明治大学生田キャンパス、「登戸研究所」跡を訪ねる(2)
登戸研究所資料館見学
二つの講演が終わった後は、登戸研究所資料館見学だった。外に出ると、雨は本降りになっていた。山田朗研究室の院生の方の案内で、資料館に向かう。キャンパスの北東の端で、登戸研究所第二科の実験棟の一つだった36号棟を改装して資料館にしたという。11万坪の敷地に40棟以上の建物が存在していたことになろう。明治大学は、敗戦後慶応大学などが借用中だったところ、1950年に、約5万坪を建物ごと購入している。1951年に明治大学農学部がこの地に移転し、80年代まではいろいろな建築物が残っていたらしい。資料館は、外観はきれいに塗装され、2010年4月から一般公開された。入口は小さく、廊下をはさんで両側に部屋が並ぶだけの構造である。36号棟は、第二科の「農作物を枯らす細菌兵器開発」実験を行っていた建物だった。どのへやにも大きな流し台が付いているのは、そのまま残されている。
資料館案内板と当時の境界石、1m近く埋め込まれている
館内廊下を見渡す
館内には5つの展示室が設けられ、第1室は沿革と組織、敷地、組織、予算などが戦局拡大と共に増大していく様子をパネルの図表で明らかにしていく。第2室は、研究所第一科が中心で開発した風船爆弾(ふ号兵器)関連の展示である。第二科は当初の電波兵器から風船爆弾開発に乗り換えたかのようで、1943年11月の風船爆弾試射実験で目途がつき、1944年11月からアメリカ本土攻撃が始まるのである。第3室は、第二科の生物兵器、毒物兵器、スパイ機材などの開発の分担組織や実態を少ない資料から浮き彫りしようというものだった。第4室では、ニセ札の製造・製版・印刷・古札仕上げ・梱包・運搬・流通の過程とニセ札以外に旅券やニセのインドルピーや米ドルなどの製造にまで及んだという。
第5室の敗戦と登戸研究所についての展示に、私は多くの示唆を得た。闇に葬られようとした登戸研究所を歴史研究の対象の俎上に載せたのは、研究者でもなくジャーナリストでもなく、地元川崎市の市民地域学習活動の一環だったし、法政二高と長野県赤穂高校の生徒たちによる地域の歴史調査活動から始まったのだった。それまで口を閉ざしていた関係者や地元市民らが語り始め、資料を持ち寄り始めたのである。中でも元幹部所員の伴繁雄氏は、高校生との交流の中で、初めて、その体験を語り始めたそうだ。そうした活動の成果としてつぎのような本が刊行されるに及んだのである。
・川崎市中原平和教育学級編『私の街から見えた 謀略秘密基地登戸研究所の謎を追う』(教育史料出版会 1989年)
・赤穂高校平和ゼミナール・法政二高平和研究会「高校生が追う陸軍登戸研究所」(教育史料出版会1991年)
・伴繁雄『陸軍登戸研究所の真実』(芙蓉書房 2001年)
案内リーフレット
第3室、第二科のスパイ活動機材のいろいろ
第4室、第三科のニセ札製造過程
第4室
向かって左の五号棟はニセ札の印刷工場として使用。2011年2月に解体され、
右の二十六号棟は、ニセ札の保管倉庫として使用、2009年7月に解体されてしまった
五号棟跡地、雨もひどくなり、辺りも暮れかけて・・・
キャンパス正門の守衛室うらの動物慰霊碑。1943年3月建立、その存在は登戸研究所で働く人にも 知られていなかった。現在も、農学部での動物慰霊碑にもなっていて、毎年ここで慰霊祭が行われている。近くに、民家も迫っている
登戸研究所本部の辺りに建つ(明大)生田図書館の灯りに誘われて・・・
資料館の見学の後は、上記のように登戸研究所の痕跡をたどった。遺された史跡、遺すよう努力された明治大学の研究者はじめ多くの方々には敬意を表したい。ここで、どうしても思い起こすのは、ドイツが国として取り組んでいる戦跡・記録保存の努力である。少し前のドイツ紀行の記事でも触れたように、たとえば、ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所は、一部を博物館にして、広大な敷地に残る建築物こそ少ないが、更地にした上で収容棟の配置を明確に残している。ベルリン市内の陸軍最高司令部跡にはドイツ抵抗運動博物館を置き、ライプチヒの国家保安省跡にルンデ・エッケ記念博物館を設置している。ホローコースト追悼記念碑やロマ・シンティ追悼記念碑をベルリンの国会議事堂・ブランデンブルグ門直近の一等地に設置している。日本との違いをどう見るべきか。
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