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2014年12月31日 (水)

歌会始の選者は少し若返ってはいるが

 1992年、平成に入って間もなく、岡井隆の選者入りが公表されたときは、歌壇にはいささかの衝撃が走った。アララギ系の清水房雄に代わって就任したまでのことと冷静な見方もあったが、「前衛短歌の旗手」が宮中入りしたので、岡井の所属する「未来」という結社を離れる同人も現れた。そして1993年からミレニアムをはさんで2014年までの20年余務めていたが、体調のこともあったのだろう、今年で選者の席を手放した。

・半年を経て来て見居り御所の庭夏草しげりわれをなぐさむ((短歌往来2014年10月)

・水稲と陸稲で鎌の葉の切れが違ふとぞ陛下説きたまひたる(短歌2015年1月)  

  2首目には「術後八日、両陛下にご進講申し上げた、仕事始。」の詞書があり、なんと未練がましいことだろう。そんなにムリをしなくてもいいのにと思うことしきりであった。そして、岡井の後任が今野寿美だった。2008年から選者となっている三枝昂之の夫人である。2009~2010年の選者を務めた永田和宏・河野裕子両人以来、夫婦での選者の再来である。河野裕子は、夫妻での選者入り、任務半ばでの病没が重なったためか、歌壇のみならず、マスコミなどでも好んで話題とされた。今回の三枝・今野夫妻の場合は、歌壇では、話題になったのだろうか。無関心を装っているにすぎないのか、あまり聞こえては来ず、無風である。  

  12月25日、宮内庁から入選者の氏名・年齢と応募歌数が発表となった。中学生から78歳までの世代にまたがる。中学生・高校生は、熱心な先生が学校ぐるみで応募させている例もある。今回の入選者は、10代から40代に飛び、20・30代の入選者がいない、若い人には人気がないらしい。そのあたりは少しほっとした気持ちだが、入選した中学生や朝日の新聞歌壇をにぎわしている小中学生が成長して、応募したりするかしら・・・。作品は1月14日当日まで公表しないことになっていて、応募有効歌数は2万0861首との報道があった。宮内庁のHP資料によれば、近年の「詠進歌数」は、2010年;2万5222、2011年;2万2304、2012年;1万9726、2013年;1万8429、2014年;2万2603ということなので、下降線をたどっていることになる。これをどう読み解くのか。

*  振り返ってみると、ブログを始めて9年、毎年、一月には、律儀にも?執拗に 「歌会始」にもの申しているようで、関心のある方は、キーワードの「歌会始」をクリックしていただければ、ご覧いただけますので、お立ち寄りください。

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2014年12月23日 (火)

明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(2)

登戸研究所資料館見学

二つの講演が終わった後は、登戸研究所資料館見学だった。外に出ると、雨は本降りになっていた。山田朗研究室の院生の方の案内で、資料館に向かう。キャンパスの北東の端で、登戸研究所第二科の実験棟の一つだった36号棟を改装して資料館にしたという。11万坪の敷地に40棟以上の建物が存在していたことになろう。明治大学は、敗戦後慶応大学などが借用中だったところ、1950年に、約5万坪を建物ごと購入している。1951年に明治大学農学部がこの地に移転し、80年代まではいろいろな建築物が残っていたらしい。資料館は、外観はきれいに塗装され、20104月から一般公開された。入口は小さく、廊下をはさんで両側に部屋が並ぶだけの構造である。36号棟は、第二科の「農作物を枯らす細菌兵器開発」実験を行っていた建物だった。どのへやにも大きな流し台が付いているのは、そのまま残されている。

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 資料館案内板と当時の境界石、1m近く埋め込まれている

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 館内廊下を見渡す


館内には5つの展示室が設けられ、第1室は沿革と組織、敷地、組織、予算などが戦局拡大と共に増大していく様子をパネルの図表で明らかにしていく。第2室は、研究所第一科が中心で開発した風船爆弾(ふ号兵器)関連の展示である。第二科は当初の電波兵器から風船爆弾開発に乗り換えたかのようで、194311月の風船爆弾試射実験で目途がつき、194411月からアメリカ本土攻撃が始まるのである。第3室は、第二科の生物兵器、毒物兵器、スパイ機材などの開発の分担組織や実態を少ない資料から浮き彫りしようというものだった。第4室では、ニセ札の製造・製版・印刷・古札仕上げ・梱包・運搬・流通の過程とニセ札以外に旅券やニセのインドルピーや米ドルなどの製造にまで及んだという。

5室の敗戦と登戸研究所についての展示に、私は多くの示唆を得た。闇に葬られようとした登戸研究所を歴史研究の対象の俎上に載せたのは、研究者でもなくジャーナリストでもなく、地元川崎市の市民地域学習活動の一環だったし、法政二高と長野県赤穂高校の生徒たちによる地域の歴史調査活動から始まったのだった。それまで口を閉ざしていた関係者や地元市民らが語り始め、資料を持ち寄り始めたのである。中でも元幹部所員の伴繁雄氏は、高校生との交流の中で、初めて、その体験を語り始めたそうだ。そうした活動の成果としてつぎのような本が刊行されるに及んだのである。 

・川崎市中原平和教育学級編『私の街から見えた 謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う』(教育史料出版会 1989年)

・赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会「高校生が追う陸軍登戸研究所」(教育史料出版会1991年)

・伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房 2001年)

 

 

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 案内リーフレット

 

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 第3室、第二科のスパイ活動機材のいろいろ

 

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 第4室、第三科のニセ札製造過程

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 第4室
 向かって左の五号棟はニセ札の印刷工場として使用。2011年2月に解体され、
 右の二十六号棟は、ニセ札の保管倉庫として使用、2009年7月に解体されてしまった

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 五号棟跡地、雨もひどくなり、辺りも暮れかけて・・・

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 キャンパス正門の守衛室うらの動物慰霊碑。1943年3月建立、その存在は登戸研究所で働く人にも 知られていなかった。現在も、農学部での動物慰霊碑にもなっていて、毎年ここで慰霊祭が行われている。近くに、民家も迫っている

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登戸研究所本部の辺りに建つ(明大)生田図書館の灯りに誘われて・・・ 

  資料館の見学の後は、上記のように登戸研究所の痕跡をたどった。遺された史跡、遺すよう努力された明治大学の研究者はじめ多くの方々には敬意を表したい。ここで、どうしても思い起こすのは、ドイツが国として取り組んでいる戦跡・記録保存の努力である。少し前のドイツ紀行の記事でも触れたように、たとえば、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所は、一部を博物館にして、広大な敷地に残る建築物こそ少ないが、更地にした上で収容棟の配置を明確に残している。ベルリン市内の陸軍最高司令部跡にはドイツ抵抗運動博物館を置き、ライプチヒの国家保安省跡にルンデ・エッケ記念博物館を設置している。ホローコースト追悼記念碑やロマ・シンティ追悼記念碑をベルリンの国会議事堂・ブランデンブルグ門直近の一等地に設置している。日本との違いをどう見るべきか。

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明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(1)

 わが青春の街?登戸から生田へ向かう

いまにも雨の落ちそうな空模様、風の冷たい1220日、小田急「向ヶ丘遊園」駅、北口に降り立った。30数年ぶりである。駅前はすっかり様相が変わってしまって、通勤に使っていた昔からの商店街はどの道だったのか。ロータリーからは、大きな二つの道路が延びていた。今日の研究会参加ついでに、かつて数年間住んでいたマンションを訪ねたいと思ったのだ。駅前の建設現場で交通整理をしていた男性に尋ねたとき、思わず「多摩区役所」と口走ると、指さしてくれた方に進んだ。結局はどちらも56分ほどで世田谷通りの多摩川を渡る橋の手前の交差点に行き着くのだが、「多摩区役所」は多摩区の総合庁舎と実に立派なビルに変わっていた。ここは私たちの婚姻届を提出した役所でもあった。行き着いた大通りを渡ると、あった、あった、いまだに片側が暗渠になっている道があった。右手には、丸山教本庁*の門柱も見えたし、丸山幼稚園もあった。辺りは中規模のマンションが建ち並んでいるのが、かつてと大きく違っていた。当時は、大通りを渡ると急に人家が少なくなって、梨園や畑が続いていた。帰宅が11時過ぎたりすると、街灯のないところもあって、マンションまで走って帰ったこともあった。毎日、西側の窓から見下ろしていた梨畑や田畑のあたりは、住宅やマンションが並び、一画だけの畑がその面影を残していた。

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 暗渠のある道

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 一画だけ畑が残っていた

ふたたび、駅へと戻るときは別の商店街を通ると、多摩区総合庁舎の裏側は多摩図書館とホールの入り口になっていた。この向かい辺りには、ときどき利用したお蕎麦屋さんと美容院があったはずなのだが~。向ヶ丘遊園北口発の明大正門前行きのバスは、思ったより乗降客が多い路線バスで、15分以上かかったろうか。後でわかるのだが、明大キャンパスの周辺をぐるりと回る、ラケットのような路線図だった。

なお、南口から出ていた向ヶ丘遊園駅のモノレールは2001年に廃止となり、向ヶ丘遊園自体も2002年には閉業している。

*丸山教:登戸村の農民、伊藤六郎兵衛(18291894)が、1876年に創設した、富士講の流れをくむ世直し的な新興宗教の一つで、農民の支持が厚く、神奈川・静岡・愛知・長野県などに138万の信者をもつ時代もあった。明治政府の弾圧後は、勤勉・倹約を勧める報徳社運動にも参加。現在は、1万人強の信者により「天下泰平、普く人助け」の宗旨のもと平和・反核運動にも取り組んでいる。 

「諜報研究会」二つの講演

きょうの研究会は、明治大学平和教育登戸研究所資料館・NPO法人インテリジェンス研究所共催の「第9回防諜研究会」で、講演は以下の2題であった(明大生田キャンパス中央校舎)。今回の企画は、プランゲ文庫を中心に占領期の研究を進める20世紀研究所の研究会にときどき参加していることもあって、諜報研究会からのメールで知った。

①山田朗(明治大学文学部教授、明治大学平和教育登戸研究所資料館館長):「陸軍の秘密戦における登戸研究所の役割―登戸研究所の軍事思想」

②山本武利(NPO法人インテリジェンス研究所理事長):「陸軍中野学校誕生 期分析―1937・8年に叢生した日本人インテリジェンス工作機関」

 

①「陸軍の秘密戦における登戸研究所の役割―登戸研究所の軍事思想」~とくに印象に残ったこと

登戸研究所の組織・沿革とその背景にある日本陸軍の軍事思想の特徴について話された。登戸研究所は、193711月、日中戦争の長期化に伴い、秘密戦(防諜・諜報・暴力・宣伝)の必要性が高まり、陸軍科学研究所登戸実験場として生田に設置された。その背景には、陸軍は銃砲弾重視の「火力主義」を物量不足から貫徹できず、歩兵による銃剣突撃重視の「白兵主義」が台頭、少数精鋭主義、攻勢主義、精神主義が強調されたが、これを補強する「補助手段」が必要となった。軍縮・経費節減から編み出される細菌兵器、敵国攪乱の毒ガス、謀略工作などを重視するようになった。19416月からは陸軍技術研究所の第九技術研究所と再編された。所長は、スタート当初よりかかわった篠田鐐中将があたる。その研究は、主なものだけでもつぎのように分かれていて、敷地11万坪、幹部所員約250人、民間人あわせて1000人以上が働いていた。

1)電波兵器(第一科)

2)風船爆弾(第一科)

3)特殊カメラやインク、毒物など諜報・謀略用品の開発(第二科)

4)対人、対動物、対植物の細菌兵器の開発(第二科

5)経済謀略、戦費調達のための贋札づくり(第三科)

私にとっては、ほとんど初めて聞く内容だった。

2)の「風船爆弾」の風船作りについては、女学生などが勤労動員されていたことはよく聞くが、風船爆弾の機能や使われ方は、今回初めて知った。太平洋の偏西風を利用して生物兵器を搭載した風船をもってアメリカへの攻撃を計画していたが、毒ガスや生物兵器登載が国際的な使用禁止への流れの中で無理となり、爆弾を搭載して、194411月~19453月ごろまで約9300個の風船爆弾を放ったという。その内、着弾が確認できたのは361個だった。和紙とこんにゃく糊による風船は“牧歌的“にさえ思えてくるが、兵器の一部であったのである。詳しい記録や証言は少ないが、日本での放球時の爆発、アメリカでの不発弾の爆発で、それぞれ日米の犠牲者が出ている。

4)の「細菌兵器」について、思い起こすのは731(石井)部隊の医師たちの細菌などによる人体実験である。731部隊は、関東軍防疫給水部本部の研究機関の通称で、登戸研究所の研究との違いは、講師によれば、731は、野戦場における対人の兵器としての細菌研究で、登戸では、あくまでも敵国かく乱のための兵器としての生物兵器研究であったという。前者については、近年になって記録や証言、研究が多く、全貌が明らかになりつつあるが、登戸研究所については、その全貌が見えてこないという。両者とも関係者の責任、戦争犯罪に問われることがなかったのは、占領軍による研究成果の記録・情報取得を交換条件に関係者免罪が取引された結果であるとされている。

もっとも驚いたのが、登戸研究所が「贋札づくり」の任務を担っていたことだった。国(軍隊)がニセ札を製造していたわけだから、登戸研究所の中でも「秘密の中の秘密」で、敗戦時にはほとんどの資料を焼却しているので、その実態が分からなかった。その後のわずかな証言から少しづつ明らかになってきたということだ。

ニセ札製造とその流通の目的は何だったのか。1935年中華民国政府の蒋介石政権は米英の支援で統一通貨「法幣」を制定、浸透していたが、日本軍は物資不足・外貨不足のため長期戦を余儀なくされていた。そこで、日本軍は、ニセ札を大量に流通させてインフレを起こさせ、中国経済を混乱させること、ニセ札を使って現地の物資調達を容易にすることの二つを目的にニセ札製造に踏み切った。1939年から1945年までの間に、40億円相当(当時の日本の国家予算が200億)を発行したが、現実にはインフレは起こらなかった。このニセ札は、日本軍が発行していた「軍票」の信用がない中で、物資調達に重要な役割を果たした。製造には、巴川製紙や凸版印刷などの民間も協力させ、運搬は中野学校出身者らが担当したという。

こうしてみると、戦争が、戦場での殺人行為を容認や競争をエスカレートさせるだけでなく、大量殺人やニセ札製造などという凶悪な犯罪行為を国家が推進していたことになる。「これが戦争というものなのだ」と納得する人間の愚かさを痛感させられる。これは、現代にも通じることで、情報収集やスパイ行為など一見頭脳的な行為にも思えることすら、CIAの情報収集や日本の公安警察に見るように、違法な国家犯罪を助長することにならないか。 

  

 

 

②「陸軍中の学校誕生期分析―19378年に叢生した日本人インテリジェンス工作養成機関」

 私は、後半に話された「中野学校と延安の日本農工学校について」に興味をそそられた。193777日盧溝橋事件からますます日中戦争が拡大、満州におけるソ連との緊張関係が増し、さらに南方侵略の野心が高まるなか、防諜要員の育成が急務となり、19383月、岩畔豪雄中佐が中心となって防諜研究所としてスタートしたのが中野学校である。後、陸軍中野学校と改名、情報収集・分析・諜報・謀略活動の要員の養成が秘密裏に行われ、敗戦後は、いわゆるスパイ養成機関として有名になった。

 中野学校と登戸研究所とのスタートは、ほぼ時を同じくしていることが分かる。19378月軍機保護法の公布、国民精神総動員実施要項の決定がなされ、19384月には国家総動員法公布がされていて、中国での戦局拡大のさなかであった。中野学校スタート前夜の”山“(兵無極防諜班)の存在や当初からかかわっていた香川義雄による「香川ノート」の存在とその内容を検証する話も興味深いものがあった。続いて、1940年、モスクワから延安入りした野坂参三(林哲・岡野進)と「日本農工学校」についての話では、これまで私が聞きかじっていた事柄を、文献やインタビューの証言によって少しく解明してくれた。

 日本農工学校は、中国の日本兵捕虜の思想教育機関で、その秘密性と洗脳度が高く、大日本帝国打倒を目標に日本占領も視野に入れていたという。その時間割やスナップ写真などから、野坂(林哲)を校長とする毛沢東直属の機関であったことや野坂の実生活について、話された。野坂は妻をモスクワに置いての延安生活であったが、生活を共にしていた秘書の中国人女性は監視人だったのかにも触れた。

 この日の話には出なかったが、敗戦前の野坂の毛沢東との書簡にも見られる「天皇制擁護論」については、私にとっては、今後の課題なのである。

 なお、中野学校があった国有地一帯は、再開発により、公園や「東京警察病院、明治大学中野キャンパス、早稲田大学中野キャンパスなどになっている。

  

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2014年12月18日 (木)

疑問の多い「まちづくり協議会」(2)市民協働推進委員会の事業申請審議から見えてくるもの

千葉県佐倉市は、いま、小学校の校区を単位に自治会や、社会福祉協議会、PTA,商店会などの諸団体を束ねて「まちづくり協議会」という団体を行政指導で作らせ、補助金を給付してその促進を進めている。間があいてしまったが、下記の記事では、補助金検討委員会の議論から見えてくる「まち協」への数々の疑問について書いているので、一覧の上、読み進めていただくとありがたい。なお、1028日には、佐倉市のホームページに「補助金検討委員会の意見書」が公表されたので、あわせてご覧ください。 

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疑問の多い「まちづくり協議会」(1)補助金検討委員会の議論から見えてくるもの

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/10/post-cedc.html

20141028

補助金の在り方に関する意見書(平成2610月 補助金検討委員会)

http://www.city.sakura.lg.jp/cmsfiles/contents/0000010/10496/25_00_ikensyo.pdf

 我が家が属する自治会は、当小学校区に設立した「まちづくり協議会」には参加しないことになったが、市長が出席して設立総会が開催され、20147月に発足した。その後、佐倉市長により認証された「まちづくり協議会」の事業のための補助金申請に対して、市民協働推進委員会は、審議し、その可否を決定した。この委員会は、いずれの「まちづくり協議会」についても、「認証」した以上は、「今後の協議会の発展という観点も含めて前向きなご意見を頂きたい」(「平成26年度第3回市民協働推進委員会会議概要」2014720日)、「まちづくり協議会の今後発展していくためにも委員の皆さんのご意見やアドバイスをお願いしたい」(「平成26年度第4回市民協働推進委員会会議概要」2014921日)というスタンスである。しかし、引用した、この「会議概要」は、佐倉市のホームページで読めるのだが、肝心の申請書類として提出されている「事業内容」が示されないまま、委員たちの発言と質疑のみが採録されているに過ぎない。この「会議概要」を読んだ限り、何が議論・審議の対象になっているのか分からないまま、委員と当該まち協代表者との質疑が続くのである。もっとも会議の席上では、当然のことながら、申請書類の提供と事務局からの事業申請概要が口頭で説明されている。その口頭説明部分も省略されているのである。これって、会議録の役割を果たしているのだろうか。各まち協の事業内容は、非公開にすべき内容でもないし、なぜ公開しないのだろう。もし、個人情報が含まれるとしたらそこだけを非公開にすれば済むことである。どんな事業に補助金が出されるのかが、皆目見当がつかないのである。それが、私の疑問の一つであった。

また、私の住む小学校校区のまち協の事業申請について補助の可否を審議した市民協働推進委員会の会議概要を読んでみた。まえの関係記事でも書いたように、私たちの小学校校区の自治会の中で、二つの自治会が不参加である。「不参加の理由」を委員から質された、「まち協」代表者は一つは世帯数も少ない高齢者の多い旧集落で、もう一つは「新興住宅街で様々な考えを持つ住民が多い地区」だからと説明しているではないか。これが「理由」なの?よその自治会は一律の考えを持つ住民だとも言いたげである。旧集落の不参加の理由は、もっともなことだと思う。これ以上自治会の仕事を増やしたくないとの思いだろうと思う。新興住宅街の地区の自治会の不参加の理由は、別にあったはずであるが、それを聴く謙虚さがない。少なくとも現在の自治会や社協、自主防災会などが、それぞれ個別の役割を全うすれば、自治会の屋上に屋を重ねるような「まち協」は不要で、そればかりでなく各自治会の結束や機能を弱めることになる、というのが最大の不参加の理由であった。広域で対処しなければならないときは、その都度対応すればよいし、市役所が何かと強調する「共助」は、小学校校区単位ではなく、少なくとも自治会単位の、もっと狭い、顔が見える「ご近所」同志の助け合いではないのか。

蕨佐倉市長は、私たちの小学校校区の「まち協」設立総会に出席した、その日のブログに「まち協」の役割について「市役所からは眼が行き届かない地域課題について、地域の皆さんが、意見を出し合いながら、それぞれのノウハウを生かして、解決策を見出していく場を、制度として整備したもの」と書き込んでいる(201475日)。これって「市役所は地域のことはやりたくないので、補助金を出すから、そこをなんとかうまくやって・・・」ということ?補助金を出すことによって、本来の自治体行政のなすべき仕事を、「まち協」やその構成団体へ丸投げしているのではないか。また、補助金をタテに、それらの団体の事業や活動への介入を意味しないのか。補助金検討委員会でも議論されたように、従来からの自治会や地区自治会協議会、地区社協などへの補助金や助成金との整合性を考えると、二重行政になりかねず、たんなるバラマキに終わる可能性が見え隠れする。今の政府の「地方創生」とかと共通するものがあるのではないか。

<参考>

佐倉市市民協働の推進に関する条例(平成18929日 35号)

http://www.city.sakura.lg.jp/cmsfiles/contents/0000004/4988/jourei.pdf

佐倉市市民協働の推進に関する条例施行規則(平成1911日 77号)

http://www.city.sakura.lg.jp/cmsfiles/contents/0000004/4988/kisoku.pdf

 

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2014年12月16日 (火)

「短歌ハーモニー」は、千葉市男女共同参画センター「ハーモニーまつり」に参加しました

 「短歌ハーモニー」12月歌会は、「ハーモニーまつり」の1214日(日)、選挙の日だった。月1回の例会は第3木曜だが、12月は、例会を「まつり」に合わせ、公開歌会とするのも恒例となった。今年は3人の見学者がいらした。また、展示室では、まつりの2日間にわたって、短歌の書作品の展示も行う。会員各自、歌会には2首、書作品は、1年間の自作から2首を選び作品とした。以下、1首目が書作品から、2首目が歌会の詠草から各1首ずつ掲載した。

・冬近く重き心を見すかして体内時計も狂いはじめる

 金木犀散りて地面を黄に染めて駐輪場に秋の気配す(三枝)   

・純白のこの花ナンジャヒトツバタゴ今年も咲いた青葉の森に

 楽しそう良く似た親子電車よりディズニーランド目指して降りた(ミヨ子)

・中天に半月さえて妖精の舞台となりゆく雪あかりの庭

 小都市の駅前通りのまひるまは人かげまばら師走に入りても(静江)

(二〇一四、一、二四秘密保護法に反対して)

・国会を大包囲してヒューマンチェーンを結んだ手の温かきこと

(一一、二九(ハンナ・アーレント)三Fイベントホールにて上映)
 

 ユダヤ人指導者のいたことを告発避難の渦中に苦悩するもぶれず
・雲間から姿見せおる雪の富士裾野広げてゆうゆうと座す
 湖に浮かぶ小島の教会に蘇る鐘ひとつ撞いたり (美恵)
・母の日の花かご二つ据える場を持ちてまわりて重みもうれし
 母が落ちて多くの蕾持つ辛夷寒さに負けず咲け年越えて( 洋子)

・泡立ち草穂先ゆらして伸びるまま教員住宅人影もなく

 浴衣着て湯の街めぐる城崎の旅人襟をはだけて歩く( 千世)

・初詣の人で賑わう帝釈天真っ白な足袋も黒くなりけり

 SLに乗っても眺ても遠い日の千葉駅の列車脳裏はなれず( 京子)

・鉢植の赤 白 金の彼岸花咲き終えて今葉の芽いっぱい

 木枯しの吹きはじめたる師走なか肩竦めつつ家路にいそぐ( 儔子)

・杉木立の影に憩へば晴れわたる空に浮雲ことさらひくし

 手作りの布袋などほめ合ひて媼らは待つ街の医院に( 徳惠)
・たきりの犬の身返えす手のひらに触るる骨のかたちさびしむ
 ひたひたと寄り来て背を撃たれんか振り向きざまにペンを振り上ぐ
 光子)

 例会の準備に加えて、夏から、会場の抽選会、案内チラシの作成・印刷、書作品の作成・展示に伴うさまざまな仕事を分担しての準備があった。協力の賜物である。138回目の歌会でもあった。

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千葉市男女共同参画センター「ハーモニーまつり」ハーモニープラザ1階展示室  

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2014年12月13日 (土)

心なごむ絵とのひとときも束の間 ~「夢見るフランス絵画」展へ

 新聞の販売所から抽選でもらった招待券があったので、ぜひと思っている間に、12月に入ってしまった。出かけるなら晴れた日にと思い切って家を出た。 Bunkamuraへは渋谷の地下通路3aの出口からだと近いことが分かった。すっかり“おのぼりさん”である。渋谷も遠くなりにけり、というところだ。

 「知られざる日本人のコレクション」との宣伝文句であるが、どれもなじみのある、ポピュラーな画家の作品ばかりなのがうれしい。しかし、業界のルールは不案内ながら、同一コレクターからの出品展でも、その所蔵者の名前を明かさないこともあるのだろうか。各作品のキャプションや章ごとの解説も読まず、出品数も71点ほどだったので、焦ることもなく、ゆったりと気ままに回ることができた。まったくの好みながら、いまの私には、人物・静物画より風景画に引き寄せられる。2回ほどのフランス旅行ながら、目にした光景を思い起こさせ、親しみやすかったということもある。

セザンヌ(18391906)「大きな松と赤い大地」(1885年):アヴィニヨンに泊まっていた折、エクサン・プロヴァンス発の「セザンヌの旅」に参加し、サント・ヴィクトワールの周辺をバスで巡ったりしていたからかもしれない。英語コースだったので、聞き取れないことも多かったが、セザンヌが好んで描いた風景を目の当たりした昂奮は忘れがたかった。

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「大きな松と赤い大地」


  モネ(
18401926年)「小さな積わら」(1894年):モネは積わらをテーマに多数描いていて、私も何度か異なるものを見ていると思うのだが、たいていは、もっとどっしりとしていた積わらだった。これは、まだ積み重ねる前の幾つものわらの束を描いているのだろう、空模様や時刻もあまりはっきりせず、陰影が明確ではない。私には、農作業が一区切りついてホッとした人々のおだやかな姿を彷彿とさせる光景に思えた。

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チケットと「小さな積わら」

ユトリロ(18831955年)の描くモンマルトルは、いまでいうストリートビューによる街歩きの感があるほど網羅的にも思える。モンマルトルを訪ねたのは、10年も前のことだが、私が、いま思い起こすのは、坂道の先に急に展けたブドウ畑、家並みの間の細い空間に現れる白亜のサクレ・クール寺院の屋根、テアトル広場のにぎわい、モン・スニ通りの階段、、一休みするにはやや落ち着かない高い椅子のカフェ・・・。今回のユトリロは、合わせて11点、すべてがモンマルトルではなかったが、その街並みを構成する壁面の表情が豊かで、とくに「サクレ・クール寺院の丸屋根とサン・ピエール教会の鐘楼」(1926)は、ユトリロの印象が一変するほどの明確さがあるのに驚いた。

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「サクレ・クール寺院の丸屋根とサン・ピエール教会の鐘楼」

 ブラマンク(18761958年)は、もちろん没後だけれど、気になる存在だったらしく、私は、1966年銀座日動画廊での「フランス野獣派の巨匠ブラマンク展」に出かけている。1989年、名古屋から佐倉市に転居してまもなく、日本橋三越での「没後30年フランス野獣派の旗手ブラマンク展」では、何枚かの絵葉書きを買っていた。今回の11点の作品でも言えることだったが、私は、筆致の力強さとその描く雲に魅せられていたらしい。生誕120年(BUNKAMURA1997年)、没後50年(損保ジャパン美術館、2008年)というのもあったのだが、見逃していることがわかった。
 
ルノワール、ゴッホ、マリー・ローランサン、モディリアニ、シャガールなどは軽く通り過ぎ、そして、立ち止まったのは、藤田嗣治(18861968年)の沖縄の家並みと海を描いた「北那覇」(1938年)であった。先月、沖縄に行ってきたこともあったからだろうか。藤田は19384月から5月にかけて沖縄に滞在するのだが、この後、戦争画の大作を書き続けることになる。現在、日仏合作で藤田の伝記映画が製作中であるという(小栗康平監督 オダギリジョー主演)。いったいどんな風に描かれるのだろう。日仏の架け橋的存在が強調され、戦争画を描いた「純粋な動機」などが忖度され、「芸術家の苦悩」が描かれるのだろうか。

*当ブログの以下の記事もお読みいただければと思います。

・藤田嗣治、ふたたび、戦争画について(2014218日)

http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2014/02/post-dd37.html

・上野の森美術館「レオナール・フジタ展」~<欠落年表の>の不思議(20081213日)

http://app.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=55522523&blog_id=190233

 

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2014年12月 7日 (日)

「すてきなあなたへ」69号(2014年12月8日)をマイリストに掲載しました

(目次)
市民としてできることって、どんな?ある検討委員会に参加して
市役所に聞きたい!ちょっとおかしくない?そんな時どうしますか
ベルリンへ、ふたたび~壁の崩壊から25年 黄葉散り敷く、17番ホーム
菅沼正子の映画招待席 41 「シャトーブリアンからの手紙」(シュレンドルフ監督)

遅れましたが、ようやく発行の運びとなりました。何とか軌道にのせたいと思います。
ぜひ、ご一覧ください。

http://dmituko.cocolog-nifty.com/sutekinaanatae69.pdf 

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2014年12月 2日 (火)

福島から避難して千葉で暮らす、千代田さんの話を聞きました

   去る11月22日(土)、「さくら・志津憲法9条をまもりたい会」主催の「福島から避難して千葉で暮らす、千代田信一さんの話を聞く会」(午後2時~ 佐倉市志津コミュニティセンター)に参加しました。佐倉市、四街道市、千葉市から20名程が参加しました。そのときのお話の要約と報告です。

     千代田信一さん(72歳)は、福島第1原発から6㎞ の双葉町で被災され、四街道市へ避難された。 原発事故によって、千代田さんの豊かな自然に恵まれた農業経営、家族や地域の人々との和やかな暮らしを一瞬にして覆された。地震発生時のパニック状態に加えて、避難のさなかでの過酷な状況、奥様の実家のある千葉への避難の決断は事故後集団で行動していた人々との別れともなり、仲間の「行くところがあっていいなあ」との言葉がつらかった。
  避難先の千葉の親戚に家族一同十数人が寄宿することは、短期間ならともかく、双方の負担は大きく、四街道市鹿島荘の避難所暮らしとなった。さまざまな支援を受けて有難かったが、市職員からまるで監視されるような一面もあった暮らしであった。さらに、四街道市内での転居が続き、落ち込む中、息子さんの「釣りでもしたらどうか」の一言、その心遣いに目が覚め、さらに息子さんの提案で一緒に住む物件を探し、千葉市に落ち着いた。病を得た奥様の通院に便利なところでもあった。 四街道市や地元の人々との様々な交流によって支えられ、現在に至っている。
  それにしても、原発建設の過程や原発稼働中の東電(原発安全協会)による説明会は、ひどいものだった。第一部が大学教授ら研究者の“原発安全講話”と質疑、第二部が芸能人やスポーツ選手のアトラクション(ケーシー高峰、桑田真澄、中畑清、パンチ佐藤・・・)、地元の人たちは、第二部に浮き足たち、質問もそぞろだった。たとえ質問をしても、安心安全のみの答弁だった。その一方で、東電関係者は、原発の近くに住むことなく、ヨウ素材配布の用意をしていた。
  各地に、千葉県にも多くの避難者がいる中で、いわれのない差別を受け、孤立を余儀なくされている。同郷の人たちが集い、会えるから「葬式が楽しみ」とさえいう避難者の言葉は重い。
  原発をゼロにすることと、中間貯蔵場ではなく「捨て場」の確保が課題なのに、安倍政権は、原発事故の終息がないまま、避難者は放置された状態で、さらに原発再稼働、原発輸出を進めているのは許せないし、怒りを覚える。安倍政権は絶対に変えなければならないと。 

   ときには、涙しながらのお話に、 私たちが接するメディアは、原発事故の実態、被災者、避難者の現状を正確には伝えていないことをあらためて知らされました。お話の最後に歌われた「福島慕情」の民謡で鍛えられた素晴らしい声量に圧倒されました。また、飼われていた山羊の最期や猫の行方、そして愛犬コロとの再会の経緯にも涙を誘われました。被災地の様子を伝えるテレビ画面で偶然にも愛犬の姿を発見して、現地での再会がかなったものの連れて帰れず、ボランテイア団体のエサやりや保護をへて、2年半後、ようやく千葉で一緒に住めるようになったそうです。愛犬コロとの「物語」は、ネット上でも「餌を運ぶ賢い犬」として話題になり、以下のユー・チューブで見られます。
  http://www.youtube.com/watch?v=aMH6sNgx1Oc

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