室内部

第32軍司令部跡
  ふたたび首里城公園に戻って、第32軍司令部として使われた、首里城の地下壕跡があるはずと探し始めた。歓会門前の下り始めると、左手には、立派な案内板があった。この説明文については、歴史研究者の委員たちが執筆した原稿が、県によって一方的に了解なく、削除された部分があり、県議会などでも問題になったというが、現在も、そのままで復元されていないそうだ。その案内板の奥には小さな穴が見え、格子が建てられ立ち入り禁止になっていいるが、地下30m、坑道の全長約1kmに及ぶといい、1945年3月の空襲激化に伴い、この壕に軍司令部は移転してきている。二人連れの女子高校生が寄ってきたので、どこから?と尋ねると長野県からという。私たちは行ったことがないけれど、松代の地下壕は知っている?と聞けば、行ったことがあるという。さらに下ると円鑑池と呼ばれる池があり、弁財天堂が浮かび、水どりが羽を休めていた。
   この日の夕食、国際通りぶらりと入ったのが「八重山」だった。

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これが有名な守礼門

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第32軍司令部跡の案内板(2012年3月設置)

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上記案内板の下段中央部分を拡大する。「壕内のようす」の3行目、「女性軍属、慰安婦などが」との案文から「慰安婦」が削除され、この案文の最後に続いていた「司令部壕周辺では、日本軍に〈スパイ視〉された沖縄住民の虐殺などもおこりました」が削除された。(『沖縄の戦跡ブック・ガマ』改訂版 沖縄県高教組教育資料センタ―『ガマ』編集委員会編 2013年)

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五つある坑口の一つ。この壕内では、軍が壊滅状態でありながら、各師団参謀長らにより1945年5月22日南部撤退が決定され、想像を絶する軍民混在の撤退行が始まり、犠牲者は激増した


国際通りのにぎわいの中で
   国際通りに戻ると、ここも修学旅行生でにぎわっていた。お土産物屋さんの呼び込みもかなり激しさを増す。どうもおもちゃ屋さんみたいなにぎやかさで、のぞく気にもならないが、高校生のグループやカップルでのショッピングは、実に屈託もなく、楽しそうであった。私たちはそろそろ夕食をと店を探し始めるのだった。

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シーサー専門店?

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こんな店も、観光客が買ってゆくのだろうか

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こんなアーケード街も

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「石敢當」というお札のようなものは「厄除け」の一種で、家々の石塀の角に彫り込まれたり、書きこまれているのを見かけた

 

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2014年11月18日 (火)

沖縄の戦跡を歩く~遅すぎた<修学旅行>2014年11月11日~14日(1)

旅の終わりにオナガ選挙事務所を訪ねた

 1111日の朝、羽田を発ち、那覇市に3泊の旅行となった。夫は、今年の夏に引き続き、2回目だが、私には初めての沖縄であった。16日が投票日だから、沖縄県知事選、那覇市長選の最終盤に居合わせたことになる。知事選の行方がいつも気になる旅だったが、地元メディアの報道や両陣営の選挙活動を垣間見て、オナガ優勢は肌で感じる4日間ではあった。「私は保守の政治家です。沖縄の保守です」というのが、第一声らしかった。 

那覇を発つ日の朝、ホテルからも遠くはない那覇市役所近くのオナガ選挙事務所を訪ねた。昨晩、夫は、選挙事務所へ電話をして、何か手伝えることはないかと尋ねたところ「9時にいらしてくれれば、単純な仕事で申し訳ないが」とのこと、9時前に事務所に入ると、与えられた仕事は、集会などですでに利用済みのハチマキを、結び目をほどき、手で延ばし、100枚の束にすることだった。すでに何人かの人たちが黙々とその作業を始めていた。シンボルカラーの緑色のハチマキがぎっしり詰まったビニール袋が幾つもころがっていた。これは大変!たしかに。夫と向かい合って、ひたすらその作業を進めた。そのときは気づかなかったが、翌日、二の腕が痛くなるほどだったのである。ともかく5束、500枚は箱に収めただろうか。なかなか出入りの激しい、皆さん忙しそうな事務所だった。途中、北海道のどこかの町議だという人も現れて、事務所の写真を撮らせて下さい、事務所を背景に私も写してくれますか」と運動員に依頼していた。私も便乗して撮った写真である。あっという間の2時間だったが、明日夕方5時からの最後の集会にこのハチマキが利用されるといい、そのとき配布するビラも山積みされていた。金秀グループの「ハイサイさんぴん茶(ジャスミン茶)」とおにぎりをいただき、事務所を後にした。僅差ではなく、圧倒的な勝利をと願うばかりだった。

行く先々で、修学旅行生に遇うことが多かった。私にとっては、まさに遅すぎた「修学旅行」であったかもしれない。さかのぼって報告してゆきたいと思う。

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少し奥を覗いてみると

 

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このあと、間に合っただろうか
 

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  オナガ事務所2014年11月14日朝、

この並びの2・3軒右に那覇市長候補の城間幹子氏の選挙事務所があった

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11月12日読谷村渡慶次「忠魂碑」前にて

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2014年11月17日 (月)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(10)

ベルリン最後の日、動物園をめぐる

1027日、さすがにきのうは疲れたのか起床は9時近く。あわてて朝食に向かう。むしろこんな時間の方が混んでいるのがわかった。テーゲル空港午後257分発なので、午前中はのんびり動物園でも回ろうということになった。いつも遠くから眺めていたカイザー・ウィルヘルム教会にも寄ってみるが、ここも改装中であった。動物園の入り口には、週日というのに、かなりの行列ができていた。家族連れも多い。何しろ広くて、緑と黄葉が青空に映えていた。夫のお目当てはトラなのだが、角々の案内板を確かめながら歩く。多くは、囲いや濠をめぐらされた中での放し飼い、鳥たちは自由に飛びかい、水どりは道端に休んでいた。猛獣はさすがに獣舎の檻の中だったが、トラはお休み中か、見当たらず、ライオンのカップルが堂々としながらも、ときどきのしぐさに子どもたちは歓声を上げていた。噴水近くのベンチでおやつを広げ、私は今回の旅で初めてスケッチブックを開いた。少し早めだが、ホテルで荷を受け取り、Zoo駅近くからの空港バスに乗る。お土産は一切買っていないこともあって、空港で少し時間をとりたかった。ところが、テーゲル空港の乗り場などを確かめているうちに、というより、華々しい土産店は見当たらず、そのままフランクフルト行きに乗ることになってしまった。乗換のフランクフルト空港にはさすがに様々な店が並ぶが、もうどうでもよくなってしまって、必要最小限度にとどめた。娘からは「これぞドイツというチョコレートを買って来てね」とのリクエスト。前回は、ビルケンシュトックの靴を頼まれ、苦労したのを思い出す。

ドイツにはもう一度来れるだろうか、ミュンヘンやハンブルグも訪ねたい、ライプチッヒやベルリンは、もう一度訪ねたい街だ。

25年前の1989119日はベルリンの壁崩壊の日、その後の東西ドイツ統一から四半世紀ということで、さまざまな催しや回顧、見直しの動きもあるドイツの街に、短期間ながら居合わすことになった今回の旅、収穫は大きかったと思う。これから、ドイツに学ぶことも多いのではないか。日本の選択、ドイツの選択についてゆっくり考えてみたい。

11月半ばの4日間、沖縄知事選、那覇市長選が終盤戦にかかったころ、私たちは沖縄を訪れていた。そのさなか、あれよあれよという間に意味不明の国会解散風が吹きだした。勝算ありと見たのか、ご乱心か、消費税増税見送りをもって、 国民の意思を問うのが民主主義とか言い出す安倍首相。閣僚人事の失敗、10%への消費税増税の見込み違いや外交の手詰まり感が蔓延するなか、原発再稼働、集団的自衛権行使容認、TPP参加などについては、まったく民意に耳を傾けない安倍政権。「地方創生」と言いながら、沖縄の基地は国家の安全保障政策の問題、辺野古移設はすでに過去のこと、一地方の沖縄の民意には左右されない!というのが安倍政権のスタンスなのだ。

つぎは、沖縄旅行のレポートとしたい。

Gedc4030ベルリン動物園1

 

Gedc4025ベルリン動物園2

 

Gedc4031ベルリン動物園3

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これが、探していた議事堂近接フェンスに掲げられた、東西分断の壁を越えようとして犠牲になった人々の追悼パネル。路線バスの窓から見つけて、あわてて途中下車し、手を合わせた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(9)

ベルリン3日目、冬時間へ

私たちが日本を発ってすぐに小渕・松島両大臣が辞任したことは、ホテルの新聞で知った。その後の娘からのメールでは、後任の両大臣にも、つぎつぎとボロが噴出しているとのことであった。こちらではテレビを見るゆとりもなく、天気予報を見るくらいだった。青空を見ることは少なかったが、傘をさして歩いたのは、フランクフルトの2日目の夕方だけだったように思う。

1026日(日)、いよいよベルリンも3日目となった。朝6時、早すぎるかなと思いながら、旅のメモでも取っておこうと、ふたたび枕元の時計を見ると、?まだ5時?ホテルの時計が止まっている!と夫に告げると、「そう、きょうからだったのかな、冬時間に切り替わったかもしれない。旅行社のMさんが言っていた」とのこと。この時期に影響の少ない日曜日に夏時間から冬時間に切り替わるらしい。少し得をした気分ではあった。ほんとうにドイツの朝は、明るくなるのが遅く、7時になっても真っ暗だった。早めの食事を済ませ、夫は、きょうの目的地、ザクセンハウゼン強制収容所への予習に余念がない。そして、きのう、私が「なんか気持ちの重くなる所ばかりをまわてきたので、コンサートにでも行きたいね」と口走ったばかりに、夫は、昨晩のうちに、今夜ベルリン・フィルハーモニーでドイツ・シンフォニー・オーケストラのコンサートがあることをホテルで確認、予約を依頼したが、当日売りで入手してくれとのことだった。その方もやや気がかりではあった。

 

クセンハウゼン強制収容所へ

Sバーンでベルリン中央駅に出て、RB(Regional Bahn)5で強制収容所の最寄駅Oranienburgオラニエンブルクに向かう。944分発、約30分。駅からは歩いて20分というが、804系バスには、学生だろうか、日本の若い女性3人組と一緒に乗った。終点バス停の前で、帰りのバスを確かめ、1時間に一本なので午後19分とした。厚いコンクリートの壁の切れ目から入場、収容所の入り口は、長い石の塀に沿った一本道、いわゆる「収容所通り」を進んだところらしい。その途中の塀には、強制収容所での出来事が大きな写真で展示され、その役割を強く印象づけられる。ナチス解体後は、ソ連、東独の特設収容所となっていたのである。入口の正面にはレーニンの顔写真が掲げられている写真もあった。

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バス停を降りると、こんな壁の間を縫って

 

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 収容所通りには黄葉が舞う

 

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目を蔽いたくなるような写真が続く

 

以下は、入り口で購入したコピーの日本語案内(50セント)による。19333月、ナチ突撃隊によってオラ二エンブルク市の中心部に開設された収容所は、一時3000人以上の人が収容されていたが、19347月に親衛隊に引き継がれ閉鎖している。1936年現在の地に、収容所建築のモデルとなるべく、親衛隊により設計されたのがザクセンハウゼン強制収容所だった。1938年にはドイツ支配下のすべての強制収容所の管理本部の役割を果たしていた。以降194542223日、ソ連とポーランドの軍隊ににより解放されるまで20万人以上の人が収容され、飢え、病気、強制労働、虐待、さらには「死の行進」などにより多数の犠牲を出した。当初は政治犯が主だったが、後は人種による収容が多くなった。19458月からは、ソ連の特設収容所として、ナチス政権下の役人や政治犯らで、その数6万人、少なくとも12000人が病気や栄養失調で犠牲になっている。1961年以降は、ソ連軍東独軍の施設として利用されていたが、1961年に国立警告・記念施設としてスタートした。1993年以降東西ドイツの統一により、国と州に拠る財団で管理され、「悲しみと追憶の場所としての博物館」となり、残存物の重要性が見直され、構想・修復されて現在に至っている。

 

案内所では、オーディオガイドも借りられるが、日本語はなくて、上記のA420数頁のコピーによる案内だけが用意されていた。収容所は、見取り図でもわかるように、正三角形からなり、その一辺の真ん中が入り口となっており、その鉄格子の扉の「ARBEIT MCHT FREI」(労働すれば自由になる)の文字は、アウシュヴィッツ収容所の入り口のアーチに掲げられている文言と一緒である。その一辺を底辺とすれば頂点に近い位置に、東独時代の石の記念碑が立っている。入り口近くに扇型の点呼広場⑫を中心として、バラックと呼ばれる収容棟が放射線状に68棟建てられていたことがわかる。各棟敷地跡には区切られ、砂利が敷き詰められていて、いまは広場から一望できる。最も管理がしやすい形だったのだろうか。

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入口から正面のオベリスクは高さ40mあるという

 

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”ARBEIT MACHT FREI”の文字が見える

 

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③ 収容所通り ⑩ 入り口 ⑫ 点呼広場

 まず、博物館で、予備知識をと思い入館した。収容所の変遷が分かるように、展示・映像・音声装置などにも様々な工夫がなされていたが、見学者は極単に少ない。ここでは、やはり、フイルムと写真という映像の記録の迫力をまざまざと見せつけられた。さらに、現存の収容棟の一つには、ユダヤ人収容者の歴史が個人的なデータを含めて展示され、べつの収容棟には収容者の日常生活が分かるような展示がなされていた。結局、2時間余りでは、全部は回り切れず、いわば、本部に当たる監査棟、病理棟、強制労働がなされた工場棟、犠牲者の墓地など大半を見残している。が、総じて、権力を持った人間が持つ狂気、それに押しつぶされる人間の良心と抵抗の力をも、あらためて知ることになるのだった。

 

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博物館、ある画家の残したエッチングなど

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博物館、流れる映像と鉄条網の束

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バラック38は、収容棟博物館になっている

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遠くの施設には足を運べなかった

当日券でコンサートへ
 オラニエンブルクからポツダム広場に直行、きのうも出かけた「文化フォーラム」の一画にある「フィルハーモニー」のコンサート会場には3時過ぎに着いたのだが、夜8時からの開演で、当日券は630分から発売とのことだった。それではと、近くの新国立美術館に入ってみることにしたが、これまた、まさにドイツの現代美術展であって、抽象画や奇妙なオブジェも多く、正直なところ馴染めないまま、一回りだけはしたのだった。この間にとソニー・センターの2階のレストランで夕食となり、少しゆっくりしたのだった。きょうも結構歩いたなと、万歩計をのぞけば、13000歩、ドイツに来てからは、130002万歩で、日常的には多くて5000から6000歩なのだから、いつもの3倍は歩いていることになる。頑張っているではないかと自分をほめたい?感じ。
 ようやく当日券入手、迷いはしたが、座席はFブロックで32€(プログラム2€)、7時には開場とのことだったが、だいぶ遅れた。大ホールは、複雑な重層的な構造で、F席は3階のようである。この会場では、まだ先のようであるが、内田光子や辻井伸行のリサイタルも開催されるらしい。開演間際になると、AB席はほぼ満席、F席は67割か、まるで空席のブロックもあり、全体として45割程度なのかもしれない。ワグナーの「ジークフリート牧歌」とバルトークの「弦楽器と打楽器、チェレスタのための音楽」で休憩に入るので、そこで失礼することにした。ワグナーは、やさしい子守唄を聞いているようであったし、バルトークは、チェレスタ・ピアノ・木琴をはじめ打楽器が多彩で、ピアノの連弾もあって、たのしく聴くことができた。ベルリン最後の日も長い一日となった。

 

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チケットと大ホールの見取り図

 

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大ホールをF席から見ると

 

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2014年11月16日 (日)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(8)

この辺り一帯をベンドラー・ブロックと呼ぶらしい

 未消化ながら、その抵抗精神を貫いた人々の足跡に圧倒されながら、抵抗運動記念博物館を後にしたわけだが、外に出てみると、Polizeiの文字の車が並び、点々と警官が立っている。何ごとかと思えば、絵画館前辺りで、気勢をあげている一団、せいぜい20 人くらいの人たちが、遠目で分からないのだが旗を振りながらシュプレヒコールをしているのを、多くの警官が囲んでいるではないか。ネオ・ナチ?詳細が分からないまま、私たちは反対側の歩道を進んだ。この辺り一帯は、都市計画の設計者にちなんでベンドラー・ブロックと呼ばれているらしい。さまざまな公的な文化施設が立ち並んでいて、「文化フォーラム」と名付けられている。その一角に、翌日再び来ることになるコンサートホールの「フィルハーモニー」もあったのである。

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「文化フォーラム」翌日訪ねたフィルハーモニーも、新国立美術館もこの一角にあった

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近づくのが憚られ、遠景になった

 つぎは、ポツダム広場を経て、ブランデンブルグまで、歩くことになった。広場では、残された「壁」の付近を写真におさめた後、広大なティーア・ガルテンを左にしながら、黄葉の並木道を歩くのは苦にならなかった。2008年の際は、あのブランデンブルグ門わき、いわば都心の一等地に建設されたホロコースト追悼モニュメント、方形の、高さの異なるコンクリート塊による“巨大迷路”のような建造物に圧倒されたのを思い出す。「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のために」2005年5月に完成して、3年目であったのだ。議事堂をもまじかに控えたこの地に、ドイツが、こうしたモニュメントを建設したこと自体、日本という国の在り方、歴史認識の違いを目の当たりにして驚いたのであった。きょうは、ウンター・デン・リンデン通りを進み、博物館島あたりまで歩いてみようということになった。かつては素通りしてしまったカフェ・アインシュタインにも立ち寄りたいと連れ合いはいう。また、その前に、たしか議事堂脇の道端にあった、ブランデンブルグの東西分断の壁越えをしようとして犠牲になった人たち、多くは若者たちを追悼する碑をもう一度訪ねたいというのが連れ合いの希望だったが、どうしても見つからなかった。

 

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ロコースト碑、19073平方メートルに2711基の石によるオブジェだが、墓石のようにも、石棺のようにも・・・

 

シンティ・ロマ族追悼記念碑

 そこで、迷い込んだ?のが、新しいアクリル板の長いモニュメントに囲まれ、円形の池を擁する一画であった。パネルの説明と出口で手にしたリーフレットによれば、ナチス時代のシンティ・ロマ族のジェノサイドによる犠牲者の追悼記念碑であった。荘厳な音楽が辺りに流れ、池の周囲には、真新しい花束がいくつか供えられていた。よく見ると、1024日に式典が行われているらしかった。ジプシーであった少数民族シンティ・ロマ族は、ドイツ民族の純潔を汚すとして、1933年から迫害が始まり、絶滅政策の犠牲になった。ユダヤ民族への迫害・絶滅については、多くの記録が残され、語り継がれているが、シンティ・ロマ族に関しては、知られることが少なかったという。この記念碑建設までには、その立地、解説文などを巡って、多くの歳月を要し、201210月に完成している。私も無知に等しかったが、ドイツやナチスの歴史には、わずかながらページを割き、書かれていたのをあとで知った次第である。今回は素通りの国会議事堂の、まさに足もとにこうした追悼記念碑が建設されたことに、先のホローコスト追悼記念碑の建設と同様な感慨を覚えるのであった。

 

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石畳のところどころに、犠牲者の名前が彫られていた

 

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リーフレットの一部(1)

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リーフレットの一部(2)

ブランデンブルグ、その周辺
 一帯は、相変わらず観光客が引きも切らず賑わっていたが、門の正面には、たしか以前にはなかった、一風変わったモニュメントがあるのに気付いた。ポーランド絶滅戦争についてのメッセージが込められているのだろうか、金網で囲われた厚い壁のような柱状の中に人間の顔ほどの大きさの石が積まれているのだ。側面には、その歴史を語る写真と解説パネルが貼られていた。「ここにも・・・」の思いが去らない。なお、もう少し進むと右手の大きなビルには、ホテル・アドロンの表示があった。ここは、かつて三国同盟時代の松岡洋右外相が泊ったホテルであったが、ベルリン市街戦下では野戦病院にもなったといい、1945年3月には焼け落ちている。ホテル再開は1997年で、いまはケンピンスキー系列の五つ星のホテルになっている。オバマ大統領も泊ったそうだ。ホテルを右に折れる街路は、ナチス時代の各省が並んでいた官庁街、現在は、ホテルと街路をはさんでは警察本部が、ホテルの並びにはイギリス大使館などが並んでいた。

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「ポーランドにおける絶滅の戦争」(?)名付けられていた

 さらに進むと、向かいのスタバの前を、絵画館前にいた一団が警官に守られながら?行進をしているのに再会する。そちら側に渡ってしばらくすると、ブラント元首相の資料館があった。連れ合いは、寄ってみたいが時間が気になると、まずはカフェに急ぐ。アインシュタインの店内は満席に近く、ようやく見つけた相席で、頼んだラテ・コーヒーとバニラクリームつきのケーキは格別だった。よく考えてみると、結局昼食抜きで4時過ぎまで歩いていたのだが、ケーキは二人で一つを分け合って正解だった。その大きかったこと。一息ついて、はや暮れかかった通りを進めば、巨大なフリードリヒ大王の騎馬像が目に入る。ただ、いまだ再開発の工事だろうか、これも背が高いクレーンが、頭上高くコンクリート塊を挟んだまま止まっているのは恐ろしかった。まずフンボルト大学の門をくぐり、建物に入ればエントランスホールは、明るくにぎやかだった。前庭の様々な銅像のいわれを知りたいが、先を急がねば。振り返れば、大学の建物は少し前にライトアップされたようだった。

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ごちそうさまでした 

 

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フンボルト大学のライトアップ

 

 道路を挟んだベーベル広場には、今日の目的でもあるナチス時代の焚書の記念モニュメントがあるはずである。この広場の左手は国立歌劇場だが、大改修工事中らしい。かつての国立図書館に面したベーベル広場は焚書広場とも呼ばれているのに、見渡しても、そのモニュメントらしきものがない。「焚書」を象徴する「空っぽの図書館」があるはずなのだが・・・。すると、すでに薄暗くなった広場の工事中の板塀付近に人だかりがしているので、近づいてみると、ありました!足もとの石畳が大きく繰りぬかれ、ガラス張りの下には真っ白な書棚だけが見え、みんなが覗いていたのである。地上には、板塀に、その表示があるだけだった。それだけのことだったのだが、「焚書」という歴史的事実を忘れないためのモニュメントとして、地下からの白い光の束は、やはり衝撃的であった。

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工事中の板塀に、こんな表示だけがあった。1933年5月10日、ナチスによりハイネ、ブレヒト、ツヴァイク、マルクス、ケストナーらの本が焼き払われた

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深さ5mというが、空洞で、焼かれた2万5000冊の本が収まる空っぽの本棚

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抵抗運動記念博物館に展示されていた「焚書」時の写真

 すっかり暮れてしまい、昼食抜きで歩いたためか、疲れもピークか、ここからバスの100系でZoo中央駅に引き返すのだが、初めてバスの2階席に上がってみた。かなりの大回りながら、街の夜景が眩しかった。明日は、少し遠出の予定である。レストランに行くのが面倒と、ホテルでのテイクアウトの夕食とあいなった。

 

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2014年11月15日 (土)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(7)

国立図書館で遊ぶ?

1025日(土)の午後は、グリューネヴァルトからポツダム広場へ直行、そこから遠くはないはずの「ドイツ抵抗運動博物館」(Gedenkstatte Deutscher Widerstand/ドイツレジスタンスメモリアルセンター)をめざす。ポツダム通りを道なりに行けばいいはず。その途中で外壁には足場が組まれている建物に、Staats Bibiliothek、国立図書館の文字が見える。元図書館員としては寄らないわけにはいかないだろう。中に入ると広いホール、カウンタはずーっと奥で、その手前には、人間の背丈ほどもありそうなロッカーが並ぶコーナー、パソコンの検索機が並び、展示パネルも並ぶ。そして、当然のことながら、奥のトイレ近くに、カードボックスが追いやられていた。展示は、図書館の沿革がわかりすく解説されていた。 ちなみにと、検索機で、私たち二人の著書を検索してみたが、見つからずじまい。それならば、「森鷗外」「村上春樹」とで検索してみると、百件単位で出てくるのだから、検索が間違ってはいないのだろう。そんないたずらをしたあとは、ホールのベンチで一休みし、目的地に向かう。

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外壁工事が続く、国立図書館 

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 図書館ホール

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 カードボックスは、ホールの片隅に

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 十数分野に分かれたリーフレットのガイド

  
ドイツ抵抗運動博物館
 図書館の向かいのマタイ教会と新ナショナルギャラリーの間の道を進むと、それはあった。入口は狭いが、中庭は広い。ここはかつての陸軍最高司令部で、ヒトラー暗殺計画に関与した軍人たちが銃殺されたという惨劇の広場でもあり、その追悼碑と中央には男性立像がある。二の腕を胸につけて突き出した拳の両手を直角に組んでいるのは、その抵抗の意思の強さを示すのだろうか。

 そして、中に入って、また驚いた。ガイドのリーフレットに拠れば、テーマや事件、活動主体ごとに18室に分かれている。どこを重点的に見ればいいのか。リーフレットにも英文が併記されているので、それを頼りに、展示室を進む。受付で尋ねたところ、日本語のカタログはないが、英語ならありますと、あちこちの棚から選んで持ってこられた。比較的薄い冊子を購入することにした。展示室は、たとえばワイマール共和国時代から国家社会主義の台頭、労働者、芸術家、文学者、クリスチャン、赤いオーケストラ、白バラ、移民、ユダヤ、シンティ・ロマなどをテーマにまとめられている。とくに、200人以上が逮捕され、その中心的リーダーたちがここの広場で銃殺された、1944720日ヒトラー暗殺計画事件については幾室にもわたって詳しく展示・解説されていた。また、第7室は、たった一人でヒトラー暗殺事件を計画、未遂に終わり、1939118日に逮捕された家具職人ゲオルグ・エルザーについてで、彼の生い立ちから始まって、ザクセンハウゼン強制収容所を経て、19454月9日ダッハウ強制収容所で銃殺されるまでの足跡を克明に追跡した記録が展示されていた。第15室は、映画「白バラの祈り」で、私も初めて知った、ミュンヘン大学の女子学生ゾフィー・ショルと兄や仲間たちとの抵抗運動についてまとめられていた。どの室の展示もさまざまな工夫が凝らされ、弾圧と抵抗の詳細が分かるようになっていた。しかし、写真からのメッセージはインパクトはあるが、解説を即座に理解するのは至難の業で、眺めて、通りすぎる程度であった。小ホールでは、見学の生徒たちが館員から説明を受けているようであった。丁寧に見ていたら一日はかかりそうな、といっても、言葉の壁はもはや苦痛だろう。帰国後、たとえば、クライザウ・サークル(KreisauCircle)とかジプシーSintiRomaについて初めて知ることも多かった。

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ドイツ抵抗運動博物館の入り口に、その沿革が。英訳も付されているが

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ヒトラー暗殺計画の軍人たちが銃殺された中庭、中央に男性立像の追悼モニュメントが見えるだろうか

 

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処刑者の追悼碑

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ドイツ抵抗運動博物館リーフレット

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第7室 ゲオルグ・エルザーの生涯

 

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処刑されたゾフィー・ショル(右)とミュンヘン大学、白バラの学生たち、左隣がショルの兄

 

 

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2014年11月 7日 (金)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(6)

家庭的なレストラン、Heisingで  
   10月24日(金) 午後、ベルリン中央駅を経て、定刻の15:08分には、Zoo中央駅に着いた。ホテルSoftilは、カイザー・ウィルヘルム教会の通りを越えた、6・7分ほどの角。 7階、室内は、現代の抽象画で統一されていた。また、バスタブは、シャワー室ともトイレとも仕切られていて、なんとなく落ち着く空間になりそうだった。まだ、夕方までには時間がありそうなので、どこかへ出かけようなどと話してはいたが、私は、車中で分けてもらった缶ビールの酔いが回ってきたのか、疲れと睡魔に襲われ、ベットで一休みとなだれ込んだ。そして、なんと起こされたのが6時半、2時間は眠っていたことになる。ここから遠くないところで、行ってみたい、評判のレストランがあるからというので、出かけてみることになった。歩き出すと、どうも右足が少し痛い。踏み出すとき、踵が痛む。予約はしてなかったのだが、入口に近い席でよかったらとその一つに案内するのは、年配の紳士で、片言の日本語で迎えてくれた。オーナー夫婦のご主人らしかった。三品のコースを頼んで、連れ合いは赤ワインを、私は情けないがソフトドリンクとした。メインは仔牛のステーキだった。店内の壁や調度品などには年代が伺われ、落ち着いた雰囲気であった。空いていた2つのテーブルも埋まり、続く来店客は何組か断られていた。ときどきワインを注ぎに来るご主人に、連れ合いは、突然、日本語で「オゲンキデスカ」とか問われて、戸惑っていたのがおかしかった。私は、いささか元気を取り戻して、ホテルでは洗濯をしたのだが、どうも足が痛むので、やたらと湿布とバンテリン軟膏をぬって、休むことにした。あしたは、最悪の場合、私はホテルに残ってとも考えていた。

  鎮魂の17番線ホーム
  10月25日(土)、なんとか足の痛みもひいたので、一緒に出掛けることができた。駅でベルリンカード(3日間)を購入、グリューネヴァルトの「17番線ホーム」をめざす。この「17番線ホーム」のことを最初に知ったのは、歌人正古誠子さんのエッセイだった(「ベルリンを歩く」1~2『言葉』20~21号2008~2009年)だった。もしベルリンにもう一度来ることができたら、ぜひと思っていた。ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所を訪ねたのは2008年だったが、ベルリンのユダヤ人の多くが、このグリューネヴァルトの「17番線ホーム」から、アウシュヴィッツやテレジン、リガの強制収容所などへと送られていたのである。そして、その記録が、いまは使用されていない、貨物列車専用ホーム17番線に刻まれているという。 
  下車したのは、何の変哲もないグリューネヴァルト駅、幅広いホームには乗客の姿もなく、無人駅にも思え、地下通路へ降りると”GLEIS 17”の看板が見えるだけである。さっそく階段を上ると落葉が降り積もるホームがどこまでも続いているかと思うほど長い。その線路側には、白いバラの切り花が延々と続く。そして、足下は、錆びた鉄の格子状の板が敷き詰められている。が、よく見ると、その白バラの下に"25.1.1942/1014/JUDEN /BERLIN-RIGA"といった文字が刻まれている。「1942年1月25日に1014人のユダヤ人がベルリンからリガへこのホームから発った」ことが刻まれているのだ。駅には、1941年10月18日から1945年3月27日まで、183枚のこのプレートが敷きつけられ、その人数は1万7000人 に及ぶという。見た感じでは、テレジン行きが一番多いように思われた。
  ホームには、時折、ジョギングの青年や犬を連れた家族連れなど地元の方々が、すれ違い、通り過ぎてゆく。辺り一帯は、昔も今も、高級住宅地でもあるという。靴底から伝わってくる鉄と落葉の感触とかすかな音のみの世界、すっかり黄色に染まった木々の葉は、ときには私たちの肩にも触れて、ホームの白バラの上に落ちる。その下に刻まれた文字が示す、遠い過去の戦慄の事実に、身も心もなえてしまう。人々は、こんな季節にも、列車に押し込まれ、この地を離れて行った。そのときの心を思うと、いまの私は何をしたらいいのか、立ち尽くすばかりだった。

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"25.1.1942/1014/JUDEN /BERLIN-RIGA"の文字が読める

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この駅にある店は、花屋とパン屋さんだけだった

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この駅舎からは、想像もできない事実を秘めている

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駅の外からも、このホームに登れるようになっている

 

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日常的に供えられている花なのだろうか。だいぶ雨に打たれているようでもあった。
帰国後、今年は10月15日に73年目の追悼式が行われたことを知った

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帰国後、持ち帰った資料の中から出てきた、10月15日追悼式のプログラムとその表紙

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忘れないために。17番線ホームの外からの上り口に、コンクリートに彫られた追悼碑は、ポーランドの彫刻家の手によるという。女性や子どもとわかる姿も刻まれている

 

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語り継ぐために。駅前にあったブック・ボックス<17番線ホーム文庫>

 

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帰りの地下通路で、こんなポスターを見かけた

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2014年11月 6日 (木)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(5)

マルクト広場に金曜の市場が

 1024()、今日の午前中で、ライプチッヒを離れる。まず、マルクト広場を経て、元国家保安省にあるルンデ・エッケ記念博物館に行ってみることになった。今朝のマルクト広場は、乗り入れの車とテント、市場の準備に実ににぎやかで、すでに買い物を始めている人もいる。

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金曜朝のマルクト市場、かぼちゃもごろごろ・・・。

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”kaki"は、平たいものでなく、筆柿を大きくしたような形で、甘かったので、今回、2度ほど買い込んだ

 

ルンデ・エッケ記念博物館~まーるい角の国家保安省跡に
 ルンデ・エッケ記念館というのは、ナチス時代、東独時代における国家保安省の建物に、当時の国民監視・弾圧の実態を詳細に、その実際の手口などが紹介されているという程度の前知識である。ちょっと想像もつかなかったのだけれど、トーマス教会前のマルティン・ルター・リングを、昨日と反対の東に折れて広い公園の緑地に沿ってしばらく歩く。もうこの辺なのにと思い、通行の男性に尋ねると、やはり近かった。大きな垂れ幕のある円形の建物が見えてきた。1010分前、開館を待つ23人が見えた。今日はスムーズにたどり着けたぞ、の思い。ここも、入場無料。入り口正面の階段上には、「この建物は政府と国民会議によって建てられた?」の垂れ幕が。1989年までは、国家保安省としての機能を果たしていた場所に、なるほど、案内にあったように、14室と狭い廊下には、壁の展示と展示物でいっぱいであった。展示は、写真や図表が多いので、私にはわかりやすい部分もあった。1989124日、ライプチィヒ地区の秘密警察本部はデモ隊により占拠され、平和革命の象徴的な出来事だったという。「ルンデ・エッケ」とは、丸い角とよばれた国家保安省の建物を指している。ナチス時代、青少年や女性の教育、組織にいかに力を入れたか。そしてスポーツ、マスゲームなどを通じて、統制を強めて行ったかなど、数々の写真が示していた。それは東独時代も同様であった。さらに、信書や電話の秘密がいかに侵されていたか、住居や会議がいかに監視されていたかなどが、具体的にどんな組織や機器で実施していたかが説明されている。現在の中国・北朝鮮・ロシア、アメリカのCIAなどにおいても、その技術こそ進化しているけれど、似たようなことをしているに違いない。日本におけるかつての特別高等警察いわゆる「特高」やアメリカの占領軍が、その手口をこれほどまで克明に明かしているだろうか。「ナチスを真似れば」の発言で物議をかもした閣僚もいる日本である。やはり不安を禁じ得なかった。

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ルンデ・エッケ記念博物館の10時の開館を待つ

Gedc3861「子どもとスポーツ」とあり、見出しは、すべて段ボールをちぎって、凹凸のある裏側に手書きされていた

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通信・電話の秘密?(盗聴の仕組み)

ようやくのメンデルスゾーン・ハウス

 重い気分で出たルンデ・エッケだったが、あらためて、メンデルスゾーン・ハウスに再挑戦した。近くまで来ているはずなのだがと、乳母車を押す若い女性に尋ねてはみるが分からなっかった。さらに少し歩いたところで、今度は、年配のご夫婦づれに尋ねると、「こんにちは」と日本語が返ってきた。「このすぐ先です」とのこと。聞けば、大阪に仕事で住んでいたことがあるということだった。もっとお話ししたい気持ちだったが、ライプチッヒを離れる時も迫っているので、「ありがとう、さよなら」と先を急いだ。通り過ぎてしまいそうな入り口であった。この博物館は、若死にしたメンデルスゾーン(18091847年)が最晩年1845年から住んでいた家で、丁寧に修復された後、1997年にオープンしている。そんな昔のことではないことが分かった。日本語のオーディオ解説が聞けるというのでお借りした。係員は、その機器の使い方と館内の回り方を案内してくれる。ほんとうは、ゆっくり説明を聞きながら、回りたかったけれど、3040分ほどで切り上げたのが残念だった。メンデルスゾーンの早くよりその才能に着目した父親による英才教育、メンデルスゾーン自身はイギリスはじめ各国の演奏旅行をしながら多くの文化人と交流をし、作曲家としても注目された様子が伺われた。また、バッハ音楽復興にも尽力している。ユダヤ系の一族は、迫害を受けていたが、ナチス時代には、彼の曲の演奏まで禁じられた。ゲバント・ハウス前の記念像は1936年撤去され、トーマス教会前の公園で、バッハ像と向かい合っているように思えたメンデルススゾーン像は、比較的最近の2008年に、再建されたものだという。

ライプチッヒ中央駅1453分発、ベルリンに向かう。

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建物は大きいのだが、入り口は、うっかりすると通り過ぎてしまいそうなメンデルスゾーン・ハウス

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 書斎

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 中庭、正面のバラに囲まれた胸像と白いベンチが眩しい

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メンデルスゾーン・ハウスのガイドとチケット

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 このタワービルを目印に、道を教えてくれたのだが 

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 ライプチッヒ中央駅、さようなら

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ドイツ鉄道の駅のホームは、どこも広く、日本の倍以上はありそうだ。
ホーム・線路改修工事に働く人々。駅に改札というものはないが、長距離の場合は、
必ず車掌の検札がまわってくる

 

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2014年11月 5日 (水)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(4)

ゲーテとバッハに近づく 

 1023日、昨夜、雨の中、車で駆けつけた店はマルクト広場から入った路地だったが、けさのマルクト広場は、雨は上がりの静かな佇まいだった。旧市庁舎内のインフォーも歴史博物館も10時からである。広場から、アーチをくぐって裏に回ると、力強さが伝わる若き日のゲーテ像、その後ろが金の装飾が輝く旧証券取引所だった。横に回ると、旧市庁舎とトラムの走る道路を挟んで建物を結ぶような空中回廊、その下をくぐって進むと、トーマス教会。トーマス教会は12世紀からの歴史を刻む。バッハの墓所であることでも知られているが、ここに移されたのは1950年と、その歴史は浅いことがわかった。今あるオルガンは、2000年に設置されたもので、それから、いくつかの公的助成と寄付による本格的な大改修の道が開けたという。塔の高さ68m、屋根は63度とかなりの傾斜だそうだ。教会前の緑地では、メンデルスゾーンの記念碑とバッハの屋根つき?の胸像に出会った。今日は、ゲバントハウスとメンデルスゾーンハウスを経て、午後には、旧市庁舎に戻って歴史博物館の見学という予定をたてていた。

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旧市庁舎全景

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旧市庁舎横

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ゲーテ像の後ろが旧証券取引所

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トーマス教会全景

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トーマス教会内、バッハ墓所

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メンデルスゾーンの記念碑と向かい合っている

バッハ像

ライプチッヒ大学図書館へも

大通りを西に進むと青銅のドームを持つ大きな建物が見えてきた。後で調べたところ連邦行政裁判所だったのだが、その手前の十字路には新市庁舎があった。ライプチッヒ大学もこの辺りではないか、寄ってみようと地図を確かめていると、買い物の袋を下げた年配の女性からは“Can you speak English? と問われ、あの裁判所を曲がったところだと教えてくれた。建物に沿って、自転車がずらりと並び、なるほどキャンパスの一画に入った感じであった。事実、学生の出入りする、建物の一つに、ライプチッヒ大学図書館の看板があった。学生と一緒に中に入ると、ホールが吹き抜けになっていて正面には広い階段が続く。上がっていいものかどうか戸惑っていると、受付の男性が近づいて、どうぞ、どうぞ、という具合。私たちは2階に上がり、吹き抜けを囲む形の回廊を一巡りして、一つの重いドアを引くと、そこには書庫と閲覧室が広がっていた。分野別に部屋が別れているようであった。 ついでに、トイレも拝借してホールに戻ると、受付の紳士が図書館ガイドのリーフレットを持ってこられた。ホールでは、何かの催事があるらしく、照明器具が運び込まれている最中だったし、歌声もどこからか聞こえてくる。 

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ライプチッヒ大学へ

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ライプチッヒ大学図書館

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ライプチッヒ大学図書館配置図

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閲覧室を覗く


ライプチッヒの迷路~思いがけず滝廉太郎記念碑に

ゆっくりもしていられず、メンデルスゾーンハウスに向かおうとするが、ベートベンシュトラッセ、モーツアルトシュトラッセ・・・、もう大学ではないらしく、さてどちらに進めばいいのか地図を見ていると、赤いジャケットの女性が寄ってこられ、地図をのぞき込む。その地図を見て、ここはどこと尋ねると、もうこの地図からはみ出した所を指すではないか。大通りに戻れということであった。お礼を言って別れると、向かいの店から飛び出してきた男性が手招きをしてくれるので行ってみると、外壁の工事で足場が組まれている壁を指す。近づいてみると、なんと「滝廉太郎」の下宿跡の記念碑が建っていて、日本語も併記されている。そういえば、滝廉太郎のことは、何かの案内書で読んだことがあったが、ここだったのである。訪ねる予定もなかったのだが、思いがけないことだった。そのレストランで、一休みをして、もう一度先の店のオーナーらしい男性にメンデルスゾーンハウスへの行き方を訪ねていると、お客の青年のひとりが近づいて来て教えてくれた。 

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碑の後ろのレストランのオーナーが教えてくれた滝廉太郎の碑


ドイツの歴史認識の深さに圧倒される

ともかく、その方向に歩き出すと、新市庁舎まで、戻ることができた。歴史博物館見学もあるので、マルクト広場に戻ろうと、賑やかそうな大通りを進むと、そこがペーター通りで、ファッションの店が多く、パサージュの商店街にもつながる華やかな通りだった。旧市庁舎が見えてきたところのビルの壁に、「'89」と大きく書かれた写真と地図つきのパネル板が埋め込まれていた。よく見ると、1989年のベルリンの壁崩壊の時期に繰り広げられた市民への弾圧や抵抗活動のなされた場所としてのモニュメントであった。そのパネルに拠れば、ライプチッヒ市街の20数か所に同様のパネル板が建てられているようだった。そして、歴史博物館に入場、私たちは、近現代のブロックに限ったが、ライプチッヒ、ドイツのナチス時代、1945年以降の東独時代の記録が所狭しと掲げられ、そのメッセージが熱い。連れ合いは、30€もする厚い英文併記のカタログを購入していた。そして旧市庁舎内のレストランで遅い昼食となった。さらに、周辺の例のパネルの記念碑の数か所を見て回った。街行く人は、どれほどの関心を寄せているのだろうか。時折、立ち止まって読んでいる人にも出会ったが、地元の人か来訪者かは分からなかった。また、朝から気になっていた、1989年からドイツ再統一10周年記念に建てられていた記念塔がニコライ教会のすぐそばに立っていたのだ。

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 歴史博物館、ルターから始まるライプチッヒの近現代史

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 歴史博物館の館内案内

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ライプチッヒは「本のまち」を象徴的に表現したという部屋一杯の白い本
シッカリ固められていて、頁はめくれませんでした

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ペーター通りの花屋さん、チェーン店らしい。これはコキア?

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もう街はクリスマス気分・・・

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通り抜けしてみたい・・・

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正面にマルクト広場の旧市庁舎が見える、こんな街角にも、1989年の記念碑が

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夕方になって、ようやく見つけた、1999年に建てられた、1989年からの10周年記念塔。今年は25周年記念にあたる。ニコライ教会では、1982年から毎週月曜日に、平和への祈りの集会が開かれ、民主化の抵抗運動の拠点となっていた。1989年10月9日、ニコライ教会前広場の7万人集会が、”FriedlicheRebolution”平和革命の始まりだった。東独全域に広がり11月9日のベルリンの壁崩壊につながった。以下のパンフレット参照ください。

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 昼食も遅かったので、夕食は軽いものでと、中央駅、駅なかのアジア系の店で、それぞれ、焼きそば、カレーライスで済ませたが、決しておいしいものではなかったと・・・。所期の目的を達せられなかった一日だったけれど、別の収穫はあったねと私は棒になった足を引きづりホテルに帰ったのだった。

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2014年11月 4日 (火)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(3)

雨のライプチヒへ

1022日、フランクフルト中央駅DB6番線、1319分発ICEライプチヒ行きに乗らなければならない。他の列車の遅れが表示される中、自分たちの乗る列車は大丈夫だろうか。同じホームで待つ、日本のビジネスマンのグループがいたので、不安を漏らすと、自分たちも7番線で待っているけれど遅れている、とのことだった。早めに買い込んだ大きめの春巻き風のパンとソーセージ、ホテルからゲットしたりんごやオレンジ、ビールという車中ランチとなる。しばらくすると、空は暗くなり、横なぐりの雨、フルダ、エアフルトを通過、車窓には、草原と林が続き、住宅地に入ると、必ずクラインガルテンと思い思いの農具小屋が続く。予定より遅れて、ライプチヒ中央駅着は5時近くなっていた。立派なアーチが続くのは、フランクフルト中央駅と同じ構えだ。ホテルはウェスティン、駅からは、平べったい高層ビルの屋上近くにWの字が見え隠れする。荷物を引いて5分ほどの距離だが、横断歩道が厄介である。車は、舗道や中間地帯のヘリのギリギリまで迫ってくるので危ないし、自転車専用道もあるので、気を付けないと危険だ。信号を渡る前の大きな古い建物が、落書きや看板が異様に多いのを不思議に思っていると、どうもホテル「アストリア」閉業の跡らしい。こんな大きな建物が駅前に、わびしい姿をさらしているのはどうしたわけだろう。再開発の予定でもあるのだろうか。

部屋は、14階、エレベーターもカードを当てないと開いてくれない。雨は止みそうにもないので、車で、マルクト広場近くの、連れ合いのお目当てGrosser Kellerに行くことにした。なるほど、地下に降りると、かまぼこ型の天井の大ホールに、すでに人はいっぱい。注文もなかなか来て貰えないほどの混み様だった。英語のメニューがあったので、私は、シーフードの盛り合わせとビールにしてみた。指の傷にはどうだろう。

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2014年11月 3日 (月)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(2)

  ゲーテハウスにたどり着く

   10月22日、朝7時は、まだ暗い。荷物整理後、朝食へ。モノポールのアニメティには、石鹸がなかったので、洗濯ができなかった。また、歯磨きのチューブも、当地で調達した。チェックアウト後、荷物を預け、今日は最後のフランクフルト市内観光である。U4でレーマー広場へ。シルン美術館の裏手に出たらしく、まごまごしていると、一緒に降りた中年の女性が、広場を教えてくれる。今回の旅行では、ドイツ人の親切さには、幾度も助けられた。当方がよほど頼りなげに見えたのか、街かどで地図を広げていようものなら、必ずと言っていいほど、声をかけてくれるのだ。世代を問わず、つたない英語を聞き分け、熱心に教えてくれる。中には追いかけてきて、ホームへのエスカレーターまで誘導してくれたり、乗る電車のドアを開けて待ってくれたりする。施設に入れば、英語や日本語のガイドを手渡しにきてくれる。「おもてなし」などというが、自分たちが東京の街角の外国人にこれほどまでに親切にできるだろうか、と考え込むこともあった。

レーマー広場の石畳は、昨夜からの雨に、白く光っていた。寂しげな広場とも思っていた矢先、遠足の子どもたちが、列をなしてやってきた。まだ低学年と思われるが、いまどきの子どもたちは、デジカメかスマホか、みな手を高く掲げ、撮影に余念がない。広場の中央の正義の女神?と旧市庁舎のファサードが連なっている光景は、たしかに中世の面影を留める。工事中の大聖堂、そして工事中の歴史博物館の外を一巡りして、ゲーテハウスを目指す。

 

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レーマー広場は急ににぎやかになった

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大聖堂裏側では工事が進んでいた

   そんなに遠くはないはずだが、細かい路地の通り名が記されている地図が少ない。見当をつけて、店の前で煙草をのんでいる女性店員に尋ねると、なんと目の前だったので、笑ってしまう。入口は目立たないのだが、赤く色づいた蔦が屋根までの壁を覆っていた。ここは、ゲーテが生まれて26歳まで過ごした家、もちろん、大戦で焼け落ちたのだが、調度・家具類は、地下などに避難させて無事だったという。1階で、まず目を引いたのが、台所である。くみ上げ式の井戸、かまどと鍋類、壁に掛けられたケーキの型ぬきの種類の多さ。棚の上には、カンテラがあり、カンテラの火の数が、身分で決まっていたらしいとか、1階から2階に上がる階段の3段までは焼け残ったものなので、色が少し違うとか、当時の男子・女子の教育の違いとか・・・。たまたま、見学コースで鉢合わせる日本の女性3人連れのお一人からの受け売りである。3人ともドイツ住まいが長いということであった。
ともかく、どの部屋にもデザインの違う立派な暖炉が置かれ、そして、さまざまな意匠のライティングデスクが置かれていた。ゲーテの父親の教育熱心なさまは音楽室や学習室、そして書斎などに伺うことができた。隣には、美術館が設置されていたが、ゆっくり見ることはできなかった。

 

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ゲーテハウス入口

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ケーキの型抜きとミルク差し

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これは質素な方の暖炉がある書斎

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少し歩けば、ゲーテをはじめとするモニュメントがある緑地帯があるはず。トラムが行き来する五差路にぶつかる。その手前には、写真で見かけた、欧州中央銀行のユーロの形をした大きなモニュメントが控えていた。緑地帯はフェンスを巡らし、工事中であったが、シラーとハイネの記念碑は見つかった。ゲーテ像が仰げなかったのが心残りだったが、Uのヴィリー・ブラント駅からホテルに引き返す。私は、この駅名が覚えられなかったが、あとから、なんとブラント首相(1969~1974在任。ドイツ社会民主党首1964~1987年、1992年に79才で死去、1971年にノーベル平和賞を受賞している)にちなんだものと知ったのだった。

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欧州中央銀行前庭

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2014年11月 1日 (土)

ドイツ、三都市の現代史に触れて~フランクフルト・ライプチッヒ・ベルリン~2014.10.20~28(1)

 旅をしながら、パソコンでメモを取るという芸当ができないので、手許のメモと資料で綴っていきたい。今回は、20115月に予定していた旅行を311に出遭ってキャンセルして以来の海外行きとなった。この間、今夏1710か月で亡くなった老犬の介護が始まり、二人で家を空けられなかったことにもよる。行き先は、2008年のドイツ行きで、駆け足だったベルリンにもう一度という思いとドレスデン、ワイマールを除いた都市を訪ねるということで、フランクフルト2泊、ライプチッヒ2泊に落ち着いた。当方の体調も考えて、ベルリン3泊が限度かなと、いつもお世話になっている旅行会社に、往復の航空券と鉄道、ホテルを依頼したのが、9月初旬だった。連れ合いは、前には利用しなかったグーグルマップによる路線とストリートビュー検索で準備しているようだった。

 

フランクフルト、初めまして

 

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 1020日、フランクフルト空港は乗継ぎで何回か降りてはいるが、滞在するのは初めて。着陸の少し前に、ルフトハンザのパイロットがストライキに入ったので、乗り継ぎの方にはご迷惑をかけます、のアナウンスがあった。「よくがんばるなあ」と。自分たちが乗る便でないこともあってか、まずは応援の気分である。日本の航空会社では、ストライキが実施されたことはほとんど聞いたことがない。フランクフルト空港14時25分着。ホテルのモノポールに着いたのは予定の16時30分をだいぶ過ぎていた。ホテルは、フランクフルト中央駅南口の真ん前、ビジネスホテル風で、自由に利用できるというロビーのカフェで日本人らしい姿も見かける。片言の日本語を話すカウンターの方に、旧オペラのレストランの夕食の予約をしてもらう。室内はシンプル、冷蔵庫のものは無料との触れ込みである。ひと風呂浴び、駅前からのバスに乗るつもりが、教えられた64番で待っていても来ないので、U102ホームから二駅、旧オペラに向かう。630分、あたりはすっかり暮れて、旧オペラは、噴水とともにライトアップされ、ルネサンス様式の美しい姿を見せていた。パリのオペラ座をモデルに1880年建設、第2次大戦で破壊、1981年に修復されたそうだ。レストランは、天井や壁の装飾、格調高い雰囲気のなかで、私は魚介スープ・マッシュルームのクリームソーススパゲティ・サラダとイチゴのアイスクリームにした。日本を発つ2日前に、何しろ右手の人差し指を、けがしてしまい三針縫った身なので、ワインは自信がなくて、ソフトドリンクにする。下の写真、そんな雰囲気が伝わるだろうか。連れ合いはシュニッツエルとワイン、これも実においしそうであった。帰り道は、かなりの冷え込だった。

 

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ハイデルブルクの街を駆け抜けて

1021日、6時過ぎ起床、真っ暗で、空の様子がわからない。朝食時には、たしかに日本人、中国人が多いようだった。予報は、曇りだが、傘を持ち、ハイデルベルク城へとまず遠出した。中央駅DB9番ホーム、750発、マンハイム乗換えで、旧ハイデルベルク駅下車、バス乗り場で、ぼんやりしていて33系を逃してしまったらしく、歩きはじめた。10分ほどでカール広場に着く。ケーブルカーに乗ると、3分もかからず城に着く。これで6€、高いね、と思わず顔を見合わす。今度は、城内への入館料6€を払って、日本語の案内リーフレットをもらう。よく見ると、6€はケーブルカー料金込みだったらしい。ハイデルベルク城は、まさに古城の風情で、それぞれの館の建設の時期や様式が異なり、その朽ちよう、崩れようも異なるので、その感がいっそう強い。中世には幾度かの戦禍や落雷に見舞われ、18世紀には廃城になっていたのを、19世紀に入って、保存・修復がなされるようになった。とくに印象に残ったのは、ワインの大樽と薬事博物館であった。17世紀から18世紀の城主たちが、12.5万ℓ、19.5万ℓ、22万ℓと、競うように大きな樽を建造していたようだ。もう一つ、薬事、というより医療の必要性と熱情がこもっているコレクションは、もともとミュンヘンにあったものが、1944年の空襲で、ここに移されたという薬事博物館であった。また、城全体について、完全に修復するのではなく、遺跡として残していくという姿勢も伺えた。ここにもゲーテの記念碑とベンチがあると聞いていたのに見つからない。受付に戻って尋ねたところ、工事中で重機が動いている先の庭園にあることが分かった。ゲーテには敬意を表した後、見渡せば、さらに城の裏には庭園が広がっていた。振り返ると、辛うじて円筒の姿をさらす火薬庫が草や樹木に覆われている空濠に今にも崩れ落ちそうな感じであった。が、さすがに、観光地なのか、中国人の幾組かのグループがやってきては、写真を、長い棒の先にデジカメを付けて自分や家族を写している光景をよく見かけた。

もう一度、最初の展望台に戻り、ネッカー川をはさんで広がるハイデルベルクの街並み、赤い屋根が密集し、凹凸をなす街の歴史を実感した。これから訪ねる大学はどの辺りなのだろうか。

 

以降、私のデジカメは、充電方法を間違って、バッテリー切れ、連れ合いの写真拝借。

 

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ワイン22万リットルの大樽

 

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火薬庫の先の庭園に、ゲーテ記念碑はあった

 

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対岸には、哲学の道があり、眺めもいいという

 

ケーブルを降りたところからマルクト広場を経て、ドイツでいちばん古いと言われるニュールンベルク大学へと移動、旧校舎の方には、博物館と大講堂、そして学生牢があるはず。大学には権力の介入を許さないという、大学の自治の象徴でもある学生牢は、旧校舎の3階にわたってあり、どの部屋もさまざまな壁いっぱいの落書きに圧倒される。現在、ヨーロッパの都市のあちこちで見られるビルの壁面や鉄道沿線の列車や石塀の落書アート?の原型のようでもある。観光客はここまではなかなか入っては来ないが、出会った女性の一人から、階段に設けられている鉄条の扉を閉めた中から、カメラを差出され、撮影してくれないかの申出に、少し戸惑う。しかも、もうちょっと下がって全身をとの注文まであった。どの国の方だろう、おんな一人旅の思い出の一コマとなっただろうか。

それからが、大変だった。なにしろ、予定の列車まで、あと25分もない。旧市街をだいぶ奥まで来てしまったので、間に合うのだろうか。連れ合いは、すごい勢いで歩き出し、ときには走って、振り返る。当方も、必死に追いかけるが、何せ、ニトロの錠剤をお守りのように持ち歩いている身でもある。苦しくなったらどうしよう。もう、二人とも汗びっしょりで、1258分発が2分ほど遅れて間に合ったのである。その後も、ドイツの列車の遅れには、結構戸惑ったものだが、この時ばかりはありがたかった。ホテルからテイクアウトした、パンやフルーツで空腹をしのぐ。フランクフルト中央駅にはなんと30分遅れの14時半を過ぎていた。後の予定は詰まっている。

 

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ハイデルベルク大学大講堂、旧校舎内、正面の中央、白い胸像がバーデン大公フリードリヒ、その右が大学創立者のルプレヒトⅠ世、正面の絵は、フェルディナンドケラーの知恵と芸術の女神アテネが、天井には、4つの学部、神学・法学・医学・哲学が表現されている。1886年500周年を記念して完成、現在も式典に使用されているとのこと

 

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学生牢1

 

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学生牢2

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旧市街、こんなお店でお茶でものみたかった!

 

 

美術館のカフェで雨脚を見つめる

フランクフルト中央駅に戻って、今度はマイン川を渡り、シュテーデル美術館へと急ぐ。川沿いの遊歩道は、黄葉がはらはらと舞い散り、まるで映画の一シーンのようだった。このあたりは、美術館や博物館が建ち並ぶ地区で、シュテーデル美術館は、すぐに見つかった。銀行家シュテーデルの収集による美術館で、全部を見るには相当の時間と根気が必要と思われた。1階が近現代180019452階が中世13001800、地階1945~、という時代別の展示である。

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  まずは1階からだが、クールベ(フランクフルトの橋)、モネ(昼食、秋の河畔)、ルノアール(読書する少女)、ゴッホ(農家風景)などは軽く?通り過ぎたが、ここでムンク(漁夫と娘)やハンマースホイ(室内)と出会ったのは思いがけず、懐かしかった。また、ロダンも何点かあったが、ドガは踊り子の絵もさることながら、彫刻も何点かあり、小品ながら、その躍動感はさすがと思われた。7月に17歳の飼い犬を亡くしたばかりなので、F.マークという人の「雪の中の犬」の雪上で横たわり、安心しきって眠っている大きな白い犬の前では、思わず立ち止まる。この絵は、人気らしく、ショップでもこれをモチーフにしたグッズも多かった。

つぎは、2階なのだが、上がる中央階段の正面、両側の壁いっぱいに主に中世の宗教画や肖像画が所狭しと展示されていた。ルーベンスやフランス・ハルス、ハンス・ホルバインらの名前も見える。もったいないような展示だが、2階には、ラファエロ、フェルメールがあるはずで、先を急いだ。第1室にフェルメールの他作品はあるのに、「地理学者」は見当たらない。係員に聞いてみると、いまは展示がない、貸し出中とのことだった。そんなこともあろう、とあきらめて、回り始める。連れ合いは、宗教画や歴史画ばかりと思いきやこの時代に印象派の芽生えが色々な絵にあるではないかと、しきりに気に入った風景画などを写真に収め、キャプションに顔を寄せて読んでいると、絵に30センチ以上近づかないで、と注意を受けていた。私は、しつこく、念のため、またフェルメールの地理学者はどこかと別の監視員に聞いてしまった。「来年3月には返却される」とのことだった。この時代の作品にしばしば登場する動物たちは、どれも生活感が漂っている場合が多く、まさに「共生」していた様子が伺える。ヨハン・ハインリヒ・Roos(1631~1685)という画家の、羊飼いたちにとって家族同然の牛たちを何度も描いているのが、興味深かった。また、ジョン・Hoppnerのウサギを抱く少女が愛らしかった。 

 

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クールベ、フランクフルトの橋

 

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ドガ:ラージ ダンサー

 

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 朝からの疲れが出たのか、なんかぐったりしてしまって、美術館のカフェで、私は紅茶をいただいたが、もう身に沁みわたるような感じで、生き返ったようだった。が、外はいつの間にか、かなりの雨に煙り、雨脚も強くなっていた。

 

 

 

ザクセンハウゼン地区の居酒屋で

すでに暮れかけたので、あまり遅くならないうちに、お目当てのレストランに行かねばと席を立つ。美術館横を折れたシュバイツァー通りは、大きな黄葉が散った後で、滑りそうで足もとが危ない。ときどき、水たまりを渡り損ねたりしながら、ようやく居酒屋風の店(Zum Grauen Boch)に到着、すでに満席に近く賑わっていて奥まで進む。「とりあえず」、りんご酒とソーセージの盛り合わせを一皿頼んでみる。運ばれてきて、そのボリュームにびっくり仰天。山盛りの酢キャベツの上に、長いソーセージ、本場の?フランクフルトソーセージ、すこし色合いが違った2本(これが血の混じったソーセージ?)、それに厚さ3センチ以上もある骨付きハムようのものが、お皿にはみ出しているではないか。ご覧のとおりである(日本からプリントアウトして持参しメニューの価格から値上げしていて、その盛り合わせは23€が30€になっていた)。 りんご酒は、かなり酸味が強くて、素朴な感じではあるが、私はグラスの三分の一ものめなかった。どう頑張っても完食はできまい。濃い色のフランクは手つかずだった。お客さんも次から次へ入って来るので、退散することにする。雨は小降りになっていた。近くのUのSud駅から中央駅へと向かった。長い一日の締めくくりは、持参した湯沸しで、いつものお茶をのんだのであった。

 

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隣の席は女子会たけなわ・・

 

 

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